千葉県館山市を中心に南房総地域の美術振興活動をしている「安房美術会」の溝江晃氏から、板倉鼎に関する新たな情報を頂戴したので紹介する。同会は昨2021年、発足100周年を迎え記念事業の一環として記念誌発行準備を進めており実行委員長を務める同氏と情報交換した際、板倉鼎が1924・大正13年7月、館山にあったレストラン「鏡軒」で行われた第1回安房美術会展に出品していた事実を教示いただいた。
「安房美術会」は、美術館所蔵品図録やミュージアムショップ販売用絵葉書を制作する老舗「京都便利堂」創業者で社会風刺漫画雑誌「東京パック」を発行した中村弥二郎(有楽)が初代会長となり、南房総地域の観光振興、関東大震災復興を目的として1921 年に発足した文化団体。地元の画家、歌人、俳人、文人らが参加した。当時、鋸南町保田(現、安房郡)に住み始めたばかりの、物理学者にして歌人の石原純、愛人関係にあったアララギ派歌人の原阿佐緒が設立時メンバー(約20人)の中にいた。
ここから、板倉鼎と繋がってくる。鼎は東京美術学校在学中の1922年頃写生に出かけた鋸南町保田で石原、原と出会い、美校を卒業した直後の1924年6月から7月初めまで約1ヶ月石原、原の住居「靉日荘」に滞在していた事が分かっている。
しかし、当地での活動については鼎自身の書簡や年譜にもほとんど記述がない。今般、溝江氏からの連絡で、鼎が石原と知り合った1922年に「安房美術会」に入会、1924年7月の第1回展に作品を出品していることが判明したのである。同月にかけて1ヶ月間も滞在していた背景もこれで合点がいく。残念ながら出品作の作品名、出品数は不明だが、鼎が当地で描いた絵は何点か残っているので展覧会図録(2015年、松戸市教育委員会刊)から画像を紹介する。冒頭に掲載した作品名は【石原先生保田の家】1924年作、下記は【(仮題)島影】1924年作、【房総保田より大島遠謀】1925年作。第1回展出品作だった可能性もある。第1回展出品者は16人、会場となったレストラン「鏡軒」は震災で倒壊したためバラックの葭簀張りだったそうだ。翌1925年、石原純が同会第2代会長に就く。
鼎は、1925年11月、与謝野寛(鉄幹)、晶子の媒酌で昇須美子と挙式する。須美子は文化学院で晶子に学び、原阿佐緒も晶子の弟子。原が与謝野晶子経由で須美子を知り、保田で交流が始まった鼎と引き合わせた、とも考えられる。1926年2月、新婚の鼎、須美子夫妻はハワイ経由パリに向かう。しかし、鼎は1929・昭和4年パリで客死、須美子も帰国後の1934年に実家のある鎌倉で病気のため亡くなった。保田への再訪はかなわなかったが、鼎にとってその地での生活は、美校卒業後留学までの短い2年間の中でも自由で希望に満ちた一時だったに違いない。
(文責:水谷嘉弘)