【topics】「フジタとイタクラ」の新情報2件

(追記:集合写真原版所蔵者、石黒敬章氏 ー石黒敬七ご子息ー から画像を提供いただいたのでアイキャッチ写真を差し替えました)

①板倉鼎は、1927年5月3日に開催された萩谷巌の送別会(パリ)に藤田嗣治と共に参加していました

「巴里週報」第86号(1927・昭和2年5月某日発行)と1枚の集合写真(写し)を入手、週報には5月3日の萩谷巌送別会の記事と参加者リストがあり板倉鼎、藤田嗣治、共に記載されていました。一方、集合写真では中段真ん中からやや左、頬に手を添えているのが藤田嗣治。その左隣の若い男性が板倉鼎(当時26才)と思われます(鼎の比定は再検証します)。

 巴里週報 第86号(復刻)       

「板倉鼎・須美子書簡集」所収の同日前後の手紙は4月30日付けと5月14日付けで「5 月7日にアカデミーで発熱してまだ臥せっている」旨が書かれ、5月3日の会合には言及していません。

過去の板倉鼎関連の展覧会図録、展示リスト等に今回の情報はなく、鼎の比定が確定すれば「フジタとイタクラ」二人が共に写っている2枚目の写真となります。

(追記:石黒敬章氏に提供いただいた画像で再検証した結果、藤田嗣治の左隣の人物は板倉鼎ではなく、高野三三男(洋画家、1900〜1979)に比定しました。彼の真下に写る帽子の女性は、後に妻となる岡上りう(洋画家、1896〜1969)です)

2020年7月4日付けの本【topics】欄で、聖徳大学博物館で開催された「フジタとイタクラ」展に展示された写真を取り上げました。1927年3月22日、大久保作次郎送別会(パリ)の集合写真で板倉鼎、藤田嗣治が共に写っており展覧会名の根拠となった1次資料です。同写真に写っている中村拓医学博士の子息、中村士(つこう)先生(理学博士、天文学)からのご教示を紹介しましたが、今般、同先生との情報交換から新たに本件が判明。資料2点を提供いただき突き合わせた結果確認が取れたものです。

 大久保作次郎送別会 1927・3・22

②板倉鼎が「巴里週報」創刊二周年記念号に名刺広告を出稿していました

1927・昭和2年8月1日発行の第97号です。同号は創刊二周年記念を謳っており、藤田嗣治の祝辞のほか多くの氏名が列挙されています。祝辞を寄せた人々のリストで名刺広告と思われます。「板倉鼎・須美子書簡集」に登場する人物では、藤田他、伊原宇三郎・しげ子夫妻、長谷川潔、岡見富雄、中村拓、熊岡美彦、松葉清吾、蕗谷虹児、小山敬三、小寺健吉、佐分真、高野三三男、御厨純一、森田亀之助、等々。他にも大久保作次郎送別会写真に写っている人物が相当数います。

  巴里週報 第97号

(参考)「巴里週報」と石黒敬七(1897・明治30年〜1974・昭和49年)

「巴里週報」は柔道家石黒敬七が、パリ在の1925年から33年まで発行したガリ版刷りの情報誌で当時の在フランス日本人の動向を伝える貴重な資料です。石黒敬七は新潟県生まれ、中学時代に柔道を始め1922年早稲田大学政治経済学部卒業(柔道部主将)。1924年から柔道普及のため欧州を歴訪し英仏トルコ、エジプト等の陸軍、警察で指導しました。1933年帰国、1946年講道館8段。1949年からNHKラジオ「とんち教室」にレギュラー出演してユーモア溢れる語り口が人気をはくしました。カメラ、古写真コレクターとしても著名。敬七は上述した二つの送別会集合写真の中央に写っています。

(文責:水谷嘉弘)

【news】板倉鼎・須美子作品の公開展示について

松戸市教育委員会が新たに収蔵した板倉鼎・須美子の作品16点が松戸市役所で公開展示されます。

日時:令和3年7月20日(火)12時30分〜16時

場所:松戸市役所新館5階 市民サロン

主な展示作品:

板倉鼎「少女と子猫」1923・大正12年作 キャンバス,油彩

板倉鼎「風景」1926・大正15,昭和1年作 キャンバス,油彩

板倉須美子「虹 ベル・ホノルル5(エスキース)」1927〜29・昭和2〜4年頃作 紙,ペン,水彩

【近代日本洋画こぼれ話】田辺至 名刺と挿画原画

本コラムの第一回目で島村洋二郎(1916・大正5年〜1953・昭和28年)について書いたが、この画家を知ったのは顕彰活動をしている姪の島村直子さんを紹介されたからである。板倉鼎、須美子夫妻の研究者田中典子さん(学芸員、当時松戸市教育委員会美術館準備室長)が繋いでくれたのだ。板倉鼎(1901・明治34年〜1929・昭和4年)の東京美術学校での担当助教授が田辺至(1886・明治19年〜1968・昭和43年)である(主任教授は岡田三郎助)。田辺至は東京府立四中出身だが島村洋二郎も四中、私も四中の後継都立戸山高校出身なので縁を感じた。

当社団は田辺至の作品を所蔵している。そのうち一点の油彩画の額縁裏面に田辺の名刺が貼り付けられていた。その絵(風景画)を送(贈?)ったのか名刺には宛名と、田辺の自宅住所の横に「新光洋画会」と書き添えてある。「新光洋画会」は1919・大正8年7月田辺の他、片多徳郎、高間惣七、牧野虎雄等によって創立、当時の官展系中堅有望画家が結集した。翌1920年に第1回展覧会を開く。1923年第4回展では初の公募を実施、長谷川利行が【田端変電所】で彼にとって初めて入選した公募展となった。そして1924年には主要メンバーが「槐樹社」へ移行している。田辺自身も1922・大正11年には文部省在外研究員として欧州歴訪に出発した(1924年帰国)。会の活動期間が短い分、年記の少ない田辺の作品の制作年推定、当時の絵画風潮を知る ―例えば、当該風景画には牧野虎雄(1890・明治23年生まれ)と相通ずる米点のようなタッチが見られる― 等、編年研究に役立つものと考えている。本作が1919年乃至1922年の制作であれば、まさに板倉鼎を指導していた時に描かれており板倉顕彰活動をしている者として感慨深いものがある。なお、宛名にある下山豊平氏(1883・明治16年生まれ)は財界人(当時の有力企業役員を複数歴任)、徳富蘇峰記念館に蘇峰著書100冊を寄贈している人物だ。

田辺至は油彩画、版画の他に挿画を描いている。山本有三の小説【波】(東京、大阪朝日新聞、1928・昭和3年7月20日〜11月22日)だが、社団は原画を何枚か持っている。中に連載第1回目と呼応するものがある。小説冒頭で二人の中年男が肉屋の店先で遭遇するのだがその場面が描かれている。新聞掲載挿画は何点あるかわからないのだが、単行本(1929・昭和4年2月朝日新聞社出版部刊)には挿画ページが8枚挿入されており1枚目(挿画目次 妻一)が既述した場面である。新聞掲載作がそのまま転載されたのかもしれない。全8点のうち前半4点と後半4点は画風が全く異なるのが興味深い。前半の墨や鉛筆で粗い線を多用する迫真的だった表現が、後半は一転して柔らかで平滑な表現になる。木版のようにも見える。小説はオムニバス的な[妻][子][父]の3篇仕立てになっているが、画風の転換は単行本を見る限り、篇のそれと連動しているわけでもない。ともかくこれらの挿画は田辺の表現技法における多才さを示す作品群といえよう。この他にも田辺に連載小説の挿画があるのか調べているがまだ見つからない。(中央公論社刊「日本の文学」第30巻山本有三 には【波】が所収されている。田辺の挿画も10点掲載されており、内3点は前出の朝日新聞社出版部刊行本と同一である)

    

 

以上、田辺至を語るに本筋のアカデミズム油彩画作品から外れて、名刺と挿画から題材を取った。

(文責:水谷嘉弘)

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