板倉鼎・須美子について

エコール・ド・パリの画家 板倉鼎 パリでの精進

水谷嘉弘

板倉鼎(いたくらかなえ、1901・明治34年3月〜1929・昭和4年9月)という夭折した画家がいる。千葉県松戸育ち、1924・大正13年東京美術学校を卒業し、2年後妻須美子と共にパリに留学する。明るく洗練された色彩と堅固な構成のモダンなスタイルが評価されサロン・ドートンヌ入選も果たしたが28歳の若さで客死した。須美子もパリで鼎の手ほどきを受けて制作をはじめ素朴で詩情豊かな作品が藤田嗣治に絶賛された。彼女もサロン・ドートンヌに入選するが夫、幼い娘二人を相次いで亡くし本人も帰国後肺結核で早世した(25歳)。

 

 

鼎はその28年の短い生涯で官展(鼎の時代は、「帝展」帝国美術院美術展覧会)に四回入選している。東京美術学校在学中の1921・大正10年、第3回帝展に【静物】が初入選し、翌年も【木影】で連続入選した。その画風は千葉中学の美術教師堀江正章、美校の主任教授岡田三郎助の影響下、印象派、外光派風の温和で堅実な写実。官展アカデミズムに属するものだった。初入選したときは、それまで鼎の美校行きに否定的だった医者の父親が応援するようになり、2度目のときは作品が絵葉書になって発売された。1924年美校を卒業、翌々1926年ハワイを経てパリに留学した。ハワイで過ごした4ヶ月間が鼎を日本的な光と大気から解放してくれたのかもしれない。パリで客死するまでの3年あまりの間に画風が一変する。精進に励み独自のスタイルを獲得したのである。その過程を『板倉鼎・須美子書簡集』(松戸市教育委員会 2020年)収録の千葉県松戸に住む両親宛ての手紙に沿って追ってみる。

 

板倉鼎「静物」
【静物】1921 第3回帝展初入選(大正10年)
板倉鼎「木影」
【木影】1922 第4回帝展入選(大正11年)

 

(1926年)

鼎は、前年11月与謝野寛(鉄幹)、晶子夫妻の媒酌で挙式したばかりの須美子を伴って1926・大正15年2月ハワイに旅立ち、7月パリに入った。25歳である。8月にはグラン・ショーミエール街の美術学校アカデミー・コラロッシで学び始めシャルル・ゲランの教室に通う。9月[明後日頃はサロンの搬入日・・・来年は出したい]と手紙に書く。12 月3日付けに目を引く記述がある。[絵の勉強の方は本当にこちらへ来てよかったと思ひます。いろいろな知らない事が次から次へと見つかってはわかって来ます。誰でもが考へる以外に絵には実に大切な約束が守られてる事が古の名画からどんどんと教へられます]ルーヴル美術館訪問を重ねて絵画における秩序のようなものを感じとったのだろう、その延長線上に鼎が最後に到達した画面があるように思う。

 

(1927年)

パリ到着半年後の1927・昭和2年1月、黒田重太郎著『構図の研究』を送るよう実家に頼む。美術学校を変えアカデミー・ランソンのロジェ・ビシエール(1888~1964)につく準備だ。同書は「古典的構成派」アンドレ・ドランを高く評価して筆を擱くが、黒田が師事したキュビズムのアンドレ・ロートの画面構成論をよく引用する。鼎は同書を[大変役立って居ります]とした後、更に村山知義著『構成派研究』(1926年2月刊)を取り寄せる(1927 年4月)。構成(composition)という文言やロシア構成主義の幾何学的造形に興味を持ったのだろう。画面作りの方向性が固まって来た事がわかる。ただ村山が同書で主張する意識的構成主義はダダからプロレタリア芸術へ展開するアヴァンギャルドに属するもので鼎は受容していない。鼎にその後の言及はない。

 

パリで学び始めて半年余りで学校を変え師を変えたこと、ゲランを離れビシエールに付いた点に強く注目したい。早々に当時の日本人留学生の定番学校、アカデミズムのコラロッシから離れ、キューヴ系のランソンに移ったのである。ビシエールは同じキューブ系アカデミー・モンパルナスのロートの友人である。1900年代初頭から20年代前半の日本人留学生はほぼ全てがアカデミズム系の美術学校に籍を置いた。黒田清輝がラファエル・コランを師とした以来の流れである。しかし1920年代後半になるとあまり美術学校に行かなくなる(教師のいない自由学校のグラン・ショーミエールにデッサンに通った者は多い)。美校出身、官展系の者は上野で充分修練したとの自負があったのかもしれない。鼎はその両者とも異なる行動をとる。既に新しい自分のスタイル、絵の型の方向を決めていたに違いない。

 

ビシエールの指導については、その教えを受けた田中繁吉(1898生、鼎の美校3年先輩)の展覧会図録(西武アート・フォーラム1985)で滝悌三が紹介している。[絵は全体の構成が大事だ。背景とモチーフとの関係、床とモチーフの関係、そういう相互の色と形の関係が全体として調和していることが肝要である。その関係に破綻のないように制作せよ。] 鼎最晩年の作に見出せる言である。

 

[来る友人毎に皆私の絵が変って行くのに驚くのに、今日ビシエール氏はもっと変われと云ふ](3月26日)。[唯もう地味に自分の仕事に精進するのが唯一の道と思ってひたすらに励まふと思ひます](6月7日)。在パリ1年が経過した1927年7月8日の手紙に重要な一文がある。[第一年目の計画として置きました事はほとんど計画どほりに近く果たす事が出来ましたのを喜んで居ります。・・・持って居った型を打ちこわす事・・・今度同じものを二度つづけて書きました静物に置いて、少くとも自分では昔の自分の型を見出す事が出来ません。今は唯それだけで喜んで居ります。・・・第二年目は新しいものの発見に全力を注ぐつもりで居ります。どうか第二年目は病ふ事なく精進したいものです]と書く。その後その通りにたゆまず精進し新しい発見は果たしたが、早すぎる死をも暗示するようである。では打ちこわした型とは何だったのだろう。鼎は1年半後に自らその答えを明かしている。1928年12月5日付けの手紙。[物を見る時は必ず物それ自身の色を見て決して空気を通したり光に依ったりした見方をしないことです。・・・私の昔の絵はみんな空気を通して見た影のうすいものばかりです。私はこの空気をすてるだけにほとんど一か年を要しました] パリで1年をかけて美校で学んだ黒田清輝由来の穏健な写実描写から開放された後、7月9日、鼎は11日間のベルギー、オランダ旅行に出発した。

この年は静物画が多い。空気を捨てただけに明瞭直截的な写実がベースにある。構図も単純だ。色彩の明度が高くなると共に対象物が増える。それ等の位置関係に変化が出て来るのに合わせて構図も企画されて来る。

須美子は鼎の妹弘子宛の手紙に[近頃お兄さんの画がスッカリ変ってしまひましたので来る人毎に変わりましたなあと云はれます]と書き、鼎も[この頃どうやら仕事の曙が近づいたやうな気持で・・・先日描いた静物と人物に巴里に来てからはじめてのサインして不安な中にもうれしい気持でした]と記す(8月11日)。[(南仏にスケッチに出かけている)岡(鹿之助)さんが帰って来るまでにはスッカリ新しい画で室を一っぱいにして一つ驚かしてやろうかな、と鼎さんはいつも申して居ります](14日)8月24日大先輩の小寺健吉が来宅して[今やっている仕事は良いと云っていらっしゃいました]とも須美子は書き送っている。翌25日夜は小寺と同居していた先輩佐分真が訪れる。佐分はこの日の『巴里日記』に[板倉氏には勿論若人の作にして近代的な一味あり、そしてよき神経の行き届きし感じで行く行くは相當の作を成す人と思はせた。唯一種の味にこだはってどっしりとした底力を発揮し得るや否やが疑問だ。もしそれをしも得たらんには一入の結果がみられるだらう。]と書いている。鼎が新しいスタイルを獲得しつつあった頃でやや様式化した生硬な表現も見受けられるのだが、佐分の慧眼からも鼎の意図が達成されようとしており観者にも伝わりかつまだ過程にあったと知る事が出来るのである。同時代画家の証言として貴重である。

【垣根の前の少女】1927

小寺、佐分来宅に先立つ8月19日付けの須美子書簡には、鼎が【垣根の前の少女】を制作中とあり、それを描く様子が詳細に記されている。小寺も佐分もこの作品を目にしたと思われる。

 

岡鹿之助は鼎より3才年長だが美校では同期、パリで最も親しくしていた友人で書簡集への登場回数も特に多い。学生時代から仲が良かったようで鼎の父、てい(牛ヘンに丁)太郎(松戸の開業医)はパリの岡宛に手紙を出している。鼎の妹、弘子(長寿を得て2020年、111歳で亡くなった)は後年、自分は将来岡さんのところにお嫁に行くかもしれないと思った、と語ったそうだ。因みに、鼎は岡の【魚】1927年4〜5月頃制作、に触発されるところが大きかったのかその後亡くなるまでの約2年間、同作の構図やモチーフを彷彿とさせる作品を多く描いている。代表作【休む赤衣の女】1929年もその一つである。また、この年(1927年)岡は【青衣の女】と題する40号の大作を描いている。岡は鼎に先立つこと約1年半、1924年暮れに美校1年下の南城一夫(1900生)と共に渡仏したが、彼らはフォーヴに傾倒した少し上の世代とは異なる静謐でお洒落な画風が共通している。昭和モダニズム世代への転換期にいる謂わばマイナーポエットの世代と言えよう。南城はパリでアカデミー・ランソンのビシエール、次いでロートに学んでいる。鼎と同系統である。

 

この頃、鼎は[物は親切によく見てすっかり自分のものとせなければなりません。つまり自分で解釈せねばなりません]と書いている。そして10月、サロン・ドートンヌに夫婦揃って初入選した。鼎は、洗練された色彩と堅固な構成を持つモダンなスタイルを獲得していたのである(入選作品【秋の果実】の画像は無いが、同年作、同モチーフの作品から推測出来る)。11月在巴里日本人美術家展に出品。セーヌ河岸で金魚を購入し、以降、静物画の主要なモチーフとなった。

 

板倉鼎「金魚と花」
【金魚と花】1927年頃
板倉須美子「午後 ベル・ホノルル12」
板倉須美子【午後 ベル・ホノルル12】1927~28年頃

(1928年)

鼎はパリにいる多くの画家達との付き合いを極力避けて勉強に打ち込む生活をしている。[今年はデッサンもまぜて五百枚、油絵だけ百五十枚の心願を立てました]。そんな中でも手紙には年齢の離れていない友人の名前は結構出て来る。2月の手紙に[出て行った](世間に認められた、の意)先輩画家に言及、前田寛治、中野和高、佐分真を挙げる。伊原宇三郎や岡など含めて鼎の絵の方向と親和する人たちでもあるのだろう。同期の渡辺浩三にはよく会っていてその研鑽ぶりに感服している(2月15日)。逆に、画風の異なるフォーヴ系画家はかなり名が通っていても、里見勝蔵には触れず佐伯祐三は死を記しているのみである(8月21日)。

1928年1月、イタリア旅行に備えて板垣鷹穂著『イタリアの寺』を依頼する。3月から約一ヶ月半、イタリア旅行に出向く。このイタリア行でまた大きな刺激と発見があったようだ。[絵の写真もお金の許すだけ買ってまいりました。全体で四百五十枚ほど・・・私の一生の参考資料のやうなもの、無理をしても多く買って来ました事を喜んで居ります・・・勉強する事がうれしくてたまりません・・・他の誰もやらない自分一人のものを作りたいと、勉強して居ります]。ルネサンス絵画の構図色彩だけでなく画材や描法にも気を留めたのか、黒田重太郎著『油絵技法の変遷 上巻』(1927年3月刊)の送付を頼んでいる。(4月30日)。5月、両親に宛てて書く。[二十代に仕事の出来るはずがなく百年に一度の夭折の天才も或るものは其の夭折の為其の仕事に決定を見ないことが多くの余韻を残して尊ぶ可きものを持ち、長生に依って頓に返る事、必ずないとは申せません・・・発芽は二十才、数葉を備へるは二十五才・・・私自身は今躊躇なく僅かに持った数葉を払い落として新しい仕事のための準備をしております]。鼎の生涯を回顧したような文である。6月日本美術大展覧会に出品。10月、第9回帝展に入選【雲と少女】。しかしサロン・ドートンヌは落選だった(須美子は連続入選)。11月に実家へ出した手紙は手厳しい。イニシャル表記とはいえ美校先輩の中村研一、中野和高、伊原宇三郎、片岡銀蔵を痛烈に批判する。彼らの第9回帝展出品作について[今年は評判になってるでありませう・・は・・のまね、去年よかった・・は・・のまね、きっと特選になるでせう・・は・・の焼きなほし、・・のようにケトウさへ描けばよいのでしたらモデルさへ雇へばすぐ描ける・・]。彼らは自分のスタイルを持っていない、外国人画家の模倣ではないか、というのである。当該の先輩画家とは現地で行き来もあり国内での実績、評価も高い人々である。先立つ6月に書いた手紙[本家本元のある仕事はつまりません。私は私自身、本家本元になろうとしております。帰って三越で展覧会する事はわけの無い事ですが、それが人のまねではつまらない事です・・・私は唯、時日の問題一つで必ず出て行かれるような気がしてならないのです]を受けた形になっている。パリ入りした頃に比べ自信を感じさせる書きっぷりになっている。鼎が自己の型に確信を持った証左ともいえよう。

 

 【雲と少女】1928 第9回帝展入選(昭和3年)

板倉須美子「ベル・ホノルル24」
板倉須美子【ベル・ホノルル24】 1928年頃

ここで話は少しそれるが、当時のフランスにおける日本人画家たちの経済(家計)状況に触れておきたい。1920年代(大戦間時代)は米国が世界一の債権国となって繁栄を迎えジャズエイジ、狂乱の時代とも呼ばれた。フランスは1次大戦の戦勝国ではあったが消耗が多大で政治経済は混迷が続いたが、パリは平和オリンピック(1924)、アール・デコ万博(1925)と世相的には華やかだった。美術界もエコール・ド・パリ全盛期、300乃至500人の日本人画家も藤田嗣治を中心に、前田がパリ豚児と呼んだ仲間たち他の交友も盛んだった。背景に日本円の過大評価がある。大戦前、金本位制での1us$=2円が大戦後もほぼ維持されていたのに対し、フランスフラン(F)は大幅に値下がりし大戦前の1円=2.6Fがおおよそ10F(1919)、15F(1926)、11F(1928)で推移した。大いに円高を享受したのである。日本人画家の生活費は月2000F~3000F(円高ピーク時で130円~200円相当)程度、家賃は月500~600Fだった。書簡集を読むと、鼎も須美子も家計簿的な意味合いで金銭事情のことを細かく書いて報告している。パリ入りした1926年の9月は、生活費月初予算1,770Fに対し実績2,500Fとか、1928年の手紙には住んでいるアパートの家賃は5階の画家550F、7階の医者700Fとか、当時の日本人がどういう生活を送っていたかが分かる第一級の資料といえよう。鼎には実家から毎月約200円(円高ピーク時3,000F)仕送りがあった。日本人画家の多くは出発前、地元で留学資金の調達手段として画会を催している。「1口10号1枚100円」が相場で30口から100口、3,000円~10,000円集まったようだ。円高ピーク時で45,000F~150,000F(1円=15F、毎月の生活費2,500Fとして1年半~5年分、渡航費別)になる。伊原宇三郎が1924年に大阪で開いた画会の趣意書には 「会規 第1部 本人出発前の作品、本人滞欧中の作品御随意 甲 会費100円(註:1口)画寸10号P 三寸巾額縁付、乙 会費200円(註:2口)画寸15号F 三寸五分巾額縁付」とあり、滞欧2年予定で1万円余り(註:約100口)集めたようだ。因みに、昭和初期の小学校教員の初任給は約70円である。モデルを雇い、近隣諸国に旅し日本人画家は総じて豊かな生活をしていた。鼎はイタリアに2ヶ月程出向いて8,800F使っている。しかし、鼎が没する頃から我が国は恐慌の時代に突入し1931年末の金解禁再停止により円が大暴落し32年末には円が1円=5F以下となった。(USドル=円では過去最大の下落率60%)滞欧日本人は一斉に帰国し、華やかなパリ遊学の時代は終わりを告げることになる。

 

(1929年)

前年からこの年は須美子を描いた人物画が多い。色への意識もより高くなる。須美子の着る衣装の色彩の鮮度とややデフォルメされた造形が画面を支配する。サロン・デ・ザンデパンダン、仏蘭西日本美術家協会パリ展、サロン・ナショナル、仏蘭西日本美術家協会ブリュッセル展、等矢継ぎ早に出品する。3〜4月には鼎の代表作【休む赤衣の女】80号の大作が完成したようだ。斉藤豊作の紹介で新興ながら評判の高いサロン・デ・チュイルリーに出品する予定だったが会場変更の都合で適わなかった。習作を観ると、完成作より一回り大きな構図をとって対角線や平行線を引いて全体のパランスを検討していることがわかる。この時期、最後の作品群、代表作群となってしまうのだが、造形がフォーマルに戻り意匠性が増す。くせを感じさせない明るくあか抜けたスタイルに到達したと思わせるのである。

板倉鼎「休む赤衣の女」
【休む赤衣の女】1929年頃

作品を次々に発表し、9月はじめにはパリの有力画廊コレット・ヴェイルが作品を預かる。まさに前途が開けたその直後、悲劇が襲った。1929年9月29日。パリに到着して3年2ヶ月後、鼎は28年6か月の短い生涯を終えた。敗血症と云われている。元来心臓が弱かった事も絡んでいたようだ。

書簡集に収められた板倉鼎のパリからの手紙に通底しているのは、意識の高さである。志の高さと言い換えても良い。絵を描くテクニック、上手さとか構成色彩とか、とは違う次元の特質であった。

鼎はパリ入りの早い段階で先人から学んでもそのあとを追わず、自分のスタイルを持つことを信念として持ったに違いない。明確な目的意識が有った。日本の画壇ではなく世界を相手にして世に出るのだという高い上昇意欲がそれを支えていた。そして、自分のスタイルは当時の日本人画家の多くが好んでいたフォーヴ系ではなくキューブ系に求めていたようだ。これらはどこから来たのだろうか?私的な類推だが、美校の5年間を共にし家族ぐるみの付き合いがあった岡鹿之助に負うところが大きいのではないか、その背後に藤田嗣治がいる。藤田は訪ねてくる若い日本人画家には「大家の真似を決してしてはいけない」と諭していた。鼎は書簡にしばしば自分の型を持ちたいと書き、真似することを嫌う。鼎に先立つこと1年半、1925年2月にパリ入りし直ちに藤田を訪ねた岡が、そのあと事あるごとに藤田から指導,示唆された「画家には独創性が不可欠である」ことと同義である。岡は藤田の教えを忠実に守り、師同様マチエールを研究し点描派的ではあったがモチーフと詩情が響きあう自分のスタイルを作り出した。岡同様、藤田の一番弟子的存在だった高野三三男(美校入学は鼎の3年下だが関東大震災のあと1924年1月に中退してパリに渡った)も線描を生かした優美繊細で時に妖艶な女性像でパリ画壇に知られる画家となった。鼎は藤田との直接の交渉は少なく、高野や岡と違い積極的に近づこうとした形跡も見られない。しかし、岡から藤田の言を聞き学んでいたに違いない。パリで「乳白色の肌」が人口に膾炙し自らの画風を確立して世界的画家として扱われている藤田を、将来自分が達したい位置にいる存在として意識していた。書簡では、藤田のパリでのキャリア推移や作品の価格、年収にまで言及している。藤田が「今までの日本人画家はパリに勉強しにきただけだ。俺は、パリで一流と認められるような仕事をしたい」と語り、「日本に帰って成功したとて日本の中だけの成功で桃太郎だけでは私には満足できません(地を泳ぐ)」と書いた同じ趣旨を、鼎が書簡に記したのは既に本稿で引用した。

没後、1929・昭和4年10月 第10回帝展に四回目の入選【画家の像】。サロン・ドートンヌにも2回目の入選【腰かける女】が2点。鼎が帝展に入選した4作のうち後半の2作はパリで描いた絵である。しかし所謂帝展アカデミズム(否定的意味合いで当時よく使われた「帝展臭のする」)作品ではなかった。彼独自の洗練された構成的でモダンなスタイルだった。【画家の像】は遺作として会場に展示される。同年刊行の週刊朝日増刊号「美術の秋」には田辺至の作品と、アサヒグラフ増刊号「帝展」号では鈴木千久馬と並んで掲載された。

 

板倉鼎「画家の像」
【画家の像】
1928(昭和3)年12月 第10回帝展入選(昭和4年、没後)

 

(1930年)

1930・昭和5年4月に「板倉鼎遺作滞欧展覧会」が銀座の三共ギャラリーで開催された。一連の遺作はパリから斉藤豊作の指示のもと、岡鹿之助、田辺喜規、後藤禎二ら同期生が日本に送り出したものだ。同展発起人には岡田三郎助、田辺至、御厨純一、大久保作次郎、伊原宇三郎ら美校の指導教官、先輩たちが名を連ねている。同展について東京日日新聞が[・・・最も光ってゐるのはその婦人の像であろう。その特殊な味はひをもつ魅力を見逃すことは出来ない。帝展出品の【画家の像】などはことによいと思ふ・・・]と評している(1930年4月27日)。言うまでもなく【画家の像】のモデルは妻の画家、須美子だ。「美術新論」6月号には伊原宇三郎が追悼批評を寄せた。鼎作品の本質を的確に指摘していて長文ではあるが引用して本稿を終えたい。

 

(quote)これは近時稀に見る充実した、そして胸のすく様な展覧会であった。氏の画風は実に洗練されたものである。その透徹した写実、溢れる許りの詩趣、すっきりした色感、垢抜けのしたモチーフの選択、繊細な神経・・・板倉君は既に日本で十分な基礎的教養があって、渡仏後研究の第一着眼点を十五世紀のイタリールネッサンスに置いたらしい。これはなかなか出来ないことである。最初に此古典の洗礼があって、次いで色彩構図の科学的研究があり、両々相俟って氏一流の近代感覚は些かの危険を伴ふことなしに冴えて行った。巴里の諸展覧会ででも氏の作は光ってゐた。晩年の数作は今度はじめて見るものであるが、益々豊醇な世界への進展を示してゐるのに、其所で氏の夭折を見たことは限りなく惜しまれる。(unquote)

 

(一般社団法人板倉鼎・須美子の画業を伝える会 代表理事・会長)

(2022年10月改)

 

 

悲運の夫婦 忘られぬ画業】                 田中典子

1926年(大正15年)7月、二人の若い日本人の男女が、長い旅を終えてフランスの首都パリの地を踏んだ。新進の画家、板倉鼎と妻、須美子である。前年H月、歌人の与謝野寛(鉄幹)・晶子大要の媒酌で結婚式を挙げた二人は、留学先のパリに着いた時、25歳と18歳だった。

そろって初入選

翌27年には、マティス、ルオーらが創設した反アカデミズムの美術展一サロン・ドートンヌ」に大妻そろって初入選。他の展覧会でもたびたび注目され、頭角を現した二人には明るい未来が開けようとしていた。しかし鼎は、パリで3年が過ぎた29年秋、突然敗血症に倒れ、28歳で生涯を閉じる。

須美子は、パリで生まれた二人の幼い娘にも先立たれる。帰国後は鎌倉の実家に戻り、改めて絵画の道への精進を期するが、34年、肺結核により25歳で世を去った。

輝きに満ちた人生を突然絶たれ、悲劇に見舞われた二人の存在は、その短い画業ゆえ一般には長く忘れられていた。80年に千葉県立美術館で鼎の回顧展が初めて開催されたが、本格的な紹介は立ち遅れていた。

鼎が少年時代を過ごしたゆかりの地、千葉県松戸市の教育委員会に勤務する私は、美術館準備室の学芸員として夫妻の作品と生涯を調べてきた。その成果をもとに、一昨年の秋、松戸市立博物館で過去最大規模の回顧展を開催したが、実現までに四半世紀を費やした。今も、夫妻の留学中の書簡集を公刊するための作業にあたっている。

繊細にして華やかに

板倉鼎は1901年(明治34年)、埼玉県旭村の医師の長男として生まれた。小学生の時、父が開業した千葉県松戸町に転居し、東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業した。7歳年下の須美子は、著名なロシア文学者、昇曙夢の長女として東京に生まれ、文化学院で与謝野夫妻や作曲家の山田耕律らに学んだ。二人は結婚の翌年、4カ月間のハワイ滞在を経てパリに留学した。

後に「狂騒の時代」と呼ばれた20年代のパリでは、世界各地から集まったた芸術家たちによって新しい文化が花開いた。シャガール、キスリング、藤田嗣治ら、エコール・ド・パリの中心は外国出身の画家たちだった。藤田だけでなく、佐伯祐三、岡鹿之助ら多くの日本人画家がパリに留学した。

板倉鼎もその一人だった。パリで鼎の作風は、留学前の温雅な写実から繊細にして華やかな、秩序あるスタイルヘと大きく変貌する。その過程は27年前後の一連の静物画に見ることができる。

大作「休む赤衣の女」(29年ごろ)は鼎自身、彼が到達した最高の作と考えていた。周到に配された花や金魚鉢に囲まれ、ベッドに横たわるのは須美子だ。窓の向こうに広がる明るい海を背に、赤衣の女は強いまなざしをこちらに向けている。

1600点超リスト化

須美子は美術を学んでいなかったが、鼎に手ほどきを受け、油彩画を始めた。独特のナイーブな感覚でハワイの思い出をのびやかに描いた「ベル・ホノルル」シリーズなどが、すぐにパリで評価され、サロン・ドートンヌで3年連続入選した。

夫妻の没後、作品の多くは、松戸市内の鼎の実家と鎌倉市内の須美子の実家で大切に保管されて来た。私たちは、素描なども含め1600点を超える作品の写真を撮り、サイズを測り、サインや書き込みを調書に記録し、リストを作成した。

これまでに、両家などから多数の作品が松戸市教育委員会に寄贈されたが、泊彩画の多くは、展示と保存のため修復を必要とした。修復家の地道な作業によって、それらが本来のみずみずしい姿を取り戻していく一方、作品と一緒に保管されていた文書、写真など約6500点もの資料の調査により、大妻の姿が次第に鮮明に見えてきた。

家族に宛てた書簡で鼎は、自らの芸術への確信を明晰な言葉で記している。「どうかして仕事は世界を相手にして見たいものです」。急逝の半年前のこの言葉には、画家として世に立とうとする志が強く感じられる。

松戸の展覧会は幸い反響を呼び、東京の目黒区美術館で「よみがえる画家 板倉鼎・須美子展」が、4月8日から6月4日まで同館主催で改めて開催されることになった。没後80年を超えてなお新鮮な魅力を放つ大妻の芸術が、一人でも多くの方々に届くよう祈っている。

(たなか・のりこ=松戸市教育委員会社会教育課美術館準備室長)

日本経済新聞 2017年3月27日掲載(記事転載は日本経済新聞許諾済。無断で複写・転載を禁じます。)

 

 

板倉鼎・須美子 年譜

 

板倉鼎  いたくらかなえ(1901-1929)

1901(明治34)年
3月26日、埼玉県北葛飾郡旭村(現在の吉川町)に生まれる。子どもの頃に松戸に転居する。

1918(大正7)年
県立千菓中学校を卒業。在学中、堀江正章の指導を受ける。

1919(大正8)年
東京美術学校西洋画科に入学。岡田三郎助、田辺至の指導を受ける。

1921(大正10)年
第3回帝展初入選。

1921(大正11)年
第4回帝展入選。

1924(大正13)年
東京美術学校西洋画科を卒業。

1925(大正14)年
板倉鼎郷土展覧会(松戸町郡役所議事堂)。
昇須美子と結婚。

1926(大正15)年
2月、須美子を伴い、ハワイ経由でフランス留学に出発。
7月、パリに到着。

1927(昭和2)年
ロジェ・ビシエールの指導を受ける。
11月、サロン・ドートンヌ入選。

1928(昭和3)年
3~4月、イタリア旅行。
5月、サロン・ナシオナル入選。
10月、第9回帝展入選。

1929(昭和4)年
1~2月、サロン・デザンデパンダン出品。
4月、サロン・ナシオナル入選。仏蘭西日本美術家協会パリ第1回展出品。
6月、リール市の日本人画家グループ展出品。
6~7月、仏蘭西日本美術家協会プリュッセル展出品。
9月29日、敗血症のためパリの自宅で急逝(享年28)。
11月、サロン・ドートンヌ入選。

 

板倉須美子 いたくらすみこ(1908-1934)

1908(明治41)年
6月28日、ロシア文学者昇直隆(曙夢)の長女として、東京市麹町に生まれる。

1921(大正10)年
文化学院に第一回生として入学。

1925(大正14)年
文化学院中等部を卒業、大学部に進むが結婚のため中退。
歌人与謝野寛・晶子夫妻の媒酌により、板倉鼎と結婚。

1926(大正15)年
2月、鼎のフランス留学に同行して日本を発つ。途中ハワイに滞在。
7月、パリに到着。

1927(昭和2)年
9月、油絵を始める。
11月、サロン・ドートンヌ初入選。
12月、長女一、誕生。

1928(昭和3)年
11月、 サロン・ドートンヌ入選。

1929(昭和4)年
4月、仏蘭西日本美術家協会パリ1回展出品。
5月、次女二三が誕生するが、6月に死亡。
6月、リール市の日本人画家グループ展出品。
6~7月、仏蘭西日本美術家協会プリュッセル展出品。
9月29日、夫・板倉鼎が急逝。
10月24日、一を伴いパリを出発。
11月、サロン・ ドートンヌ入選。
12月2日、神戸港に着き、千葉県松戸町の板倉家に戻る。

1930(昭和5)年
1月、長女一、死亡(享年2)。
その後まもなく鎌倉の昇家に帰る。

1931(昭和6)年
6月頃、昇家に復籍する。佐伯米子の紹介で有島生馬の家に通い絵の指導を受ける。

1932(昭和7)年
9月頃より結核のため絶対安静の病床生活に入る。

1933(昭和8)年
ー科会の「新傾向」絵画を推進する若手画家たちの団体「新油絵」の結成に参加。

1934(昭和9)年
5月10日、鎌倉町稲村ヶ崎の自宅で没(享年25)。

(松戸市教育委員会美術館準備室 作成)

 

 

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