板倉鼎・須美子について

悲運の夫婦忘られぬ画業

1920年代のパリで活躍、早世した板倉鼎・須美子を紹介
田中 典子

1926年(大正15年)7月、二人の若い日本人の男女が、長い旅を終えてフランスの首都パリの地を踏んだ。新進の画家、板倉鼎と妻、須美子である。前年H月、歌人の与謝野寛(鉄幹)・晶子大要の媒酌で結婚式を挙げた二人は、留学先のパリに着いた時、25歳と18歳だった。

そろって初入選

翌27年には、マティス、ルオーらが創設した反アカデミズムの美術展一サロン・ドートンヌ」に大妻そろって初入選。他の展覧会でもたびたび注目され、頭角を現した二人には明るい未来が開けようとしていた。しかし鼎は、パリで3年が過ぎた29年秋、突然敗血症に倒れ、28歳で生涯を閉じる。

須美子は、パリで生まれた二人の幼い娘にも先立たれる。帰国後は鎌倉の実家に戻り、改めて絵画の道への精進を期するが、34年、肺結核により25歳で世を去った。

輝きに満ちた人生を突然絶たれ、悲劇に見舞われた二人の存在は、その短い画業ゆえ一般には長く忘れられていた。80年に千葉県立美術館で鼎の回顧展が初めて開催されたが、本格的な紹介は立ち遅れていた。

鼎が少年時代を過ごしたゆかりの地、千葉県松戸市の教育委員会に勤務する私は、美術館準備室の学芸員として夫妻の作品と生涯を調べてきた。その成果をもとに、一昨年の秋、松戸市立博物館で過去最大規模の回顧展を開催したが、実現までに四半世紀を費やした。今も、夫妻の留学中の書簡集を公刊するための作業にあたっている。

繊細にして華やかに

板倉鼎は1901年(明治34年)、埼玉県旭村の医師の長男として生まれた。小学生の時、父が開業した千葉県松戸町に転居し、東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業した。7歳年下の須美子は、著名なロシア文学者、昇曙夢の長女として東京に生まれ、文化学院で与謝野夫妻や作曲家の山田耕律らに学んだ。二人は結婚の翌年、4カ月間のハワイ滞在を経てパリに留学した。

後に「狂騒の時代」と呼ばれた20年代のパリでは、世界各地から集まったた芸術家たちによって新しい文化が花開いた。シャガール、キスリング、藤田嗣治ら、エコール・ド・パリの中心は外国出身の画家たちだった。藤田だけでなく、佐伯祐三、岡鹿之助ら多くの日本人画家がパリに留学した。

板倉鼎もその一人だった。パリで鼎の作風は、留学前の温雅な写実から繊細にして華やかな、秩序あるスタイルヘと大きく変貌する。その過程は27年前後の一連の静物画に見ることができる。

大作「休む赤衣の女」(29年ごろ)は鼎自身、彼が到達した最高の作と考えていた。周到に配された花や金魚鉢に囲まれ、ベッドに横たわるのは須美子だ。窓の向こうに広がる明るい海を背に、赤衣の女は強いまなざしをこちらに向けている。

1600点超リスト化

須美子は美術を学んでいなかったが、鼎に手ほどきを受け、油彩画を始めた。独特のナイーブな感覚でハワイの思い出をのびやかに描いた「ベル・ホノルル」シリーズなどが、すぐにパリで評価され、サロン・ドートンヌで3年連続入選した。

夫妻の没後、作品の多くは、松戸市内の鼎の実家と鎌倉市内の須美子の実家で大切に保管されて来た。私たちは、素描なども含め1600点を超える作品の写真を撮り、サイズを測り、サインや書き込みを調書に記録し、リストを作成した。

これまでに、両家などから多数の作品が松戸市教育委員会に寄贈されたが、泊彩画の多くは、展示と保存のため修復を必要とした。修復家の地道な作業によって、それらが本来のみずみずしい姿を取り戻していく一方、作品と一緒に保管されていた文書、写真など約6500点もの資料の調査により、大妻の姿が次第に鮮明に見えてきた。

家族に宛てた書簡で鼎は、自らの芸術への確信を明晰な言葉で記している。「どうかして仕事は世界を相手にして見たいものです」。急逝の半年前のこの言葉には、画家として世に立とうとする志が強く感じられる。

松戸の展覧会は幸い反響を呼び、東京の目黒区美術館で「よみがえる画家 板倉鼎・須美子展」が、4月8日から6月4日まで同館主催で改めて開催されることになった。没後80年を超えてなお新鮮な魅力を放つ大妻の芸術が、一人でも多くの方々に届くよう祈っている。

(たなか・のりこ=松戸市教育委員会社会教育課美術館準備室長)

日本経済新聞 2017年3月27日掲載(記事転載は日本経済新聞許諾済。無断で複写・転載を禁じます。)

 

板倉鼎・須美子 年譜

 

板倉鼎

いたくらかなえ(1901-1929)

1901(明治34)年
3月26日、埼玉県北葛飾郡旭村(現在の吉川町)に生まれる。子どもの頃に松戸に転居する。

1918(大正7)年
県立千菓中学校を卒業。在学中、堀江正章の指導を受ける。

1919(大正8)年
東京美術学校西洋画科に入学。岡田三郎助、田辺至の指導を受ける。

1921(大正10)年
第3回帝展初入選。

1921(大正11)年
第4回帝展入選。

1924(大正13)年
東京美術学校西洋画科を卒業。

1925(大正14)年
板倉鼎郷土展覧会(松戸町郡役所議事堂)。
昇須美子と結婚。

1926(大正15)年
2月、須美子を伴い、ハワイ経由でフランス留学に出発。
7月、パリに到着。

1927(昭和2)年
ロジェ・ビシエールの指導を受ける。
11月、サロン・ドートンヌ入選。

1928(昭和3)年
3~4月、イタリア旅行。
5月、サロン・ナシオナル入選。
10月、第9回帝展入選。

1929(昭和4)年
1~2月、サロン・デザンデパンダン出品。
4月、サロン・ナシオナル入選。仏蘭西日本美術家協会パリ第1回展出品。
6月、リール市の日本人画家グループ展出品。
6~7月、仏蘭西日本美術家協会プリュッセル展出品。
9月29日、敗血症のためパリの自宅で急逝(享年28)。
11月、サロン・ドートンヌ入選。

 

板倉須美子

いたくらすみこ(1908-1934)

1908(明治41)年
6月28日、ロシア文学者昇直隆(曙夢)の長女として、東京市麹町に生まれる。

1921(大正10)年
文化学院に第一回生として入学。

1925(大正14)年
文化学院中等部を卒業、大学部に進むが結婚のため中退。
歌人与謝野寛・晶子夫妻の媒酌により、板倉鼎と結婚。

1926(大正15)年
2月、鼎のフランス留学に同行して日本を発つ。途中ハワイに滞在。
7月、パリに到着。

1927(昭和2)年
9月、油絵を始める。
11月、サロン・ドートンヌ初入選。
12月、長女一、誕生。

1928(昭和3)年
11月、 サロン・ドートンヌ入選。

1929(昭和4)年
4月、仏蘭西日本美術家協会パリ1回展出品。
5月、次女二三が誕生するが、6月に死亡。
6月、リール市の日本人画家グループ展出品。
6~7月、仏蘭西日本美術家協会プリュッセル展出品。
9月29日、夫・板倉鼎が急逝。
10月24日、一を伴いパリを出発。
11月、サロン・ ドートンヌ入選。
12月2日、神戸港に着き、千葉県松戸町の板倉家に戻る。

1930(昭和5)年
1月、長女一、死亡(享年2)。
その後まもなく鎌倉の昇家に帰る。

1931(昭和6)年
6月頃、昇家に復籍する。佐伯米子の紹介で有島生馬の家に通い絵の指導を受ける。

1932(昭和7)年
9月頃より結核のため絶対安静の病床生活に入る。

1933(昭和8)年
ー科会の「新傾向」絵画を推進する若手画家たちの団体「新油絵」の結成に参加。

1934(昭和9)年
5月10日、鎌倉町稲村ヶ崎の自宅で没(享年25)。

 

(松戸市教育委員会美術館準備室 作成)

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