【topics】板倉鼎の「帝展」入選作品を紹介します

板倉鼎はその28年の短い生涯で官展(鼎の時代は、「帝展」帝国美術院美術展覧会)に4回入選しています。東京美術学校在学時に初入選したときは、それまで鼎の美校行きに否定的だった医者の父親が応援するようになり、2回目のときは作品が絵葉書になって発売されました。最後の入選は遺作として展示されています。

1回目1921・大正10年 第三回帝展【静物】

2回目1922・大正11年 第四回帝展【木影】

3回目1928・昭和3年 第九回帝展【雲と少女】

4回目1929・昭和4年 第十回帝展【画家の像】

美校在学中の二作は、主任教授だった岡田三郎助の画風に学んだ温和で正統的な写実作品です。後半の二作はパリで描いた作品です。[(日本で得た)空気を(通して見たものを描くことを)捨て]独自の構成的でモダンなスタイルを獲得していたことがわかります。

1928年刊行の中央美術、第九回帝展の関連ページを紹介します。

    

1929年刊行の週刊朝日とアサヒグラフの増刊、第十回帝展関連ページも合わせてご紹介します。週刊朝日増刊「美術の秋」号では、美校の副主任教官、田辺至の作品と並んで掲載されました。因みに同号の二科展のベージには小出楢重と古賀春江の作品がみられます。

    

アサヒグラフ増刊「帝展」号には鈴木千久馬と同じ見開きに出ています。

1930年4月に開催された遺作滞欧展覧会について、東京日日新聞が[・・・最も光ってゐるのはその婦人の像であろう。その特殊な味はひをもつ魅力を見逃すことは出来ない。帝展出品の『画家の像』などはことによいと思ふ・・・]と評しています(1930年4月27日)。言うまでもなく【画家の像】のモデルは妻の画家、須美子です。

(本稿は【よみがえる画家 板倉鼎・須美子展 図録】(田中典子氏執筆)を参考にさせていただきました)

(文責:水谷嘉弘)

 

【近代日本洋画こぼれ話】清水多嘉示 その1 渡仏前の生写真と中村彜

「フランスのサロンドートンヌと日本人」といえばまづ藤田嗣治を思い浮かべるが、他にも日本人で初めて入選した(1921年)のは川島理一郎(1886・明治19年生まれ、藤田と同年齢のパリ友達)、絵画・彫刻両部門に初めて同時入選した(1924年)のが清水多嘉示、等々あまり知られていない事も多い。板倉鼎・須美子は渡仏翌年の1927年に夫婦揃って入選している(1929年にも)。板倉夫妻と同時期に滞欧していた清水多嘉示(1897・明治30年〜1981・昭和56年)の渡仏(1923・大正12年〜1928・昭和3年)前後の生写真(当時のアルバム)を持っている。清水多嘉示は1927年パリの大久保作次郎送別会集合写真で板倉鼎の隣に写っているので縁がある。この集合写真には、当社団がその滞欧作品(この写真を撮る前年の制作)を収蔵したばかりの伊原宇三郎も写っている。アルバムに貼られた写真を渡仏以前と渡仏以降の2回に分けて紹介したい。

 写真シルエット・松戸市教育委員会作成

アルバムの旧蔵者は後に長野県諏訪地域の教育指導者となる川上茂という人物。清水が中洲村(現、諏訪市)の小学校で代用教員をしていた頃(1915・大正4年)の同僚のようだ。パリから川上宛に出した絵葉書―シテ・ファルギエール14番地発―は長野県松本女子師範学校気付となっている。清水は渡仏前には諏訪高女で美術教師を務めていた。勤務先の親しさからか、1922・大正11年2月には同校と松本女子師範で清水主宰による「中原悌二郎・中村彝作品展」を開いている。アルバムにはその時の会場写真があった。記念撮影のテーブル上にあるのは前年出版された中原悌二郎著作集【彫刻の生命】。【泉】【花】と題された油彩画2点(共に「未完成」と添書してある)の前に立つ清水の姿や、中原の代表作【若きカフカス人】、中村の【男の顔(河野氏像)】なども写っている。【泉】は、直接的には安井曾太郎の影響下の作品ではなかろうか。7年間のフランス留学から戻り滞欧作品展を開いた安井の作品群、1914年作の【水浴裸婦】などを観ていたに違いない。細かいタッチで塗り込んでありやや硬い印象だが構想画的、類型的でもある。当時の傾向がよくわかる。清水はパリに行ってデッサンを学び直し絵も垢抜けして来るのだが、それ故か1971年の清水自選展に出品された最も旧い作品は絵画1923年作、彫刻1924年作で共に渡仏時の制作である。

 今井りん、多嘉示、川上茂?、西岡瑞穂  展覧会場の多嘉示(中原悌二郎作品)

 

清水が新宿下落合の中村彝(1887・明治20年生まれ)を訪ねてアトリエ前の庭で自ら撮った写真もあった(1920年前後)。川上が清水から貰ったのだろう。

 自宅庭先の中村彜(多嘉示撮影)

(2023年6月増補)今般、茨城県近代美術館の首席学芸員吉田衣里さんから照会の電話をいただいた。中村彝は茨城県出身で彼女は彝の研究者のようだ。冒頭に掲載した清水多嘉示が諏訪高女で主宰した「中原悌二郎・中村彜作品展」会場写真、清水の後ろに写る2枚の絵だ。私は、清水が制作途上の自作を展示したものと理解していたのだが、吉田さんは「中村彜作品ではないか、【泉】はポーラ美術館所蔵の【泉のほとり】ではないか」と言う。早速調べてみた。会場写真は白黒のせいか陰影が濃く筆致が粗く見えるが、まさに瓜二つだった。ポーラ美術館ホームページの同作解説は、制作1920年とされていて [・・・従来この【泉のほとり】はルノワールの模写といわれてきたが、近年の研究によってそれが模写ではなく、中村彜の創作であることが明らかになってきた。(中略)「素戔嗚尊に題をとって勝手に想像で描いたもの」という中村の言葉からもうかがえる。(中略)彼は、1920年頃、展覧会の特別陳列などでルノワールの裸婦像を目にしたようだ。その衝撃から裸体画を描きたいという思いにとらわれ、この【泉のほとり】を制作したという。・・・] とある。しかし、吉田さんは中村彜「藝術の無限感」所収の洲崎義郎宛て書簡の同作に関する記述に注目する。[・・・何時もの欠点の「動線の不明」と「色の釣り合いの不整」とがつきまとって、絵の効果を鈍くして居るのですが、要点がよく分からないので思ひきった「シマリ」を入れる事が出来なくて、これにも閉口しております。・・・]。会場写真(1922年撮影)では右下部分が空白になっていて「未完成」表示もある。他にもそれを傍証する資料があって、吉田さんは同作の制作過程を再考する要があると考えたようだ。彼女の研究による論文発表を待ちたい。

【泉】諏訪高女1922会場撮影 【泉のほとり】ポーラ美術館

「未完成」表示

なお、もう1枚の【花】と題された未完成作品のその後は不明だそうだ。類似作品【ダリアの静物】の画像を示していただいた。

【花】1922諏訪高女会場撮影 【ダリアの静物】1919

「未完成表示」

他の同展会場写真や多嘉示が撮った彜のアトリエ前のスナップなど現物を見たいとの事だったので開催中の猪熊弦一郎回顧展を観がてら茨城県近代美術館を訪れた。併設されている中村彝アトリエは、建物は復元だが椅子や画架等の調度品は本物、東京新宿下落合の中村彝アトリエと逆の関係だそうだ。館からは吉田さんと副館長の金澤宏さんが同席され、旧友の小泉晋弥茨城県天心記念五浦美術館館長(茨城大学名誉教授)も来てくれて充実した会合になった。

同展に関する写真は、清水多嘉示の代表的な研究者である武蔵野美術大学(元)教授、彫刻家の黒川弘毅氏、八ヶ岳美術館特別研究員の井上由理氏も存在を承知しておらず、「清水多嘉示アーカイブ」にも掲載がないそうだ。黒川氏のご教示でテーブル上の中原悌二郎著「彫刻の生命」を前にした集合写真の前列右端は清水の諏訪中学校時代の美術教師西岡瑞穂、左端は後に清水夫人となる今井りん、と判明した。西岡は大久保送別会写真の最後列中央、長身の中村研一の向かって左下、一人置いた丸メガネの男性である。パリで再会していたのだ。

黒川氏のご教示を受けてある事に気付いた。同展会場写真が貼られたアルバムの中に作者、画題共に不明の絵の生写真が有ったのだが、これは多嘉示が描いた今井りんではないか?前掲したテーブル前の集合写真の前列左端の彼女と似た相貌なのである。

 

武蔵野美術大学彫刻学科研究室刊「清水多嘉示資料論集Ⅱ」(2015年)所収の青山敏子氏(多嘉示の三女)「父清水多嘉示と母りん」に依れば、[(多嘉示の父)鶴蔵が(多嘉示の)渡欧の条件としたのは、婚約者を決めてから行くように、ということでした(中略)諏訪高女の前校長土屋文明は迷うことなく今井りんを推薦したのです]1923年3月の渡欧を控えた1921、22年頃の事と思われる。展覧会は1922年2月であり会場写真に二人が並んで写っていてもおかしくはない。

中村彝の作品展示会なので彝の絵が他にもあるのではないか。彝が描いた相馬俊子像があるかもしれない。しかし、多嘉示主宰の地元の展覧会に自作を展示するのもおかしくはない。展示されていなかった可能性はあるが、件の絵は清水多嘉示作、婚約者今井りんの肖像と考える次第だ。

後日、黒川氏から「清水多嘉示アーカイブ」にある多嘉示と川上茂のツーショット写真(写)が送られてきた。[1921年3月10日 自炊生活の記念に 川上茂君 清水多嘉示]と裏書され[立木写真店 信州上諏訪]の台紙に貼られている。

   (増補分了)

アルバムには当然ながら旧蔵者川上氏本人に属する写真が多く、スイスの教育啓蒙家ペスタロッチゆかりの地の訪問写真、2ヶ月前に運転を開始したばかりの烏川第一水力発電所の見学写真(川上は理数系の教師)等もありそちらの資料性もありそうだ。

話はそれるが冒頭の集合写真について、中村拓医学博士の子息、中村士(つこう)先生(天文学者、理学博士)から連絡を頂戴した。

(quote)・・・集合写真ですが、中央に大久保作次郎が写っていますので、彼の送別会の写真だろうと思います。また、中村拓は右端に、両手を組んで大きく写っている人物だと思います。(中略)大久保作次郎の送別会写真は井上由理さんの『青春のモンパルナス 清水多嘉示滞仏記』(2006年)には、ほぼ全員の氏名が載っています。中村拓は、在パリ中は多くの日本人絵描きさんと交流があり、戦後も岡鹿之助さんらとは年賀状のやり取りをしていました。山口長男さんなどは、毎夏家に来て夜遅くまでビールを飲んで歓談していたのを子供心に覚えています。(unquote)

中村拓は生化学者、医学者(1890~1974)。パリのパスツール研究所に留学中(1921~1929)、隣にあったシテ・ファルギエールに住んでいた日本人画家達と知り合い医者として彼等の健康面を診ており板倉鼎も診察を受けている。書簡集にも登場する人物だ。この頃パスツール研究所には中村拓博士の他にも日本からの留学者が複数いたようで日本人画家と付き合いがあった。佐分真の「巴里日記」には細谷省吾、佐藤国手両医学博士が度々登場する(両氏は鼎、須美子書簡にも言及がある)。中村博士が帰国後も画家達との関係を続けていたのと同様、両博士も佐分、小寺健吉、伊原宇三郎(皆集合写真に写っている)らパリで親しくなった画家達と「モンパル会」と名付けた会に参加して東京で会っている。1932年(推定)12月31日、京橋に在ったレストラン「アラスカ」で開かれたモンパル会で、欠席した久米正雄への寄せ書き書簡に両博士の名前がある。

(この項続く)

(文責:水谷嘉弘)

【news】伊原宇三郎の滞欧作品を収蔵しました

  1. 板倉鼎の東京美術学校西洋画科の3年先輩、伊原宇三郎の作品を収蔵しました。

作品名:「南仏アルルの旧い街」

号数:F8(375Χ460)油彩 キャンバス

制作年:1926(大正15・昭和1)年

経緯:当社団では板倉鼎及び関連する画家の作品や資料を蒐集していますが、今般表題作品を長く所蔵している星野画廊(京都)社長星野桂三氏との間で購入話がまとまリました。同作品は星野氏が2015年松戸市立博物館、2017年目黒区美術館で開催された「よみがえる画家 板倉鼎・須美子展」に出品されましたが( 板倉夫妻をめぐる画家たち、の部 )、他にも2008年三重県立美術館「佐伯祐三 交流の画家たち展」等での展示実績があります。今後、板倉鼎関連展覧会へ社団から賛助出品するに相応しいミュージアムピース級の作品と判断し所蔵することにしました。

         

目黒区美術館 板倉展出品目録から2017      板倉鼎・須美子書簡集 2020 掲載写真

伊原夫妻(伊原夫人は芥川賞作家由起しげ子)はパリ在住時に板倉鼎・須美子夫妻と親しくしており書簡集に登場します。又「フジタとイタクラ展」に展示された1927年撮影のパリ集合写真には宇三郎、鼎ともに写っています。伊原は、鼎急逝の翌年1930・昭和5年4月銀座で開催された遺作展の発起人になっており、美術雑誌に追悼批評を寄稿する等二人の絆は強いものがあリました。

伊原宇三郎について 1894・明治27年〜1976・昭和51年

徳島県生まれ。1921・大正10年東京美術学校西洋画科を首席で卒業、1925年渡仏。イタリアで古典古代、ルネサンス美術を学び、ルーブル美術館での模写等を経てピカソの新古典主義に収束する。日本へのピカソ紹介者として知られる。官展アカデミズムの主要人物であり、戦後は洋画界運営にも注力し国立西洋美術館設立に貢献した。

【近代日本洋画こぼれ話】島村洋二郎 一枚の絵葉書

当社団では、板倉鼎・須美子の顕彰活動を補完するため、鼎と同時期の近代日本洋画家の資料を蒐集しています。そこから得られた話題や情報などを小文にまとめ随時【column】欄に掲載します。

   

「青い眼の光」が印象的な島村洋二郎という早逝した画家がいる(1916・大正5年〜1953・昭和28年)。洲之内徹【気まぐれ美術館】の[〈ほっかほっか弁当〉他](芸術新潮1987・昭和62年7月号)で紹介され知られるようになった。洋二郎の姪、島村直子さんが顕彰活動をしている。洲之内氏が現代画廊で洋二郎の遺作回顧展―1987・昭和62年8月―を行ったのも彼女の働きかけに因るものだ。

洋二郎は画家になろうと旧制浦和高等学校を中退(1935・昭和10年9月)した後、5年程東京杉並区の里見勝蔵のアトリエに通う。しかし文献や里見の著述等には記されていない。戦中期には既に疎遠になっていたようだ、洋二郎の方から距離を置くようになったのだろう、とされていた(坂井信夫氏の評伝に依る)。ところが先日、横須賀に転居した洋二郎が里見に宛てた近況を知らせる1943・昭和18年9月17日付けの葉書を入手したのである。その親密な綴り振りから二人の関係を見直す必要があるのではないかと考え、島村直子さん、洋二郎の研究者、松戸市戸定歴史館学芸員小寺瑛広氏と面談することにした。お二方は葉書に驚き、見慣れた筆跡の文章を読まれて同様の見解を示された。シャガール作品の絵葉書である点にも注目されていた。直子さん作成の洋二郎年譜には、1943・昭和18年8月横須賀の民家に間借り(住所記載)し秋には岐阜に美術教師として赴任した、とあり借家住まい(間借り先と別住所)した事実も知らなかったそうだ。新資料発見として近々開催される作品の展示機会で発表したいと述べられていた。

       

以下は余談。昨年暮れ、直子さんの活動を取り上げたNHKの「ファミリーストーリー」が再放送された。戦後(1953・昭和28年)3才で米国軍人の養子となった洋二郎の遺児、鉄(米国名テリー)―彼女の従兄弟―を探し出したいとNHKに出した手紙が取り上げられ、同番組が米国西海岸トーランス在住の彼を見つけ出すストーリーである。その後二人は再会を果たし、彼女は1953・昭和28年7月の洋二郎個展(彼は展覧会最終日に大喀血し9日後亡くなる)で梅崎春生(第一次戦後派作家)夫人が購入した洋二郎作品【腰かけた少年】(1953年作クレパス画)をテリーに贈ったそうだ。私は梅崎春生夫人恵津さんを存じあげており、直子さんから預かった手紙と恵津さんが写っている現代画廊回顧展でのスナップ写真を添えて、恵津さん(御歳98才)に旧蔵品の顛末を伝えたのである。

(本稿は、【眼の光 画家・島村洋二郎】坂井信夫、島村直子編著、2009土曜美術社出版販売、【島村洋二郎詩画集 無限に悲しく、美しく】島村直子、鈴木比佐雄編、2016コールサック社、を参照させていただきました)

(文責:水谷嘉弘)

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