社団法人について

設立趣旨

エコール・ド・パリの時代 ー 1929年(昭和4年)彼の地で夭折した松戸市出身の画家、板倉鼎(いたくらかなえ)とその妻須美子の画業を世間に伝え、情報等を収集する企画や活動及びその支援を行う。

設立経緯

松戸市教育委員会で企画中の『板倉鼎・須美子書簡集』刊行事業が最終段階に至ったものの実施予算確保が微妙であった。そこで従来より板倉鼎に関心を持っていた水谷(松戸市在住、社団法人 板倉鼎・須美子の画業を伝える会(現)代表理事・会長)が刊行費用の寄付を申し出た。

資金支援を一過性の行為で終わらせず、板倉夫妻の画業を伝える継続的な活動をするために非営利型の一般社団法人(本会)を立ち上げることにした。

運営についての考え方

本会を公信力のあるものにし実効性を持たせるためには、松戸市美術館準備室(松戸市教育委員会内)と連携して活動への求心力を確保する必要がある。また板倉鼎に関する研究、事業等の実績を有する方々との意思疎通を図る。

設立に際してコンタクトした方々

  • 田中典子氏
    松戸市教育委員会美術館準備室室長(当時)、学芸員
  • 川崎キヌ子氏
    和洋女子大学名誉教授、書簡集校閲者
  • 神崎眞子氏
    板倉鼎の姪、松戸市(旧板倉邸)在住

3氏と面談。本会設立に謝意を示され喜ばれた。本会に参加或いは連携する事になった。

活動方針

  • 本会の目的とするところは、既に長年に渡り松戸市教育委員会や板倉鼎縁故者に依って地道に進められて来た歴史が有る。本会はその事実を尊重し所期の目的を共有してそれを果たす為の支援活動を主とする
  • 紹介活動、資金支援、情報収集等のサポーター的な在り方を目指す
  • 賛同者、協力者の組成、メディアへの展開、ホームページの立ち上げ等手付かずだった分野を手掛ける
  • 会内外への情報発信を積極的に行う
  • 事業年度ごとに事業報告を行い業務・会計監査を実施して活動実績を検証することとする

想定している活動

本会の目的に資する下記のような活動、及びその後援や人的、資金的、側面的支援

  1. 展覧会企画
  2. 各種出版物の刊行
    画集、書簡集、評伝、カタログレゾネ等
  3. 紹介活動全般  講演会、広報用フライヤー配布、資料巡回展示等
  4. メディアへの発信
  5. 近代日本洋画に関する調査研究
  6. 賛同者、協力者の募集
  7. Homepage、各種印刷物発行等に依る情報発信
  8. 関係資料の蒐集

立ち上げまでのプロセス

  • 設立趣意書の起草⇒定款作成
  • 設立時社員、社員、役員(理事・監事)の人選
  • 運営資金確保
  • 非営利型の選択

体制

  • 設立時社員(資金拠出、役員任免権、社員総会開催)
    水谷嘉弘(松戸市在住)
    浦川親章(松戸市在住)
  • 社員 川崎キヌ子(松戸市在住、設立時理事)
  • 役員=理事(理事会設置、無報酬)、監事(無報酬)
    水谷嘉弘(代表理事・会長)博物館学芸員資格者
    高橋明也(理事)東京都美術館館長
    水川史生(理事)共立女子大学教授
    園井健一(監事)公認会計士・税理士
  • 所在地 千葉県松戸市

《社団法人設立日:2018年12月3日》
《社団法人第1期事業年度:2018年12月3日~2019年9月30日。第2期事業年度:2019年10月1日~2020年9月30日。第3期事業年度:2020年10月1日~2021年9月30日。第4期事業年度 : 2021年10月1日~2022年9月30日。第5期事業年度:2022年10月1日~2023年9月30日》《第6期事業年度:2023年10月1日~2024年9月30日》

これ迄に実施した活動

  1. 松戸市教育委員会から「フジタとイタクラ」展(2019年1月~3月@聖徳大学博物館)の後援を依頼された。同展はフランスでの日仏交流行事『ジャポニスム2018』に呼応して企画されており、駐仏日本国大使 木寺昌人氏からメッセージを入手した(2019年1月)
  2. パリ市立チェルヌスキ美術館エリック・ルフェーブル館長が木寺大使の紹介で「フジタとイタクラ」展に来場。水谷代表理事は同館で開催されたジャポニスム2018「京都の宝-琳派展」レセプションで同氏と面識が出来、高橋理事と共にアテンドしパリでの板倉展を提案した(2019年2月)
  3. 藤田嗣治の又甥(嗣治の兄の孫)藤田嗣隆氏と、板倉鼎の姪(鼎の妹の子)神崎眞子氏を「フジタとイタクラ」展会場で引き合わせた。新聞・TV7社で報道された(2019年3月)
  4. NHK『ラジオ深夜便』田中典子氏インタヴュー「郷土の画家を世に伝えたい」をアレンジした(2019年5月)
  5. パリ市立チェルヌスキ美術館ルフェーヴル館長、国内美術館関係者との接触継続。高橋理事はフランス出張時に同美術館を訪ねているほか、国内美術館、各メディア等への訪問時、講演時に板倉鼎・須美子を紹介している
  6. アーティスト、美術館人等の美術関係者、松戸市関係者とのネットワーク構築を進めている(水谷代表理事)
  7. ホームページ開設(2020年2月)
  8. 広報用フライヤー作成(水川理事デザイン)(2020年2月)
  9. 松戸市教育委員会から「板倉鼎・須美子書簡集」が刊行された。編者あとがきに当社団法人名も挙げられている。本会で一定部数を購入し美術館関係者等へ贈呈した(2020年6月)
  10. 美術館、画廊、ギャラリー等に本会の広報用フライヤー備え置きを依頼する活動を始めた(2021年2月)
  11. ホームページに近代日本洋画家を題材とした【column】欄を設けた(2021年5月)
  12. 一般社団法人「日本美術家連盟」との交流が進む。入江観先生から連盟の部会「明治以降美術の業績調査委員会」で板倉鼎を取り上げる旨の連絡があった(2021年秋)
  13. 美術愛好家団体「あーと・わの会」の会誌(季刊)、ホームページにコラムの執筆を始めた(水谷代表理事)(2021年6月、2022年1月)
  14. 堺屋太一記念東京藝術大学美術愛住館、池之端画廊それぞれと、板倉鼎や関連する画家の展示企画に着手した(2022年1月)
  15. 文芸同人誌「まんじ」(1981・昭和56年創刊、季刊)に美術エッセイの連載を開始した(水谷代表理事)(2022年5月)
  16. 一般社団法人「日本美術家連盟」の部会「明治以降美術の業績調査委員会」主催の「板倉鼎」座談会が開催され当社団から水谷代表理事が参加した。出席者は、連盟側から笠井誠一先生、入江観先生、板倉サイドから松戸市教育委員会学芸員田中典子氏、水谷の計4人。座談内容は連盟機関紙「連盟ニュース」484号(令和4年10月号)に掲載された(2022年7月)(2022年10月)
  17. 当社団がproduceした「里見勝蔵を巡る三人の画家たち」展@池之端画廊(10月開催)の紹介記事執筆(水谷代表理事、「美術の窓」9月号)、展覧会フライヤー(水川理事デザイン)発行等広報活動を開始した (2022年8月)
  18. 「里見勝蔵を巡る三人の画家たち」展@池之端画廊を開催した(2022年10月12日~30 日)
  19. NHK『ラジオ深夜便 明日へのことば』に水谷代表理事が出演した。約40分のインタヴュー番組、タイトル【「ビジネス発・アート着」の道を歩んで】。板倉鼎や当社団の活動などを紹介した(2023年3月)
  20. 千葉市美術館開催予定(2024年4月~6月)の「板倉鼎展」の後援団体になることが内定しKickoff Meetingに参加した(2023年6月)
  21. シンガポール国立美術館から2025年開催予定の「City of Others :Asian  Artists in Paris 1920s~40s」に板倉鼎作品を展示したいとのコンタクトが当社団に入った。松戸市教育委員会美術館準備室を紹介し繋いだ(2023年9月)
  22. 美術家、美術館学芸員、ギャラリー・画廊、メディア関係者との往来を活発化し、人脈展開を通じて板倉鼎・須美子の認知度向上を図った(第5期事業年度通期)

今後に向けて

  • 板倉鼎、須美子の顕彰活動を継続して推進する
  • 板倉鼎作品の展示や展覧会の企画、後援を行う
  • 板倉鼎、当社団を紹介し言及する広報機会の確保、執筆活動を行う
  • 板倉鼎および板倉鼎と同時代の画家の作品、資料の蒐集、展示や調査研究を行う
  • 前項など近代日本洋画に関する研究成果を発信する
  • 本会活動の運営に参画する人材の発掘
  • 資金調達、本会趣旨に賛同する方々との連携            (2023年10月現在)

以上、文責:水谷嘉弘

お問い合わせ

一般社団法人 板倉鼎・須美子の画業を伝える会 (水谷嘉弘)
〒 270-0002 松戸市平賀148-2-B棟
電話:050-1297-3393

【NHKラジオ深夜便・明日へのことば】

NHK【ラジオ深夜便】に出演した。玉谷邦博ディレクターのインタビューに学生・バンカー時代の思い出や美術との関わり等を語った。前説でMCの須磨佳津江さんから、「一般社団法人板倉鼎・須美子の画業を伝える会」代表理事として私の略歴と、画家板倉鼎の紹介があった。以下、要約して書き起こしてみる。

番組名:明日へのことば タイトル:「ビジネス発・アート着」の道を歩んで

日時:令和5年3月15日(水)午前4時5分〜4時50分

《板倉鼎はどういう画家? 水谷さんが知ったキッカケ、その後の関わり方は》

エコール・ド・パリの画家。東京美術学校を出てすぐ、新婚の須美子とフランスに留学し、明るい色調の洗練された絵が注目されたが病に倒れ28歳で客死した。1920年代の忘れられた画家。板倉鼎は私の住む松戸出身、松戸市教育委員会学芸員の田中典子さんの記事(目黒区美術館2017年)を読み見に行ってビックリした。顕彰活動をしようと思い「一般社団法人板倉鼎・須美子の画業を伝える会」を設立。聖徳大学博物館「フジタとイタクラ展」の後援団体になった。日仏友好160周年を記念した「ジャポニスム 2018」のイベント「藤田嗣治展」@パリと同期した開催で都立戸山高校1年後輩の駐フランス日本国大使木寺昌人さんからメッセージを貰った

《水谷さんは慶応義塾大学と東京藝術大学にダブル在籍していた、その経緯は?》

二重学籍だが法律違反ではなさそう。高校で現代国語の担当、小説家の中石孝先生を囲む純文学の読書会を始めたが興味の対象が芸術書に拡がる。仲間に藝大美術学部芸術学科生の梅崎えりさんがいて、藝大に芸術学科があるのを初めて知った。慶應に入った翌年私も藝大に入った。二重学籍の期間は、慶應が1971年から76年まで、藝大は1972年から77年まで、各5年延べ10年間在籍したが、中の4年はダブっている

《2校に通うのは授業に出たり、試験や単位取得等大変だったのでは》

とりあえず両方やってみるかの軽いノリで2校に通学を始めたがかなり大変だった。大学1・2年は出席必須の語学や体育がある。東横線と地下鉄日比谷線が繋がっていて午前の授業を終え正午の日吉始発に乗ると1時に上野に到着する、藝大の午後の授業に間に合った。慶應のクラスメートが「水谷さんを辞めさせない会」を作って授業の代返やレポートの宿題などを連絡してくれ助けてくれた

《慶應の卒業をひかえ進路を決める 藝大はまだ修学継続中 どうしましたか?》

年齢の縛りがあるのでとりあえず就職してみよう、思い上がり甚だしいがダメだったら藝大に戻ればいいと考えていた。就職希望は海外勤務に憧れており総合商社か都市銀行、オイルショック後の就職難で狭き門だった。東京駅を降りて目の前にあった銀行を訪問、面接がトントンと進んで内定をくれ入行を決めた

《では、藝大の方は?》

入行店の支店長がロンドン帰りで、私が海外志望だと知ると行かせてやると言う。藝大に相談に行った。「4年いて単位は取っているしほおっておいて除籍になるのはもったいない。授業料を払って退学届を出せば、在籍証明成績証明は発行され中退という資格になる。復学願を出して承認されれば戻れる。」と教えてくれた。それが40年後に生きる。教務の方に感謝している。それで藝大5年目は銀行員1年目だった

《取り敢えずやってみよう精神ですね。次はビジネス篇、すぐに海外へ?》

最初の異動で通産省所管の貿易研修センターへ。国際経済人養成目的の官制ビジネススクールで官庁や企業から派遣された若い人材が約1年間、語学、国際政治経済や経営を学ぶ。最後に海外での短期研修もあってロンドンを選んだ

《国際部門が長く5大金融センターを経験したのですね》

駐在は1984年ニューヨーク発令。その後、シンガポール、東京、香港に勤務した

《その時代は国際金融面での大きな変動や、いろいろな出来事がありましたね》

1985年のプラザ合意で大きく円高に振れた。「JAPAN as Number1」の頃、日本企業のアメリカ進出ラッシュだった。ロックフェラーセンターやハリウッドの映画会社を買収した。1987年10月ブラックマンデー当日はグランドセントラル駅で株式ボード前の人だかりに遭遇した。1929年恐慌の再来かと思ったが翌日には資金が米国国債にシフトし日本の株式市場は大きく値を戻す。チョイスの存在がショックを吸収する事を学んだ。10年後の1996年シンガポールに駐在したが前半1年は日本企業のASEAN生産拠点進出ラッシュ、後半1年は1997年タイバーツ急落に始まったアジア経済危機、インドネシア政府への貸付金が不良化するといった苦労があった

《日本国内での銀行を巡る動きも慌ただしかった 銀行の経営危機にも直面した》

一段落して1998年国際部長となって帰国。Y2K(西暦2000年問題)があった。1999から2000に台替わりした時コンピュータが正常に稼働するのか?銀行ATMが動かなかったら社会生活に甚大な影響を及ぼす。2000年1月1日早朝、大手町の本店に泊まった幹部行員が大会議室に集合。シドニー支店が最初に日付変更線をまたぐ。私がシドニー支店長と衛星電話を繋ぎコンピュータ作動状況をマイクで実況する。会場の緊張感は凄かったが何事もなく過ぎた。ホッとしたが大変な労力とコストだった。私のいたあさひ銀行は一度合併していたが、その後他行との統合話がまとまり、更に1行が加わり3行統合へ向かうが最終的に離脱する。銀行の経営環境は厳しかった。バブルの不良債権処理の遅れに加え長期の景気低迷、企業の業績悪化で不良債権は更に増加して経営危機に陥っていた。あさひ銀行は海外撤退した。不良債権処理の根底にはオーバーバンキング解消方針があり銀行合併が相次ぎ現在の大手5行に集約された

《ビジネスマン生活40年を振り返って》

銀行員として5大金融センターを経験出来たので幸せだった。海外駐在も12年に及んだ。経験と知見が得られた満足感はある。しかし一方で芸術家の作品のように残すものがない、達成感が無かった事と、銀行で携わった国際部門がなくなった無念さが今でもある

《海外で接した美術は? 海外アート篇》

美術館巡りでボストン、ワシントンにドライブした。フィラデルフィアでシュールレアリスムに開眼した。欲しくなりサザビーズやクリスティーズに行きオークションの面白さにはまった。オークションは何億円のイメージが強いが近代の油彩画で、版画になれば一気に手頃な価格になる。キリコやアルプの版画を入手した

《さて、フルリタイア後の心境は? 母校の戸山高校で講演したそうですね》

「かつて一度は志した美術の世界に戻れないだろうか」と考えていた時に1年生に経験を語る授業を頼まれた。自分は「やりたいこと」=国際ビジネスを選んで満足感を得た。「好きなこと」=美術も続けて来た。異なる目標があっても続ける意志を持ち諦めない事が大事だと話した。ビジネスを放電とすれば、アートで充電する事が出来たとも言える

《アート篇に進みましょう 後輩に言うだけでなく自分でやりましたね》

ビジネスキャリアは終えた、次はアートキャリアを目指し人文系学部で学ぼうと思った。オンデマンド中心の放送大学を選んだ。40年前のアドバイス通り藝大から成績証明書が発行されたので放送大学に認定してもらい教養学部人文学コース3年次に編入学した。2020年3月卒業した。国家資格である博物館学芸員にも挑戦した。博物館学関連9科目の単位がいる。早稲田大学学芸員講座に科目履修生として入学した。「博物館実習」はハードで仏像、土器陶磁器、屏風、巻物、掛軸の見方扱い方を学び、拓本取り、日本刀の手入れの仕方も教わった。最後は会津八一記念博物館で模擬展示を行い学芸員資格も得た

《それが板倉鼎の顕彰活動に繋がりますね もともと絵は好きだった?》

小学4年の時父親と行ったルーヴル美術館展で観たシャヴァンヌの「貧しい漁夫」を今でも覚えている。図録も持っている。中学生になり絵を観て画家の名前をあてる美術の授業が楽しみだった。すぐ答えられたのは絵が好きだったからだと思う

《描くのは上手でしたか? 芸術学科とは何を勉強するところ?》

絵は上手とは言えない。久しぶりに描いたのは藝大の入試の時。芸術学科は美学美術史など理論を専攻する。筆記試験が中心だが2次試験や教養課程では描いた

《【近代日本洋画こぼれ話】という美術エッセイを書いていますね》

板倉鼎と同時代の画家の資料を読み購入した作品を題材にして書いている。社団法人のHPにup。「まんじ」という文藝同人誌へも寄稿している。昨年は日本美術家連盟に板倉鼎を取り上げて貰い洋画壇重鎮の笠井誠一、入江観2先生と対談した。鼎と同時代のフォーヴ系画家「里見勝蔵を巡る三人の画家たち展」のcurationもやった

《サッカー篇 ビジネス&アート人生にサッカーもリンクしている》

父親の仕事の関係で小学校3校、中学校2校に行った。小学6年から中学3年まで広島に居た。サッカーの名門国泰寺中学1年の時、1964年東京五輪サッカー日本代表の渡辺正、宮本輝紀、上久雄3先輩の母校訪問に感激してサッカー部に入った。以来、高校大学社会人各カテゴリーでプレーした。今は1968年メキシコ五輪銅メダリストの松本育夫さんに誘われ氏が理事長を務めている日本サッカー後援会の評議員をしている。評議員仲間には1986年メキシコW杯のマラドーナ、マラドーナの実況で知られる山本浩さんがいる。サッカーは海外との接点も大。2018年ロシアW杯は日本サッカー協会副会長で高校の後輩岩上和道さんの紹介で代表選手家族一行に加わった。藝大サッカー部では主将を務めた。ネームの知られたOBが多い。私は2年先輩の室瀬和美さんから後任に指名されたが、室瀬さんは蒔絵の人間国宝。下の代では日本画の太田圭さんは筑波大副学長、デザイン科の日比野克彦さんは藝大学長。社団法人のロゴやチラシをデザインした水川史生共立女子大教授等がいる

《変化に富んだ人生 ビジネス発・アート着を振り返って思う事は?》

「人との繋がり」「人の縁」を大事にしてきて本当によかった。母校講演の時、高校時代は感受性の決定期を共に過ごすので一生の友が得られる、基になるのは人との縁、繋がりだと言った。私は昭和45年卒業、同級生には企業人が多いが、岩手県知事や総務大臣をやった増田寛也さん、東大物性研所長、物理学会会長等を歴任して中部大学にいる家泰弘さん等もいて今でも会って仲良くワイワイやっている

《好きなことやりたいことを実現させてきた 今は満足感と達成感がありますね》

やりたい事、好きなことが複数あったときは続ける意欲を持ち実行する事が大事。しかしこれはわがままでもあった。周りの多くの人に応援協力してもらった。感謝しながら人との縁や関係を大切にして来たことがすべての原点にあった。軽いノリで始めたが思い詰めなかったのもよかった。こうして学生時代の【日吉発・上野着】を展開してきた結果が【ビジネス発・アート着】になったと思っている

(2023年4月)

 

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社団法人フライヤー(PDF版)

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