【近代日本洋画こぼれ話】伊原宇三郎 その2 1912(明治45・大正1)年 ―18才時― の作品

前回取り上げた伊原宇三郎は官展アカデミズムにおけるbignameの一人である(1894・明治27年〜1976・昭和51年)。画家としての全盛期は戦争記録画制作に費され、平時であれば描かれたであろう作品群を観る事が出来ないのはつくづく残念に思う。

伊原は東京美術学校(以下、美校)西洋画科の藤島武二教室に学び首席で卒業した(1921・大正10年)。才にも恵まれていたのだろう。若い頃から絵は上手かったようだ。郷里徳島での小学生時代に既に日本画の模写をし、大阪に転校した1911・明治44年には関西中等学校美術展覧会で一等賞を取っている。17才の時である。先年、1912年の年記が入った風景画が市場に出た。改元のあった同年は近代日本洋画史を画期する年でもあり、後に大家となる伊原18才と当時の中央画壇との作品の距離感を知りたくて購入した。

【稲干し】1912(4号)の署名部分

1912年は、明治画壇を牽引した白馬会の後継ともいえる光風会創立の年だが、美校卒業制作で萬鐵五郎が【裸体美人】を提出し10月には銀座読売新聞社社屋で斎藤与里、岸田劉生らの第一回ヒュウザン会展(のちフュウザン会)が開かれている。白馬会・外光派に物足りなさを感じた若手画家たちの新たな動きが顕在化した年でもあった。二年後には文展の審査姿勢に反旗した中堅画家たちが二科会を設立している。しかし、大阪にいた中学生伊原宇三郎の絵はそういった動向とは無縁だった。当然といえよう。【稲干し】と題する伊原作は、農婦二人が刈り終わった田地に腰をかがめて手を差し伸ばしている。ミレーの【落穂拾い】を彷彿させるものだ。中景の男性の大きさと全体の遠近感の不釣り合い、地面の表現などに稚拙な点もある。しかし明るめの中間色で色調を統一し、その濃淡で画面分割して安定感ある構図を作る巧みさ、穏やかで拡がりのある田園風情は18才の作として秀逸だ。若きバルビゾン派といえよう。伊原がミレー作を識っていたのかは分からない。バルビゾン派の紹介は既に始まっており1903・明治36 年には【ミレー画譜】【ミレ名画全集第壹輯】等が出版されていた。後年彼は、中等学校展覧会一等賞が人生で最も嬉しかった出来事でそれで画家になる決意を固めたと書いている。賞品にもらった油絵道具一式で【稲干し】を描いたに違いない。

伊原のキャリアを振り返ってみる。黒田清輝が東京美術学校西洋画科開設と同時に教授に就任しコランの外光派を伝えたのは1896・明治29年。黒田やそれに続くフランス留学→美校教官組はミレー、コローに強い共感を示しており、印象派の強い表現ではなくその傍系に位置する穏健なコランの外光派に寄っていく。1916・大正5年に美校に入学した伊原もその流れに属しているといえよう。彼の徳島中学時代の美術教師は丹羽林平、安藤義茂である。丹羽は美校西洋画科第2回卒業生(1898・明治31年)、安藤は美校図画師範科第4回卒業生(1911・明治44年)でありその指導はバルビゾン派→外光派の流れを汲むものだったと思われる。伊原本人は大阪での美術教師の名前を挙げていないが、美校図画師範科第5回卒業生(1912年)塩月桃甫と写生に出掛けていたようだ(塩月桃甫は、太宰治の友人で小説家の塩月赳の父)。京都にはフォンタネージ(バルビゾン派)の高弟、浅井忠が始めた聖護院洋画研究所・関西美術院もあリ、近くにはそこで学んだ画家達も多くいたであろう。

2021年春、南薫造(1883・明治16年〜1950・昭和25年)の回顧展があった。出世作とされる1912 年作【六月の日】が出展されていた。奇しくも伊原の【稲干し】と同じ年、同じ題材である。収穫作業後の農夫を描いているが印象派そのものと言って良い。2才年上の美校先輩、児島虎次郎が同時期留学中のベルギーで描いた油彩画にも似た筆触が見出せる。三宅克己らの水彩から学び始めまずイギリスに留学した南はフランスに渡って印象派に馴染み、帰国してからは印象派、そして晩年にかけてフォーヴ的なスタイルに変わって行く。一方、11才年下の伊原は学生時代にバルビゾン派・外光派から入り、フランスに留学してポスト印象派以降を知り古典古代を見聞したあと、ルーブル美術館でのアングル模写を経由してピカソやドランの新古典主義に収束する。二人の歩みの違いにも近代日本洋画史の、世代毎に性急に西欧絵画をcatchupして行く流れが見えて来るのである。

伊原の生誕100年記念回顧展図録(1994年)に掲載されている最も若い時期の作品は美校入学前後の1915-16・大正4-5年―21-22才と、1916年―22才、のもの。前者は短めの筆触を残す明るい印象派的な屋外椅子テーブルの写生画、後者は波打つ粗い筆触線と強めの色彩対比が目立つフォーヴ風の人物画である。しかし表現主義的な描写は体質に合わなかったのか、1920年以降は落ち着いた色彩、質感を出す筆遣い、正統的な写実で官展アカデミズムに直結していく作品を多く描いている。今回取り上げた宇三郎18才の作 ―面で捉える上手さを既に示している― の延長線上で描き続けていると見なすことが出来るのだ。

本稿は、1984年徳島県郷土文化会館、1994年目黒区美術館、徳島県立近代美術館で開催された伊原宇三郎展図録を参考にさせていただいた。

(文責:水谷嘉弘)

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