【news】「里見勝蔵を巡る三人の画家たち」展が始まりました

令和4年10月12日、当社団法人が協賛した展覧会が池之端画廊(東京都台東区池之端4-23-17 ジュビレ池之端)で始まりました。会期は30日まで。
展示作品は、里見勝蔵4点、熊谷登久平11点、荒井龍男11点、島村洋二郎13点の計39点の他、展覧会のきっかけとなった3人から里見勝蔵に宛てた絵葉書3枚、関連資料類です。

展示作品とキャプション(水谷執筆分)を紹介します。


里見勝蔵 《ルイユの家》   65歳
昭和35年(1960)  油彩 キャンバス
東京美術学校を卒業した翌々年、大正10年(1921)9月、留学したフランスで生涯の師と仰いだブラマンクに出会う。以降、終生一貫してフォーヴィストとして、デフォルメしたモチーフを奔放な筆致と鮮やかな色遣いで描いた。日本におけるフォーヴィスムを代表する画家。本作は昭和29年8月から4年間の第2次渡欧期に1年半近く滞在したブラマンクの住むガドリエール(ルイユ)を題材とした作品。帰国後に完成させたと思われる。戦中戦後の孤独な期間を乗り切った後だけに、うねる曲線の中にも落ち着きを感じさせる。


里見勝蔵 《(仮題)フランスの田園風景》   
65歳~75歳
昭和30年代後半~40年代前半(1960年代) 
油彩 キャンバス
本作は戦後の第2次渡欧期に滞在したフランスのガドリエール(ルイユ)、ベルヌイユの田園風景、スペイン・イビサ島の山野風景をモチーフとし帰国後制作した作品群の一点と思われる。里見-ブラマンクを結ぶ線の前に位置するゴッホに通じている。画業後半のピークを迎えた頃である。昭和29年に会員となった国画会には昭和34年から亡くなる昭和56年まで毎年欠かさず出品し続けたが、欧州の景色を題材にしたものが多くを占めている。


荒井龍男《於巴里(或る風景)》    30歳
昭和9年(1934)  油彩 キャンバス
荒井は器用な画家で一度見た描線を再現するのが巧みだ。大戦間時代の華やかなエコール・ド・パリが終焉した頃渡仏した。多くの日本人画家は帰国していて付き合いに巻き込まれることなくポスト印象派以降の西欧新潮流をじっくり観たのであろう。デュフィ、マチス、ピカソ、ユトリロ、モディリアーニ、等を彷彿させる多様な作品を描いている。基本的にはフォーヴに属する描法である。


荒井龍男《ボードレールの碑》    30歳
昭和9年(1934)  油彩 キャンバス
1904・明治37年大分生まれ、幼い頃朝鮮に渡る。日大在学中に太平洋画会研究所で絵を学ぶ。卒業後朝鮮に戻り官吏になるが1932年28歳の時二科会に入選し画業に専念する。同年夏上京して里見勝蔵を訪ねる。二科会に連続入選し、1934年10月渡仏した。9月に本展の契機となった里見宛の絵葉書を投函している。1932年、詩誌「牧羊神」を創刊した荒井は到着後早々ボードレールの碑を訪れたのであろう。


荒井龍男《虹》    30~32歳
昭和9~11年(1934~36)  油彩 キャンバス
渡仏(1934年10月)する前月、荒井が里見に出した葉書は「フランスに行くのでシャガールを紹介してほしい」と言う文面だった。現地でシャガールに面会出来たのかは定かではないが、荒井の意識していた画家であり、本作を観ればそれが明らかだ。画家山田新一は荒井の帰朝展批評でモディリアーニ、ルドン、シャガールの影響を指摘している。


荒井龍男《(仮題)龍安寺の庭》    36歳頃?
昭和15年頃?(1940年頃?)  油彩 キャンバス
荒井はモチーフの構造や造形を追求するのではなく、線の引き方や面の組み合わせで画面の調子を作っていくタイプの画家である。本作は自由でおおらかな気分で描かれており、塗り込むことなく軽妙に仕上がった佳作だ。1937年3月長谷川三郎、村井正誠らから自由美術家協会の会員に迎えられ、6月ソウルから東京に転居して名実ともに中央画壇に登場した。


荒井龍男《栗拾い》   41~45歳
昭和20~24年(1940年代後半) 油彩 キャンバス
荒井龍男の朱色は美しい。戦中から戦後にかけて描かれた。具象画時代の最後を飾る作品群である。画面全体を明度の低い落ち着いた、しかし鮮やかさを兼ね備えた秀作が多い。持ち味の詩情も湛えている。それまでの色面分割、平面構成的だった画面に造形への意識が見て取れる。荒井には珍しいモデリングを試みた作品を描いたのもこの時代である。


荒井龍男《あべまりあ》   47歳
昭和26年(1951)  油彩 キャンバス
荒井作品の抒情性は造形的脆弱性を併せ持っている。美術評論家田近憲三は「渡欧期間中に重厚にして一見何の面白さもない古典芸術の正しさと厚味を体得しなかったことは、今日に至ってその技術の一つの重壓となって響いている」と指摘した。そこからの解放が抽象化を進め曲線を多用した画業後半のスタイルになっていった。抒情味は失われない。1950年自由美術家協会を脱退し、モダンアート協会を結成した頃である。


荒井龍男《結婚(であ・もでるね・たんつ)》   47歳
昭和26年(1951年)   油彩 キャンバス
1950年9月村井正誠、山口薫らとモダンアート協会を立ち上げ、協会展を2回済ませたあと1952年11月、個展開催のため自作40点を持参してアメリカ、フランス、ブラジルに旅立つ。本作はその前年の制作。既にモチーフの抽象化は始まっていたが、この時期は滑らかな曲線や楕円の重なり、交わりが目立つ。戦後の本邦作は鮮やかな暖色を多用するが本作もその一つである。


荒井龍男《叫ぶ》   49歳
昭和28年(1953)  油彩 紙
本作は1953年5月東京都美術館の日本国際美術展へ招待出品したもの。ニューヨークで制作して送ったと思われる。荒井の絵は具象から抽象へとレンジは広いが、通底しているのは「こだわり」とか「てらい」を感じさせない点である。デラシネのようなところがある。1934年10月から1年10か月の渡仏で西欧には馴染めない感触を得たのではないか、とも思う。第二次大戦後、アメリカは抽象表現主義の中心地となる。荒井にとって新天地の可能性を見出した渡米だったに違いない。


荒井龍男《無題(抽象)》   49歳頃
昭和28年頃(1953年頃)   油彩 キャンバス
1952年11月、自作を携えてアメリカ、フランス、ブラジルを巡回する旅に出る。1953年2月ニューヨークで個展を開いた。本作はニューヨークで描かれたと思われる。アメリカでまた荒井作品の画風が変わる。モチーフの抽象化が、渡米前のくねくねした曲線表現から、画面構成上の整合を図るようになってくる。こののちブラジルで描かれる幾何学的表現への過程と言えよう。モンドリアンを観ていたに違いない。本作も安定感がある。


荒井龍男《エチュード》   50歳
昭和29年(1954)  油彩 キャンバス
ブラジル入りした1954年から画面が明らかに変貌する。4月、続いて翌1955年1月にサンパウロ美術館で個展を催す。盟友山口薫は荒井を評してこう書いている。「荒井の風貌と印象は誰よりも特異であった。日本人というよりスラブ人かと・・・」。見た目だけでなくセンスも日本的ではなく西欧的にもならなかったのではないか?気質的に南米ブラジルに嵌ったのではなかろうか。加えて、サンパウロの建築が気に入ったようだ。モチーフの原型がそれまでの人物、静物から風景になった。


荒井龍男《朱の中の朱(イビラブエラ)》  50歳
昭和29年(1954)  油彩 キャンバス
1955年5月帰国。6月サンパウロ・ビエンナーレ(サンパウロ美術館)、7月ブリヂストン美術館での帰朝展に出品した新作群が遺作となってしまった。9月20日、膀胱癌の手術後急死したのである。享年51歳。代表作となった大作「朱の中の朱」(60号1955年作、東京国立近代美術館所蔵)はサンパウロ・ビエンナーレに出品、本作はその前年に描かれ帰朝展に出品された同題のエスキース(10号)である。両作共に、整った構成、リズミカルな面と線。再び美しい朱色が登場する。色数を抑えながらも画面は鮮やかだ。傑作である。

文責:水谷嘉弘

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