【近代日本洋画こぼれ話】佐分真 滞欧風景画の秀作 イタリア・アッシジ

美校卒業、花の大正10年組の最若手田中繁吉と同じ歳に佐分真(1898・明治31年~1936・昭和11年)がいる。入学は同期だったが病気して卒業は1年あとの1922年、渡仏も1年遅れの1927・昭和2年2月だった。ムードンに1年半ほど住んだ後、パリ市内に移る。借りたモンパルナス近くのアトリエは田中繁吉が同期の中野和高(1896生)から引き継いだ所だった(ヴォジラール街)。隣に中村研一(1895生)がいた。中野は田辺至(1886生)のアトリエを引き継いだという。佐分と同年生まれに佐伯祐三、岡鹿之助、伊藤廉、福沢一郎、神原泰がいる。美校同期生は一木隩二郎、小泉清、三田康、鈴木誠らだ。大正期新興美術運動や昭和モダニズムを担う世代に差し掛かってきているのが分る。

佐分は、板倉鼎(1901生)が意識していた美校の2年先輩である。板倉夫妻の書簡集には、パリ近郊のムードンを訪れた際、そこにアトリエを構えて住み始めたばかりの佐分と小寺健吉(1887生)に駅近くで出くわし家に招かれたとの記述がある(1927年4月)。佐分の1回目の渡仏は11年先輩の小寺に同行したのである。同年夏には小寺、佐分が続けて鼎宅を訪れ鼎の絵を観て感想を述べている。11月、小寺、一木、一級上の片岡銀蔵と共に4人でイタリア旅行に出発する。この時の小寺の作品【南欧のある日】1928は第9回帝展で特選となり彼の代表作の一つとなった。

私が所蔵する佐分真の【アッシジ】(8号、冒頭画像)もこの旅行で制作されたものである。手前から段々状に層が積みあがっていくような描き方で一番奥が山の頂きからなる地平線。城塞や聖堂が丘陵の上に立っているため同じ風景を重層的に示すことで静謐さに加えて荘重な趣きを醸し出している。佐分が歴史あるキリスト教巡礼地の情景に感銘を受けたことが伝わってくる。

アッシジには2日間滞在したようだが、佐分は日記に「風景八号を一枚描くべく余りに沈鬱なる風景なり 静思すべきもの 淋しき人生そのものの感あり」と書き残している。この時の印象の強さは、佐分が2度目に渡仏した時、長谷川昇(1886生)と南仏ラ・ゴードという村を訪れた際(1932年10月)、小堀四郎(1902生)宛ての手紙に「ここの風景は実に素敵だ。全く伊太利だよ。一寸アッシジを思わせる。・・実に何とも云へぬ。僕たちの悦びを思ってくれ給へ・・」との記述があることからもうかがえる。渡仏前期のアッシジ(1927年)と、渡仏後期のラ・ゴード(1932年)の感激は同質のものだったのだろう。写生風景画は共に秀作である。

しかし描き方は違う。渡仏最初期の1927年作風景画【風景(ムードンからの眺望)】の粗さを感じさせるフォーヴ的な筆致から【アッシジ】を経て【ゴード風景(A)】に至る展開を見ていただきたい。

 

【風景(ムードンからの眺望)】(図録画像)【ゴード風景(A)】(図録画像)

この変化後の画風が人物画に現れた1930年代前半の滞欧作品が佐分の画業のピークである。渡仏した年の秋のイタリア行を経て、1929年9月オランダ行で観たレンブラントがその後の佐分の画業を決定したと言っても過言ではない。明暗でえがき分けた重厚で写実的な絵を描いた、と書けば定番の説明となるが、子息の佐分純一氏(のちに慶應義塾大学名誉教授)は「1930年以降の画面にはオランダ最高の巨匠の光と影が差しはじめているような気がする・・・風景の画面にも写実をこえた精神性が感じられる」としている。友人たちは画集で「ねっちりぬっちり仕事することを学んでいた(伊藤廉)」「四つに組んで正面からひた押しに押して行く(益田義信)」と解説する。益田が「ムダのないタッチで・・引き締める」と評したのは卓見である。佐分の人物画には滞ることをしない筆遣いが各所に見いだされる。それが重い色調にありがちな鈍重さを回避している。

 

【貧しきキャフェーの一隅】1930(図録画像) 【午後】1932(図録画像)

佐分はフランスに到着して日本人画家の多くが惹かれたようにまずフォーヴの影響を受ける。その後西欧各地を訪れ近世絵画を観てそれを学び、とり取り込んでいく。先輩の美校・官展系画家と同様の路を歩む。近世絵画の実見を経て、風景画から人物画、群像図へとモチーフが変遷していくのは、まさに伊原宇三郎(1894生)と同じではないか。人体の量感表現が似た作品も多い。ドランをリスペクトしその紹介本を執筆した伊原自身が、佐分の絵に「ドランの影響を示して居る」(画集解説)と評している。

しかし佐分真は、その後自宅アトリエで自死してしまう(1936・昭和11年4月23日、享年38歳)。遺書が残されていたが原因は謎である。子息純一氏は、「佐分真は、元来ユーモアに富み、茶目っ気のある人だった。最後の数年も表面的には陽気な表情をひけらかしていたそうであるが、それは道化のポーズであり、その実「寂寥や反省に苦しんだであろう(宮田重雄)」し、最後には自虐的な境地まで追い込まれた」と記している。

直ちに友人たち(前出の小寺、伊原、田口、伊藤、宮田、小堀、益田ら)がアトリエを整理して遺作展を催し(1936年9月)、油彩画作品47点、デッサン11点を選んで画集を刊行した(同年10月)。本稿で紹介した絵はほとんどが彼らが採択した画集の掲載作品だ。小寺健吉によればフランスから持ち帰った多くの作品が無署名のままキャンバスに巻かれてアトリエに放ってあったという。展示するために補強修復し、スタンプサインを作って押印したようだ。冒頭の【アッシジ】もそれに該当する作品である。

 

【画室】1933(図録画像)  【室内】1934(図録画像)

佐分真も本コラムで続けて取り上げている官展アカデミストの一人だった。美校卒業翌々年、第5回帝展(1924・大正13年)初入選【静物】。以降、第6、12、13、14、15回と渡欧中を除いて連続入選、うち第12回【貧しきキャフェーの一隅】、14回【画室】、15回【室内】は特選である。

典型的な官展キャリアを歩んでいたのだ。第15回(1934・昭和9年)は松田改組まえの最後の帝展であり、1935年には官展内部で改組対応を巡って諍いもあったようだ。佐分はそれに嫌気がさしたともいわれる。

生涯を通じて画風は変われども密度が高く力の籠った絵を描き続けた佐分だったが、帰国後の帝展出品作は寧ろ平明となり、絶筆となった1936年3月の伊豆写生旅行での作品は軽やかな絵に仕上がっていた。

 

【伊豆風景】1936(図録画像)  【伊豆の浜辺】1936(図録画像)

本稿は、「画集 佐分真」1936年春鳥会、「画家佐分真の軌跡展図録」1997年一宮市博物館、「佐分真展図録」2011年一宮市三岸節子記念美術館、から作品画像を含め多くを教示いただいた。

【ナポリの漁夫】1931(図録画像)

文責:水谷嘉弘

 

 

【topics】日本美術家連盟主催の「板倉鼎」座談会

去る7月下旬、銀座の美術家会館ビルで行なわれた日本美術家連盟主催、エコール・ド・パリの画家「板倉鼎」についての座談会に出席した。

「一般社団法人日本美術家連盟」は美術家の職能団体だが、各種の部会を持ちその一つに「明治以降美術の業績調査委員会」がある。この委員会に板倉鼎(1901・明治34年~1929・昭和4年)が採択された。座談会の出席者は連盟側から業績調査委員長(連盟理事)笠井誠一先生、連盟常任理事で副委員長の入江観先生。お二人共洋画界の重鎮だ。板倉サイドからは鼎の研究者、松戸市教育委員会学芸員田中典子氏と水谷である。

冒頭、笠井先生が板倉鼎を取り上げることについて「近年、近代日本洋画家の存在が忘れられる一方で連盟としてもこの流れを変えて行きたい。特にレアリスム(写実)絵画に焦点をあてたい」と述べられ、「会派に因われずレアリスム画家の正当な評価、見直しをしようと考えている。現代における写実主義の可能性を探っている前田寛治大賞も同様だ。1920年代は西欧と日本のアカデミズムをリンクした大事な時期、その時代にパリで前田、佐分真などと同じ空気を吸っている板倉鼎は大切な存在だ」と続けられた。司会は入江先生である。「松戸市が板倉鼎を顕彰する理由、鼎を取り巻く家庭環境、作品・資料類がどれだけ残っているか」との質問に、田中氏が「鼎は千葉一中から東京美術学校に進学、実家は松戸の医者(個人医院)で現在も縁故者が住んでいる。鼎の妹が兄の作品(約1600点)、兄夫妻の書簡、写真等資料類一切を散逸させることなく大事に保管してきた。松戸市教育委員会の悉皆調査を終えて松戸市に寄贈され、展覧会図録、書簡集(所収371通)刊行の運びとなった」と回答した。

以降、田中氏は板倉鼎のキャリアを辿って鼎、須美子夫妻の松戸の実家とのやり取りや生活、行動について示し、水谷は時代背景である1920年代の日仏社会経済状況、鼎の画風変遷や周辺の日本人画家の話をする等、画家板倉鼎を紹介する流れで進んだ。笠井先生の藝大恩師、伊藤廉(1898生まれ)、入江先生の春陽会における師、岡鹿之助(1898生)ともに鼎の同窓同年代で、特に岡鹿之助は鼎の最も親しい同級生だったこと、また両先生は1950年代から60年代にかけてフランス政府給費留学生としてパリで学んでいた経験をお持ちでそれらも絡めて語られた。

入江先生の「清水登之など米国経由でパリに渡った画家もいたが鼎がハワイ経由にしたわけは?」との問いに、田中氏が「鼎は自宅近くの教会に通った関係でその牧師の移住先ホノルルに立ち寄る事になった(1926)、資金稼ぎに行ったのではない。本人は歓迎に疲れ早くパリに行きたがった」と応じ、水谷が「入江先生お住まいの茅ヶ崎はホノルルと友好都市関係にあり鼎の絵の新発見に期待している。ハワイの日差しと空気が鼎を日本の大気から開放しパリでの画風に繋がる契機となったかもしれない」と付け加える。これを受けて笠井先生は「自分の留学行は南シナ海、インド洋をへて紅海を遡ったが、風土が順々と変わるのを目の当たりにしてカルチャーの違いを体験した、鼎とは経路が違うが同じ効果だとわかる」と返された。

鼎のパリ生活については板倉サイドから3つのポイントを挙げた。両先生が適宜感想を述べられる。

「フランスとの接触による西洋表現の受容と鼎の変化」 鼎がパリ入り半年後(1927)にアンドレ・ロートを多く引用する黒田重太郎「構図の研究」を読み、通学先を日本人留学生の定番だったアカデミー・コラロッシからアカデミー・ランソンのロジェ・ビシエールに変えた事に注目している。キューヴ系に寄って来た。ビシエールの指導内容は鼎が日仏両語でメモを残しているが、田中繁吉がビシエールから言われた言葉を紹介した。[絵は全体の構成が大事だ。背景とモチーフとの関係、床とモチーフの関係、そういう相互の色と形の関係が全体として調和していることが肝要である。その関係に破綻のないように制作せよ。]

「当時のフランス事情、日本人画家たちの交友、経済(家計)状況」 1920年代(大戦間時代)は米国ではジャズエイジ、狂乱の時代とも呼ばれ、パリもオリンピック(1924)、アール・デコ万博(1925)と華やかだった。美術界はエコール・ド・パリ全盛期、300乃至500人の日本人画家も藤田嗣治を中心に、前田がパリ豚児と呼んだ仲間たち他の交友も盛んだった。背景に日本円の過大評価がある。大戦前、金本位制での1us$=2円が大戦後もほぼ維持されていたのに対し、フランスフラン(F)は大幅に値下がりし大戦前の1円=2.6Fがおおよそ10F(1919)、15F(1926)、11F(1928)で推移した。1932年の大暴落まで円高を享受した。日本人画家の生活費は月2000F~3000F(円高ピーク時で130円~200円相当)、鼎は実家から毎月約200円仕送りがあった。留学資金の調達手段として画会を催した画家も多く「1口10号1枚100円」が相場で30口から100口程度集まったようだ。昭和初期の小学校教員の初任給は約70円である。両先生とも、板倉鼎たちの経済事情をご自身の経験と比べられて「戦後しばらく日本は外貨入手が困難で若い画学生が自費でフランス留学するなど考えられなかった。フランス政府の給費がなければ自分たちの留学も実現出来なかった」と異口同音に語られた。

「岡鹿之助と鼎の相互の影響、藤田嗣治の存在、藤田との関係」 しかし鼎の生活は地味で勉学の精進が目立つ。付き合いも少なく岡鹿之助はじめ美校同級生中心だった。入江先生に鼎美校在学中の第4回帝展入選作品(1922)やパリでの鼎作品の画像をお見せしたところ、鼎の絵の印象を「フォーヴの匂いがしない。岡の絵と同様詩情があるが、画質に違いがある。岡の点描に対し鼎の描き方は塗りだ」と指摘される。岡の【魚】1927のモチーフ、構図は、1928頃以降の鼎作品にもよく見られるが、田中氏は「鼎には須美子の影響や色の選択など別の要因があった」とした。水谷は、鼎は藤田とは距離を置いていたようだが岡を通して藤田から[物真似せず自分のスタイルを持つ]事を学んだのではないか、と続けた。笠井先生は、岡と鼎に共通する真面目に勉学に打ち込むストイックさ、藤田との気質の違いに言及され、ご自身の持つ1950年代のパリの印象を、第二次大戦の戦場跡の疲弊した感じ、戦勝国の面影はなく空気は陰鬱だった、美術界もフォートリエのような画家が出ていたと語られた。第一次大戦後のパリも華やかな一方で同じ様相があったのだろう。

入江先生は文学に造詣が深い。鼎夫妻の文学者との交流についても言及された。田中氏が「鼎は房総、保田に写生に出向いた際歌人の石原純、原阿佐緒と知り合い第一回安房美術会展(1924)に出品する。須美子の文化学院での教師が与謝野晶子。夫の寛(鉄幹)と鼎、須美子結婚(1925)の媒酌人となった。須美子の父はロシア文学者昇曙夢で湯浅芳子(翻訳家)、中条(宮本)百合子とも接点があった。百合子は次女と鼎を相次いで亡くした須美子を親身になって支えた。」と述べた。なお、鼎の急逝後(1929)、現地では鼎の代表作となった【休む赤衣の女】のサロン・デ・チュイルリー出品を推した斎藤豊作が、岡らを指揮して対応している。

〆にあたって「鼎の事は、以前松戸在住の画家が本委員会で言及して初めて知った。以来関心を持って図版などを見て来た。私は個人的に岡鹿之助先生や斎藤豊作未亡人にお世話になったことがあり、御存命中に鼎について伺う機会があったのにと残念な気がする」と入江先生が感慨深げに述べられた。

最後に、Q松戸市美術館の設立見込み?、A開館は未定、鼎・須美子作品の展示機会は設定していく。Q今後の展覧会予定?、A今年度松戸市博、来年度千葉市美。等のQ&Aでお開きとなった。コロナ禍の現況を勘案して非公開となったが多岐に渡った約2時間の座談の内容は資料としてFileされ連盟機関紙「連盟ニュース」10月号に掲載される予定である。

前列左から笠井誠一先生、入江観先生。

後列左から、田中典子氏、水谷、鳥山玲氏(業績調査委員会委員、日本画家)

笠井先生から「板倉鼎は夭折したこともあって充分認知されておらず、顕彰活動が遅れている。世に知らしめるのが連盟としても大きな役割りだ」(水谷註:20才代に逝去して美術史上に名が残っている者は少ない。青木繁28才、村山槐多22才、関根正二20才。板倉鼎は28才)と心強いコメントを頂戴したことも合わせて報告する。

文責:水谷嘉弘

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