【news】板倉鼎作品の展示情報

板倉鼎の作品2点が千葉県立美術館で展示中ですのでお知らせします。

場所:千葉県立美術館 (冒頭、外観写真は2018・平成30年開催の「原勝郎と板倉鼎」展当時)

千葉市中央区中央港1-10-1  JR京葉線「千葉みなと」徒歩10分

日時:令和4年7月18日(月・祝)まで

展覧会名:令和4年度コレクション展 第2期

展示作品:

 板倉鼎「巴里風景」1929・昭和4年作 キャンバス,油彩

 板倉鼎「金魚」1928・昭和3年作 キャンバス,油彩

本展期間は半ばを過ぎていますが、今後開催されるコレクション展第4期(令和5年1月25日~3月21日)でも板倉作品が展示される予定です。

以上

 

【news】「里見勝蔵を巡る三人の画家たち」展の予告

当社団法人が produceした展覧会の概要が固まった。

展覧会名:「里見勝蔵を巡る三人の画家たち」

開催期間:令和4年10月12日(水)~10月30日(日)

会場:池之端画廊 〒110−0008  東京都台東区池之端4−23−17 ジュビレ池之端

協賛:一般社団法人 板倉鼎・須美子の画業を伝える会

里見勝蔵(1895・明治28年~1981)を巡る三人の画家とは熊谷登久平、荒井龍男、島村洋二郎である。意外な組み合わせと感ずる方が多いと思う。近代日本洋画史を紐解いても繋がりはよくわからない。

きっかけは島村洋二郎(1916・大正5年~1953)である。私がエコール・ド・パリの夭折画家、板倉鼎の顕彰活動を始めた4年前、志半ばで世を去った洋画家島村の顕彰をしている洋二郎の姪、島村直子さんを紹介された。私は鼎と同時期にパリで活動した東京美術学校卒業生を調べていて、里見勝蔵は前田寛治がパリ豚児と呼んだうちの一人だったが、偶々洋二郎が師里見に宛てた近況を報告する絵葉書(昭和18年横須賀発)を入手したのである。洋二郎は旧制浦和高校を中退した後、数年間東京杉並の里見のアトリエに通うが文献や里見の著述等には記されておらず戦中期には疎遠になっていた、洋二郎の方から距離を置くようになったのだろう、とされていた。しかし葉書の親密な綴り振りから二人の関係を見直す必要があると思い早速直子さんに伝えたところ新事実に吃驚され洋二郎年譜にも追記されることになった。

それと前後して熊谷登久平(1901・明治34年~1968)を池之端画廊の展覧会で観て、登久平次男の夫人熊谷明子さんと面識を得る。画廊主鈴木英之氏を私が顧問を務めている美術愛好家団体あーと・わの会にお誘いし、その縁で同会の初代理事長野原宏氏が所蔵している絵画を池之端画廊で展示することになった。そこに洋二郎に続いて、知ったばかりの熊谷登久平と、野原氏が多くの作品を所蔵されている荒井龍男(1904・明治37年~1955)の里見勝蔵宛絵葉書各1通も入手する機会に恵まれたのである。

登久平の葉書は昭和11年10月宇都宮発。熊谷明子さんに訊ねると、保有されている資料類から文面に記されている人名が同年7月に福島二本松で開かれた「独立美術協会派四人展」に出品した画家と割り出してくれた。四人の一人は吉井忠で、賛助出品者に里見、福沢一郎、林武、田中佐一郎、井上長三郎、応援出品者に登久平がいる。発信地も宇都宮であり同展に因む行き来のようだと判明した。荒井の葉書は当時居住していたソウル発で(昭和9年9月)、「パリに行くので便宜をお授け賜えれば・・シャガールを紹介して欲しい・・後進の為に道をお開き願います・・」という依頼の文面が興味深い。荒井は翌10月渡仏している。実際にシャガールに会ったのか不明だが画家山田新一は荒井の滞欧作展(昭和11年)を観てシャガールの影響を指摘している。洋二郎の絵葉書はシャガールで偶然の呼応だった。今回の四人を繋いだのは、昭和戦前・戦中期に投函された里見勝蔵宛の3枚の絵葉書なのである。これが今回の展覧会に至った経緯だ。親分肌里見勝蔵の求心力のお蔭とも言える。

里見勝蔵と三人との関係は、熊谷登久平は里見が創立メンバーだった独立美術協会会員として、荒井龍男は在野美術団体の後輩として、島村洋二郎は師弟関係として、である。全て別ラインで各人に面識があったのかは定かではない。登久平と洋二郎は白日会で接点があるが、10年間出品在籍した登久平に比べ洋二郎は入選1回である。しかし、放浪の画家、長谷川利行と親しくその追悼歌集に寄稿した登久平、パリでボードレールの碑を描き友人たちと詩集「牧羊神」を出版した荒井、手作りの「五線譜の詩集」を遺した洋二郎には同種の感性が通底している。彼らの作品は形態家ではなくカラリストのそれだ。それぞれの代表作やその他1次資料を多く所蔵する方々三人のご協力を得、里見作品を加えて「昭和のフォーヴィストたち、色の競演」と銘打つことが出来た。

四人の作品が、里見勝蔵の母校東京美術学校(現東京藝術大学)近くの、美校卒業が2年後輩にあたる鈴木千久馬の孫、英之氏が経営する画廊で一堂に会する。画廊は3年半前、英之氏の母方の祖父、日本画家望月春江のアトリエ跡地に新築した建物だ。そのことにも想いを寄せながら絵を味わっていただければと思っている。

主な展示品:

里見勝蔵宛絵葉書3通

里見勝蔵:「ルイユの家」昭和35年作、「(仮題)フランスの田園風景」昭和30年代後半~40年代前半作

熊谷得登久平:「ねこ じゅうたん かがみ 裸女」昭和34年作、「熊谷登久平画集(絵と文)」昭和16年刊

荒井龍男:「ボードレールの碑」昭和9年作、詩集「牧羊神」昭和7年刊

島村洋二郎:「桃と葡萄」昭和13~14年作(里見「秋三果」のオマージュ作品)、手書きノート「五線譜の詩集」

 

 熊谷登久平 絵葉書投函日1936・昭和11年10月11日宇都宮発

    熊谷登久平関係資料

 荒井龍男 絵葉書投函日1934・昭和9年9月15日ソウル発

荒井龍男関係資料

 島村洋二郎 絵葉書投函日1943・昭和18年5月17日横須賀発

 島村洋二郎手書きノート「五線譜の詩集」

 

 里見勝蔵「ルイユの家」(昭和35年作)
 里見勝蔵「(仮題)フランスの田園風景」(昭和30年代後半~40年代前半)

 熊谷登久平「ねこ じゅうたん かがみ 裸女}(昭和34年作)

 荒井龍男「ボードレールの碑」(昭和9年作)

 島村洋二郎「桃と葡萄」(昭和13~14年頃作)

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】中野和高・田口省吾・鱸利彦 黄金世代〜俊秀年次と狭間の年次~

板倉鼎(1901年生まれ)がその書簡(1928・昭和3年2月22日)で[出て行った(世間に認められた、の意)]画家として、3人 〜前田寛治(1896年生)、中野和高(1896生)、佐分真(1898生)〜 の名前を挙げている。1920年代半ば(昭和改元頃)、停滞が目立った帝展の活性化に貢献したり、前田が「パリ豚児」と呼んだ当地でフォーヴに魅せられた世代である。

パリから帰国後、この世代の美校出身者は官展系と在野系に別れて活動したが前田の存在が両者を繋いでいた。1930年協会第5回展(1930年東京府美術館)がその典型例と言える。帝展活性化の側は伊原宇三郎(1894生)、鈴木千久馬(1894生)、中村研一(1895生)、片岡銀蔵(1896生)、鈴木誠(1897生)、田中繫吉(1898生),佐分真(1898生)ら。前田が「パリーの豚児」に挙げたメンバーは、中山巍(1893生)、里見勝蔵(1895生)、宮坂勝(1895生)、佐伯祐三(1898生)ら在野系が多い。鈴木亜夫(1894生)田口省吾(1897生)も在野系だ。皆30歳台前半の若き活力ある一団だった。黄金世代と呼びたい。学術的な論文では土方定一が「昭和期美術の批判的回顧」に[(無方針な)写生から離れて][反省的で科学的な造形意識によって構成]されている例として[帝展ならば前田寛治とか中野和高とか、二科展ならば中山巍とか佐伯祐三とか]と書いている。

そんな彼らの滞欧作品が欲しいと思っていた。伊原作品と相前後して到来したのは中野和高だった。今回はこの1枚の小品から話を進めて行きたい。

1)中野和高の滞欧作品【ベニス風景】(1925年作)が市場に出ていた。カンバスボード裏には本人筆の画題、署名とともに「大禮記念京都大博覽會出品 中野和高殿(東京・無鑑査)」と印刷され、氏名が記入された紙片が貼られている。1928・昭和3年9月に京都、岡崎公園他で開催された昭和天皇即位大礼を祝する大掛かりな博覧会である。中野は前年8月に帰国しており滞欧作を出品したようだ。中野の画風変遷を知るため展覧会図録「中野和高とその時代」宮城県美、愛媛県美1987を調べた。カラー図版【ベニス美術学校前ヨリ】がある。【ベニス風景】と制作年、支持体、筆触や色遣いが合致する。中野はこの年2月、1930年協会第3回展にも滞欧作19点を特別出品している。

   中野和高【ベニス風景】1925(4号)

2)中野和高は美校の1921・大正10年卒業生だが、この期は俊秀年次である。前田寛治もそうだ。他に首席で卒業した伊原宇三郎、片岡銀蔵、鈴木千久馬、鈴木亜夫(以上、1894生)、田口省吾(1897生)、田中繁吉(1898生)らがいた。佐分真(1898生)も同期入学、病気で卒業が1年遅れた。

  田口省吾 仮題【イタリア風景】1929~32(3号)

3)黄金世代、俊秀年次の一人田口省吾は、父田口掬汀が作家で美術評論家、美術雑誌「中央美術」の創刊者でもある。1929年から1932年にかけて新婚旅行を兼ねて渡欧している。イタリア風景と思われる滞欧作品を所蔵しているので画像を載せる。この作品はオーソドックスな美校卒業生らしい描き方であるが、少数派の在野系で帰国後二科会に滞欧作品10数点を特別出品して会員となった。田口は美術誌上の帝展合評会に登場して父親譲りの論客振りを発揮して活躍した。子は内向の世代の小説家高井有一だ。祖父を軸とする明治文化人達の交友を描いた評伝小説「夢の碑」に父省吾を河西珊吾として登場させている。

4)伊原宇三郎や鈴木千久馬と同年の1894年生まれに鱸利彦(すずきとしひこ)がいる。千葉出身で宮崎育ち、鹿児島出身の藤島武二を師と仰いで美校に進んだ。美校卒業年に文展初入選、以降帝展に6回出品、この間1930~31パリ留学する等キャリアに遜色なく典型的なアカデミズムエリートの途を歩んでいる。滞欧作品がある。一見地味だが日の光がさすと画面中央、塀の上から覗く木々の上部や塀部分の色彩、赤黄緑が鮮やかに映え、空や塀の暗色との対比が効果的だ。署名の利彦の下に描かれた、滞欧作にしか確認出来ない名字ゆかりの魚のマークが面白い。

  鱸利彦 仮題【サクレクール遠望】1930~31(3号)

しかし黄金世代に属し華やかなキャリアとは裏腹に、鱸は既述したような昭和期初頭の画壇のメルクマールに名前は登場しない。彼は戦後共立女子大教授に就任「一陽会」を立ち上げるが、美校卒業後は高島屋に奉職して商業デザイナーの途を歩んだ事、留学はパリ豚児たちより数年あとずれした事などに起因するのかもしれない。実績からみて画力に不足があったとは思えない。気が付くのは生年こそ伊原たちと同じ黄金世代だが、美校卒業年は俊秀年次より3年早い1918・大正7年という点だ。そしてこの卒業年次には鱸の他に近代洋画史に名を残す者がいないのだ。集団としてのパワーに欠けていたと思わざるを得ないのである。俊秀年次に対する狭間の年次だ。それが鱸の就職や留学遅れの遠因になっていたのかもしれない。現在と違い情報量や勉学機会が限られていた当時は、実年齢に関わり無く学んだ年齢とその時の人脈がその後の活動を決したとも言えよう。この時代を世代論で論じる際の留意すべき事象である。

5)美校同期卒業生という繋がりは単なる交友関係にとどまらず、才能ある者たちが互いに切磋琢磨したがゆえに各人が成長しハイレベルの集団となって初めて「美校同期」として機能した。同一世代にあっても、花の大正10年組、一つ前の俊秀年次(大正5年組)と、狭間の(不穏当な言い方をすれば埋没した)年次(大正6~7年組)を比較するとそれがよくわかるのである。

一方、「美校同期」は卒業後のパリ留学、帝展入選・特選、無鑑査さらに審査員へとSTEPUPしていく画壇エリート群を生み出すvehicleでもあった。それは官展アカデミズムを継承するだけでなく権威の再生産をもたらすシステムとして機能したのだが、ここでは「多士済々集団」であった事実を示すに止める。

文責:水谷嘉弘

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