【近代日本洋画こぼれ話】 目次(34)~(1)& バックナンバーの検索方法

34)2024年12月 二瓶徳松 その2 1933年 満洲で描いた肖像画

33)2024年11月 中村彜 清水多嘉示の生写真と下落合の二瓶徳松

32)2024年10月 川島理一郎 その4 秀作 北京聴鴻楼(西太后旧居)

31)2024年9月 伊原宇三郎 その6 滞欧風景画の秀作 南仏アルルふたたび

30)2024年8月 二瓶徳松 作品「(仮題)教会」を巡って

29)2024年3月 佐分真 その3 2枚のデッサンと、付いていた品々

28)2023年11月 青山熊治・田辺至・大久保作次郎・鈴木千久馬 昭和初期の本邦婦人像

27)2023年9月 川島理一郎 その3 昭和初期の本邦風景画・人物画

26)2023年8月 佐分真・板倉鼎 パリの交流

25)2023年6月 伊原宇三郎 その5 滞欧人物画、お気に入りモデルの坐像4点はどれだ?

24)2023年5月 清水多嘉示 その2 滞欧人物画、モデルはソニア?!

23)2023年4月 小寺健吉 1920年代 2度の渡欧・「巴里郊外」2点

22)2023年2月 川島理一郎 その2 素描あれこれ

21)2023年1月 佐分真 その2 挿画 パリのキャフェ

20) 2022年12月 伊原宇三郎 その4 仏エトルタ海岸 連作5点

19) 2022年11月 里見勝蔵 里見を巡る三人の画家たち

18) 2022年9月 田辺至・北島浅一・宮本恒平 1922、3年頃のイタリア風景

17) 2022年8月   佐分真 滞欧風景画の秀作 イタリア・アッシジ

16) 2022年7月   伊原宇三郎 その3 滞欧風景画の秀作 南仏アルル

15) 2022年6月   中野和高・田口省吾・鱸利彦 黄金世代〜俊秀年次と狭間の年次

14) 2022年5月   御厨純一・北島浅一 同郷、同じ歳、東京美術学校同級、没年も一緒の二人の画家 その2

13) 2022年4月   北島浅一・御厨純一 同郷、同じ歳、東京美術学校同級、没年も一緒の二人の画家 その1

12) 2022年3月   川島理一郎 painter & traveler、1920年代半ばの海外スケッチ

11) 2022年1月   藤田嗣治 離日前、最後の同窓会

10) 2021年11月 安井曾太郎 作者は誰だ?

9) 2021年10月  伊原宇三郎 その2 1912(明治45・大正1)年 ~18才時~ の作品

8) 2021年9月   伊原宇三郎 額裏情報から制作年を割り出す

7) 2021年9月   岸田劉生 劉生戯画「京の夢 大酒の夢」

6) 2021年8月   小出楢重 素描―習作―完成作

5) 2021年7月   田辺至 名刺と挿画原画

4) 2021年6月   清水登之 美術館所蔵品とかすっていた

3) 2021年6月   清水多嘉示 その1(続) 渡仏以降の生写真

2) 2021年5月   清水多嘉示 その1 渡仏前の生写真と中村彜

1) 2021年5月   島村洋二郎 一枚の絵葉書

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【topics】 書評 水谷嘉弘著『板倉鼎をご存じですか』田中善明

小説や映画は、登場人物に感情移入すると、あたかも自分の人生のような感覚に浸ることができる。それは仮の体験ではあるものの、人生経験のひとつになっていく。経験は何も実体験である必要はなく、むしろそれ以上に想像力をかき立ててくれる場合がある。

本書の第1章は筆者である水谷嘉弘氏の体験談からなっている。これがほぼ誰も経験したことがないからどの読者にとっても面白いに違いない。慶応義塾大学と東京藝術大学の両方に籍を置きながら二校に通学し単位を取得するという破天荒な試みは、友人たちの応援を得て慶応大学を卒業。就職したために一年遅れで入学した藝大は、大学職員のアドヴァイスで中退のかたちがとられた。その判断が40年後の学芸員資格取得に生かされようとは。

バンカー(銀行員)として著者は、ニューヨークや香港などの世界五大金融マーケットを、偶然にもそれぞれがもっとも活況を呈した時代に赴任、怒濤の40年間を過ごされている。読むだけで胃が痛くなるほどスリリングである。「所属する組織や会社に対する愛着」を持つ人が多い職場があるなかで、国際部門で働く人々は「仕事内容である職務に対する愛着」が勝っていて、それがアートに対する思い入れに通じるのではないか、という筆者の感想が突き刺さった。だから、退職後も新たな目標を楽しんで設定し、開拓するというスキルが活かされているのか。本題の板倉鼎についての話に向かう序章でありながら、働き方や生活のオン・オフの切り替え、人的ネットワークの心地よい在り方について考えさせられる内容である。

さて、本題となる板倉鼎は、1920年代のエコール・ド・パリの時代を生き、わずか28歳で客死した画家である。幼い娘二人を相次いで亡くし、妻でありのちに画家となった須美子も帰国後に肺結核で間もなく亡くなっている。ほぼ同時代を生き同じくパリで客死した画家・佐伯祐三は有名だが、高い画力と清新なスタイルの作品を残した板倉鼎は最近までほとんど知られていなかった。その差は、何だったのか。

いくつか思い当たるのは、佐伯にはフォーヴィスム画家・ヴラマンクに見せた絵を罵倒されたのちに奇跡の復活を遂げたドラマチックなエピソードがあること、没後目利きのコレクター山本發次郎に作品を見出されたこと、画家仲間の存命中に美術史家の朝日晃が綿密な聞き取り調査をおこない書籍化やドラマ化されたことなどが挙げられる。画家として同等の成果をあげながら、画家ごとに評価が大きく異なるのはどの時代にもあり得る。それを同じ土俵に引き上げて正当に評価していくことが美術史家や美術館にとっての大きな仕事となっている。面白いのは、著者が2017年目黒区美術館で開催の「よみがえる画家-板倉鼎・須美子展」で鼎の作品に一目ぼれし、その後にほぼゼロの状態から研究を始めて出来上がったのが本書であることだ。巻末にある「美術史略年譜」や「美術家・評論家生年表」は、近代美術が専門でない一般読者にとって便利なものであるが、実は著者が美術史や世界史の流れを確認するために作成した、著者自身のための参考資料だったのかもしれない。歴史上のどの作家のどの作品を救い上げようか、その選択を楽しんでいるのが伝わってくる。本書は、仕事の大役を終えて人生をリセットした人間が、オフの時間に楽しんでいた分野に全エネルギーを注ぎ込み、自己の充実とともに新たな社会貢献を果たした例として励みとなる。とはいえ、渡欧した日本の芸術家がなぜ1930年以降に激減するのかといった要因が、為替レートの大幅な変化、それ以前は日本円が過大評価されていたことを読み取ることができるのはバンカーだった著者ならではの重要な視点である。やはり、自己の特性を見つめた上で、第二の人生の楽しみを決める必要があろう。

いずれにしても、板倉鼎という画家とその周辺画家を調査した本書は、フォーヴィスムに影響を受けた里見勝蔵や佐伯祐三らよりも少し下の世代の表現の変化を紹介したものとして貴重である。

本書の中で特に可能性が感じられたのは、著者の作品解説である。たとえば、清水多嘉示という彫刻家であり画家が描いた女性像の表現をめぐっての記述はこうだ。

[ 裸体画だけに線は身体の輪郭を示すだけだが明瞭な一本の連続線ではない。左上の胸部と腹部を仕分けて二の腕から前腕を浮き出させる部分、左乳房内側の部分はノミの彫り残しの淵のようだ。筆触による面取りと橙一色の濃淡で肌の起伏を示し背景の暗緑色一色と相俟ってそれを補強している。 ]

これは著者が収集したコレクションに対する作品解説なので、実物に向き合いながら執筆できるという恵まれた環境にある。まるで絵を描いているかのように作品を観察して詳述する、著者の力を認めないわけにはいかないが、実物を前にして記述してみると、素敵な言葉が降ってくるときが誰にでもあるのではないかと思わせる、そんな可能性が感じられた。我々がコレクターでなければ、美術館に行って実物を前にして鉛筆でメモを取ればよいのである。

本書は板倉鼎が生きた同時代の画家にもスポットが当てられている。岡鹿之助はまだしも、佐分真、北島浅一、御厨純一に清水登之など、最近では美術館で展示される機会がずいぶんと減ったように思える。高度経済成長の波に乗って全国各地に生まれた美術館は、潤沢な予算のもとで地域ゆかりの作家の調査と顕彰が行われた。しかしながら当時は年間あたりの展覧会の本数も今の倍以上で多忙を極め、顕彰は十分にできたとは言えないなかで、現在は学芸員の世代交代が進み彼らの関心の対象が大きく変化している。世間でもファッション雑誌が取り上げるほどの格好良さげなアートがもてはやされている。この点を、美術の素養がありながらビジネスで世界を駆け巡った水谷氏が危惧され、本書のように形に残してくれたことが僕にとって何よりもうれしい。    (サイトウミュージアム学藝員)

(「コールサック」120号 2024年12月号掲載)

【近代日本洋画こぼれ話】二瓶徳松 その2 1933年 満洲で描いた肖像画

(冒頭画像は【山井格太郎像】F10号)

2024年8月1日付け【こぼれ話】に【二瓶徳松 作品「(仮題)教会」を巡って】を掲載した。それを読まれた方からメールを頂戴した。こぼれ話で紹介した落合道人氏とのやり取りで「なかなか見つからない」と話題になった二瓶徳松の満洲時代の作品についてである。抜粋して引用させていただく。

(quote) 8月の【近代日本洋画こぼれ話】を拝読しました。1933年、二瓶氏が渡満中に大連で描かれた人物画を所蔵しています。人物は私の曽祖父で満鉄総務部の顧問でした。当時小学生の父は大連の家で二瓶等氏が作画するのを見ていたと話していました。(中略)曽祖父は1922年から上落合2丁目552番地に住み(途中家族の一部と渡満)、1943年に中野区城山町へ越していました。確かに二瓶氏が下落合に居た時期と重なるので何らかの交流があったのかもしれません。 (unquote)

上落合に住んでいた肖像画の主は、山井格太郎という。メールを発信されたのは山井のひ孫の方で作品の画像を送っていただいた。非常に良い作品で作者の画力がすぐにわかる絵だった。重要な情報が含まれていた。

1)作品に1933・昭和8年の年記が入っており、二瓶の画風変遷のミッシングリンクだった美校卒業年に帝展入選(1924年)した後の昭和戦前期の作品が出現したこと。

2)署名がT.Niheiとあった。二瓶はしばしば画名を変える人物でこの署名は本名の「とくまつ」(徳松)或いは「つねまつ」(經松)で作品を発表していた美校卒業頃まで使っていたと思われた。その後、帝展入選時は「ひとし」(等)と名乗っていた。そこで満洲作品のイニシャルはHと考えていたのだが、肖像画の画像を見るとTである。「とくまつ」に戻しているようなのだ。その後も頻繁に画名を変更した人物なので充分あり得ることだ(戦後名乗った「とうかん」(等観)を既に使用していた可能性もある)。

3)とすれば、前回の、【二瓶徳松こぼれ話】のテーマにした教会も満洲在かもしれない。モチーフの教会の佇まいは欧州ではなく本邦、画面のT署名は「とくまつ」を名乗っていた美校卒業頃まで、を根拠として1920年頃の二瓶の郷里、北海道在の教会を描いたと判断した。ただし、【こぼれ話】に書いた落合道人氏とのやり取りで、氏は、満洲の可能性はないだろうか、とも述べられていた。今回の署名発見がその説の有力な裏付けになった。落合道人氏の炯眼の通りだ。満洲在であれば教会の日本的佇まいも納得出来るのである。

 【(仮題)教会】作品と署名T.Nihei

【山井格太郎像】署名T.Nihei  【真珠】1922年 二瓶經松

この情報を新宿下落合の郷土史家、落合道人氏に伝えたところ以下の返信を頂戴した。

(落合道人氏)『山井格太郎氏像』は、とてもいい出来ですね。メガネはあとで描き加えたものでしょうか。顔の向きは右向きですが、メガネは真正面のように描かれているのが気になります。山井氏と二瓶等のつながりは、外務省の「対支文化事業」計画の一環として、美術分野では美校の正木直彦校長や藤島武二、石井柏亭、そして山井格太郎氏を招集したあと、美校卒業者で事業の協力者を募ったときに、山井格太郎=二瓶等つながりができたのではないでしょうか。1926年(大正15)にアトリヱ社が発行した『アトリヱ美術年鑑』には、外務省の事業について簡単に掲載されていました。また、1931年(昭和6)に東京毎夕新聞社から刊行された『育英之日本』には、山井格太郎氏についての詳細が紹介されていますね。ちなみに、『育英之日本』の人物紹介で「同文会調査編纂顧問」とあるのは、近衛篤麿や岸田吟香(劉生の父親)らが東亜同文会(現・霞山会)を上海で起ち上げたあと、東亜同文書院の学生たちが中国全土の秘境を探検調査(「大旅行」と呼称)した際の、探検レポート編纂の顧問をされていたものでしょうか。同探検レポート「大旅行」記録は、現在の霞山会館に数多く保存されていますので、山井格太郎氏についての資料もあるのかもしれません。上落合552番地は、ちょっと印象深い番地でして、南隣りには作家の吉川英治が暮らしています。ちょうど、同じ時期に住んでいますので、お隣り同士だったのではないでしょうか?落合地域の中でも、いろいろなつながりが見えて面白いですね。

(水谷)私は実作経験に乏しく落合道人殿のように肖像画の図像分析からメガネと顔の向きの方向齟齬は指摘出来ませんが、この作品のキキメであり秀作となっている要因はメガネに在ると観ています。顔の表情、姿勢佇まいが威厳を醸し出しているのはメガネ表現ゆえで、それを描いて絵筆を擱いたのではないでしょうか。道人殿ご指摘の方向齟齬は威厳効果を強調する為に意図的だったのかもしれません。この時代の美校油画出身者のデッサン力は非常に高く、特に3次元表現の鍛えられ方は半端ではないのでそう思うのです。

私宛にメールを発信された山井格太郎氏の曾孫の方も、これらのコメントに満足されたようだ。

(山井格太郎の曾孫の方)肖像画の人物は私の父方の曽祖父で満鉄総務部顧問をしていた山井格太郎(やまのいかくたろう)といい、当時67才でした。曽祖父は面倒見の良い人で、中国人の学生や日本から来た若い知識人・スポーツ選手などをよく自宅に招いていたようです。家族で大連に渡る前には淀橋区上落合に住んでいたので、下落合にアトリエを構えていた二瓶氏と既に面識があったのかもしれません。落合道人様のメールも読ませて頂きました。曽祖父の活動についても詳しく知ることができて大変ありがたく思いました。また、満州はもともとロシア革命で追われたロシア人が多く移り住んだ場所で、ロシア正教会も多かったようです。素人考えでお恥ずかしいのですが、二瓶氏の「教会」も満州で描いたのかも、と思っています。

今回、二瓶徳松の満洲における作品と活動に関する新情報を得たので、その後判明した彼の経歴を画名の変遷と合わせてまとめてみたい。

二瓶徳松:略年譜

1897札幌生まれ(徳松)、1916北海中学校卒業(徳松)、在学中に美術グループ「団栗会」を結成、1917光風会入選(徳松)、1918美校入学、退学(徳松)、1919美校再入学(徳松)、その頃新宿下落合に自邸兼アトリエ建設(徳松)、1922光風会「真珠」出品(經松)、1923帰郷、北海中学美術教師、美校卒制制作(徳松)、1924美校卒業、第5回帝展「裸女」初入選(等)、1927個展開催@札幌(等)、1928渡仏、1929帰国、第10回帝展「足を拭ふ女」入選(等)、その後渡満(中国)満洲美術会、大連女子美術学校校長等に参加、歴任、1945帰国、池袋に転居、1949野口英世の肖像画(郵便切手の原画)を制作、1955新世紀美術協会創立に参加(等観)、1990逝去(93歳)、東京美術学校同窓会名簿には等観(徳松)号:等で掲載。(落合道人氏のブログを参照させていただいた)

  

二瓶徳松は、私がエコール・ド・パリの早逝画家、板倉鼎の顕彰活動を始めた頃、「板倉鼎・須美子書簡集」(2020年、松戸市教育委員会)に鼎の美校同級生としてしばしば登場することでその名を知り、落合道人氏のブログ「落合学」で中村彝との関係を知った。しかしながら今年4月に開催された「板倉鼎・須美子展」千葉市美術館、11月の「中村彝展」茨城県近代美術館、の展示には二瓶の名前は登場しない。美校同期入学の佐伯祐三とはパリで亡くなる直前にも接点が有ったが、佐伯関連資料に二瓶の名は散見される程度のようだ。それぞれとの関係が濃密とは言えなかったからであろう。

二瓶徳松は、同時代の優れた画家との往来があり画力を有し一定の実績を挙げながらも、作品が散逸していること、代表作と言える作品が知られていないこと、画名の変遷が相次ぎ同一の画家として認識し辛いこと、確たる縁故地がないこと、等々から埋没してしまっている。出身地札幌の母校、私立北海中学校の後継、北海高等学校の同窓会(美術部OB会)が顕彰活動の母体になっていただけないだろうか、と期待している。

文責:水谷嘉弘

【column】エッセイ集『板倉鼎をご存じですか ― エコール・ド・パリの日本人 画家たち』出版こぼれ話

私が主宰している一般社団法人「板倉鼎・須美子の画業を伝える会」が千葉市美術館で開催された「板倉鼎・須美子展」(2024・令和6年4月〜6月)の後援団体になった。これに合わせて拙著「板倉鼎をご存じですか ― エコール・ド・パリの日本人画家たち」を上梓した(2024年4月)。本篇はその顛末記である。

きっかけは2023年12月上旬の文芸書専門の出版社コールサック社社長鈴木比佐雄氏からの電話だった。同社のことは、叔父島村洋二郎画伯の顕彰活動家島村直子さんから編著「島村洋二郎詩画集」(2016・平成28年11月)を謹呈されていて知ってはいた。同じく同社刊の福田淑子さんの第2歌集「パルティータの宙」(2023年12月)のカバーに板倉鼎の「金魚と花」を使いたいとのことで所蔵者松戸市教育委員会に話しを通したり、アスリー悠さんを紹介してアート作品集「あなたは一人じゃない」(2024年1月)を刊行したり、等で鈴木氏とも行き来はあった。氏の電話はそれら著者からの情報や、私がNHKラジオ深夜便で美術エッセイを書いていると話したのを知ったからのようだった。藝大同窓随想集「a−can−thus」(2022年11月)、社団法人ホームページと文芸同人誌「まんじ」に連載している「近代日本洋画こぼれ話」を読ませて欲しいと言われる。郵送してしばらくたった頃、会いたい、と再度の電話があった。暮れも押し迫った面談当日は編集者座馬寛彦氏も同行された。二人で私の雑文類を全て読み込んだようだった。驚いたのは既に目次が完成しており、章立て、章題も出来上がっていた。本のタイトル、仕様まで提案書にあった。それを示しながら美術エッセイ集を出版したいと仰有る。翌年4月の千葉市美術館「板倉鼎・須美子展」の開催に間に合わせたいと仰有られる。私としては本格的な板倉回顧展に同期して出版するような重みに耐えられるのか、3ヶ月で出来るのか、と不安だったが本を出せるとの思いがけない成り行きに心を動かされ応諾した。

エッセイ集には「a−can−thus」に寄稿した半生記「ビジネス発・アート着」の他、2023年12月末までに書いた「近代日本洋画こぼれ話」43篇を収録した。第1章のタイトルが「芸術と金融、私の二刀流」。編集者が付けたこのタイトルはその頃最大の話題であった米国野球メジャーリーグ大谷翔平選手の二刀流に因んだとのこと。畏れ多いようなこそばゆい気がした。以降は美術エッセイで、第2章「板倉鼎をご存じですか」、第3章「パリに渡った黄金世代の洋画家たち」、第4章「国際派とアカデミスト 渡欧の成果とその後」、第5章「近代日本洋画趣味譚」、と続く。コロナ禍以降の3年弱の間に、気に入った絵を買ったり思いがけない資料類を手に入れたりした時、脈絡無くランダムに書き綴った雑文の類が章立てに依って自然につながる組み立てになっていた。

編集者に、大学同期の絵本評論家松本猛、美術史家高橋明也両君との三人対談を提案した。我々の世代の美術界人の想いや活動を記す有効な資料になると了解の返事が来た。座談会シリーズを「附録」として位置付けることにし、「a−can−thus」の直前に発行された一般社団法人日本美術家連盟の機関紙「連盟ニュース」2022年10月号に掲載された座談会記事「板倉鼎と須美子のもうひとつのエコール・ド・パリ」の転載も連盟から応諾いただいた(出席者:笠井誠一先生、入江観先生、田中典子さん、水谷)。更に巻末の「美術史略年譜」「美術家・美術評論家生年表」「人名索引」の充実に注力した。最近顧みられることがほとんど無くなってしまった近代日本洋画(明治・大正・昭和期)の系譜を一覧性ある資料として有用性を確保したかった為である。

三人対談は、新宿にある都立戸山高OBクラブで行った(2024年2月12日)。あれこれと話題が多方面にわたり、脱線話も交え4時間近い長丁場になった。座馬さんには原稿起こしで相当な負担をかけてしまったと思う。座談を終えた後の会食の場でも放談が続き楽しくも長く疲れた一日だった。

巻末の解説は、同窓同学科の大先輩、洋画壇重鎮の入江観先生に直接電話をかけてお願いした。快諾いただいた。編集者からゲラをお送りした。先生から「原稿は想定していたよりはるかに多くて大変だと思ったが、目を通したら面白く、読み進むことが出来た」と電話を頂戴して安心した。「跋」として「新しい視点に期待する」のタイトルで原稿をいただいた。

さて、本筋に戻る。年が明け2024年2月はじめに校正ゲラ初校が送られて来た。厚さに度肝を抜かれた。大丈夫か、と思った。その時々で随意に書いた原稿なので表現を統一したり、後先の辻褄を合わせたりと見直しする度にページ数が増え、当初予定の320ページが附録の座談会シリーズ等を加えて最終的に432ページとなってしまった。美術書でありカラーページを含め多くの作品画像掲載が必要である。掲載作品を選定し、その高精細画像を入手するため所蔵している美術館へ依頼する。元データが無い場合はスキャンして原稿に組み込む。更に著作権という難題を解決しなくてはいけない。刊行まで日数の余裕が無くこれは私が自ら対応することにした。総計30人の画家の作品画像を掲載したが、著作権保護期間内の人は20人に上った。美術年鑑の著作権者リストはほとんど役に立たない。エッセイ執筆時に調べて分かったり、その後もたらされた情報が役に立った。手間暇はかかったが、お蔭で取り上げた画家の直系縁戚にあたる方々とやり取りが出来た。電話をかけ、原稿をお送りして画像掲載の許諾を得た。連絡がついた方々にNGを出される方はおらず、むしろ喜んでいただいた。伊原宇三郎子息の伊原乙彰さん、小堀四郎子息の小堀鷗一郎さん、里見勝蔵の孫山内滋夫さん、鈴木千久馬の孫鈴木英之さん、清水多嘉示三女の青山敏子さん、川島理一郎夫人の縁戚原田由香さん等などである。ご丁寧にお電話を賜り自宅に遊びに来てくれ、と仰有られた方もいらした。

本のカバーデザインには板倉鼎の代表作「休む赤衣の女」を採用することは当初から決めていた。コールサック社の装丁デザイナー作成案に社団法人ロゴデザイナー水川史生さんのコメントをもらい3案に絞った。決め手は一般財団法人日本サッカー後援会の評議員仲間、元NHKエグゼクティヴ・アナウンサー、解説委員の山本浩さんの一言だった。3案を見た瞬間、即決された。氏いわく「テレビマンとしてヴィジュアルには最も気を付けて来た。3案の中ではこれだ。鼎の絵の訴求力が凄い。カバーを見てそのまま手に取ってもらえるよう、絵の場所はカバー上部に、活字は目立たない方が良い」との的確なアドバイスを頂戴した。もちろん氏の選択に従った。

私事になるが実母京子が3月はじめに逝去したため、その前後は慌ただしく本書出版に対応する余裕が無かった。著者最終校正が出来なかったのだが、数え歳九十六で天寿を全うした文学書好きだった亡母への感謝と拙著出版の報告をここに書き記しておきたい。

こうしてタイトなスケジュールにもかかわらず編集者座馬さんの誠実で丁寧な仕事のお蔭で板倉展の始まる数日前に初版が刷り上がり納品された。私は仕事絡みで地方出張しており帰京した4月4日の夜、座馬さんが最寄り駅改札口まで現物をデリバリーしてくれた。鼎の絵が鮮やかな綺麗な本だと感じたが目を通す時間はほとんど無く、翌日は「板倉鼎・須美子展」の内覧会、レセプションに向かった。千葉市美術館のミュージアムショップに自分の本が平積みされているのを目の当たりにした時は流石に嬉しかった。東京都美術館館長高橋明也君の帯文や入江観先生の跋が Letter of credit になって多くの人に読んでもらえたようだ。入江先生にお願いした跋文は藝大芸術学科の来歴に触れられている。あまり知られていない同科の成り立ちがよくわかり、貴重な証言と言えるので先生の承諾を得てその部分を引用させていただく。

(quote)そもそも藝大・芸術学科とは、いかなるものなのか。昭和二十四年四月、旧来の東京美術学校が、東京藝術大学に衣替えした年に、「実技の裏付けのある」美学・美術史の研究者を育成する目的で設置された学科であった。当初は、卒業時に論文でも制作でも、どちらでも良かったらしいのだが、論文よりも制作を選択する学生が多くなってしまい、それでは芸術学科設立の趣旨に反するとのことで、私の前年、つまり四年目からは卒業論文に限ることになって科の性格は明確になったことになる。しかしながら、それでもなお、私の前後の世代に画家、彫刻家志望の者がかなり多く出たのは、加山四郎、山本豊市先生等、芸術学科専任の情熱的な先生がおられたからかも知れない。確かに、そういう傾向もあったが、私たちが親しく接した辻茂、山川武、佐々木英也、陰里鉄郎等の先輩方や、同期の辻成史、一年下の若桑みどり等は藝大、その他の大学で教える立場に立ち、又公立美術館の館長職を務める等、私などの眼の届く範囲に限っても、芸術学科の成果は挙がっていたと言うべきかも知れない。水谷さんが在籍した、ほぼ二十年後ともなれば、芸術学科は、既に成熟の域に達し、東京都美術館をはじめ全国各地の公・私立美術館の館長職や各地の公私立大学の指導者として働く数知れぬ出身者が居る現状は、芸術学科の「はぐれ鳥」である私などにとっても頼もしい限りである。(unquote)

出版社が用意したメディアや図書館等の謹呈先リストや、同窓の友人から提供してもらった美術館リストに基づいて約450冊を発送した。書籍の受贈に慣れている多くの図書館から定型ながら礼状が来た。これに比し美術館からの反応は鈍く外部への対応姿勢(ビジネスマナー)、コミュニケーションセンスの欠如、未熟さを感じた。その一方で、板倉鼎を契機として近代日本洋画の勉強を始めた私が多くを学んだ師と思っている方々から礼状が届いた時は感激した。著書や冊子を送って下さった人、[目次を見ただけでも読むのが楽しみだ]と書いてくれた人もいる。多種多様のコメントを頂戴した。美術仲間では使わない表現で板倉作品を語ってくれた銀行時代の上司、同窓後輩の一人は誤植、漢字の変換ミスから私の記述間違いに至るまで詳細にレポートしてくれた。これら友人知人からのかなりの量の手紙やメールが本を出版して得られた一番の果実だった。竹橋の東京国立近代美術館からも一報が届いた。日本近代美術の総本山、近美のライブラリーに収蔵されたようだ。

メディア関係では、美術専門誌「美術の窓」から板倉展の紹介記事執筆を頼まれエッセイ集の告知と書影も合わせて5月号(4月19日発売)に掲載された。また、地方紙「千葉日報」からは書籍送付直後にインタヴューの申込みがあった。本を持った写真と共に5月11日付け学芸欄に「松戸の水谷さん 美術エッセイ集」とのタイトルで掲載された。驚愕したのは出版後1ヶ月半経った5月25日、朝日新聞朝刊の書評ページに取り上げられたことである。まさかと思った。望外の喜びだった。

朝日新聞書評委員で小説家の山内マリコさんが執筆して下さった。千葉市美術館の板倉展を訪問したことから書き起こされ、続いて[(山内さんは)ひそかに鼎&須美子を推す者であった。しかし上には上がいた!]と私のことを紹介し[行動力が半端ではない]と書かれる。[(水谷)いわく「私にとってビジネスは放電、アートは充電だった。」正直、この章がいちばん面白かった。][同時代の日本の洋画家の掘り起こしに力を入れている。そちらは読み応えたっぷり。]と綴られて[ある芸術愛好家(ディレッタント)の集大成といった趣の書だ。]が末尾の一文だった。アマチュアが書いた趣味譚への過分なご評価なのである。 掲載日は早朝からメールやLINEで次々と知らせやおめでとうの連絡が入った。親しい友人たちは「山内さんは、水谷の気持ちや伝えたいこと、我々が感じていることを見事に捉え書かれている」と言い、中には「つげ義春の本と同列に、横尾忠則さん、山内マリコさんといった広く知られた方々から並列に評してもらったのは凄い!」などという悪友の手紙もあった。また、「本文もさることながら、巻末の美術史略年譜、美術家生年表は価値がある」とお誉め?の言葉も何件か到来した。これには私の意図が伝わったと一人ほくそ笑んだ。

朝日新聞書評の威力は凄かった。それまで、千葉市美術館や東京都美術館のミュージアムショップ、神田神保町の東京堂書店などごく限られた本屋でしか扱われず、主としてAmazon経由で流通していたに過ぎなかった本が、コールサック社に依れば新宿の紀伊國屋書店はじめ丸善、三省堂、ジュンク堂、蔦屋書店など大手書店から複数冊の注文が相次いで版元在庫が払底してしまったそうだ。コールサック社の営業担当者が書店回りをしたところ多くの書店が置いてくれたとのことだった。直ぐに増刷(初版の誤字誤植、文章修正など有って第2版をおこした)が決まり7月上旬に納品された。遅ればせながら、山内マリコさんに帯文も新しくした第2版に御礼状を添えてお送りした。

こうして半年に亘ったビジネスマン上がりのアート好きが書いた美術エッセイ集出版の顛末は一段落する。多くの友人知人が応援してくれた。仲の良い、或いはお世話になった方々には贈呈したにもかかわらず、その後かなりの人がわざわざ購入してくれた。周囲の人々に配ったようだった。板倉鼎・須美子の存在と作品を知ってもらいたい、と顕彰活動を始めた身にとってこれほど心強いことはない。最後になるが改めて厚く御礼申し上げたい。本当にありがとうございました。

文責:水谷嘉弘

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