【近代日本洋画こぼれ話】川島理一郎 その4 秀作北京聴鴻楼(西太后旧居)

冒頭画像は、【聴鴻楼(西太后旧居)】1938(12号)

川島理一郎の画風変遷について続ける。1936年頃から再び筆致が軽くなる。ストロークが流れ明るく爽やかな画風になり、カラリストの貌をはっきりと見せる。それが3回目の画業ピークである。2回目(1933~36年)と3回目(1936~43年)のピークは時期的には連続しておりこの約10年間の川島の充実ぶりは目を見張るものがある。変化のスタートは1936年春から秋にかけての日光滞在である。3年前の日光では東照宮周りの宮社や彫像が主たるモチーフだったがこの時は「水」をテーマとしていた。[私はいま水を見詰めて暮らしている。渓流と瀧とを今年の研究対象に選んだ私は、水との睨つこが毎日の日課である(水流への凝視)「緑の時代」所収]。2~3年続いた革のようなマチエールが森の中の樹木を描き、河川を流れる水を描写するうちに筆運びの速度が増してきたように思う。

    

【緑陰】1935頃(図録画像)    【奔流】1936(図録画像)

  

【湖畔の林】1936(図録画像)    【九龍壁】1938(図録画像)

モチーフが水を離れ中禅寺湖の湖畔に至った時点で、絵の印象は一変する。1937年11月「緑の時代」の刊行が一つの区切りとなったかのように、1938・昭和13年陸軍省嘱託となり、5月北京、翌39年1月広東、10月大同を訪れて制作する。この間の紀行文とスケッチが1940 年7月刊行の「北支と南支の貌」龍星閣にまとめられている。その後も41年と42年にタイ、43年にフィリピンに行く。

  

【卍字廊】1938(図録画像)    【北京大観】1938(図録画像)

  

【広東大観】1939(図録画像) 【金とモザイクの回廊】1941(図録画像)

第3次ピークの制作は北京での風物描写が質量ともに秀でている。広東に比し北京には歴史的な建造物が多く、それが自然の風景と調和していることに感銘を受けたのだろう。南支訪問時の作は民衆の生活、街頭風景が中心で「北支と南支の貌」所収の文章も同様だ(タイとフィリピンでの制作にも同様の違いが見出せる)。緑、茶、青が基調だった滞欧作と比べると赤、黄が加わり明度も高くなって、カラフルでとっつきやすいこなれた絵なのだ。円熟の味、と言ってよい。この時、川島52歳になっていた。

さいわいこの時期の作品は小品よりやや大きめの秀作と思える2点を入手することが出来た。中禅寺湖畔と北京聴鴻楼の写生である。

 【湖畔の秋】1936(8号)

川島は大量のデッサンを描いた画家だが、それをベースに同じモチーフ、同題の油彩画作品が多い。「湖畔の秋」と名付けた作品も何点かあるが当該作は出来、キャンバス裏面の記名等から1936・昭和11年11月、銀座伊東屋で開催した第4回個展に出品した油彩画12点の一つではなかろうか。因みにこの時期の展覧会出品作の画題は「中禅寺湖畔の春」、「湖畔の朝」、「湖上の霧」、「湖畔の林」(画像前掲)など似たものが目立つ。

【聴鴻楼(西太后旧居)】は、北京市中央部に位置する紫禁城の西北15㎞に位置する歴代皇帝の別荘兼保養地、頤和園の構内にある。この作品は1940年4月、第5回個展(銀座資生堂)に出品された。また「北支と南支の貌」1940龍星閣の別刷挿画、美術雑誌「造形」昭和32年4月号の川島自選の秀作選集にも掲載されている。さわやかな青空と赤黄に彩られた中華建築の滑らかにすべる曲線が快い。定番の細身女人二人もさりげなく描かれている。陸軍省嘱託としての外訪はこの後、広東、大同、タイと続き1943年のフィリピン行が最後となり、第3次ピークも終焉する。描く絵は次第に戦地の様相を帯びていったが、川島には、パリ時代起居を共にした藤田嗣治、同じ栃木県出身の清水登之(3人は同じ歳でもある)のような戦闘場面を描く戦争記録画はない。

第3次ピーク時の風景スケッチが到来したので最後に付け加えておきたい。川島がデッサンを繰り返して本画に臨んだことはよく知られているが、色彩を乗せると元の線、タッチが失われてしまう。已む無い事だがデッサン好きには残念至極である。日光で水の流れを追い滑らかになっていく生の線を見たいと思い男体山をスケッチした作品を手に入れた。デッサンには年記がなく、熟年以降の画家はなんとでも描けてしまうので制作年判定は難しい。本作は川島の1936年日光滞在時の何篇かのエッセイや、同年6月15日付け帝国大学新聞に寄稿した「山と霧の表情―初夏の日光を行く」等からその頃の作と推定している。画題は【夜霧の男体山】手慣れた軽快な線で画面を埋めている。

  【夜霧の男体山】1936 鉛筆

文責:水谷嘉弘

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