当社団では板倉鼎の東京美術学校での指導教官 田辺至(板倉鼎・須美子書簡集にも何度か登場します)の作品を所蔵しています。そのいくつかを紹介します。
①「少女丿(の)顔」 油彩、板、サイン、4号、制作年(推定)1920~30年代。裏書あり。
②「静物」 油彩、キャンバス、サイン、15号、制作年(推定)1940年代後半〜1950年代(美交社時代) 。
③「田園風景」 油彩、キャンバス、サイン、4号、制作年(推定)1919~21年頃。額裏面に田辺至の名刺貼付、宛名と【新光洋画会】の添え書き。1919年同会創立仲間の牧野虎雄と通じる描法もみられることから同時期、渡欧前の制作と推定する。
④(挿画) 水墨、紙本、イニシャル、20.5 ✕15cm、制作年1928年。山本有三「波」東京・大阪朝日新聞連載小説(1928年7月20日〜11月22日)第1回目の挿絵原画と思われる。出版は東京朝日新聞出版部(1929年2月)。
⑤(挿画) 鉛筆、紙本、イニシャル、20.5✕27cm、制作年1928年?。同上?
田辺至は人物、静物、風景と幅広い題材の油彩画を描いただけでなく、版画、挿画等多岐に渡るジャンルの制作を手掛けています。官展(文展、帝展)の代表的画家で、大正、昭和戦前期アカデミズムの中心人物です。年記のある作品が少ないので制作年代の特定が困難です。
(参考)田辺至について
1886(明治19)年~1968(昭和43)年。東京府立四中を経て、1910(明治43)年、東京美術学校西洋画科卒業。同期に藤田嗣治がいる。哲学者田辺元の実弟。1919(大正8)年、東京美術学校助教授。同年4月に入学した板倉鼎の指導教官となリ、油彩画、銅版画を教える。1922(大正11)年〜1924年欧州歴訪、帰国後同校教授就任(1944年退官)。官展に出品を続け受賞歴多数、審査員を委嘱される。明治40年以降、大正、昭和戦前期に油彩画、銅版画を多く発表している。戦後はフリーな立場で活動した。
(文責:水谷嘉弘)