【近代日本洋画こぼれ話】清水多嘉示 その2 滞欧人物画、モデルはソニア?!

以前、本コラムで彫刻家&画家の清水多嘉示(1897・明治30年〜1981・昭和56年)の渡仏(1923・大正12年3月〜1928・昭和3年4月)前後の生写真を紹介した(2021年5月、6月)。今回は、その清水の滞欧作品を紹介する。油彩画の方である。清水は絵画、彫刻の両部門で同時にサロン・ドートンヌに入選した初の日本人である(1924年)。帰国後しばらくは絵画作品の展覧会出品が多かったが、やがてブールデルの良き弟子として彫刻の道を歩んだ。創設に参画した(1929年)帝国美術学校(現武蔵野美術大学)では絵画彫刻双方の授業を受け持ったようだ。人工に膾炙した作品【みどりのリズム】1951年作は上野公園に設置された彫刻である。しかし、清水の絵画に対する評価も非常に高い。同時代の美術評論家柳亮は清水の展覧会図録(生誕110年記念エコール・ド・パリ清水多嘉示の絵画彫刻展、三越名古屋栄店、2007)で次のように書いている。

(quote)それにつけても私が恨みに思うのは、帰朝後は段々彫刻の方へ重心がかかり、絵画からは去るともなく遠去かってしまったことで、そのため絵画の領域で清水がかつてフランスで見せた抜群の技倆が、日本では周知される手だてを失ったまま今日に至ったことである。(unquote)

彼が最も多く絵画作品を残したのは渡欧時代であり代表作も滞欧作品にある。サロン・ドートンヌ入選作は風景画が多い。しかし、前出の柳亮は人物画について多く語っている。再び引用する。

(quote)清水は・・・色に対して鋭敏な感受性をもった画家で天与のものといわなければなるまい。私の脳裏に焼き付いて離れないのは・・・モデルの娘が身に着けたピンクの服装の美しい色合いである・・・背景の木立の緑と照応して醸し出すさわやかなリズムの二重奏には・・・賛歌が唄われているように思われた。・・・色彩の美しさが端的に目につく。だが・・・娘の表情とか・・・坐ポーズでさり気なく腰をひねった肢体のしなやかなつかみかたには、フォルムに対する彫刻家の鋭い観察の眼が光っていると私は感じた。(unquote)

 仮題【裸婦ソニア】1927(フランスサイズ10号)

さて、私の持つ清水多嘉示作品も人物画である。当初の画題は不明だ。当時の滞欧日本人画家にはそれぞれ気に入りのモデルがいて人物画作品(特に女性)には同じ顔立ちが多い。例えば中村研一のターニャ、佐分真のアリスがそうだ。藤田嗣治はユキやキキがよく知られている。そこでこの裸婦像のモデルは誰なのか調べてみた。まず、気づいたのは図録掲載の清水の絵には裸婦像が少ないことだった。彫刻作品には多くの裸婦像があるので意外だった。年譜などに依って、ソニアという名のモデルだとわかる。ソニアは二人いたがそのうちの一人だ。本作を、残されているソニアの写真や他作品と比べてみた。彼女は苗字がわかっているソニア・シャロピーではなく、苗字不詳の方のソニアだった。同定した決め手は、フランスで清水と親しく交流していた児島善三郎(1893年生まれ)の作品【立てるソニア】1927年作である。

ソニア  児島善三郎【立てるソニア】1927

顔立ち、髪型、更に腰から臀部にかけて大きく張った体形から、清水裸婦像のモデルもソニアに違いない。【立てるソニア】は児島の滞欧時代の代表作の一つであるが(神奈川県立近代美術館所蔵)児島は清水からソニアを紹介されたようだ。因みに清水が帰国後の1929年第10回帝展に初出品した絵画【憩ひの読書】1928年作のモデルはソニアである。展覧会図録には彼女がモデルとわかる作品が数点あった。

【憩ひの読書】1928  【緑衣の少女】1927

当該作品を観てみよう。やや腰をひねり両手を一方の体側に寄せた清水お好みのポーズである。児島善三郎も「見返り」がソニアの体形を美しく見せる姿勢だと感じていたのだろう。裸体画だけに線は身体の輪郭を示すだけだが明解な一本の連続線ではない。左腕の、胸部と腹部を仕分けて二の腕から前腕を浮き出させる部分、左乳房内側の部分はノミの彫り残しの淵のようだ。筆触による面取りと橙一色の濃淡で肌の起伏を示し背景の暗緑色一色と相俟ってそれを補強している。そしてソニアの、アンバランスといってもいい程の腰と大腿部が観る者を圧倒して来る。この作品は、前出の図録が「この年は清水の6年に亙るフランスでの制作活動の中でもエポックメーキング的な年」と書いている1926年から、ソニアを多く描いた27、28年にかけての制作だろう。彫刻家にして画家、多嘉示ならではの筆致である。仮題【裸婦ソニア】1927年作としておきたい。なお、画面左下に「Shimidzu」の署名がある。蛇足ながら同時期、同じ場所に住んでいた同じイニシャル「T.S」の清水登之と見分けるのに重要だ。

   仮題【裸婦ソニア】署名部分

帰国後の清水多嘉示は、1940年以降官展系の新文展、(戦後)日展に毎年彫刻を出品するが、絵画は戦時特別展1944年までの5回だけだった。柳亮ならずともその画才を堪能出来ない事をつくづく残念に思うのである。

(追記)

2021年5月31日付けコラム【清水多嘉示 その1 渡仏前の生写真】で川上茂旧蔵アルバムについて書き、その後(増補)として武蔵野美術大学黒川弘毅教授のご教示を紹介した。

  

同氏から武蔵野美術大学彫刻学科研究室刊「清水多嘉示資料論集1」(2009年)、「清水多嘉示資料論集Ⅱ」(2015年)を贈呈いただいた(冒頭、画像参照)。Ⅱ所収のレゾネをcheckしたが、アルバムに貼付されていた【婦人像】、本コラムの(仮題)【裸婦ソニア】の画像は見当たらなかった。青山敏子氏(多嘉示の三女)、八ヶ岳美術館特別研究員井上由理氏も交えてアルバムを見ていただき、婦人像は後の多嘉示夫人今井りんさんの肖像画か否か、解明を期待している。

 りん、多嘉示、川上茂?、西岡瑞穂(1922年)

 多嘉示?【婦人像(今井りん像?)】   今井りん(1925年頃)

本稿執筆にあたり、文中で記載した図録の他に、「清水多嘉示彫刻絵画自選展図録」日本橋三越1971、「青春のモンパルナス 清水多嘉示滞仏記」井上由理氏2006、に多くを教示いただいた。

文責:水谷嘉弘

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