【近代日本洋画こぼれ話】岸田劉生 劉生戯画「京の夢 大酒の夢」

挿画の話を二度書いたが、今回はそのジャンルに近い戯画について書いてみる。岸田劉生(1891・明治24年~1929・昭和4年)のいわゆる劉生戯画で、画面に[京の夢 大酒の夢]と記された紙本墨画が手許にある。劉生と思われる小肥りの中年男が徳利を側に肘枕で寝そべリ、芸妓が酌をしてくれる場面を思い浮かべる風をサラッと描き流している。文言といい、本人や芸妓の描写といい、軽妙洒脱、見ていて思わず笑みのもれる画である。

劉生は関東大震災後、京都に移るが茶屋通い、肉筆浮世絵蒐集に嵌ってしまう。その放蕩生活から脱却し創作に専念すべく1926・大正15年3月鎌倉に転居する。本戯画には、[昭和壬申年十一月](1928・昭和3年11月)と年記があリ、鎌倉転居後の作である。劉生がしばしば酒席で余興に描いた戯画の一枚かもしれない。これを描いた11月に〈・・・画を描く心持が大部動き出して来ました。今小品油絵かいています。十二月初旬京都大阪神戸方面にて大調和展の一部をやります。その時上洛します。〉と京都在住の知人に葉書を出し、翌12月9日同人宛に〈・・・その後京都へ行かう行かうと思ってまんのやけど、いそがし事が多うて、まんだゆかれしめへん〉と再度投函している。京都での遊興に想いを寄せながらも、生活も精神も落ち着いた様子がうかがえる。そんな中で描いたからかユーモア、茶目っ気を感じさせる作品になっている。2019年に「没後90年記念岸田劉生展」を開催した東京ステーションギャラリーの冨田章館長にこの戯画画像を送ったところ展覧会図録執筆者の一人、学芸員の田中晴子さんにも見せたそうで「こういう陽気さ、面白さも劉生の一面だったのですね」と述べていたと返事をくれた。画中、四角の枠に[隠世造宝]と書き込んであるのは、劉生が日本画を描き始めてしばらくした頃(1923・大正12 年)[隠世造寶]の印を入手し落款印として使っておりそれで理解出来る。

実のところ、不勉強にして今回の題材にした劉生戯画を入手するまで素描が岸田劉生絵画作品群の中で大きな位置を占めている事を知らなかった。前出の東京ステーションギャラリーの田中晴子さんは、図録に執筆した[岸田劉生の「趣味性」による作品について]と題する論文を〈劉生芸術の全体像を捉えるためには、劉生自身が「芸術」とした作品だけを対象とするだけでなく、「趣味性」によって、多くは金を稼ぐために描かれた作品群を含めて検討することが必要ではないだろうか〉と締めくくっている。彼女の論文は1912年から15年に描かれた新聞挿画や半切画を対象にしているが、コメントは劉生の「趣味性」作品全部に当てはまるのではないだろうか。同展に先駆けてうらわ美術館他で「素描礼賛 岸田劉生と木村荘八」展が巡回開催されていた。この展覧会も趣旨は一緒だ。

劉生は本戯画を描いた1年後の1929・昭和4年12月、満洲訪問(生涯唯一の海外渡航)の帰路立ち寄った山口県徳山で体調を崩し急逝した。享年38歳。復活に向けて気持ちが充実しつつあっただけに無念だったろう。ヨーロッパ渡航資金調達のため南満州鉄道の招きに応じて満洲に渡ったものの不首尾に終わる。そのため同行した田島一郎の故郷徳山で画会を催すことにしたようだ。一郎の父は政治家、地元有力者だった。劉生が徳山に到着したのは11月29日、当時の地元紙に紹介されている。この1か月後の12月30日に記事にある逗留先の田島氏宅で亡くなった。戯画に描かれた寝転んだ劉生の顔かたちは記事掲載の写真にそっくりで最晩年の自画似顔像である。没年にも同種の似顔画を描いていて展覧会図録に掲載されていた。

終焉の地、現在の山口県周南市には石碑が建てられている。武者小路実篤、川端康成、梅原龍三郎の筆跡が刻まれており劉生の交友を物語っている。

  

 

本稿は【没後90年記念岸田劉生展図録】(2019年刊、執筆山田諭氏他)、【素描礼賛 岸田劉生と木村荘八】(2019年刊、執筆迫内祐司氏他)、から多くを教示いただいた。

(文責:水谷嘉弘)

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