【近代日本洋画こぼれ話】川島理一郎 その4 秀作北京聴鴻楼(西太后旧居)

冒頭画像は、【聴鴻楼(西太后旧居)】1938(12号)

川島理一郎の画風変遷について続ける。1936年頃から再び筆致が軽くなる。ストロークが流れ明るく爽やかな画風になり、カラリストの貌をはっきりと見せる。それが3回目の画業ピークである。2回目(1933~36年)と3回目(1936~43年)のピークは時期的には連続しておりこの約10年間の川島の充実ぶりは目を見張るものがある。変化のスタートは1936年春から秋にかけての日光滞在である。3年前の日光では東照宮周りの宮社や彫像が主たるモチーフだったがこの時は「水」をテーマとしていた。[私はいま水を見詰めて暮らしている。渓流と瀧とを今年の研究対象に選んだ私は、水との睨つこが毎日の日課である(水流への凝視)「緑の時代」所収]。2~3年続いた革のようなマチエールが森の中の樹木を描き、河川を流れる水を描写するうちに筆運びの速度が増してきたように思う。

    

【緑陰】1935頃(図録画像)    【奔流】1936(図録画像)

  

【湖畔の林】1936(図録画像)    【九龍壁】1938(図録画像)

モチーフが水を離れ中禅寺湖の湖畔に至った時点で、絵の印象は一変する。1937年11月「緑の時代」の刊行が一つの区切りとなったかのように、1938・昭和13年陸軍省嘱託となり、5月北京、翌39年1月広東、10月大同を訪れて制作する。この間の紀行文とスケッチが1940 年7月刊行の「北支と南支の貌」龍星閣にまとめられている。その後も41年と42年にタイ、43年にフィリピンに行く。

  

【卍字廊】1938(図録画像)    【北京大観】1938(図録画像)

  

【広東大観】1939(図録画像) 【金とモザイクの回廊】1941(図録画像)

第3次ピークの制作は北京での風物描写が質量ともに秀でている。広東に比し北京には歴史的な建造物が多く、それが自然の風景と調和していることに感銘を受けたのだろう。南支訪問時の作は民衆の生活、街頭風景が中心で「北支と南支の貌」所収の文章も同様だ(タイとフィリピンでの制作にも同様の違いが見出せる)。緑、茶、青が基調だった滞欧作と比べると赤、黄が加わり明度も高くなって、カラフルでとっつきやすいこなれた絵なのだ。円熟の味、と言ってよい。この時、川島52歳になっていた。

さいわいこの時期の作品は小品よりやや大きめの秀作と思える2点を入手することが出来た。中禅寺湖畔と北京聴鴻楼の写生である。

 【湖畔の秋】1936(8号)

川島は大量のデッサンを描いた画家だが、それをベースに同じモチーフ、同題の油彩画作品が多い。「湖畔の秋」と名付けた作品も何点かあるが当該作は出来、キャンバス裏面の記名等から1936・昭和11年11月、銀座伊東屋で開催した第4回個展に出品した油彩画12点の一つではなかろうか。因みにこの時期の展覧会出品作の画題は「中禅寺湖畔の春」、「湖畔の朝」、「湖上の霧」、「湖畔の林」(画像前掲)など似たものが目立つ。

【聴鴻楼(西太后旧居)】は、北京市中央部に位置する紫禁城の西北15㎞に位置する歴代皇帝の別荘兼保養地、頤和園の構内にある。この作品は1940年4月、第5回個展(銀座資生堂)に出品された。また「北支と南支の貌」1940龍星閣の別刷挿画、美術雑誌「造形」昭和32年4月号の川島自選の秀作選集にも掲載されている。さわやかな青空と赤黄に彩られた中華建築の滑らかにすべる曲線が快い。定番の細身女人二人もさりげなく描かれている。陸軍省嘱託としての外訪はこの後、広東、大同、タイと続き1943年のフィリピン行が最後となり、第3次ピークも終焉する。描く絵は次第に戦地の様相を帯びていったが、川島には、パリ時代起居を共にした藤田嗣治、同じ栃木県出身の清水登之(3人は同じ歳でもある)のような戦闘場面を描く戦争記録画はない。

第3次ピーク時の風景スケッチが到来したので最後に付け加えておきたい。川島がデッサンを繰り返して本画に臨んだことはよく知られているが、色彩を乗せると元の線、タッチが失われてしまう。已む無い事だがデッサン好きには残念至極である。日光で水の流れを追い滑らかになっていく生の線を見たいと思い男体山をスケッチした作品を手に入れた。デッサンには年記がなく、熟年以降の画家はなんとでも描けてしまうので制作年判定は難しい。本作は川島の1936年日光滞在時の何篇かのエッセイや、同年6月15日付け帝国大学新聞に寄稿した「山と霧の表情―初夏の日光を行く」等からその頃の作と推定している。画題は【夜霧の男体山】手慣れた軽快な線で画面を埋めている。

  【夜霧の男体山】1936 鉛筆

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】伊原宇三郎 その6 滞欧風景画の秀作 南仏アルルふたたび

伊原宇三郎は1925・大正14年5月、31歳の時、妻しげ子と共にフランスに着く。この年はパリを中心に写生に出かけたりピカソの研究に費やした。翌年2月から3月末までフランス国内を回り多くの風景画を描いた。特に南仏プロヴァンス地方の隣接する都市アヴィニョン、アルルを描いた作品は秀作が多い。以前【南仏アルルの古い街】を紹介した。

【南仏アルルの古い街】1926(8号)

世界界遺産に登録されている古代・中世ローマ帝国の旧都の街並みに触発されるところが多かったのだろう。展覧会図録にも同様の作品が掲載されている。

【アヴィニョンの廃墟】1926

【南仏プロヴァンスの古都アルルにて】1926

新たに同じモチーフの1点を入手した。アルルの秀作、再び到来である。(冒頭画像参照【南仏プロヴァンス地方の古都アルルの廃屋】1926(フランスサイズ15号))

冒頭のアルルが非現実の舞台装置のようなクラシスム作品だったのに対し、今回のアルルはややデフォルメされた廃れた家屋の矩形が茶系の明濁色と相まって濃密な表現が実在感を醸している。一方で画面右三分の一を占めるくすんだ中景が寂寥を演出しており対比の妙が効果的だ。画面構成が思索され確かなデッサンに裏付けられていることは両作の共通点である。カンバス裏面には伊原が丁寧な説明を書きこんでいた。

「南仏 プロヴンス地方の古都アルルの廃屋(現在は人住めり、屋前の野外劇場と共に名物の一となる。数百年前のものなり)」

以前、伊原の風景画について次のように書いた。「滞欧期前半の伊原作品は風景画が多い。粗い筆触を残すものから穏やかで印象主義的なものまで表現は多岐にわたる。」日本的フォーヴから印象派まで、の意だったが、本作は前者に近い。しかし、抑制の効いた筆致が作品に品格を与えクラシスムに通じている。

少し横道にそれるが、本件から画家を巡る当時の事情がよくわかった事がある。絵が専用の木箱に収められていたのだ。落とし戸式の蓋を上げ下げして出し入れするようになっていて箱側面に**氏と苗字が書かれていた。本作の原所有者だと思われた。そう考えたのには理由がある。伊原は渡欧するにあたって画会を組成して出資者を募っていたのである。その頃渡欧する画家が一般的に行っていた資金調達方法だ。伊原渡欧の1年前、1924年4月頃に配布された「画会趣意書」の文面が、伊原宇三郎展図録(1994目黒区美術館、徳島県立近代美術館)に転載されていたので該当する部分を抜粋する。

「画会 会規 第1部 本人出発前の作品、本人滞欧中の作品御随意 甲 会費100円(註:1口)画寸10号P 三寸巾額縁付、乙 会費200円(註:2口)画寸15号F 三寸五分巾額縁付」。伊原の実家がある大阪の今宮中学校の同級生が募集に尽力し滞欧2年予定で1万円余り(註:約100口)集めた、とある。本作は「乙」に申し込んだ人物へ届けられた作品ではないだろうか。画寸、額縁寸だけでなく箱に記された苗字も当時大阪中心部に居住していた富裕層に合致する。伊原が懇切に裏書きした訳も納得できるのだ。(当時の小学校教員の初任給が約70円である。卸売物価指数では、当時の1円は現在の640円)

本作を描いた年、伊原宇三郎は南仏から戻った後、夏は清水登之、川口軌外と3夫妻でノルマンディー地方エトルタ海岸に滞在して制作、秋、ルーブル美術館でコローを模写するなど風景画主体に活動した。翌1927年5月のイタリア行を機にルネサンス絵画の研究に注力する。ルーブルではアングルの「オダリスク」模写を始め、秋のソロン・ドートンヌには【毛皮の女】が初入選した。この頃から帰国する1929年6月までの滞欧期後半は人物画、群像図にシフトしていくのである。持ち味である構成的な空間を失うことはなく、モチーフの存在感が量感豊かで彫像の如き人体で示されて、より古典的な表現が増しネオクラシストになっていった。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】二瓶徳松 作品「(仮題)教会」を巡って 

二瓶徳松(画名:經松、等、等観、1897・明治30年札幌生まれ〜1990・平成2年)は、板倉鼎の東京美術学校同級生(1924・大正13年卒業)でパリでも頻繁に往き来していた画家である。同級生には岡鹿之助、野口謙蔵等もいる。鼎・須美子書簡集にも多く登場し、板倉鼎を語るに際して経歴を知り滞欧作の検証が欠かせない人物。だが作品はなかなか見つからない。当初、作品の画像も渡仏前後の1924年第5回帝展入選作「裸女」(当時の画名:二瓶等)、1929年第10回帝展入選作「足を拭ふ女」(画名:二瓶等)の絵葉書しか見当たらなかった。鼎の書簡に依れば、二瓶のパリ留学は、佐伯祐三(美校の同期入学、卒業時は1年上級)を見舞って結核の怖さに取り憑かれ(佐伯は1928年8月16日病死)、夫婦共に精神面で消耗して約8ヶ月で帰国したため(1928年5月〜1929年1月)当地での制作は少なかったと思われる。冒頭画像は【真珠】1922年作。

鼎の書簡(1929年1月1日付け)を引用する。

[明日は二瓶さんいよいよ巴里をたちます。五日出帆の船で帰るそうです。お気の毒に存じますが是も自業自得で神経衰弱ばかりはどうにもなりません。巴里へついて已に八か月ルーヴル美術館へは未だ二度しか行かなかったそうです。是では何の為に来たかわかりません。(鼎)]

パリ到着直後は二人仲良く付き合っていたが夫婦とも段々波長が合わなくなったようだ。鼎・須美子の書簡では二瓶夫婦への評価が一変している。当初の書簡も紹介する。(1928年6、7月)

[いろいろ御世話してあげますと、二人とも心から喜ばれ、時を消しては(と)遠慮され例の人達とは大ちがひで大変気持ちよくおつきあいひして居ります。二人の子供さんを置いて来られたとかで子供の事などいろいろ注意して下さいます。(須美子)]

[この附近では今、私と二瓶さんだけがふんばってます。二瓶さんは、画会のお金を今受け取りつつあって、絵を帰ってから渡す約束のものが52枚残ってるとか云って、大馬力です。みんな十号だそうです。私はたった一枚のよい絵が出来ればそれでよいと思ってます。(鼎)]

二人とも芸術家気質ゆえ鼎サイドの手紙だけで判断することは避けたいが、二瓶の経歴をみると、一度入った美校を退学し翌年再び入学したり、画名の変更が頻繁でわかっているだけで4つ有るなど移り気で精神的に不安定な傾向は見て取れる。

美校在学中の1922年光風会出品作「真珠」(画名:二瓶經松)は東京新宿下落合で師事し近所付き合いしていた中村彝と近似したルノアール張りの良い作品だ。

美校卒業年に帝展初入選を果たしたように戦前戦中作は正統な画風で画力もあったと思われる。

渡欧前の美校在学時代と思われる風景画「(仮題)教会」(画名:二瓶徳松or經松)と、戦後訪欧時(1959年)に取材したパリの風景画「パリムフタールの近く」(画名:二瓶等観)の2点を入手した。ここでは戦前作と思われる教会を描いた作品を取り上げてみたい。(戦後作の方は見るべき点があまり無い)。

    

二瓶徳松【(仮題)教会】4号1918~20年頃  二瓶徳松【教会(仮題)】署名  二瓶徳松【海景】

当該作品「教会(仮題)」の検討にあたっては、二瓶が住んだ新宿下落合をfocusする博覧強記の郷土史家「落合道人」氏に多くを教示いただいた。氏はブログ「落合学」で同地域に因む社会情勢、文化芸術、地理、人物等全般にわたって調査研究する方で、美術方面でもブログ本ページの他、中村彝、佐伯祐三、松本竣介はじめ50人近い画家についてブログ内メニュー「下落合を描いた画家たち」で論じている。(落合道人氏は先月の【topics】にも登場いただいている)

以下、落合道人氏のご了承を得て氏とのメール交換をquoteする形で「(仮題)教会」を観てみたい。(2023年4月、文章簡略化)

(quote)

(水谷)フランス近代美術の専門家である友人に訊ねたが、モチーフの教会はフランス在ではないと見解が一致した。札幌か?東京か??もしかしたら下落合???お気づきの点あれば教示願う。

(落合道人)二瓶徳松の教会画面について、彼が下落合で暮らしていた時代に、下落合にはギリシャあるいはロシアの正教会は存在しない。教会のフォルムを観察すると、明らかに正教会系の姿をしており、二瓶等の故郷=北海道でいうと函館のハリス正教会の正面からの姿が、画面の教会に近似している意匠。あるいはヨーロッパからの帰途、彼は地中海のどこかの街か、ロシアのシベリア鉄道経由で帰国していないだろうか。そこで目にした正教会系の建築を、写生している可能性もありそう。

(水谷)函館ハリス正教会の写真に多くを学んだ。自分なりに検討して「教会」は、1916年北海中学卒業頃(18、9歳)から美校在学中の1922、3年まで(25、6歳)の間、本邦おそらく郷里札幌や函館など北海道地域で描いた風景画だと結論付けた。根拠は

①教会前の木製の入口、植栽などの佇まいが、フランスというより日本の雰囲気が強い(友人と意見交換した結論)。

②二瓶は1928年5月に渡仏したが翌年1月には帰国している。板倉鼎の同年1月 1日書簡からは帰途を含め欧州で写生した可能性は低い。

③署名は『TNihei』とあり、「徳松」或いは「經松」と思われる。彼の画名変遷を辿ると(「等」を「とう」と読ませなければ)美校卒業の1924年3月までと考えられる。卒業後、帝展出品名は「等」である。

④戦後の画名「等観」もTだが、「教会」の時代感は古い。所有している戦後作品の画風は描き込みに重厚さがなくこなれた仕上がりで「教会」とは印象が異なる。

(落合道人)二瓶等はパリからどこかへ旅行をしていないか。添付したのはリトアニアに残るちょうど作品画面と同じぐらいの規模の正教会建築だが、ファサードや意匠がよく似ている。ヨーロッパ北部の田舎に多い正教会の建物のようだが、フランス北(戦災で喪失?)あるいは1926年より出かけている「満洲」(文化大革命で喪失?)などの可能性はないだろうか。ただし、サインからするとかなり制作は古い年代のよう。

(水谷)たしかにリトアニアの画像はよく似ている。二瓶徳松(等)のパリ留学時代の様子は板倉鼎書簡からしかわからない。鼎は二瓶に対して厳しい感想を述べているが、当初は美校同級生らしい親しいコメントを残している。二瓶は佐伯祐三の病死を境に精神面が一変したようだがそれまでの間、近隣諸国に旅しているかもしれない。今回の作品を観る時の参考にしたのが『TNihei』署名のある海浜作品。北海道の風景だと考えており、教会作品と筆致が似ている。落合道人氏がブログで紹介された1927年10月の札幌個展出品作の発見が待たれる。

(落合道人)二瓶等の札幌での個展では、図録が残っているのではないかと思ったが、残念ながら目録しか見つからなかった。二瓶等の「下落合風景」にからめて、個展の目録を掲載したのは10年も前の記事だが、残念ながらご遺族からの連絡や、「二瓶作品なら持ってるよ」というコメントはいまだ1件も届いていない。彼の画面を通じて、大正末の下落合東部の様子がかなり判明するのではないかと期待したが、戦災で焼けてしまったか、あるいは廃棄されてしまったケースが多いのかもしれない。二瓶徳松時代に中村彝から購入した『俊ちゃんの像』(8号/相馬俊子像)も、どこへいったものか行方不明で、あまり話題にならない。

(水谷)御ブログへの反応も二瓶関連情報も皆無とは寂しい。彼の若い頃の画力はかなりのものがあったと見ている。美校入学前に光風会に入選しているがこの会は白馬会の後継と言えアカデミズム直系のハイレベルな団体。海の絵も教会の絵もストロークのみで描かれており陰影の付け方も癖がなく年齢不相応な纏まり方。「真珠」もいい絵。しかし、渡仏前後に当時の典型的な官展スタイルで入選しながら以降出品したのかさえ不明だ。戦後も1960年前後の滞仏作品はあるが画業は不明(添付は戦後滞仏作とその裏面。手慣れた絵だがどうと言う事はない。貼られた帳票類から一定の信用力、存在感が感じられる)御ブログ記事にあるように北海中学OB会でも主要な存在となっている。美校に2度入学したり、名前を頻繁に変えるなど生涯を通じて不可思議な点が多く落合道人氏の解明を期待している。見当外れかもしれないが御ブログで紹介されている下落合の風景画、小松益喜作品の正面、活水学院と思われる建物の屋根上に十字架の先端部のような線が見える。別棟から伸びた線に見えるが当時教会のような建物は無かった?

(落合道人)二瓶等は、中村彝とかなり親しく、また一方では佐伯祐三とも親しいので、下落合では曾宮一念とともに両者の接点として追いかけてきたがその軌跡が茫漠として見えにくい存在だ。戦前戦後を通じて下落合には教会が多いが、二瓶等が住んでいた時期には、目白通りに面したカトリック系の目白聖公会と、中村彝がよくモチーフにしたプロテスタント系の目白福音教会(現・目白教会)、少し遅れてカトリック系で国際聖母病院に付属した礼拝堂建築などが目立つ。戦後は教会の数も増え、遠藤新設計の目白ヶ丘教会や下落合教会、池の上教会、ICBF東京中央教会などなど、下落合以外の上落合や西落合を探せばもっとあるかもしれない。小松益喜が描く『(下落合)炭糟道の風景』のモチーフ「活水学院」は、屋根上に十字架を載せた基督伝道隊(日本プロテスタント福音派)の学校で、正式名称は「基督伝道隊活水学院」。目白福音教会にあった聖書学校と同じような学び舎だが「活水学院」には教会建築はなく、おそらく学院内に礼拝室があったと思われる。

(unquote)

落合道人氏とのやり取りから、教会はロシア正教会系であること、同教会は当時下落合には存在していなかったことを教わった。その結果も併せて「教会(仮題)」は二瓶徳松1920年前後の本邦制作(@北海道)と結論付けた次第である。

(同時期の略年譜)1916北海中学卒業(19歳)、1917光風会入選、1918美校入学、退学、1919美校再入学、1922光風会「真珠」出品、1923帰郷、卒制制作、1924卒業、帝展初入選、1928渡仏、1929帰国、帝展入選、その後渡満(中国)

しかしながら、本篇を執筆して個別作品検討の域を越えず画家二瓶徳松の画業を体系化するピースに嵌っていかない点に物足りなさが残った。それだけ二瓶の画業全体が検証、顕彰対象になっていない事、見方を変えれば彼の画業が曖昧だったと言えよう。落合道人氏に依れば、二瓶は中村彝、佐伯祐三を繋ぐ接点として重要な存在とのこと。2023年1~4月、東京ステーションギャラリーで開催された「佐伯祐三展」紹介メディアでは落合道人ブログも取り上げられていた。2024年は中村彝の出身地、茨城県近代美術館で彝の回顧展が開催される予定である。落合道人氏の研究をキッカケとして中村彝への新たなアプローチで二瓶徳松の存在が再認識されることを期待している。

  

二瓶等観「パリムフタールの近く」15号1959  二瓶等観 パリ風景戦後作

文責:水谷嘉弘

【topics】須美子のモチーフ「軍艦」について(ベル・ホノルル23)

板倉須美子はオアフ島に戦艦を浮かべる。: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)

板倉須美子の『ベル・ホノルル23』に描かれ、かねてから気になっていた遠景の船について、落合道人氏がブログ「落合学」で詳細な分析を述べられた(2024年6月29日)。氏の承諾を得て紹介させていただく。絵の解題と合わせてお読みください。

文責:水谷嘉弘

 

 

【news】板倉鼎・須美子展が閉幕しました

4月6日に始まった千葉市美術館の「板倉鼎・須美子展」が、今週日曜日、6月16日をもちまして無事閉幕いたしました。多くのメディアで好意的に取り上げていただいたお蔭もあり日増しに来場者数が伸び、1日平均約200人の方々にご観覧いただきました。ありがとうございました。後援団体となった当法人からも厚く御礼申し上げます。
本展を通じてより多くの方々に板倉鼎、須美子の存在と作品が知られるようになったと確信しています。今後とも板倉夫妻の顕彰にお力添え賜りたく、よろしくお願い申し上げます。

水谷嘉弘
一般社団法人 板倉鼎・須美子の画業を伝える会 代表理事・会長

【topics】『板倉鼎をご存じですか ーエコール・ド・パリの日本人画家たち』が朝日新聞の書評に取り上げられました

4月に刊行した当社団法人代表理事水谷の美術エッセイ集『板倉鼎をご存じですか ーエコール・ド・パリの日本人画家たち』(コールサック社)が、さる5月25日(土)、朝日新聞朝刊読書面の書評に取り上げられました。朝日新聞書評委員で小説家の山内マリコ先生の執筆です。千葉市美術館の板倉鼎・須美子展を訪れられ夫妻の生涯を概観された上で、水谷著作に言及して過分なご批評をいただき[ある芸術愛好家(ディレッタント)の集大成といった趣の書だ。]と〆られています。著者として望外のことで大変光栄です。山内マリコ先生に厚く御礼申し上げます。

なお、当該の書評は、朝日新聞の関連サイト「好書好日」内のメニュー(書評)→(書評委員から探す)→(山内マリコさんの書評)で読むことができます。

好書好日|Good Life With Books (asahi.com)

山内先生は、以前、2021年1月15日の日本経済新聞文化面コラム「モデルの一生(十選)」にも板倉鼎の【休む赤衣の女】を採択されていらっしゃいます(本ホームページ2021年1月19日付け【topics】欄で紹介しています)。

我が国有数の全国紙に板倉鼎の名前が掲載されることはその顕彰活動に従事している当社団法人にとって大きな力となります。大変な励みになりました。ありがとうございました。

文責:水谷嘉弘

【news】刊行物のご案内

今般の板倉鼎・須美子展開催に合わせて以下2点の書籍が出版されましたのでお知らせします。

1)『板倉鼎・須美子 パリに生きたふたりの画家』(展覧会公式図録兼書籍)東京美術 評伝執筆 田中典子、エッセイ執筆 高橋明也他 ¥3,630(税込)

2)『板倉鼎をご存じですか ーエコール・ド・パリの日本人画家たち』コールサック社 水谷嘉弘 ¥2,200(税込)

共に、Amazonから購入出来ます

文責:水谷嘉弘

【news】板倉鼎・須美子展が始まりました

4月6日から千葉市美術館で板倉鼎・須美子展が始まりました。7年振りの本格的な回顧展です。板倉夫妻の油彩画約130点をはじめとして、水彩・習作約100点、その他資料約70点が展示されています。絵画、資料類だけでなく、二人がパリから松戸の実家に宛てた書簡からその想いを綴る言葉(文章)も大きくパネル紹介してその心情が伝わって来る展示構成になっています。若くして世を去った二人の真摯な気持ちに触れて下さい。

開幕に先駆け、内覧会・レセプションが前日5日に行われました.。百数十名の方々が参会され大変な盛況でした。

(右から)ヘレン・ザーレ本展図録執筆者、田中典子本展監修者、水谷(右から)玉谷邦博NHKラジオ深夜便ディレクター、園井健一当社団監事

開会式で、当社団代表理事水谷が本展後援団体の代表者として来賓紹介され、高橋明也当社団理事(東京都美術館館長)が乾杯の発声を行ないました。

(左から)中林忠良氏、野田哲也氏、同夫人、神林菜穂子ミュゼ浜口陽三学芸員   (左から)高橋明也当社団理事、木寺昌人元駐フランス日本国大使  

(冨田章東京ステーションギャラリー館長、奥は山下裕二明治学院大学教授)   

会期は6月16日までです。ご観覧をお待ちしています。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】佐分真(その3)2枚のデッサンと、付いていた品々

或る画家に興味を持って追いかけていると続けて作品に巡り合うことはよくある。流れが来たというよりそれまで見過ごしていただけで気にし始めたので気付いた、という方が適切かもしれない。ともかく最近のそんな画家が佐分真(1898年生まれ)である。滞欧風景画の秀作【アッシジ】1927、について書いた後、しばらくして挿画【パリのキャフェ】1935、を入手したらまもなく2枚のデッサン(仮題)【椅子による婦人(2)】【裸婦 座像・左向】共に1932、も到来した。

仮題【椅子による婦人(2)】1932鉛筆(35㎝✕26.5㎝)  【椅子による婦人】パンフレット画像

佐分真について書くのは3回目になるので今回は趣味譚にする。

画家は皆、膨大なデッサンを描いているが世に出回ることはあまりない。美術館もFOCUSしている画家の素描類は遺族、関係者から寄贈される等して相当数所蔵しているが油彩画に比し地味なため展示される機会も少ない。佐分にも同様なことが言えよう。1936年10月、没後半年で刊行された画集「佐分真」(限定450部)春鳥会、には油彩画47点の他デッサン11点(コンテ9点、鉛筆2点)が収録されていた。1970年に出身地一宮で素描展が開かれているが、私の手許にある1976年4月の銀座松坂屋「没後40年佐分真展」パンフレットに佐分の妹保子氏が次のように書いている。

(quote)今回没後40年追悼展と銘うつにはあまりにささやかでございますが、油彩の他のほか未公開のデッサン数点を出品いたすことにいたしました。(unquote)

本作デッサン(冒頭画像)はこの時公開されたデッサンと一連の作品と思われる。パンフレットに掲載されたデッサン(紙寸表示なし)とモデル、姿勢、衣装、陰影表現に共通点が多いからだ。そのため本作を【椅子による婦人(2)】と仮題した。額裏には保子氏の鑑書きがあるが、他にも付いていた物があった。スケッチブックから切り離された1枚である。

【椅子による婦人(2)】 (1枚目裏) (1枚目表)

表面左上にフランス語でメモが記され、裏面には次頁表面に描かれたデッサンの鉛筆粉末が薄く付着していたのである。図柄は本作の裏返しだった。スケッチブックの連続した2枚が一緒に切り離されて2頁目の本作が額装、鑑書きされ、1頁目が添えられたと想定できる。なおメモは「マドモワゼル ジェルタ シャソン 9 ダトラ?街 ホテルドフランス」と書かれている。モデルの氏名と描いた場所、当時フランス(パリ)のホテルにはアトリエを持ち賃貸していた所があったようだ。板倉鼎も実家宛ての手紙にその旨を書き連絡先住所をホテル内としていた時期があった。

【裸婦 座像・左向】

もう1枚のデッサン【裸婦 座像・左向】の方は、1981年5月丸の内画廊「没後47年佐分真遺作展」パンフレットに掲載されていた。これにも佐分保子氏が「兄を偲んで」を寄せている。[・・兄が生前、参考にしろとて手づからくれた数冊のデッサン帳を宝物と思って、空襲の折も防空壕にかかえてにげていたので、百年もたったような色になっている・・]

現在、佐分の素描類は愛知県美、名古屋市美、一宮市博が多数所蔵している。1997年一宮市博物館「画家佐分真の軌跡」展には【ネックレスの女】1932作、2011年一宮市三岸節子記念美術館「佐分真 ―洋画界を疾走した伝説の画家―」展には【カーディガンの女】1932作、が愛知県美から出品されている。

モチーフだけでなく、紙寸34.8㎝✕26.5㎝、紙質は本作と合致しており同じスケッチブックから切り離された作品であろう。

【ネックレスの女】図録画像 【カーディガンの女】図録画像

佐分にはこのモチーフのデッサンが、1929年(第1期渡欧時)と、1932年(第2期渡欧時)に多く残されている。子息純一氏は著書(真の追想録)に、「巴里日記」の1929年1月、2月分から該当する部分を転載して、

「・・・(この時期の日記に)しばしばその構図を描きとめている・・・これらの女性像の一部は油彩で完成されたものもあるが、むしろ素描のほうに同じような構図のものが多く、私の手元に当時のものとおぼしきデッサンが少し残っている。」と述べている。

さて1枚目のデッサンの付帯物はスケッチブックの1枚だけではなかった。「遺品分け包み」と表書きのある二つ折りされた和紙に挟まれた「墨書スケッチ」と「自筆スケッチ葉書」(17歳時)も付いていた。

「遺品分け包み」の表書き「上 佐分真遺作」は鑑書きした能書家、保子氏の筆跡に似ている

「墨書スケッチ」(制作年不詳)スケッチブックから切り離された墨書スケッチ1枚(22㎝✕19㎝)、右下署名の「佐分生」は帰国後の佐分が使った事例がある

 「自筆スケッチ葉書」1915年7月12日付(発信地小豆島、神戸港スケッチ)

美校受験のため東京に出た中学5年の夏休み、全国を旅したようだ。律儀で筆まめな佐分は行く先々から母や一宮在の叔父宛に葉書を投函している。この葉書については子息純一氏が著書に、[・・北海道から九州にかけて旅行したことが、母親への便りで判明している。各地からの葉書が九枚残っているが、消印に4の年号(註:大正)がはっきり読みとれるものがあり・・・宛名は母上様、自分は真とだけ署名している・・・発信地は、小樽―青森―松島―仙台―日光―厳島―久留米・・・8月12日から25日の便り・・・]と書いている。2011展図録には叔父宛の8月5日付新潟発、親不知海岸スケッチを添えた葉書写真が掲載されているが、本状はそれと同種である。図録解説は8月の佐分の道程が示されており、本状に依って先立つ7月の道程も明らかになる。

 1915年8月5日付 図録画像

以上が今回のこぼれ話である。どうと言うことのないinformation only に過ぎない。が、入手した者としては付帯物が興味深い品々で思わぬ幸運に恵まれた気分になったし、作品本体からだけでは味わえないだろう、画家佐分真を身近に感じたことが嬉しかった。

後日談。佐分真について書いてきたこぼれ話3篇を通して、その図録から多くを学んだ1997年一宮市博展と2011年一宮市三岸節子記念美展の両方を学芸員として担当した毛受英彦(めんじょうひでひこ)氏に会うことが出来た。今回の件についても訊ねてみた。あくまで推測だがと前置きされた上で、1976年銀座松坂屋展の後、真の妹保子氏が所蔵していた兄ゆかりの作品や関連資料を美術館に寄贈したり縁戚知人に遺品分けの形で配り一部は画商等を経由して市場に出たようだ、と教えてくれた。本作もそのうちの1点ではないか、と直感した。この展覧会はそれまでの展覧会と違い保子氏が企画し名古屋以来の所縁深い松坂屋に持ち掛けたようである。彼女にとって兄没後40年をひとつの区切りと思い定めての一連の行為だったと推測する。調べてみると当該展パンフレットに所蔵佐分保子となっている作品群は大作のほとんどが後年の展覧会図録では愛知県美はじめ公立美術館の所蔵となっている。更に毛受氏は、1回目の展覧会は佐分の子息、佐分純一慶應義塾大学名誉教授(当時)が「画家佐分真 わが父の遺影」1996(前出の著書)を上梓したばかりの高揚感がおありで懇切熱心に協力してくれたこと、2回目の展覧会は協力業者の担当者が熱意を持って取り組んでくれ展覧会副題―洋画界を疾走した伝説の画家―は二人して考え抜いた末のキャッチコピーだ、等々を懐かしく語ってくれた。

佐分は1927年1月から1930年12月まで渡欧し、1年程国内に居て1931年10月再び渡欧する。しかし前回と違い親しい友人はみな帰国しフランスでの味気ない生活に嫌気がさしたようで1932年12月日本に戻る。約1年間と短い期間だった。風景画はほとんど描かず、1929年10月のオランダ行で出会ったレンブラントへの傾倒を持続し光と影を強調した重厚で精神性を感じる人物画を多く描いた。本作をはじめとする多数の婦人デッサンはそれらの作品とは趣が異なる印象がある。しかし、画家にとって油彩画完成に至る下図段階でのデッサンの繰り返しは必須の過程であり、帰国後、帝展特典を重ねた室内人物画に通じて行く佐分真の姿勢を示す証左だと言えよう。

文責:水谷嘉弘

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