【topics】日本美術家連盟が「板倉鼎」を取り上げます

一般社団法人「日本美術家連盟」常任理事の入江観先生から、同連盟の部会「明治以降美術業績調査委員会(笠井誠一委員長)」で板倉鼎を取り上げてくださる旨の連絡を頂戴しました(本ホームページ、2020年7月2日付け【topics】ご参照)。

その後、野田哲也先生、中林忠良先生(日本美術家連盟理事長)にお目にかかった際、この件をご報告し改めて板倉鼎についてご説明しました。

板倉鼎顕彰活動にとって、現代日本洋画、版画を代表する先生方にお力添えいただけることは心強い限りです。

関連行事には当法人からも参画する予定です。

(文責 水谷嘉弘)

 

【column】安井曾太郎こぼれ話 作者は誰だ?

或る画廊に入った途端、12号の油彩画が目に飛び込んで来た。林間水辺の群像図である。入荷間もないらしく店主の側の壁にキャンバスのまま立て掛けてあった。誰の作品か問うと「未完成、何かの習作のようで署名はない。キャンバス裏面に日動画廊のシールが貼られていて安井と書いてあるが・・・」との返事。確かに、塗り残しはあるし細部に手が入っていない。ただ自分が知る限りでは安井曾太郎の作とはとても思えなかった。しかし、群像5人の構図がよく、人物の描線に味があって一目で気に入ってしまい即頂くことにした。以下、作者について推理する。

本作を見てまず思い立つのが、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(1824年〜1898年)である。黒田清輝(1866年〜1924年)がフランス留学中の1893・明治26年3月にアトリエを訪ねて以来、近代日本洋画へ大きな影響を与えた。藤島武二、青木繁はその構想画に装飾性を学び、児島虎次郎はその作品三点を大原美術館に収蔵する。里見勝蔵はシャヴァンヌの素描を愛蔵していた。少し後の世代、板倉鼎は1927年3月の松戸の実家宛の手紙に「パンテオンと云ふお寺へシャヴァンヌという人の壁画を見にまゐりました」と記している。シャヴァンヌは壁画を得意としたが、本作も画面上部が半円で区切られており、底辺部真ん中の果物籠は壁画の題名パネルを嵌め込む部分になるのかもしれない。

次に連想したのが斉藤与里(1885・明治18年〜1959・昭和34年)だ。与里は現在の埼玉県加須市生まれ。20才の時(1905・明治38年)画家を目指して京都の聖護院洋画研究所・関西美術院に入り、浅井忠、鹿子木孟郎に学ぶ。同門に3歳年下の安井曾太郎、梅原龍三郎がいた。1906年鹿子木についてパリへ渡りジャン・ポール・ローランスのアカデミー・ジュリアンに入学する。本作に通じる一連の作品を並べてみた。

斉藤与里作品 (左から)

【木蔭】1912(明治45・大正1)年作・第1回フュウザン会展出品 【第2回フュウザン会展欄間装飾画】1913年作

【朝】1915年作・第9回文展初入選 【収穫】1916年作・第10回文展特選

本作の作者は与里作品を観たに違いない。1910年代後半から20年代半ばにかけて日本国内での制作だと思う。フランス留学経験者で既に当地でシャヴァンヌを観ていたとも思う。画面はフラットで装飾性を帯び、構想画を意識しているからだ。当時全盛だった主観主義的なポスト印象派やフォーヴを指向する若手ではあるまい。彼らはまだフランスに旅立っていない。本作は習作とはいえ完成度が高く筆致がこなれている。すっきりとしたモデリング、線描が巧みで姿態に動きもある。

こういった見立てを安井曾太郎(1888・明治21年〜1955・昭和30年)の経歴と照らし合わせてみた。1904年、18才で聖護院洋画研究所入所。1907年、渡仏する。斉藤与里がマルセイユまで出迎える。安井もアカデミー・ジュリアンに入学。与里は翌年帰国するが、安井は同校で勉強を続け、日本人で初めて校内コンクールで優勝する。それまでの日本人最優秀は与里の第12位だった。1914・大正3年、第一次世界大戦が勃発し帰国する。翌年、第2回二科展に滞欧作44点を特別出品し注目されたが、この後10年以上のスランプに陥る。二科展への出品は続けるが、作画上の模索を繰り返し話題になることも少なかったようだ。西欧と本邦との風土の違いから表現に苦悩したといわれている。この間、1919・大正8年9月に斉藤与里、梅原龍三郎と共に兜屋画廊主催洋画展の審査員を務めている。1929・昭和4 年に発表した【坐像】と翌年の【婦人像】が安井様式の誕生を告げ以降大家への道を歩む。京都国立近代美術館館長を務めた富山秀男氏はこう書いている。

(帰国後は)作画上の模索と低迷を経験しなければならなかった。(中略)僅かな期間に作風が幾転変したのもその間の模索と苦闘の激しさを物語っている。一時はドランやボナールなどの作風に惹かれたような時期もあった。すなわち形体や色彩の関係を単純化してみたり、また逆に紫色などを混ぜながら、暖かく柔らかい色調で全体を緻密にまとめ上げるような試みも行っているのである。

 

安井曾太郎作品

左上【水浴】1914年作 左下【夫人の像】1918年作 右上【黒き髪の女】1924年作  右下【樹蔭】1919年作

本作が描かれたと思われる時期は帰国後の安井が模索していた頃に重なる。1919年作の【樹蔭】は林間の裸婦群像図でテーマは類似するが印象がまるで違う。きっちり描き込んであり重厚感溢れる。人体表現も肉づきがよい。様々に試作し、後年のしなやかで流麗な描線を獲得する過程で描いた、と理解しないと本作には繋がらない。

 

キャンバス裏面に貼られた日動画廊のシールは昭和戦前期のものらしい。日動画廊に当該部分の画像を送って訊ねてみた。親切に対応していただいた。その返事はこうだった。「戦前のシールと思われます。ただ、当社ではシールをキャンパス地に直接貼ることはしません。木枠か額裏に貼ります。副社長に確認しましたが、シールの字体は先代では無いとのことでした。」日動画廊の創業は1928・昭和3年、本作制作(と思われる)時期とは時間的な乖離がある。シールは表面が素である上部端に貼られてはいるが・・・

現役の画家にこの絵を見せて感想を聞いてみた。「とても上手だ、左端の人物が持つ平籠に入れられた赤い果物の画き方が絶妙。」と言う。

状況証拠的には、画学校、パリ、交友、等などシャヴァンヌ―斉藤与里―安井曾太郎を結ぶ線は太い。本作の作者はその周辺にいた人物と考えられないだろうか。日動画廊シールの「安井」も、故なしには記されないと思うのである。佳作であることは確信するが、作者については推理を重ねるばかりで埒が明かない。本稿を読まれた方の知見、ご意見を教示いただきたく、よろしくお願い申し上げる次第です。

(文責:水谷嘉弘)

 

 

 

 

第4期運営体制のお知らせ

当社団法人は9月30日に第3期事業年度を終え、先日社員総会を開催いたしました。今期も前期と同様の役員陣で運営にあたります。

今期は、前期に続き美術関係者との面談、ギャラリー訪問、刊行物への寄稿等を行うとともに、コロナ禍の状況を見定めながら積極的な対外活動を進めて行きます。板倉鼎を巡る画家たちの作品展、セミナー開催等の実施や後援を予定しています。

よろしくお願い申し上げます。

代表理事・会長 水谷嘉弘

【column】伊原宇三郎こぼれ話 その2 1912(明治45・大正1)年 ―18才時― の作品

前回取り上げた伊原宇三郎は官展アカデミズムにおけるbignameの一人である(1894・明治27年〜1976・昭和51年)。画家としての全盛期は戦争記録画制作に費され、平時であれば描かれたであろう作品群を観る事が出来ないのはつくづく残念に思う。

伊原は東京美術学校(以下、美校)西洋画科の藤島武二教室に学び首席で卒業した(1921・大正10年)。才にも恵まれていたのだろう。若い頃から絵は上手かったようだ。郷里徳島での小学生時代に既に日本画の模写をし、大阪に転校した1911・明治44年には関西中等学校美術展覧会で一等賞を取っている。17才の時である。先年、1912年の年記が入った風景画が市場に出た。改元のあった同年は近代日本洋画史を画期する年でもあり、後に大家となる伊原18才と当時の中央画壇との作品の距離感を知りたくて購入した。

1912年は、白馬会の後継ともいえる光風会創立の年だが、美校卒業制作で萬鐵五郎が【裸体美人】を提出し10月には銀座読売新聞社社屋で斎藤与里、岸田劉生らの第一回ヒュウザン会展が開かれている。白馬会・外光派に物足りなさを感じた若手画家たちの新たな動きが顕在化した年でもあった。二年後には文展の審査姿勢に反旗した中堅画家たちが二科会を設立している。しかし、大阪にいた中学生伊原宇三郎の絵はそういった動向とは無縁だった。当然といえよう。【稲干し】と題する伊原作は、農婦二人が刈り終わった田地に腰をかがめて手を差し伸ばしている。ミレーの【落穂拾い】を彷彿させるものだ。中景の男性の大きさと全体の遠近感の不釣り合い、地面の表現などに稚拙な点もある。しかし明るめの中間色で色調を統一し、その濃淡で画面分割して安定感ある構図を作る巧みさ、穏やかで拡がりのある田園風情は18才の作として秀逸だ。若きバルビゾン派といえよう。伊原がミレー作を識っていたのかは分からない。バルビゾン派の紹介は既に始まっており1903・明治36 年には【ミレー画譜】【ミレ名画全集第壹輯】等が出版されていた。後年彼は、中等学校展覧会一等賞が人生で最も嬉しかった出来事でそれで画家になる決意を固めたと書いている。賞品にもらった油絵道具一式で【稲干し】を描いたに違いない。

伊原のキャリアを振り返ってみる。黒田清輝が東京美術学校西洋画科開設と同時に教授に就任しコランの外光派を伝えたのは1896・明治29年。黒田やそれに続くフランス留学→美校教官組はミレー、コローに強い共感を示しており、印象派の強い表現ではなくその傍系に位置する穏健なコランの外光派に寄っていく。1916・大正5年に美校に入学した伊原もその流れに属しているといえよう。彼の徳島中学時代の美術教師は丹羽林平、安藤義茂である。丹羽は美校西洋画科第2回卒業生(1898・明治31年)、安藤は美校図画師範科第4回卒業生(1911・明治44年)でありその指導はバルビゾン派→外光派の流れを汲むものだったと思われる。伊原本人は大阪での美術教師の名前を挙げていないが、美校図画師範科第5回卒業生(1912年)塩月桃甫と写生に出掛けていたようだ。京都にはフォンタネージ(バルビゾン派)の高弟、浅井忠が始めた聖護院洋画研究所・関西美術院もあリ、近くにはそこで学んだ画家達も多くいたであろう。

2021年春、南薫造(1883・明治16年〜1950・昭和25年)の回顧展があった。出世作とされる1912 年作【六月の日】が出展されていた。奇しくも伊原の【稲干し】と同じ年、同じ題材である。収穫作業後の農夫を描いているが印象派そのものと言って良い。2才年上の美校先輩、児島虎次郎が同時期留学中のベルギーで描いた油彩画にも似た筆触が見出せる。三宅克己らの水彩から学び始めまずイギリスに留学した南はフランスに渡って印象派に馴染み、帰国してからは印象派、そして晩年にかけてフォーヴ的なスタイルに変わって行く。一方、11才年下の伊原は学生時代にバルビゾン派・外光派から入り、フランスに留学してポスト印象派以降を知り古典古代、ルーブル美術館での模写を経由してピカソの新古典主義に収束する。二人の歩みの違いにも近代日本洋画史の、世代毎に性急に西欧絵画をcatchupして行く流れが見えて来るのである。

伊原の生誕100年記念回顧展図録(1994年)に掲載されている最も若い時期の作品は美校入学前後の1915-16・大正4-5年―21-22才と、1916年―22才、のもの。前者は短めの筆触を残す明るい印象派的な屋外椅子テーブルの写生画、後者は波打つ粗い筆触線と強めの色彩対比が目立つフォーヴ風の人物画である。しかし表現主義的な描写は体質に合わなかったのか、1920年以降は落ち着いた色彩、質感を出す筆遣い、正統的な写実で官展アカデミズムに直結していく作品を多く描いている。今回取り上げた宇三郎18才の作 ―面で捉える上手さを既に示している― の延長線上で描き続けていると見なすことが出来るのだ。

(文責:水谷嘉弘)

【column】伊原宇三郎こぼれ話 額裏情報から制作年を割り出す

今回は(も?)こだわり話である。focusするのは額の裏面、そこから表面の作品や作者に関する情報を得る試みだ。田辺至こぼれ話の際、額裏に貼られた名刺から制作年を引き出した。今回の対象者は、伊原宇三郎(1894・明治27年〜1976・昭和51年)である。

 

額縁裏の木枠に、【布のエチュード】と記された作品がある。粗い青みがかった白地の布が木机の天板上に大雑把に広げられたままの状態を描いている。エチュードとある通り、本作品の一部分に描き込むための習作だろう。伊原の本領ともいえる描線を引かず筆による面取りだけで形と質感を捉えている。1925・大正14年3月、フランスに渡った伊原は風景写生や美術館巡りの後、イタリアに出向いて古典古代、ルネサンスに親しみ、ルーブル美術館で模写しピカソの新古典主義に回帰していく。1927年【毛皮の女】でサロン・ドートンヌに初入選し、翌年も【横臥裸婦】【赤いソーファの裸婦(白布を纏える)】を出品した。帰国する1929年を挟む前後2~3年、襞の入った白布を身に着けた存在感ある―古典的な香りがする― 裸婦像や群像を多く制作した。本作もその期間に描かれた習作と見立てたのだが、ウラを取りたく裏面をあたってみた。額裏木枠の右下に青色の切手のようなシールが貼ってあった。図案化された鳩を囲んで四隅の漢字が[**週間]とある。上の*の部分は破れていてわからないが、下の*はつくりの部分から「情」だと判断し、いくつか当て嵌まりそうな単語を入れて検索してみた。「愛情週間」、「友情週間」・・・。「同情週間」がヒットした。朝日新聞が主催した助け合い募金運動の呼称で1924・大正13年に始まり、1941・昭和 16年まで続いた。1930年代が最盛期と思われ東京朝日新聞社会事業団では1937・昭和12年に事業報告書まで出している。この同情週間運動と本作との直接の関係はわからないが、作品の制作年代は伊原帰国後の1930年代前半と見てほぼ間違いあるまい。彼は、30年代半ばには洋画界の運営、後半は従軍画家としての活動に追われ本作を習作とするような作品は登場しないのである。

 

  

もう一点、額裏に【熱河の喇嘛廟】と書かれた紙片が貼られていた作品もある。画題から、制作年は伊原の年譜に依って中国北部〜北支(奉天、熱河)に赴いた1938・昭和13年だと分かる。本作は豪奢なラマ寺を接写したためか、満蒙地域を描いた他作家の風景画によくある重厚な印象とは異なり明るさが目立つ作品になっている。興味が湧いたのは紙片に押された[伊原]と[宇三郎]の二つの印影である。昭和のはじめ、戦争の気配が漂う頃から洋画家の作品にも四角の漢字印が押されることが多くなった。この作品もその例に当てはまる。この印が押印された他の作品例を探ってみることにした。伊原は北支行の翌1939年1月には菊池寛と共に中国中部〜中支(上海、南京)を訪れる。菊池寛執筆の【西住戦車長伝】(東京日日、大阪毎日新聞夕刊連載、同年3月〜8月)の取材のためだ。その時の素描(と思われる)画像に同じ[伊原]印が押されていた。更に、そこに署名されたイニシャル[宇]は、連載記事の単行本(東京日日新聞社刊、伊原装幀)表紙画にも記されていた。本作の額裏情報は前作と違いすんなり繋げていくことが出来た。

  

(左)【裸婦】滞欧期作 (右上)【圧倒】1939年作

(文責:水谷嘉弘)

【news】社団法人理事 高橋明也氏が東京都美術館館長に就任します

当社団法人理事の高橋明也氏が、10月1日付けで東京都美術館館長に就任します。

昨年、三菱一号館美術館初代館長を退任した後フリーランスで活動されていましたが、美術館現場に復帰することになりました。

当社団法人理事職には留まり、引き続き板倉鼎、須美子夫妻の顕彰活動を支援していただきます。

【column】岸田劉生こぼれ話 劉生戯画「京の夢 大酒の夢」

挿画の話を二度書いたが、今回はそのジャンルに近い戯画について書いてみる。岸田劉生(1891・明治24年~1929・昭和4年)のいわゆる劉生戯画で、画面に[京の夢 大酒の夢]と記された紙本墨画が手許にある。劉生と思われる小肥りの中年男が徳利を側に肘枕で寝そべリ、芸姑が酌をしてくれる場面を思い浮かべる情景をサラッと描き流している。文言といい、本人や芸姑の描写といい、軽妙洒脱、見ていて思わず笑みのもれる画である。

  

劉生は関東大震災後、京都に移るが茶屋通い、肉筆浮世絵蒐集に嵌ってしまう。その放蕩生活から脱却し創作に専念すべく1926・大正15年3月鎌倉に転居する。本戯画には、[昭和壬申年十一月](1928・昭和3年11月)と年記があリ、鎌倉転居後の作である。劉生がしばしば酒席で余興に描いた戯画の一枚かもしれない。これを描いた11月に〈・・・画を描く心持が大部動き出して来ました。今小品油絵かいています。十二月初旬京都大阪神戸方面にて大調和展の一部をやります。その時上洛します。〉と京都在住の知人に葉書を出し、翌12月9日同人宛に〈・・・その後京都へ行かう行かうと思ってまんのやけど、いそがし事が多うて、まんだゆかれしめへん〉と再度投函している。京都での遊興を思い浮かべながらも、生活も精神も落ち着いた様子がうかがえる。そんな中で描いたからかユーモア、茶目っ気を感じさせる作品になっている。2019年に「没後90年記念岸田劉生展」を開催した東京ステーションギャラリーの冨田章館長にこの戯画画像を送ったところ展覧会図録執筆者の一人、学芸員の田中晴子さんにも見せたそうで「こういう陽気さ、面白さも劉生の一面だったのですね」と感想を述べていたと返事をくれた。画中、四角の枠に[隠世造宝]と書き込んであるのは、劉生が日本画を描き始めてしばらくした頃(1923・大正12 年)[隠世造寶]の印を入手し落款印として使っておりそれで理解出来る。

実のところ、不勉強にして今回の題材にした劉生戯画を入手するまで素描が岸田劉生絵画作品群の中で大きな位置を占めている事を知らなかった。前出の東京ステーションギャラリー田中晴子さんは、図録に執筆した[岸田劉生の「趣味性」による作品について]と題する論文を〈劉生芸術の全体像を捉えるためには、劉生自身が「芸術」とした作品だけを対象とするだけでなく、「趣味性」によって、多くは金を稼ぐために描かれた作品群を含めて検討することが必要ではないだろうか〉と締めくくっている。彼女の論文は1912年から15年に描かれた新聞挿画や半切画を対象にしているが、コメントは劉生の「趣味性」作品全部に当てはまるのではないだろうか。同展に先駆けてうらわ美術館他で「素描礼賛 岸田劉生と木村荘八」展が巡回開催されていた。この展覧会も趣旨は一緒だ。

    

劉生は本題戯画を描いた1年後の1929・昭和4年12月、満洲訪問(生涯唯一の海外旅行)の帰路立ち寄った山口県徳山で体調を崩し急逝した。享年38歳。復活に向けて気持ちが充実しつつあっただけに無念だったろう。戯画に描かれた寝転んだ劉生の顔かたちは没年に撮影された写真にそっくりで最晩年の自画似顔像である。没年にも同種の似顔画を描いていて展覧会図録に掲載されていた。本稿は【没後90年記念岸田劉生展図録】(2019年刊、執筆山田諭氏他)、【素描礼賛 岸田劉生と木村荘八】(2019年刊、執筆迫内祐司氏他)、から多くを教示いただいた。

(文責:水谷嘉弘)

【topics】「私の愛する一点展」図録から

5月に【column】島村洋二郎こぼれ話 に登場いただいた島村直子さんから、先月末まで東御市梅野記念絵画館で開催されていた「私の愛する一点展」の図録を頂戴しています。遅くなってしまいましたが、彼女が出品した島村洋二郎作品「桃と葡萄」の掲載ページを紹介します。当社団法人にも言及していただきました。

【column】小出楢重こぼれ話 素描―習作―完成作

田辺至の挿画について書いたので今回は同じテーマで小出楢重に触れてみる。田辺至は1886・明治19年生まれ、小出楢重は1887・明治20年生まれの同世代。それぞれ東京美術学校を1910・明治43年、1914・大正3年に卒業している。この世代の洋画家たちは、大正から昭和にかけて円本プームに象徴される文学(小説)隆盛の時代、新聞連載小説活況の大きな要因となった挿画を手掛けている。(前回紹介した山本有三、田辺至の【波】は1928・昭和3年連載)

   

その頂点といえるのが【蓼食う虫】の谷崎潤一郎、小出楢重コンビである。東京日日、大阪毎日新聞夕刊に1928・昭和3年12月4日から1929・昭和4年6月19日(大阪毎日は18日)まで全83回(挿画83点)、随時連載された。最初の単行本は1929年11月改造社刊だがこれには挿画は1点も入っていない(装幀は楢重)。楢重没後の1936年6月の創元社刊行本に全83点が掲載されている。創元社本には新聞掲載作とは異なる挿画が約20点あるそうで、更に習作もあって原画は83枚よりかなり多いようだ。私の持つ挿画原画は創元社本掲載作【その7の5】(通算38番目)の習作である(新聞掲載作との照合はしていない)。フォークを持つ手を囲む楕円の大きさが掲載作より一回り大きく四角張っている。芦屋市立美術博物館・芦屋市谷崎潤一郎記念館刊行の【小出楢重の素描・小出楢重と谷崎潤一郎】には谷崎潤一郎談として以下が引用されている。

― 何べんも描いてるんです、同じ場面を。そのなかから、小出さんが自分で選んだのか新聞社で選んだのか知りませんけれども決めましてね。だから同じ図柄のものがあと何枚もあるんです。それをまた希望者があって分けたりして、屏風なんかにした人もあったようですね。それだから「蓼食う虫」の挿画入りの本(水谷註:既述、創元社刊行本)が出た時に、自分の持ってる絵と違ってるけれどもって、質問して来る人がありましたよ。でも、どっちも本物には違いないんです。 ―

   

この芦屋市刊行の本からは多くを学んだが、嬉しい発見もあった。第7章[素描(2)]に【夏祭りの図】【天神祭り】と題する習作(下絵)2点が掲載されていたのだ。私は、この作品の完成作を持っているからである。楢重の随筆集【めでたき風景】(1930・昭和5年刊)所収の[祭礼記]に因んだ作品で、挿画原画と思ったのだが随筆集当該章には挿画はない。1988・昭和63年、大阪の画廊で展示された記録はあるが由来や系統は判らないままであった。そこに下絵2枚の存在を知ったのである。ルーツを見つけた気分だった。完成作をよく観ると数箇所に和紙を小さく切って本紙に貼り付け、その上から書き直している事がわかる。楢重の創作過程を垣間見ることができる。

   

楢重にこういう書き出しの随筆があることを引用紹介して本稿を終えたい。

― 誰も同じ事かも知れないが、どうも私はほんのちょっとした絵を仕上げる場合でも必ずそれ相当の難産をする。楽しく安らかに玉の様な子供を産み落したという例は、皆目ないのである ― [因果の種](随筆集【めでたき風景】所収)。

(文責:水谷嘉弘)

【topics】「フジタとイタクラ」の新情報2件

(追記:集合写真原版所蔵者、石黒敬章氏 ー石黒敬七ご子息ー から画像を提供いただいたのでアイキャッチ写真を差し替えました)

①板倉鼎は、1927年5月3日に開催された萩谷巌の送別会(パリ)に藤田嗣治と共に参加していました

「巴里週報」第86号(1927・昭和2年5月某日発行)と1枚の集合写真(写し)を入手、週報には5月3日の萩谷巌送別会の記事と参加者リストがあり板倉鼎、藤田嗣治、共に記載されていました。一方、集合写真では中段真ん中からやや左、頬に手を添えているのが藤田嗣治。その左隣の若い男性が板倉鼎(当時26才)と思われます(鼎の比定は再検証します)。

 巴里週報 第86号(復刻)       

「板倉鼎・須美子書簡集」所収の同日前後の手紙は4月30日付けと5月14日付けで「5 月7日にアカデミーで発熱してまだ臥せっている」旨が書かれ、5月3日の会合には言及していません。

過去の板倉鼎関連の展覧会図録、展示リスト等に今回の情報はなく、鼎の比定が確定すれば「フジタとイタクラ」二人が共に写っている2枚目の写真となります。

(追記:石黒敬章氏に提供いただいた画像で再検証した結果、藤田嗣治の左隣の人物は板倉鼎ではなく、高野三三男(洋画家、1900〜1979)に比定しました。彼の真下に写る帽子の女性は、後に妻となる岡上りう(洋画家、1896〜1969)です)

2020年7月4日付けの本【topics】欄で、聖徳大学博物館で開催された「フジタとイタクラ」展に展示された写真を取り上げました。1927年3月22日、大久保作次郎送別会(パリ)の集合写真で板倉鼎、藤田嗣治が共に写っており展覧会名の根拠となった1次資料です。同写真に写っている中村拓医学博士の子息、中村士(つこう)先生(理学博士、天文学)からのご教示を紹介しましたが、今般、同先生との情報交換から新たに本件が判明。資料2点を提供いただき突き合わせた結果確認が取れたものです。

 大久保作次郎送別会 1927・3・22

②板倉鼎が「巴里週報」創刊二周年記念号に名刺広告を出稿していました

1927・昭和2年8月1日発行の第97号です。同号は創刊二周年記念を謳っており、藤田嗣治の祝辞のほか多くの氏名が列挙されています。祝辞を寄せた人々のリストで名刺広告と思われます。「板倉鼎・須美子書簡集」に登場する人物では、藤田他、伊原宇三郎・しげ子夫妻、長谷川潔、岡見富雄、中村拓、熊岡美彦、松葉清吾、蕗谷虹児、小山敬三、小寺健吉、佐分真、高野三三男、御厨純一、森田亀之助、等々。他にも大久保作次郎送別会写真に写っている人物が相当数います。

  巴里週報 第97号

(参考)「巴里週報」と石黒敬七(1897・明治30年〜1974・昭和49年)

「巴里週報」は柔道家石黒敬七が、パリ在の1925年から33年まで発行したガリ版刷りの情報誌で当時の在フランス日本人の動向を伝える貴重な資料です。石黒敬七は新潟県生まれ、中学時代に柔道を始め1922年早稲田大学政治経済学部卒業(柔道部主将)。1924年から柔道普及のため欧州を歴訪し英仏トルコ、エジプト等の陸軍、警察で指導しました。1933年帰国、1946年講道館8段。1949年からNHKラジオ「とんち教室」にレギュラー出演してユーモア溢れる語り口が人気をはくしました。カメラ、古写真コレクターとしても著名。敬七は上述した二つの送別会集合写真の中央に写っています。

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