【column】エッセイ集『板倉鼎をご存じですか ― エコール・ド・パリの日本人 画家たち』出版こぼれ話

私が主宰している一般社団法人「板倉鼎・須美子の画業を伝える会」が千葉市美術館で開催された「板倉鼎・須美子展」(2024・令和6年4月〜6月)の後援団体になった。これに合わせて拙著「板倉鼎をご存じですか ― エコール・ド・パリの日本人画家たち」を上梓した(2024年4月)。本篇はその顛末記である。

きっかけは2023年12月上旬の文芸書専門の出版社コールサック社社長鈴木比佐雄氏からの電話だった。同社のことは、叔父島村洋二郎画伯の顕彰活動家島村直子さんから編著「島村洋二郎詩画集」(2016・平成28年11月)を謹呈されていて知ってはいた。同じく同社刊の福田淑子さんの第2歌集「パルティータの宙」(2023年12月)のカバーに板倉鼎の「金魚と花」を使いたいとのことで所蔵者松戸市教育委員会に話しを通したり、アスリー悠さんを紹介してアート作品集「あなたは一人じゃない」(2024年1月)を刊行したり、等で鈴木氏とも行き来はあった。氏の電話はそれら著者からの情報や、私がNHKラジオ深夜便で美術エッセイを書いていると話したのを知ったからのようだった。藝大同窓随想集「a−can−thus」(2022年11月)、社団法人ホームページと文芸同人誌「まんじ」に連載している「近代日本洋画こぼれ話」を読ませて欲しいと言われる。郵送してしばらくたった頃、会いたい、と再度の電話があった。暮れも押し迫った面談当日は編集者座馬寛彦氏も同行された。二人で私の雑文類を全て読み込んだようだった。驚いたのは既に目次が完成しており、章立て、章題も出来上がっていた。本のタイトル、仕様まで提案書にあった。それを示しながら美術エッセイ集を出版したいと仰有る。翌年4月の千葉市美術館「板倉鼎・須美子展」の開催に間に合わせたいと仰有られる。私としては本格的な板倉回顧展に同期して出版するような重みに耐えられるのか、3ヶ月で出来るのか、と不安だったが本を出せるとの思いがけない成り行きに心を動かされ応諾した。

エッセイ集には「a−can−thus」に寄稿した半生記「ビジネス発・アート着」の他、2023年12月末までに書いた「近代日本洋画こぼれ話」43篇を収録した。第1章のタイトルが「芸術と金融、私の二刀流」。編集者が付けたこのタイトルはその頃最大の話題であった米国野球メジャーリーグ大谷翔平選手の二刀流に因んだとのこと。畏れ多いようなこそばゆい気がした。以降は美術エッセイで、第2章「板倉鼎をご存じですか」、第3章「パリに渡った黄金世代の洋画家たち」、第4章「国際派とアカデミスト 渡欧の成果とその後」、第5章「近代日本洋画趣味譚」、と続く。コロナ禍以降の3年弱の間に、気に入った絵を買ったり思いがけない資料類を手に入れたりした時、脈絡無くランダムに書き綴った雑文の類が章立てに依って自然につながる組み立てになっていた。

編集者に、大学同期の絵本評論家松本猛、美術史家高橋明也両君との三人対談を提案した。我々の世代の美術界人の想いや活動を記す有効な資料になると了解の返事が来た。座談会シリーズを「附録」として位置付けることにし、「a−can−thus」の直前に発行された一般社団法人日本美術家連盟の機関紙「連盟ニュース」2022年10月号に掲載された座談会記事「板倉鼎と須美子のもうひとつのエコール・ド・パリ」の転載も連盟から応諾いただいた(出席者:笠井誠一先生、入江観先生、田中典子さん、水谷)。更に巻末の「美術史略年譜」「美術家・美術評論家生年表」「人名索引」の充実に注力した。最近顧みられることがほとんど無くなってしまった近代日本洋画(明治・大正・昭和期)の系譜を一覧性ある資料として有用性を確保したかった為である。

三人対談は、新宿にある都立戸山高OBクラブで行った(2024年2月12日)。あれこれと話題が多方面にわたり、脱線話も交え4時間近い長丁場になった。座馬さんには原稿起こしで相当な負担をかけてしまったと思う。座談を終えた後の会食の場でも放談が続き楽しくも長く疲れた一日だった。

巻末の解説は、同窓同学科の大先輩、洋画壇重鎮の入江観先生に直接電話をかけてお願いした。快諾いただいた。編集者からゲラをお送りした。先生から「原稿は想定していたよりはるかに多くて大変だと思ったが、目を通したら面白く、読み進むことが出来た」と電話を頂戴して安心した。「跋」として「新しい視点に期待する」のタイトルで原稿をいただいた。

さて、本筋に戻る。年が明け2024年2月はじめに校正ゲラ初校が送られて来た。厚さに度肝を抜かれた。大丈夫か、と思った。その時々で随意に書いた原稿なので表現を統一したり、後先の辻褄を合わせたりと見直しする度にページ数が増え、当初予定の320ページが附録の座談会シリーズ等を加えて最終的に432ページとなってしまった。美術書でありカラーページを含め多くの作品画像掲載が必要である。掲載作品を選定し、その高精細画像を入手するため所蔵している美術館へ依頼する。元データが無い場合はスキャンして原稿に組み込む。更に著作権という難題を解決しなくてはいけない。刊行まで日数の余裕が無くこれは私が自ら対応することにした。総計30人の画家の作品画像を掲載したが、著作権保護期間内の人は20人に上った。美術年鑑の著作権者リストはほとんど役に立たない。エッセイ執筆時に調べて分かったり、その後もたらされた情報が役に立った。手間暇はかかったが、お蔭で取り上げた画家の直系縁戚にあたる方々とやり取りが出来た。電話をかけ、原稿をお送りして画像掲載の許諾を得た。連絡がついた方々にNGを出される方はおらず、むしろ喜んでいただいた。伊原宇三郎子息の伊原乙彰さん、小堀四郎子息の小堀鷗一郎さん、里見勝蔵の孫山内滋夫さん、鈴木千久馬の孫鈴木英之さん、清水多嘉示三女の青山敏子さん、川島理一郎夫人の縁戚原田由香さん等などである。ご丁寧にお電話を賜り自宅に遊びに来てくれ、と仰有られた方もいらした。

本のカバーデザインには板倉鼎の代表作「休む赤衣の女」を採用することは当初から決めていた。コールサック社の装丁デザイナー作成案に社団法人ロゴデザイナー水川史生さんのコメントをもらい3案に絞った。決め手は一般財団法人日本サッカー後援会の評議員仲間、元NHKエグゼクティヴ・アナウンサー、解説委員の山本浩さんの一言だった。3案を見た瞬間、即決された。氏いわく「テレビマンとしてヴィジュアルには最も気を付けて来た。3案の中ではこれだ。鼎の絵の訴求力が凄い。カバーを見てそのまま手に取ってもらえるよう、絵の場所はカバー上部に、活字は目立たない方が良い」との的確なアドバイスを頂戴した。もちろん氏の選択に従った。

私事になるが実母京子が3月はじめに逝去したため、その前後は慌ただしく本書出版に対応する余裕が無かった。著者最終校正が出来なかったのだが、数え歳九十六で天寿を全うした文学書好きだった亡母への感謝と拙著出版の報告をここに書き記しておきたい。

こうしてタイトなスケジュールにもかかわらず編集者座馬さんの誠実で丁寧な仕事のお蔭で板倉展の始まる数日前に初版が刷り上がり納品された。私は仕事絡みで地方出張しており帰京した4月4日の夜、座馬さんが最寄り駅改札口まで現物をデリバリーしてくれた。鼎の絵が鮮やかな綺麗な本だと感じたが目を通す時間はほとんど無く、翌日は「板倉鼎・須美子展」の内覧会、レセプションに向かった。千葉市美術館のミュージアムショップに自分の本が平積みされているのを目の当たりにした時は流石に嬉しかった。東京都美術館館長高橋明也君の帯文や入江観先生の跋が Letter of credit になって多くの人に読んでもらえたようだ。入江先生にお願いした跋文は藝大芸術学科の来歴に触れられている。あまり知られていない同科の成り立ちがよくわかり、貴重な証言と言えるので先生の承諾を得てその部分を引用させていただく。

(quote)そもそも藝大・芸術学科とは、いかなるものなのか。昭和二十四年四月、旧来の東京美術学校が、東京藝術大学に衣替えした年に、「実技の裏付けのある」美学・美術史の研究者を育成する目的で設置された学科であった。当初は、卒業時に論文でも制作でも、どちらでも良かったらしいのだが、論文よりも制作を選択する学生が多くなってしまい、それでは芸術学科設立の趣旨に反するとのことで、私の前年、つまり四年目からは卒業論文に限ることになって科の性格は明確になったことになる。しかしながら、それでもなお、私の前後の世代に画家、彫刻家志望の者がかなり多く出たのは、加山四郎、山本豊市先生等、芸術学科専任の情熱的な先生がおられたからかも知れない。確かに、そういう傾向もあったが、私たちが親しく接した辻茂、山川武、佐々木英也、陰里鉄郎等の先輩方や、同期の辻成史、一年下の若桑みどり等は藝大、その他の大学で教える立場に立ち、又公立美術館の館長職を務める等、私などの眼の届く範囲に限っても、芸術学科の成果は挙がっていたと言うべきかも知れない。水谷さんが在籍した、ほぼ二十年後ともなれば、芸術学科は、既に成熟の域に達し、東京都美術館をはじめ全国各地の公・私立美術館の館長職や各地の公私立大学の指導者として働く数知れぬ出身者が居る現状は、芸術学科の「はぐれ鳥」である私などにとっても頼もしい限りである。(unquote)

出版社が用意したメディアや図書館等の謹呈先リストや、同窓の友人から提供してもらった美術館リストに基づいて約450冊を発送した。書籍の受贈に慣れている多くの図書館から定型ながら礼状が来た。これに比し美術館からの反応は鈍く外部への対応姿勢(ビジネスマナー)、コミュニケーションセンスの欠如、未熟さを感じた。その一方で、板倉鼎を契機として近代日本洋画の勉強を始めた私が多くを学んだ師と思っている方々から礼状が届いた時は感激した。著書や冊子を送って下さった人、[目次を見ただけでも読むのが楽しみだ]と書いてくれた人もいる。多種多様のコメントを頂戴した。美術仲間では使わない表現で板倉作品を語ってくれた銀行時代の上司、同窓後輩の一人は誤植、漢字の変換ミスから私の記述間違いに至るまで詳細にレポートしてくれた。これら友人知人からのかなりの量の手紙やメールが本を出版して得られた一番の果実だった。竹橋の東京国立近代美術館からも一報が届いた。日本近代美術の総本山、近美のライブラリーに収蔵されたようだ。

メディア関係では、美術専門誌「美術の窓」から板倉展の紹介記事執筆を頼まれエッセイ集の告知と書影も合わせて5月号(4月19日発売)に掲載された。また、地方紙「千葉日報」からは書籍送付直後にインタヴューの申込みがあった。本を持った写真と共に5月11日付け学芸欄に「松戸の水谷さん 美術エッセイ集」とのタイトルで掲載された。驚愕したのは出版後1ヶ月半経った5月25日、朝日新聞朝刊の書評ページに取り上げられたことである。まさかと思った。望外の喜びだった。

朝日新聞書評委員で小説家の山内マリコさんが執筆して下さった。千葉市美術館の板倉展を訪問したことから書き起こされ、続いて[(山内さんは)ひそかに鼎&須美子を推す者であった。しかし上には上がいた!]と私のことを紹介し[行動力が半端ではない]と書かれる。[(水谷)いわく「私にとってビジネスは放電、アートは充電だった。」正直、この章がいちばん面白かった。][同時代の日本の洋画家の掘り起こしに力を入れている。そちらは読み応えたっぷり。]と綴られて[ある芸術愛好家(ディレッタント)の集大成といった趣の書だ。]が末尾の一文だった。アマチュアが書いた趣味譚への過分なご評価なのである。 掲載日は早朝からメールやLINEで次々と知らせやおめでとうの連絡が入った。親しい友人たちは「山内さんは、水谷の気持ちや伝えたいこと、我々が感じていることを見事に捉え書かれている」と言い、中には「つげ義春の本と同列に、横尾忠則さん、山内マリコさんといった広く知られた方々から並列に評してもらったのは凄い!」などという悪友の手紙もあった。また、「本文もさることながら、巻末の美術史略年譜、美術家生年表は価値がある」とお誉め?の言葉も何件か到来した。これには私の意図が伝わったと一人ほくそ笑んだ。

朝日新聞書評の威力は凄かった。それまで、千葉市美術館や東京都美術館のミュージアムショップ、神田神保町の東京堂書店などごく限られた本屋でしか扱われず、主としてAmazon経由で流通していたに過ぎなかった本が、コールサック社に依れば新宿の紀伊國屋書店はじめ丸善、三省堂、ジュンク堂、蔦屋書店など大手書店から複数冊の注文が相次いで版元在庫が払底してしまったそうだ。コールサック社の営業担当者が書店回りをしたところ多くの書店が置いてくれたとのことだった。直ぐに増刷(初版の誤字誤植、文章修正など有って第2版をおこした)が決まり7月上旬に納品された。遅ればせながら、山内マリコさんに帯文も新しくした第2版に御礼状を添えてお送りした。

こうして半年に亘ったビジネスマン上がりのアート好きが書いた美術エッセイ集出版の顛末は一段落する。多くの友人知人が応援してくれた。仲の良い、或いはお世話になった方々には贈呈したにもかかわらず、その後かなりの人がわざわざ購入してくれた。周囲の人々に配ったようだった。板倉鼎・須美子の存在と作品を知ってもらいたい、と顕彰活動を始めた身にとってこれほど心強いことはない。最後になるが改めて厚く御礼申し上げたい。本当にありがとうございました。

【近代日本洋画こぼれ話】中村彝 清水多嘉示の生写真と下落合の二瓶徳松

2021年5月31日付けの【こぼれ話】で【清水多嘉示 渡仏前の生写真と中村彜】と題した篇を掲載した。彫刻家清水多嘉示の同郷(長野県諏訪)の友人で後年教育指導家となる川上茂(後に上條に改姓)旧蔵のアルバムを入手したからである。1923年3月、パリに留学した清水が長野県松本女子師範学校にいた川上宛に出した絵葉書も貼られていた。清水は渡仏前に諏訪高女で美術教師を務めており、1922・大正11年2月には同校と松本女子師範で清水主宰による「中原悌二郎・中村彝作品展」を開いている。アルバムにはその時の会場写真があったのだ。その件を書いたのだが、2023年6月に増補として以下の文を挿入した。本篇に関わる部分を再掲する。

清水多嘉示と中村彝の未完成作品 清水多嘉示と中原悌二郎作品   「中原悌二郎・中村彜作品展」会場写真(諏訪高等女学校) 1922年2月

(quote)今般、茨城県近代美術館の首席学芸員吉田衣里さんから照会の電話をいただいた。中村彝は茨城県出身で彼女は彝の研究者のようだ。清水多嘉示が諏訪高女で主宰した「中原悌二郎・中村彜作品展」会場写真、清水の後ろに写る2枚の絵についてだ。私は、清水が制作途上の自作を展示したものと理解していたのだが、吉田さんは「中村彜作品ではないか、【泉】はポーラ美術館所蔵の【泉のほとり】ではないか」と言う。早速調べてみた。会場写真は白黒のせいか陰影が濃く筆致が粗く見えるが、まさに瓜二つだった。ポーラ美術館ホームページの同作解説は、制作1920年とされていて [・・・従来この【泉のほとり】はルノワールの模写といわれてきたが、近年の研究によってそれが模写ではなく、中村彜の創作であることが明らかになってきた。(中略)「素戔嗚尊に題をとって勝手に想像で描いたもの」という中村の言葉からもうかがえる。(中略)彼は、1920年頃、展覧会の特別陳列などでルノワールの裸婦像を目にしたようだ。その衝撃から裸体画を描きたいという思いにとらわれ、この【泉のほとり】を制作したという。・・・] とある。しかし、吉田さんは中村彜「藝術の無限感」所収の洲崎義郎宛て書簡の同作に関する記述に注目する。[・・・何時もの欠点の「動線の不明」と「色の釣り合いの不整」とがつきまとって、絵の効果を鈍くして居るのですが、要点がよく分からないので思ひきった「シマリ」を入れる事が出来なくて、これにも閉口しております。・・・]。会場写真(1922年撮影)では右下部分が空白になっていて「未完成」表示もある。他にもそれを傍証する資料があって、吉田さんは同作の制作過程を再考する要があると考えたようだ。彼女の研究によるレポート発表を待ちたい。

【泉】諏訪高女会場撮影 「未完成」表示 【泉のほとり】ポーラ美術館

なお、もう1枚の【花】と題された未完成作品のその後は不明だそうだ。類似作品【ダリアの静物】の画像を示していただいた。

【花】諏訪高女会場撮影 「未完成表示」  【ダリアの静物】1919

同展に関する写真は、清水多嘉示の代表的な研究者である武蔵野美術大学(元)教授で彫刻家の黒川弘毅氏から「清水多嘉示アーカイブ」にも見当たらない、と連絡をいただいた。(unquote)

ここから本題に入る。【泉のほとり】の制作年代についてである。2024年11月から茨城県近代美術館で始まった没後100年記念 中村彝展(以下、本展)は質量共に充実した本格的な回顧展である。代表作で重文指定の「エロシェンコ氏の像」、「頭蓋骨を持てる自画像」や新宿中村屋の相馬俊子を描いた連作群等約120点が展示されていた。【泉のほとり】もポーラ美術館から到来していた。更に、その近くの壁面には、[(彝は)1920年(大正9)頃、展覧会の特別陳列などでルノワールの裸婦像を目にしたようだ。その衝撃から裸体画を描きたいという思いにとらわれ、この【泉のほとり】を制作したという。黄色と淡紅色を基調とした肌の色合い、溶け込むようなやわらかな筆触などに、ルノワールの影響がみられる。(ポーラ美術館ホームページ)]という、そのルノワールの裸体画群の一作【泉による女】も大原美術館から特別出品されていた。

ルノワール【泉による女】1914 大原美術館

[(吉田衣里さんは) 彝の【泉のほとり】制作過程を再考する要があると考えたようだ。彼女の研究によるレポート発表を待ちたい。]と私は書いたが、今般の本展でその成果が示された。展覧会図録から彼女執筆の本作解説文を引用して紹介する。

(quote)  (前略) 改めて(【泉のほとり】の)制作経緯について整理すると、本作の構想が最初に記されているのは、大正9年9月27日付けの洲崎義郎宛書簡であった。(中略) 彝が本作を発想したのは「仏蘭西近代絵画及彫塑展覧会」(水谷註:1920・大正9年9月)に刺激を受け、【エロシェンコ氏の像】及び【女】を制作していた渦中のことであった。(中略) 意欲的に制作を開始して、11月11日頃には、「遠景の森とその手前に展開する野原と、女の「上半身」の関係」がかなり「ウマク」いっていると感じたが、一方で欠点も眼に付き、その数日後の書簡には「余りうマクいかないので悲観した」と記している。その後、体調不良が続くなどして、本作は未完のままアトリエの壁に飾られていたが、大正11年2月、長野で教員をつとめていた彫刻家・清水多嘉示が主宰する「中原悌二郎・中村彝作品展」に出品する作品が必要になり、他に作品が残っていなかったためか、画面右下が白く残された本作が未完のまま出品された(*)。そして大正13年1月8日に彝は本作を今村繁三に譲るつもりで作品を今村に見せたようであることから、その直前に未成の部分を仕上げたと考えられる(*)。

(*)脚注:清水は、長野県諏訪高等女学校の美術教員をつとめていた。展覧会は、長野県諏訪高等女学校(2月5日)及び長野県松本女子師範学校(2月10・11日)で開催された。彝は、柏崎の洲崎義郎が所蔵する作品5点を展示したいので輸送するよう指示したが、雪によりかなわなかったという。(*)脚注:未成であった画面右下の部分は、他の部分に比してタッチが大ぶりで右端の女性の脚などが十分に描かれておらず、今村に見せる直前に急いで加筆したように見える。  (unquote)

生写真展示風景生写真展示風景(その2)

吉田さんの調査を経て、会場キャプション及び図録では【泉のほとり】の制作年は「大正9〜13(1920〜24)年」と表示されていた。先行するポーラ美術館の研究を尊重し、また制作期間を示したためと思われるが、彝が現在残されている作品に仕上げたのは、1924年であることは明らかであろう。

また、会場写真に写っていたもう1枚の未完成作品【花】は現在所在不明との事だが、1924年11月1~6日、水戸商業会議所で開催された第1回白牙会展には同名の作品が彜から賛助出品されている。同月13日に同会会員が返却のため下落合のアトリエを訪れたが一か月後の12月24日、彜は死去した。1947年の第17回白牙会展にやはり同名の【花】が特別出品されているが、こちらの画像は諏訪高女展展示の未完成作とは異なっていた。2013年、茨城県つくば美術館発行の「ようこそ、白牙会展へー茨城洋画界の幕開け」展図録から知ったことである。第1回展に彜が提供した【花】は時系列的に諏訪高女展展示作の可能性はあるが、残念ながら当該作品の画像は残っていないようだ。

現在茨城県近代美術館の館長は荒屋鋪透氏である。氏の前職は【泉のほとり】を所蔵し1920年作としたポーラ美術館の館長だった。氏が茨城県近代美術館長に異動し郷土の偉大な画家中村彝の没後100年に過去最大といえる回顧展を開催する時点で同作の完成年が1924年と判明したことに不思議な巡り合わせを感じる。既述したが同作のすぐ近くには彝が同作を描く契機となったルノワールの裸婦像群の一点【泉による女】も展示されていた。いわれのある絵画には時代や場所を超えて人や物の交錯がつきものである。本作もその事例であると言えるだろう。

さて、アルバムには、川上が清水から貰ったのだろう、清水が東京新宿の『下落合』に住む中村彝を訪ねてアトリエ前の庭で自ら撮った写真も貼られていた(1920年前後)。裏面に清水のサインがある彜の【友の像】1912年頃、の下書きデッサンと思われる写真もあった。

アトリエの前で椅子に座る中村彝( 清水多嘉示撮影)パネル展示

 アルバム写真と裏面(右上が中村彜【友の像】のデッサン写真、左下はザッキンを訪ねた清水多嘉示)

本展にはアトリエ前の彜の生写真が資料として展示されていたが、ここから『下落合』をキイワードとして話を展開して行く。吉田さんは本展図録の【泉のほとり】解説で、1922年諏訪高女における中原・中村展に出品された中村彝の作品数について、8点(うち5点が油彩画か)と書かれた当時の信濃毎日新聞の2人の書き手による記事を探し出して紹介している。アルバムには【男の顔(河野氏の像)】1920年作、の生写真があったので展示されていた1点と判断してもよいかと思う。

そこで改めて検討したいのがもう一枚貼られていた作者画題ともに不明な作品の生写真である。私は、[中村彝の作品展示会なので彝の絵が他にもあるのではないか。彝が描いた相馬俊子像があるかもしれない。しかし、多嘉示主宰の地元展覧会に自作を展示するのもおかしくない。]として清水多嘉示が描いた婚約者今井りんの肖像だと結論付け、本篇冒頭に触れた【こぼれ話】に書いた。だが本展の図録を読み終えて、もしかしたら彝作品かもしれない、と考え直しているのだ。諏訪高女展覧会に出品する予定だった新潟柏崎、洲崎義郎所蔵の作品5点が雪のため送れず、[他に作品が残っていなかったためか (図録解説文)]東京『下落合』の彝が手元にあった未完成の2作を出品したと思われる。そこで当時『下落合』に住んでおり、彝に私淑した画家二瓶徳松に思い当たるのである。新宿『下落合』に関して他に追随を許さない郷土史家、落合道人氏のブログ「落合学」の記述から、二瓶と彜に関わる文節を適宜編集して抜粋引用させていただく。

[二瓶は1897・明治30年札幌生まれ、1918年東京美術学校入学、実家が裕福で在学中に豪華なアトリエ兼自邸を建設、1918~19年頃竣工。中村彜アトリエから西へ270mのところ、彜アトリエと曾宮一念アトリエの中間地点にあたる。大塚にアトリエを建てようとしていた二瓶を下落合に呼び寄せたのは中村彜自身だった。中村彜のもとへも親しく出入りしていたようで彜自身も「二瓶君」については洲崎義郎あての手紙で、曾宮一念のアトリエ建設とともに言及している。二瓶は小遣いにも困らなかったらしく師事した中村彜から直接「女の像」(少女像)を30円で購入している。]

落合道人氏はブログで、彜に師事した画家鈴木良三(1898~1996)の遺稿集からも以下を引用紹介している。

[(二瓶が)彜さんを知ったのは美校先輩の曾宮一念氏が彼を連れて彜さんを紹介したのが初めてで、彼のアトリエが出来てから、在学中に彜さんの八号の「俊ちゃんの像」を買ったことから交友は繁くなった。美校を卒業する時は特待生として一番の成績だった。(中略)二瓶さんの絵は終始彜さんの影響を受け、ルノアール張りの色調で、すこぶる生真面目な、優等生風の作画を続けた。野口英世博士の肖像なども郵便切手になる程つつましい出来であった。]

アルバム写真中村彜【男の顔】アルバム写真作者画題不明  二瓶徳松【真珠】1922

以上の情報を得て、未完成作品2点が展示された経緯から判断すると彝の周辺にあった作品が諏訪に送られていた可能性は高く、アルバムに生写真のある【男の顔】【友の像】デッサンの他、二瓶の持つ「女の像」(【俊ちゃんの像】?)があったかもしれない。作者画題不明の生写真がそれだったと言えないだろうか?!私が調べた限り中村彝、清水多嘉示それぞれの作品リスト(カタログレゾネ)には生写真の画像は見当たらない。生写真の絵自体を分析するに如くはないのだが白黒で背景や筆致など細部は不鮮明だ。本展に展示された相馬俊子像とはかなり印象は異なるが、完成度の高い手慣れた仕上がりなので渡仏前のまだ若い多嘉示の絵なのだろうか?吉田さんの見解を伺おうと思っている。

私が清水多嘉示の画業を追いかける過程で入手した生写真が、思わぬ展開で中村彜に繋がり、彜がその代表作【エロシェンコ氏の像】を描きあげた年にルノワールの裸婦像を見て触発され着手した【泉のほとり】が4年の空白期間をおいて完成された経緯が明らかになったことに驚いた。会場にその写真が展示されていたのは面映ゆかった。またお役に立てたことも嬉しく、本展監修者、吉田衣里さんに御礼申し上げます。

最後に。本展の開会式には大井川茨城県知事はじめ参会者が多かった。郷土の偉大な画家中村彝が忘れられようとしている危機感が開催の背景にあったようだ。地元地銀の常陽銀行が展覧会図録を県内全ての小中高、特別支援学校に寄贈したこと、クラウドファンディングが実施されて1千万円を超える資金が集まったことも披露された。その原資によって「中村彝を見て、感じて、描いてみる」と名付けられたプロジェクトの高校生特派員代表として、県立水戸第三高校の女子生徒が東京新宿『下落合』にある中村彝アトリエ記念館を訪ねたり、彝の作品を模写して同展会場に展示していると報告した。若々しい体験談だけに印象に残った。近代日本洋画を代表する一人、中村彝を思い返そうとする本展の在り方に敬意を表したい。

   茨城県近代美術館 没後100年 中村彜展 展覧会フライヤーと図録

1973・昭和48年11月に、「没後50年記念 中村彜展」が日動サロンで開かれ、その後、茨城県立美術博物館(当時)に巡回している。日動画廊の長谷川仁社長が茨城県笠間市を本籍とする関係から同展開催に尽力したようだが、滝悌三氏は「日本の洋画界七十年」(2000年 日経事業出版社)に[(日動サロンの有料展)中村彜展は(入場者数が、直後に開催された「フランス名作展」より)さらに下がって、14日間約三万人、一日二千人余に留まった。]とnegativeな書き方をされている。日動サロンは銀座のど真ん中に在り格好の立地とはいえ一日二千人余の観覧者数を「留まった」とするのは、現在の公私立美術館における企画展来場者数を思うと隔世の感がある。今般の茨城県近代美術館における本展、2024年9月に岐阜県美術館で始まった山本芳翠展、4月〜6月にかけて開催された板倉鼎・須美子展(千葉市美術館)等をトリガーとして、近年顧みられることが少なくなってしまった彼らと同時代の明治、大正、昭和戦前期の画家たちの再評価、顕彰活動が拡がって行くことに期待している。

文責:水谷嘉弘

 

 

第7期運営体制のお知らせ

当社団法人は9月30日に第6期事業年度を終え、先日、定時社員総会を開催いたしました。今期は監事を除く全役員の改選期でしたが全員が重任し前期と同様の役員陣で運営にあたります。

代表理事・会長 水谷嘉弘 博物館学芸員資格者
理事 高橋明也 東京都美術館館長
理事 水川史生 共立女子大学教授
監事 園井健一 公認会計士・税理士

今期は、今年4月から6月にかけて千葉市美術館で開催された「板倉鼎・須美子」展が当社団にとって設立以来最大のイベントでした。その後援団体として多岐にわたって活動し、代表者水谷は展覧会に合わせて「板倉鼎をご存じですかーエコール・ド・パリの日本人画家たちー」を上梓しました。社団法人設立時の所期の目的であった板倉鼎、須美子の存在と作品紹介の一助を担う活動が一定の成果を挙げたと総括したいと思います。

*板倉鼎・須美子展@千葉市美術館(2024年4月6日〜6月16日)に関わる具体的事例は次の通りです。

①後援活動

*展覧会情宣活動〜千葉市美術館から提供された展覧会ポスター、フライヤー、招待券を関係各所に配付、送付した。水谷が美術月刊誌「美術の窓」から同展の紹介記事執筆を依頼され5月号に掲載された。社団法人ホームページに関連情報をupした。

*内覧会・レセプション参加者誘致〜社団関係者はじめ美術界関係者に招待状を送付した。想定を上回る多くの方が来場した。なおレセプションの席上、水谷が後援団体代表者として来賓者紹介を受け、高橋理事が乾杯の発声を行った。

*アテンド〜水谷は会期中、要請を受けて多数の同展訪問者と同道、案内した。

②後援事業

*展覧会公式図録・評伝の寄贈〜千葉市美術館からの要請により、公式図録(東京美術)を同館寄贈先リストに基づいて発送した。社団法人フライヤーも同封した。高橋理事は当該図録に「1920年代のパリー「狂乱の時代」と板倉鼎・須美子夫妻」と題する論文を執筆した。

③関連事業

*エッセイ集「板倉鼎をご存じですか―エコール・ド・パリの日本人画家たち」の刊行〜展覧会開催に合わせて水谷が板倉鼎関連書籍を出版した(コールサック社2024年4月)。同書約450冊をメディア、図書館、美術館、美術関係者等に謹呈送付し、展覧会フライヤーも同封した。東京国立近代美術館、東京都現代美術館ほか多くの図書館、美術館から所蔵された旨連絡があった。千葉日報にインタビュー記事が掲載された(2024年5月11日)他、朝日新聞書評(山内マリコ氏執筆)に取り上げられた。山内氏は文中展覧会についても言及された(2024年5月25日)。その後、同書は増刷された。

千葉市美術館西山純子学芸課長に依れば展覧会来場者は当初想定した人数を上回ったそうです。高橋理事による出版物への紹介記事執筆の他、対メディア情宣活動が奏功しNHK、読売新聞、日本経済新聞はじめ多くの新聞、雑誌、テレビ等で取り上げられたことも大きな要因と思われます。

*その他の主だった活動は以下の通りです。

・社団法人ホームページの充実と活用~社団法人ホームページに各種情報、エッセイ「近代日本洋画こぼれ話」をUP、記録として残る広報活動に注力した。千葉市美展覧会情報を含め当事業年度にUPした記事は17本。なお、開設以来、初めてリニューアルを行った

・美術界関係者との往来~美術家や美術館学芸員、ギャラリー・画廊と往来して美術界人脈への展開を図った

・板倉鼎、須美子関連資料の蒐集~板倉鼎と同時代の日本洋画家の画集、展覧会図録、関連書籍等を購入した。紹介活動、執筆活動の一助にしている

・文藝同人誌「まんじ」(1981年創刊、季刊)に「近代日本洋画家論考:板倉鼎」など美術エッセイ4篇を寄稿した(水谷)

今期(第7期)も第6期までの活動経験と実績をベースに、引き続き認知されつつある板倉鼎・須美子の顕彰活動を実行していきます。よろしくお願い申し上げます。

代表理事・会長 水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】川島理一郎 その4 秀作北京聴鴻楼(西太后旧居)

冒頭画像は、【聴鴻楼(西太后旧居)】1938(12号)

川島理一郎の画風変遷について続ける。1936年頃から再び筆致が軽くなる。ストロークが流れ明るく爽やかな画風になり、カラリストの貌をはっきりと見せる。それが3回目の画業ピークである。2回目(1933~36年)と3回目(1936~43年)のピークは時期的には連続しておりこの約10年間の川島の充実ぶりは目を見張るものがある。変化のスタートは1936年春から秋にかけての日光滞在である。3年前の日光では東照宮周りの宮社や彫像が主たるモチーフだったがこの時は「水」をテーマとしていた。[私はいま水を見詰めて暮らしている。渓流と瀧とを今年の研究対象に選んだ私は、水との睨つこが毎日の日課である(水流への凝視)「緑の時代」所収]。2~3年続いた革のようなマチエールが森の中の樹木を描き、河川を流れる水を描写するうちに筆運びの速度が増してきたように思う。

    

【緑陰】1935頃(図録画像)    【奔流】1936(図録画像)

  

【湖畔の林】1936(図録画像)    【九龍壁】1938(図録画像)

モチーフが水を離れ中禅寺湖の湖畔に至った時点で、絵の印象は一変する。1937年11月「緑の時代」の刊行が一つの区切りとなったかのように、1938・昭和13年陸軍省嘱託となり、5月北京、翌39年1月広東、10月大同を訪れて制作する。この間の紀行文とスケッチが1940 年7月刊行の「北支と南支の貌」龍星閣にまとめられている。その後も41年と42年にタイ、43年にフィリピンに行く。

  

【卍字廊】1938(図録画像)    【北京大観】1938(図録画像)

  

【広東大観】1939(図録画像) 【金とモザイクの回廊】1941(図録画像)

第3次ピークの制作は北京での風物描写が質量ともに秀でている。広東に比し北京には歴史的な建造物が多く、それが自然の風景と調和していることに感銘を受けたのだろう。南支訪問時の作は民衆の生活、街頭風景が中心で「北支と南支の貌」所収の文章も同様だ(タイとフィリピンでの制作にも同様の違いが見出せる)。緑、茶、青が基調だった滞欧作と比べると赤、黄が加わり明度も高くなって、カラフルでとっつきやすいこなれた絵なのだ。円熟の味、と言ってよい。この時、川島52歳になっていた。

さいわいこの時期の作品は小品よりやや大きめの秀作と思える2点を入手することが出来た。中禅寺湖畔と北京聴鴻楼の写生である。

 【湖畔の秋】1936(8号)

川島は大量のデッサンを描いた画家だが、それをベースに同じモチーフ、同題の油彩画作品が多い。「湖畔の秋」と名付けた作品も何点かあるが当該作は出来、キャンバス裏面の記名等から1936・昭和11年11月、銀座伊東屋で開催した第4回個展に出品した油彩画12点の一つではなかろうか。因みにこの時期の展覧会出品作の画題は「中禅寺湖畔の春」、「湖畔の朝」、「湖上の霧」、「湖畔の林」(画像前掲)など似たものが目立つ。

【聴鴻楼(西太后旧居)】は、北京市中央部に位置する紫禁城の西北15㎞に位置する歴代皇帝の別荘兼保養地、頤和園の構内にある。この作品は1940年4月、第5回個展(銀座資生堂)に出品された。また「北支と南支の貌」1940龍星閣の別刷挿画、美術雑誌「造形」昭和32年4月号の川島自選の秀作選集にも掲載されている。さわやかな青空と赤黄に彩られた中華建築の滑らかにすべる曲線が快い。定番の細身女人二人もさりげなく描かれている。陸軍省嘱託としての外訪はこの後、広東、大同、タイと続き1943年のフィリピン行が最後となり、第3次ピークも終焉する。描く絵は次第に戦地の様相を帯びていったが、川島には、パリ時代起居を共にした藤田嗣治、同じ栃木県出身の清水登之(3人は同じ歳でもある)のような戦闘場面を描く戦争記録画はない。

第3次ピーク時の風景スケッチが到来したので最後に付け加えておきたい。川島がデッサンを繰り返して本画に臨んだことはよく知られているが、色彩を乗せると元の線、タッチが失われてしまう。已む無い事だがデッサン好きには残念至極である。日光で水の流れを追い滑らかになっていく生の線を見たいと思い男体山をスケッチした作品を手に入れた。デッサンには年記がなく、熟年以降の画家はなんとでも描けてしまうので制作年判定は難しい。本作は川島の1936年日光滞在時の何篇かのエッセイや、同年6月15日付け帝国大学新聞に寄稿した「山と霧の表情―初夏の日光を行く」等からその頃の作と推定している。画題は【夜霧の男体山】手慣れた軽快な線で画面を埋めている。

  【夜霧の男体山】1936 鉛筆

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】伊原宇三郎 その6 滞欧風景画の秀作 南仏アルルふたたび

伊原宇三郎は1925・大正14年5月、31歳の時、妻しげ子と共にフランスに着く。この年はパリを中心に写生に出かけたりピカソの研究に費やした。翌年2月から3月末までフランス国内を回り多くの風景画を描いた。特に南仏プロヴァンス地方の隣接する都市アヴィニョン、アルルを描いた作品は秀作が多い。以前【南仏アルルの古い街】を紹介した。

【南仏アルルの古い街】1926(8号)

世界界遺産に登録されている古代・中世ローマ帝国の旧都の街並みに触発されるところが多かったのだろう。展覧会図録にも同様の作品が掲載されている。

【アヴィニョンの廃墟】1926

【南仏プロヴァンスの古都アルルにて】1926

新たに同じモチーフの1点を入手した。アルルの秀作、再び到来である。(冒頭画像参照【南仏プロヴァンス地方の古都アルルの廃屋】1926(フランスサイズ15号))

冒頭のアルルが非現実の舞台装置のようなクラシスム作品だったのに対し、今回のアルルはややデフォルメされた廃れた家屋の矩形が茶系の明濁色と相まって濃密な表現が実在感を醸している。一方で画面右三分の一を占めるくすんだ中景が寂寥を演出しており対比の妙が効果的だ。画面構成が思索され確かなデッサンに裏付けられていることは両作の共通点である。カンバス裏面には伊原が丁寧な説明を書きこんでいた。

「南仏 プロヴンス地方の古都アルルの廃屋(現在は人住めり、屋前の野外劇場と共に名物の一となる。数百年前のものなり)」

以前、伊原の風景画について次のように書いた。「滞欧期前半の伊原作品は風景画が多い。粗い筆触を残すものから穏やかで印象主義的なものまで表現は多岐にわたる。」日本的フォーヴから印象派まで、の意だったが、本作は前者に近い。しかし、抑制の効いた筆致が作品に品格を与えクラシスムに通じている。

少し横道にそれるが、本件から画家を巡る当時の事情がよくわかった事がある。絵が専用の木箱に収められていたのだ。落とし戸式の蓋を上げ下げして出し入れするようになっていて箱側面に**氏と苗字が書かれていた。本作の原所有者だと思われた。そう考えたのには理由がある。伊原は渡欧するにあたって画会を組成して出資者を募っていたのである。その頃渡欧する画家が一般的に行っていた資金調達方法だ。伊原渡欧の1年前、1924年4月頃に配布された「画会趣意書」の文面が、伊原宇三郎展図録(1994目黒区美術館、徳島県立近代美術館)に転載されていたので該当する部分を抜粋する。

「画会 会規 第1部 本人出発前の作品、本人滞欧中の作品御随意 甲 会費100円(註:1口)画寸10号P 三寸巾額縁付、乙 会費200円(註:2口)画寸15号F 三寸五分巾額縁付」。伊原の実家がある大阪の今宮中学校の同級生が募集に尽力し滞欧2年予定で1万円余り(註:約100口)集めた、とある。本作は「乙」に申し込んだ人物へ届けられた作品ではないだろうか。画寸、額縁寸だけでなく箱に記された苗字も当時大阪中心部に居住していた富裕層に合致する。伊原が懇切に裏書きした訳も納得できるのだ。(当時の小学校教員の初任給が約70円である。卸売物価指数では、当時の1円は現在の640円)

本作を描いた年、伊原宇三郎は南仏から戻った後、夏は清水登之、川口軌外と3夫妻でノルマンディー地方エトルタ海岸に滞在して制作、秋、ルーブル美術館でコローを模写するなど風景画主体に活動した。翌1927年5月のイタリア行を機にルネサンス絵画の研究に注力する。ルーブルではアングルの「オダリスク」模写を始め、秋のソロン・ドートンヌには【毛皮の女】が初入選した。この頃から帰国する1929年6月までの滞欧期後半は人物画、群像図にシフトしていくのである。持ち味である構成的な空間を失うことはなく、モチーフの存在感が量感豊かで彫像の如き人体で示されて、より古典的な表現が増しネオクラシストになっていった。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】二瓶徳松 作品「(仮題)教会」を巡って 

二瓶徳松(画名:經松、等、等観、1897・明治30年札幌生まれ〜1990・平成2年)は、板倉鼎の東京美術学校同級生(1924・大正13年卒業)でパリでも頻繁に往き来していた画家である。同級生には岡鹿之助、野口謙蔵等もいる。鼎・須美子書簡集にも多く登場し、板倉鼎を語るに際して経歴を知り滞欧作の検証が欠かせない人物。だが作品はなかなか見つからない。当初、作品の画像も渡仏前後の1924年第5回帝展入選作「裸女」(当時の画名:二瓶等)、1929年第10回帝展入選作「足を拭ふ女」(画名:二瓶等)の絵葉書しか見当たらなかった。鼎の書簡に依れば、二瓶のパリ留学は、佐伯祐三(美校の同期入学、卒業時は1年上級)を見舞って結核の怖さに取り憑かれ(佐伯は1928年8月16日病死)、夫婦共に精神面で消耗して約8ヶ月で帰国したため(1928年5月〜1929年1月)当地での制作は少なかったと思われる。冒頭画像は【真珠】1922年作。

鼎の書簡(1929年1月1日付け)を引用する。

[明日は二瓶さんいよいよ巴里をたちます。五日出帆の船で帰るそうです。お気の毒に存じますが是も自業自得で神経衰弱ばかりはどうにもなりません。巴里へついて已に八か月ルーヴル美術館へは未だ二度しか行かなかったそうです。是では何の為に来たかわかりません。(鼎)]

パリ到着直後は二人仲良く付き合っていたが夫婦とも段々波長が合わなくなったようだ。鼎・須美子の書簡では二瓶夫婦への評価が一変している。当初の書簡も紹介する。(1928年6、7月)

[いろいろ御世話してあげますと、二人とも心から喜ばれ、時を消しては(と)遠慮され例の人達とは大ちがひで大変気持ちよくおつきあいひして居ります。二人の子供さんを置いて来られたとかで子供の事などいろいろ注意して下さいます。(須美子)]

[この附近では今、私と二瓶さんだけがふんばってます。二瓶さんは、画会のお金を今受け取りつつあって、絵を帰ってから渡す約束のものが52枚残ってるとか云って、大馬力です。みんな十号だそうです。私はたった一枚のよい絵が出来ればそれでよいと思ってます。(鼎)]

二人とも芸術家気質ゆえ鼎サイドの手紙だけで判断することは避けたいが、二瓶の経歴をみると、一度入った美校を退学し翌年再び入学したり、画名の変更が頻繁でわかっているだけで4つ有るなど移り気で精神的に不安定な傾向は見て取れる。

美校在学中の1922年光風会出品作「真珠」(画名:二瓶經松)は東京新宿下落合で師事し近所付き合いしていた中村彝と近似したルノアール張りの良い作品だ。

美校卒業年に帝展初入選を果たしたように戦前戦中作は正統な画風で画力もあったと思われる。

渡欧前の美校在学時代と思われる風景画「(仮題)教会」(画名:二瓶徳松or經松)と、戦後訪欧時(1959年)に取材したパリの風景画「パリムフタールの近く」(画名:二瓶等観)の2点を入手した。ここでは戦前作と思われる教会を描いた作品を取り上げてみたい。(戦後作の方は見るべき点があまり無い)。

    

二瓶徳松【(仮題)教会】4号1918~20年頃  二瓶徳松【教会(仮題)】署名  二瓶徳松【海景】

当該作品「教会(仮題)」の検討にあたっては、二瓶が住んだ新宿下落合をfocusする博覧強記の郷土史家「落合道人」氏に多くを教示いただいた。氏はブログ「落合学」で同地域に因む社会情勢、文化芸術、地理、人物等全般にわたって調査研究する方で、美術方面でもブログ本ページの他、中村彝、佐伯祐三、松本竣介はじめ50人近い画家についてブログ内メニュー「下落合を描いた画家たち」で論じている。(落合道人氏は先月の【topics】にも登場いただいている)

以下、落合道人氏のご了承を得て氏とのメール交換をquoteする形で「(仮題)教会」を観てみたい。(2023年4月、文章簡略化)

(quote)

(水谷)フランス近代美術の専門家である友人に訊ねたが、モチーフの教会はフランス在ではないと見解が一致した。札幌か?東京か??もしかしたら下落合???お気づきの点あれば教示願う。

(落合道人)二瓶徳松の教会画面について、彼が下落合で暮らしていた時代に、下落合にはギリシャあるいはロシアの正教会は存在しない。教会のフォルムを観察すると、明らかに正教会系の姿をしており、二瓶等の故郷=北海道でいうと函館のハリス正教会の正面からの姿が、画面の教会に近似している意匠。あるいはヨーロッパからの帰途、彼は地中海のどこかの街か、ロシアのシベリア鉄道経由で帰国していないだろうか。そこで目にした正教会系の建築を、写生している可能性もありそう。

(水谷)函館ハリス正教会の写真に多くを学んだ。自分なりに検討して「教会」は、1916年北海中学卒業頃(18、9歳)から美校在学中の1922、3年まで(25、6歳)の間、本邦おそらく郷里札幌や函館など北海道地域で描いた風景画だと結論付けた。根拠は

①教会前の木製の入口、植栽などの佇まいが、フランスというより日本の雰囲気が強い(友人と意見交換した結論)。

②二瓶は1928年5月に渡仏したが翌年1月には帰国している。板倉鼎の同年1月 1日書簡からは帰途を含め欧州で写生した可能性は低い。

③署名は『TNihei』とあり、「徳松」或いは「經松」と思われる。彼の画名変遷を辿ると(「等」を「とう」と読ませなければ)美校卒業の1924年3月までと考えられる。卒業後、帝展出品名は「等」である。

④戦後の画名「等観」もTだが、「教会」の時代感は古い。所有している戦後作品の画風は描き込みに重厚さがなくこなれた仕上がりで「教会」とは印象が異なる。

(落合道人)二瓶等はパリからどこかへ旅行をしていないか。添付したのはリトアニアに残るちょうど作品画面と同じぐらいの規模の正教会建築だが、ファサードや意匠がよく似ている。ヨーロッパ北部の田舎に多い正教会の建物のようだが、フランス北(戦災で喪失?)あるいは1926年より出かけている「満洲」(文化大革命で喪失?)などの可能性はないだろうか。ただし、サインからするとかなり制作は古い年代のよう。

(水谷)たしかにリトアニアの画像はよく似ている。二瓶徳松(等)のパリ留学時代の様子は板倉鼎書簡からしかわからない。鼎は二瓶に対して厳しい感想を述べているが、当初は美校同級生らしい親しいコメントを残している。二瓶は佐伯祐三の病死を境に精神面が一変したようだがそれまでの間、近隣諸国に旅しているかもしれない。今回の作品を観る時の参考にしたのが『TNihei』署名のある海浜作品。北海道の風景だと考えており、教会作品と筆致が似ている。落合道人氏がブログで紹介された1927年10月の札幌個展出品作の発見が待たれる。

(落合道人)二瓶等の札幌での個展では、図録が残っているのではないかと思ったが、残念ながら目録しか見つからなかった。二瓶等の「下落合風景」にからめて、個展の目録を掲載したのは10年も前の記事だが、残念ながらご遺族からの連絡や、「二瓶作品なら持ってるよ」というコメントはいまだ1件も届いていない。彼の画面を通じて、大正末の下落合東部の様子がかなり判明するのではないかと期待したが、戦災で焼けてしまったか、あるいは廃棄されてしまったケースが多いのかもしれない。二瓶徳松時代に中村彝から購入した『俊ちゃんの像』(8号/相馬俊子像)も、どこへいったものか行方不明で、あまり話題にならない。

(水谷)御ブログへの反応も二瓶関連情報も皆無とは寂しい。彼の若い頃の画力はかなりのものがあったと見ている。美校入学前に光風会に入選しているがこの会は白馬会の後継と言えアカデミズム直系のハイレベルな団体。海の絵も教会の絵もストロークのみで描かれており陰影の付け方も癖がなく年齢不相応な纏まり方。「真珠」もいい絵。しかし、渡仏前後に当時の典型的な官展スタイルで入選しながら以降出品したのかさえ不明だ。戦後も1960年前後の滞仏作品はあるが画業は不明(添付は戦後滞仏作とその裏面。手慣れた絵だがどうと言う事はない。貼られた帳票類から一定の信用力、存在感が感じられる)御ブログ記事にあるように北海中学OB会でも主要な存在となっている。美校に2度入学したり、名前を頻繁に変えるなど生涯を通じて不可思議な点が多く落合道人氏の解明を期待している。見当外れかもしれないが御ブログで紹介されている下落合の風景画、小松益喜作品の正面、活水学院と思われる建物の屋根上に十字架の先端部のような線が見える。別棟から伸びた線に見えるが当時教会のような建物は無かった?

(落合道人)二瓶等は、中村彝とかなり親しく、また一方では佐伯祐三とも親しいので、下落合では曾宮一念とともに両者の接点として追いかけてきたがその軌跡が茫漠として見えにくい存在だ。戦前戦後を通じて下落合には教会が多いが、二瓶等が住んでいた時期には、目白通りに面したカトリック系の目白聖公会と、中村彝がよくモチーフにしたプロテスタント系の目白福音教会(現・目白教会)、少し遅れてカトリック系で国際聖母病院に付属した礼拝堂建築などが目立つ。戦後は教会の数も増え、遠藤新設計の目白ヶ丘教会や下落合教会、池の上教会、ICBF東京中央教会などなど、下落合以外の上落合や西落合を探せばもっとあるかもしれない。小松益喜が描く『(下落合)炭糟道の風景』のモチーフ「活水学院」は、屋根上に十字架を載せた基督伝道隊(日本プロテスタント福音派)の学校で、正式名称は「基督伝道隊活水学院」。目白福音教会にあった聖書学校と同じような学び舎だが「活水学院」には教会建築はなく、おそらく学院内に礼拝室があったと思われる。

(unquote)

落合道人氏とのやり取りから、教会はロシア正教会系であること、同教会は当時下落合には存在していなかったことを教わった。その結果も併せて「教会(仮題)」は二瓶徳松1920年前後の本邦制作(@北海道)と結論付けた次第である。

(同時期の略年譜)1916北海中学卒業(19歳)、1917光風会入選、1918美校入学、退学、1919美校再入学、1922光風会「真珠」出品、1923帰郷、卒制制作、1924卒業、帝展初入選、1928渡仏、1929帰国、帝展入選、その後渡満(中国)

しかしながら、本篇を執筆して個別作品検討の域を越えず画家二瓶徳松の画業を体系化するピースに嵌っていかない点に物足りなさが残った。それだけ二瓶の画業全体が検証、顕彰対象になっていない事、見方を変えれば彼の画業が曖昧だったと言えよう。落合道人氏に依れば、二瓶は中村彝、佐伯祐三を繋ぐ接点として重要な存在とのこと。2023年1~4月、東京ステーションギャラリーで開催された「佐伯祐三展」紹介メディアでは落合道人ブログも取り上げられていた。2024年は中村彝の出身地、茨城県近代美術館で彝の回顧展が開催される予定である。落合道人氏の研究をキッカケとして中村彝への新たなアプローチで二瓶徳松の存在が再認識されることを期待している。

  

二瓶等観「パリムフタールの近く」15号1959  二瓶等観 パリ風景戦後作

文責:水谷嘉弘

【topics】須美子のモチーフ「軍艦」について(ベル・ホノルル23)

板倉須美子はオアフ島に戦艦を浮かべる。: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)

板倉須美子の『ベル・ホノルル23』に描かれ、かねてから気になっていた遠景の船について、落合道人氏がブログ「落合学」で詳細な分析を述べられた(2024年6月29日)。氏の承諾を得て紹介させていただく。絵の解題と合わせてお読みください。

文責:水谷嘉弘

 

 

【news】板倉鼎・須美子展が閉幕しました

4月6日に始まった千葉市美術館の「板倉鼎・須美子展」が、今週日曜日、6月16日をもちまして無事閉幕いたしました。多くのメディアで好意的に取り上げていただいたお蔭もあり日増しに来場者数が伸び、1日平均約200人の方々にご観覧いただきました。ありがとうございました。後援団体となった当法人からも厚く御礼申し上げます。
本展を通じてより多くの方々に板倉鼎、須美子の存在と作品が知られるようになったと確信しています。今後とも板倉夫妻の顕彰にお力添え賜りたく、よろしくお願い申し上げます。

水谷嘉弘
一般社団法人 板倉鼎・須美子の画業を伝える会 代表理事・会長

【topics】『板倉鼎をご存じですか ーエコール・ド・パリの日本人画家たち』が朝日新聞の書評に取り上げられました

4月に刊行した当社団法人代表理事水谷の美術エッセイ集『板倉鼎をご存じですか ーエコール・ド・パリの日本人画家たち』(コールサック社)が、さる5月25日(土)、朝日新聞朝刊読書面の書評に取り上げられました。朝日新聞書評委員で小説家の山内マリコ先生の執筆です。千葉市美術館の板倉鼎・須美子展を訪れられ夫妻の生涯を概観された上で、水谷著作に言及して過分なご批評をいただき[ある芸術愛好家(ディレッタント)の集大成といった趣の書だ。]と〆られています。著者として望外のことで大変光栄です。山内マリコ先生に厚く御礼申し上げます。

なお、当該の書評は、朝日新聞の関連サイト「好書好日」内のメニュー(書評)→(書評委員から探す)→(山内マリコさんの書評)で読むことができます。

好書好日|Good Life With Books (asahi.com)

山内先生は、以前、2021年1月15日の日本経済新聞文化面コラム「モデルの一生(十選)」にも板倉鼎の【休む赤衣の女】を採択されていらっしゃいます(本ホームページ2021年1月19日付け【topics】欄で紹介しています)。

我が国有数の全国紙に板倉鼎の名前が掲載されることはその顕彰活動に従事している当社団法人にとって大きな力となります。大変な励みになりました。ありがとうございました。

文責:水谷嘉弘

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