【近代日本洋画こぼれ話】伊原宇三郎 その3 滞欧風景画の秀作 南仏アルル

伊原宇三郎について3回目を書く。今回はこぼれ話的な周縁の作品ではなく伊原滞欧期の秀作【南仏アルルの旧い街】1926年作(8号)だ。京都の星野画廊、星野圭三氏から到来した。1994年青梅市美「昭和洋画の先達たち」、2008年三重県美「佐伯祐三交流の画家たち展」、2017年目黒区美「よみがえる画家 板倉鼎・須美子展」等に出品されている。

板倉鼎顕彰活動の一環として鼎と繋がりのある画家の資料を蒐集している。伊原は東京美術学校で鼎の3年先輩にあたる。鼎が1926・大正15年7月に渡仏し29年9月に28才で急逝するまでの3年3ヶ月は、伊原の滞欧期間(1925年5月〜1929年6月)とほぼ重なる。パリでの接触も多く「板倉鼎・須美子書簡集」には5度登場する。交流がわかる写真も何枚か残っている。(大久保作次郎送別会1927:集合写真シルエットは松戸市教育委員会作成、渡辺浩三アトリエ1926、)

     

また、伊原は鼎没後の翌1930年4月、東京銀座で開催された遺作展に岡田三郎助、田辺至、御厨純一等と共に発起人に名を連ねている。この展覧会の批評を「美術新論」6月号に寄せており優れた追悼文となっている。

(quote)

これは近時稀に見る充実した、そして胸のすく様な展覧会であった。氏の画風は実に洗練されたものである。・・・板倉君は既に日本で十分な基礎的教養があって、渡仏後研究の第一着眼点を十五世紀のイタリールネッサンスに置いたらしい。これはなかなか出来ないことである。最初に此の洗礼があって、次いで色彩構図の科学的研究があり、両々相俟って氏一流の近代感覚は些かの危険を伴ふことなしに冴えて行った。・・・

(unquote)

やや長めに引用したのは、後半部分に注目したからである。鼎の画風形成の過程は伊原本人にも当て嵌まると言えるのだ。イタリアルネサンスの古典絵画研究が、両名に共通する構成的で端整な具象作品に通じている。

[・・・私の居た頃のパリは、エコール・ド・パリの全盛時代で、ピカソの地位が漸く世界的に認められた時代だけに、クラシックを最上の研究対象にする行き方と、活発な現代活動だけから養分を吸収しようとする行き方の中間の過渡時代・・日本にはクラシックの基盤がなく・・バックボーンの卑弱さは免れ難い。・・画家個人が先ず身を以ってクラシックを通過し幾分でも身につけ、然る後現代に至らねばならないという遠大な構想を立てた・・・](伊原宇三郎「ピカソに惹かれる」1955から抜粋)

   

左)伊原宇三郎「ピカソ模写:楽器、ポルトの便、ギター、トランプ」右)伊原宇三郎「ピカソ模写:コンポートと窓ガラス」1925(共に図録画像)

伊原は渡仏してすぐピカソの新古典主義作品に惹かれる。模写を繰り返すが新古典主義作品でなくキュビズム作品の方が多い。描く対象の構造把握が目的意識にあったのだろう。その後、イタリア旅行に出向きルネサンス絵画に触れ西欧絵画の伝統を学ぶ。パリに戻ってルーブル美術館でアングルの「オダリスク」模写を始める。その頃からモチーフが人体、群像に移行していく。ピカソと邂逅した時の伊原の直感的な共感は、ルネサンス絵画を触媒として具体的なタブローに結実して行ったと言えよう。古典を基盤として自らの造形を作っていく伊原の資質は、ピカソが対象物を分解して画面を構成していくアプローチと通底しているように思える。絵画構成とモチーフ構造の追求、がキイワードである。

【南仏アルルの旧い街】1926・伊原32才、を観てみよう。現実の風景を描写したというより人工的な舞台装置のようだ。時が止まったような、生身の生活空間ではない。三島由紀夫の戯曲、例えば「サド候爵夫人」の舞台背景は室内だが、そのイメージを戸外で再現するとこうなるのではないか、とふと思った。滞欧期前半の伊原作品は風景画が多い。粗い筆触を残すものから穏やかで印象主義的なものまで表現は多岐にわたる。しかし本作の如き静謐で古典的な作品は少ない。数多く残っている彼のピカソ作品模写に、新古典主義に属する絵が少ない点と符合するところがある。伊原の滞欧期後半は人物画、群像図にシフトしていく。構成的な空間と量感豊かで彫像のような存在感ある人体が特徴的だ。1927,28年のサロン・ドートンヌ入選作は【毛皮の女】【横臥裸婦】【赤いソーファの裸婦(白衣を纏える)】である。帰国後もこの傾向がしばらく続く。今日では、伊原宇三郎はピカソの紹介者、古典主義絵画の延長線上にいる人物画家として知られている。風景と人体、描法と構成。それぞれの組み合わせのプロセスにおいて【南仏アルルの旧い街】は過渡的な位置付けが出来る。

新古典主義的な作品だが、ピカソになぞらえれば、新古典主義期に至る前のプロト及び分析的キュビズム期に相当する絵と言えよう。

   

【フォンテンブロー宮】1925(図録画像)【白衣を纏える】1928(図録画像)

伊原にとってパブロ・ピカソ(1881~1973)は学び咀嚼する対象だったと思う。彼が親近感を持ちリスペクトしたのはアンドレ・ドラン(1880~1954)ではなかったか。帰国して10年後の1939・昭和14年にアトリエ社から刊行した「ドラン」はドランを解説しながら自らを語っているようだ。「(フォービスムの)喧騒に飽き疲れた人々は・・落ちついたもとの家を親しんで帰って来た。ネオクラシスムの人々がそれであり・・もっと前に逸早く街の騒ぎから足を洗って・・帰ったのがドランである」として、ドランが戦地から帰還した1920年以後を高く評価し「ドランは現在活躍してゐる大畫家中で極端に言へば唯一人の絵畫の正統を護るクラシストである」と書く。「視覚的でいて視覚万能でなく、必要あり気なものを故意に付加せず・・・感覚の狂奔に身を任すことをせず、ドランの斯ういう信条は其後発展するばかりでこの二十年間何等の方向転換を示していない」のは、新潮流の登場によって変化したり、新たなスタイルを打ち出したりせず、思索し自制的な伊原自身の絵画の事を評しているようだ。

   

【小さな黒い犬のいる風景】1925・26頃(図録画像)【横臥裸婦】1928(図録画像)

1929・昭和4年に帰国してからは、美校を首席で卒業して以来、そのキャリアゆえ官展系アカデミズムを代表する一人として活動した。

1933年には美校助教授に就任する。従軍画家となって戦争記録画家として中国北部、南部、インドシナ等に7回派遣された。

戦後(1945年、伊原51才)は、制作者、教育者のみならず美術(界)振興を推進する立場から活躍した。その生涯を通じた作品群を観ると、画家として油の乗りきる40才台は戦時と重なり、戦後は対外活動に割かれて充分な創作が出来なかった。【南仏アルルの旧い街】を含む1920年代後半の滞欧作品群が1960年前後数年の作とともに画業のピークを形成している。1956年に27年ぶり、二度目の渡欧、フランスに10ヶ月滞在して現地制作を行う。帰国後は60年代半ばから日本全国に写生旅行に出かけて多くの風景画を残した。これらの風景画群は巧みなデッサンに裏付けられた円熟した仕上がりになっている。ただ戦前から戦後にかけての構築度の高い描き込んだ表現とは趣きが異なる印象の作品も多い。

国立近代美術館建設や美術行政への提言等美術界の発展と地位向上に寄与した伊原宇三郎は1976・昭和51年1月、81年の生涯を終えた。本邦近代洋画史、官展史、洋画界の最高峰に位置付けられる人物の一人である。

本稿は、作品画像ほか多くを1994年目黒区美術館、徳島県立近代美術館開催の伊原宇三郎展図録から教示いただいた。

文責:水谷嘉弘

【news】板倉鼎作品の展示情報

板倉鼎の作品2点が千葉県立美術館で展示中ですのでお知らせします。

場所:千葉県立美術館 (冒頭、外観写真は2018・平成30年開催の「原勝郎と板倉鼎」展当時)

千葉市中央区中央港1-10-1  JR京葉線「千葉みなと」徒歩10分

日時:令和4年7月18日(月・祝)まで

展覧会名:令和4年度コレクション展 第2期

展示作品:

 板倉鼎「巴里風景」1929・昭和4年作 キャンバス,油彩

 板倉鼎「金魚」1928・昭和3年作 キャンバス,油彩

本展期間は半ばを過ぎていますが、今後開催されるコレクション展第4期(令和5年1月25日~3月21日)でも板倉作品が展示される予定です。

以上

 

【news】「里見勝蔵を巡る三人の画家たち」展の予告

当社団法人が produceした展覧会の概要が固まった。

展覧会名:「里見勝蔵を巡る三人の画家たち」

開催期間:令和4年10月12日(水)~10月30日(日)

会場:池之端画廊 〒110−0008  東京都台東区池之端4−23−17 ジュビレ池之端

協賛:一般社団法人 板倉鼎・須美子の画業を伝える会

里見勝蔵(1895・明治28年~1981)を巡る三人の画家とは熊谷登久平、荒井龍男、島村洋二郎である。意外な組み合わせと感ずる方が多いと思う。近代日本洋画史を紐解いても繋がりはよくわからない。

きっかけは島村洋二郎(1916・大正5年~1953)である。私がエコール・ド・パリの夭折画家、板倉鼎の顕彰活動を始めた4年前、志半ばで世を去った洋画家島村の顕彰をしている洋二郎の姪、島村直子さんを紹介された。私は鼎と同時期にパリで活動した東京美術学校卒業生を調べていて、里見勝蔵は前田寛治がパリ豚児と呼んだうちの一人だったが、偶々洋二郎が師里見に宛てた近況を報告する絵葉書(昭和18年横須賀発)を入手したのである。洋二郎は旧制浦和高校を中退した後、数年間東京杉並の里見のアトリエに通うが文献や里見の著述等には記されておらず戦中期には疎遠になっていた、洋二郎の方から距離を置くようになったのだろう、とされていた。しかし葉書の親密な綴り振りから二人の関係を見直す必要があると思い早速直子さんに伝えたところ新事実に吃驚され洋二郎年譜にも追記されることになった。

それと前後して熊谷登久平(1901・明治34年~1968)を池之端画廊の展覧会で観て、登久平次男の夫人熊谷明子さんと面識を得る。画廊主鈴木英之氏を私が顧問を務めている美術愛好家団体あーと・わの会にお誘いし、その縁で同会の初代理事長野原宏氏が所蔵している絵画を池之端画廊で展示することになった。そこに洋二郎に続いて、知ったばかりの熊谷登久平と、野原氏が多くの作品を所蔵されている荒井龍男(1904・明治37年~1955)の里見勝蔵宛絵葉書各1通も入手する機会に恵まれたのである。

登久平の葉書は昭和11年10月宇都宮発。熊谷明子さんに訊ねると、保有されている資料類から文面に記されている人名が同年7月に福島二本松で開かれた「独立美術協会派四人展」に出品した画家と割り出してくれた。四人の一人は吉井忠で、賛助出品者に里見、福沢一郎、林武、田中佐一郎、井上長三郎、応援出品者に登久平がいる。発信地も宇都宮であり同展に因む行き来のようだと判明した。荒井の葉書は当時居住していたソウル発で(昭和9年9月)、「パリに行くので便宜をお授け賜えれば・・シャガールを紹介して欲しい・・後進の為に道をお開き願います・・」という依頼の文面が興味深い。荒井は翌10月渡仏している。実際にシャガールに会ったのか不明だが画家山田新一は荒井の滞欧作展(昭和11年)を観てシャガールの影響を指摘している。洋二郎の絵葉書はシャガールで偶然の呼応だった。今回の四人を繋いだのは、昭和戦前・戦中期に投函された里見勝蔵宛の3枚の絵葉書なのである。これが今回の展覧会に至った経緯だ。親分肌里見勝蔵の求心力のお蔭とも言える。

里見勝蔵と三人との関係は、熊谷登久平は里見が創立メンバーだった独立美術協会会員として、荒井龍男は在野美術団体の後輩として、島村洋二郎は師弟関係として、である。全て別ラインで各人に面識があったのかは定かではない。登久平と洋二郎は白日会で接点があるが、10年間出品在籍した登久平に比べ洋二郎は入選1回である。しかし、放浪の画家、長谷川利行と親しくその追悼歌集に寄稿した登久平、パリでボードレールの碑を描き友人たちと詩集「牧羊神」を出版した荒井、手作りの「五線譜の詩集」を遺した洋二郎には同種の感性が通底している。彼らの作品は形態家ではなくカラリストのそれだ。それぞれの代表作やその他1次資料を多く所蔵する方々三人のご協力を得、里見作品を加えて「昭和のフォーヴィストたち、色の競演」と銘打つことが出来た。

四人の作品が、里見勝蔵の母校東京美術学校(現東京藝術大学)近くの、美校卒業が2年後輩にあたる鈴木千久馬の孫、英之氏が経営する画廊で一堂に会する。画廊は3年半前、英之氏の母方の祖父、日本画家望月春江のアトリエ跡地に新築した建物だ。そのことにも想いを寄せながら絵を味わっていただければと思っている。

主な展示品:

里見勝蔵宛絵葉書3通

里見勝蔵:「ルイユの家」昭和35年作、「(仮題)フランスの田園風景」昭和30年代後半~40年代前半作

熊谷得登久平:「ねこ じゅうたん かがみ 裸女」昭和34年作、「熊谷登久平画集(絵と文)」昭和16年刊

荒井龍男:「ボードレールの碑」昭和9年作、詩集「牧羊神」昭和7年刊

島村洋二郎:「桃と葡萄」昭和13~14年作(里見「秋三果」のオマージュ作品)、手書きノート「五線譜の詩集」

 

 熊谷登久平 絵葉書投函日1936・昭和11年10月11日宇都宮発

    熊谷登久平関係資料

 荒井龍男 絵葉書投函日1934・昭和9年9月15日ソウル発

荒井龍男関係資料

 島村洋二郎 絵葉書投函日1943・昭和18年5月17日横須賀発

 島村洋二郎手書きノート「五線譜の詩集」

 

 里見勝蔵「ルイユの家」(昭和35年作)
 里見勝蔵「(仮題)フランスの田園風景」(昭和30年代後半~40年代前半)

 熊谷登久平「ねこ じゅうたん かがみ 裸女}(昭和34年作)

 荒井龍男「ボードレールの碑」(昭和9年作)

 島村洋二郎「桃と葡萄」(昭和13~14年頃作)

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】中野和高・田口省吾・鱸利彦 黄金世代〜俊秀年次と狭間の年次~

板倉鼎(1901年生まれ)がその書簡(1928・昭和3年2月22日)で[出て行った(世間に認められた、の意)]画家として、3人 〜前田寛治(1896年生)、中野和高(1896生)、佐分真(1898生)〜 の名前を挙げている。1920年代半ば(昭和改元頃)、停滞が目立った帝展の活性化に貢献したり、前田が「パリ豚児」と呼んだ当地でフォーヴに魅せられた世代である。

パリから帰国後、この世代の美校出身者は官展系と在野系に別れて活動したが前田の存在が両者を繋いでいた。1930年協会第5回展(1930年東京府美術館)がその典型例と言える。帝展活性化の側は伊原宇三郎(1894生)、鈴木千久馬(1894生)、中村研一(1895生)、片岡銀蔵(1896生)、鈴木誠(1897生)、田中繫吉(1898生),佐分真(1898生)ら。前田が「パリーの豚児」に挙げたメンバーは、中山巍(1893生)、里見勝蔵(1895生)、宮坂勝(1895生)、佐伯祐三(1898生)ら在野系が多い。鈴木亜夫(1894生)田口省吾(1897生)も在野系だ。皆30歳台前半の若き活力ある一団だった。黄金世代と呼びたい。学術的な論文では土方定一が「昭和期美術の批判的回顧」に[(無方針な)写生から離れて][反省的で科学的な造形意識によって構成]されている例として[帝展ならば前田寛治とか中野和高とか、二科展ならば中山巍とか佐伯祐三とか]と書いている。

そんな彼らの滞欧作品が欲しいと思っていた。伊原作品と相前後して到来したのは中野和高だった。今回はこの1枚の小品から話を進めて行きたい。

1)中野和高の滞欧作品【ベニス風景】(1925年作)が市場に出ていた。カンバスボード裏には本人筆の画題、署名とともに「大禮記念京都大博覽會出品 中野和高殿(東京・無鑑査)」と印刷され、氏名が記入された紙片が貼られている。1928・昭和3年9月に京都、岡崎公園他で開催された昭和天皇即位大礼を祝する大掛かりな博覧会である。中野は前年8月に帰国しており滞欧作を出品したようだ。中野の画風変遷を知るため展覧会図録「中野和高とその時代」宮城県美、愛媛県美1987を調べた。カラー図版【ベニス美術学校前ヨリ】がある。【ベニス風景】と制作年、支持体、筆触や色遣いが合致する。中野はこの年2月、1930年協会第3回展にも滞欧作19点を特別出品している。

   中野和高【ベニス風景】1925(4号)

2)中野和高は美校の1921・大正10年卒業生だが、この期は俊秀年次である。前田寛治もそうだ。他に首席で卒業した伊原宇三郎、片岡銀蔵、鈴木千久馬、鈴木亜夫(以上、1894生)、田口省吾(1897生)、田中繁吉(1898生)らがいた。佐分真(1898生)も同期入学、病気で卒業が1年遅れた。

  田口省吾 仮題【イタリア風景】1929~32(3号)

3)黄金世代、俊秀年次の一人田口省吾は、父田口掬汀が作家で美術評論家、美術雑誌「中央美術」の創刊者でもある。1929年から1932年にかけて新婚旅行を兼ねて渡欧している。イタリア風景と思われる滞欧作品を所蔵しているので画像を載せる。この作品はオーソドックスな美校卒業生らしい描き方であるが、少数派の在野系で帰国後二科会に滞欧作品10数点を特別出品して会員となった。田口は美術誌上の帝展合評会に登場して父親譲りの論客振りを発揮して活躍した。子は内向の世代の小説家高井有一だ。祖父を軸とする明治文化人達の交友を描いた評伝小説「夢の碑」に父省吾を河西珊吾として登場させている。

4)伊原宇三郎や鈴木千久馬と同年の1894年生まれに鱸利彦(すずきとしひこ)がいる。千葉出身で宮崎育ち、鹿児島出身の藤島武二を師と仰いで美校に進んだ。美校卒業年に文展初入選、以降帝展に6回出品、この間1930~31パリ留学する等キャリアに遜色なく典型的なアカデミズムエリートの途を歩んでいる。滞欧作品がある。一見地味だが日の光がさすと画面中央、塀の上から覗く木々の上部や塀部分の色彩、赤黄緑が鮮やかに映え、空や塀の暗色との対比が効果的だ。署名の利彦の下に描かれた、滞欧作にしか確認出来ない名字ゆかりの魚のマークが面白い。

  鱸利彦 仮題【サクレクール遠望】1930~31(3号)

しかし黄金世代に属し華やかなキャリアとは裏腹に、鱸は既述したような昭和期初頭の画壇のメルクマールに名前は登場しない。彼は戦後共立女子大教授に就任「一陽会」を立ち上げるが、美校卒業後は高島屋に奉職して商業デザイナーの途を歩んだ事、留学はパリ豚児たちより数年あとずれした事などに起因するのかもしれない。実績からみて画力に不足があったとは思えない。気が付くのは生年こそ伊原たちと同じ黄金世代だが、美校卒業年は俊秀年次より3年早い1918・大正7年という点だ。そしてこの卒業年次には鱸の他に近代洋画史に名を残す者がいないのだ。集団としてのパワーに欠けていたと思わざるを得ないのである。俊秀年次に対する狭間の年次だ。それが鱸の就職や留学遅れの遠因になっていたのかもしれない。現在と違い情報量や勉学機会が限られていた当時は、実年齢に関わり無く学んだ年齢とその時の人脈がその後の活動を決したとも言えよう。この時代を世代論で論じる際の留意すべき事象である。

5)美校同期卒業生という繋がりは単なる交友関係にとどまらず、才能ある者たちが互いに切磋琢磨したがゆえに各人が成長しハイレベルの集団となって初めて「美校同期」として機能した。同一世代にあっても、花の大正10年組、一つ前の俊秀年次(大正5年組)と、狭間の(不穏当な言い方をすれば埋没した)年次(大正6~7年組)を比較するとそれがよくわかるのである。

一方、「美校同期」は卒業後のパリ留学、帝展入選・特選、無鑑査さらに審査員へとSTEPUPしていく画壇エリート群を生み出すvehicleでもあった。それは官展アカデミズムを継承するだけでなく権威の再生産をもたらすシステムとして機能したのだが、ここでは「多士済々集団」であった事実を示すに止める。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】御厨純一・北島浅一 同郷、同じ歳、東京美術学校同級、没年も一緒の二人の画家 その2

御厨純一(みくりやじゅんいち、1887・明治20年〜1948・昭和23年)は前回取り上げた北島浅一と同じ佐賀県出身、中学生のとき同じ教師(梶原熊雄、京都府画学校出身1870年生まれ)に絵を習い、1907・明治40年、東京美術学校西洋画科にも一緒に入学する。生没年も同じだった。1912年美校卒業、1920年【ダリア】が第2回帝展初入選。北島に遅れること7年、1926・昭和2年から1928年まで渡欧、26、27年にはサロン・ドートンヌに入選した。1927年3月のパリ集合写真(大久保作次郎送別会)にも写っている。

      写真の人名比定は「青春のモンパルナス」2006井上由理氏に依る

御厨がパリで描いた作品が3点ある。うち2点は親族の方旧蔵と聞いている。持ち帰ったあと長く飾っていたそうだ。並立するモンマルトルの給水塔とサクレ・クール寺院を描いた絵の方には署名がない。出来映えが良く手許に置いておきたかったのかもしれない。滞欧期の風景画には点景人物がよくいるがこれにも赤茶の歩く女性らしい姿を発見した。この臙脂色やクリーム色でドロっと塗り込んだような筆触はもう1点のセーヌ川とエッフェル塔を描いた作品(こちらはお土産絵)や、渡欧以前、戦後の作品にも見出せる。じっくり重ね描く画風である。もう1点は帰国直前の作【巴里ポンヌフ】1928年6月5日(M10号)、冒頭の画像を参照されたい。

     

【巴里エッフェル塔】1927年頃(5号)   【巴里モンマルトル給水塔】1927∼8年(10号)

「板倉鼎・須美子書簡集」には須美子が[私達にはいいおぢさんのような人・・・いろいろお世話になった人でして一坊(註:長女一、かず)の大すきな方です(28年7月)]と書く等、全部で16回も登場する。御厨のパリでの様子だけでなく人物像も伝わってくる。いくつか紹介する。[私達の日常を活動写真に撮って松戸(註:鼎の実家)へ持ってってあげると云って居られます]。この時パリで撮影された2分強のフィルムは約90年後、目黒と松戸で開催された板倉夫妻の展覧会で上映された。鼎が同年12月に出した手紙、[御厨さんは大変食べる事がすきでしてことにいかもの類・・・返って洋食とかよりなまづとかふなとか・・・量も多くがよい・・・日本食でお酒でしたら大喜び・・・まだ独身(註:当時41歳)本当によい人です]

1928・昭和3年帰国後、第9回帝展に【冬のサンミッシェル橋】、第10回に【ガンの一隅】が入選した。1929年2月、北島、青山熊治、片多徳郎、栗原忠二、佐藤哲三郎、三国久ら美校同級生(1912・明治45年卒業組)と共に第一美術協会の創設メンバーに名を連ねる。第2、3回展覧会にはパリで客死した板倉鼎の遺作出品をアレンジ、須美子は鼎の両親宛ての手紙にこう書いている。[第一美術展御厨様よりご招待いただきました。・・・先輩の皆様の故人へのご親切を心からうれしく存じました。(1931年6月12日)]。1933年5月には第一美術展招待状や書簡が届き5月25日の日記には[稀に見る御親切な方だから誰もが甘へて色々お頼みするのだろう。遺作展といふときっと世話役になられる由。お人がよいから、矢張り日本に居ると雑用に追はれて製作に専心出来ないと歎いていらっしゃる。何れ巴里ヘまたお出かけなさる積りだとの事。] 御厨の人柄がよくわかる。

    

【風景】1924(展覧会場で撮影)  【川上風景】1946佐賀県美(図録画像)

さて、御厨と北島は画家としてのスタートキャリアも同じだったが、画風も帰国後の歩みも異なっていた。こなれた線で形をとり軽妙で洒落た絵を描く自由人気質だった北島に対し、御厨は丁寧に面を取り、塗って仕上げる画風だ。律義で人間関係を大事にする気質だったのだろう。近代日本洋画草創期の黒田、藤島ら親世代に直続する教え子世代(1880~1890年生まれ、東京美術学校明治年間の卒業)としてエリートキャリア(美校、欧州留学)を自覚し、官展アカデミズムに属して啓蒙する立場でもあるとの認識も持っていたと思われる。それが1937・昭和12年以降、第一美術協会理事を務めながら海軍省に委嘱されて海洋美術会の設立、海軍に従軍し海戦記録画を描くに至らせたと推測する。

御厨も北島と同様、大正、昭和戦前期の官展アカデミズムを担った一人である。ただ北島に比べて官展入選実績(3回)が少ない上、戦争画家としての作品も多く印象が強い。戦後早くに亡くなったためイメージの刷新や新たな制作展開を果たす機会がなかったこともあったのだろう、その画業が充分顕彰されているとは言い難い。

さらに近代日本洋画史を通覧するとそういった個々人の背景にとどまらない大きな流れの中で彼らの仲間全体が埋没してしまっていることに気付く。第一美術協会が発足したのは1929・昭和4年である。構成メンバーの画風は、この時期顕著になっていたフォーヴ以降の新潮流から外れていた。大正期後半には二科会の安井曾太郎(1888生)はじめ帰朝者滞欧作の展覧会出品が盛んになっていたが、1919年官展の文展→帝展組替えを経て昭和ヒトケタ台―1926年~1934年―に入ると洋画界が一気に流動化する。1925・大正14年、国画会に西洋画部門が出来、彼らと同世代の非官展系国際派の主軸、川島理一郎(1886生)、梅原龍三郎(1888生)が同人に招かれる。1926年には1930年協会が発足してパリから戻ったばかりの10歳近く年下の新進世代が活動開始し、1930年に独立美術協会となる。雰囲気も刷新され、官展が絶対的な権威を有していた時代が去り官展以外の複数の居場所を持てるようになっていたのだ。既述したように、官展内部においても在野団体の活況に対抗すべくより若い世代に主導権が移っている。1936・昭和11年に新制作協会を結成することになる更に5~10歳年下の後輩世代も成長過程にあった。パリでは1920年代後半、所属に関わりなく日本人画家集団が藤田嗣治(1886生)を中心に全盛期を迎えている。洋画界の主だった彼ら1880年代生まれの官展系人脈に対抗する勢力が台頭してきたのである。第一美術協会の前身ともいえる四十年社が結成された1920・大正9年に、彼らと同根と言える1924年創設の槐樹社と共に主義主張や個性を前面に打ち出した創作活動をしていれば状況は変わっていたかもしれない。しかしそうしなかったのではなく、できなかったのではないか。そこにアカデミズムに縛られ多様な価値観を持ちえなかった彼らの世代の限界があったのだろう。

第一美術協会は帝展審査員でもあった主導的人物の二人、青山熊治が急逝し(1886~1932)、片多徳郎が退会した(その後まもなく自死、(1889~1934)影響も大きい。帝展組の後輩筋にあたり審査員も務めた、熊岡美彦(1889生)、牧野虎雄(1890生)、大久保作次郎(1890生)達も流れには抗えなかった。彼ら世代の官展系人脈は秀作を多く発表したにもかかわらず、絵画傾向が旧弊とみなされたためか、権威主義への反発のためか、時流に埋没し近代日本洋画史上のbig nameとならなかった。

しかし、時代の潮流にかかわらず優れた画家、良質の作品は語り継いでいかねばならないと考える。近代日本洋画史の大正、昭和戦前期には既に名を挙げた他にも五味清吉、田辺至、長谷川昇、小寺健吉、高間惣七、寺内萬治郎、草光信成ら同世代の優れた画家たちがいた。官展アカデミズムのもと一時期を担っていた事実と忘れられてしまった作品群を、彼らを看過し、欧州絵画新潮流の追随に重きを置いた戦後の美術史叙述とは異なる眼で再評価すべきであろう。

    

御厨純一【擬講】 <1912美校卒業制作・図録画像> 北島浅一【石炭運】

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】北島浅一・御厨純一 同郷、同じ歳、東京美術学校同級、没年も一緒の二人の画家 その1

再びこだわり話から始める。額の裏面から表面の作品や作者に関する情報を得る試みだ。田辺至、伊原宇三郎こぼれ話で、額裏に貼られた名刺やシールから制作年を引き出した。今回は、大正、昭和戦前期の近代日本洋画を牽引した官展アカデミズムを担った一人、北島浅一(きたじまあさいち、1887・明治20 年〜1948・昭和23年)である。

北島がボードに走り描きした柿の絵がある(4号)。余白が大きく単彩であれば水墨画の趣きがある。天性の素描家で、俗に言う「描けてしまう」画家である。画学生時代、滞欧時、帰国後のどの作品を観ても線で形態を捉え立体感を出す技量は抜群だ。淡白な着色で量感も醸し出す。洒落っ気や遊びっ気に富んでいるのか、大雑把過ぎたり端折ったりするきらいがあるのだが、その分、引く線の魅力が引き立つ。それを味わいたくてサッと描き流したような柿図を手に入れた。そうでなくても余白だらけの背景を、幅広の固めの筆で白く刷いてある。遠くから観るとスカスカだがこの白がいい。

     

この作品のボード裏に古びた紙片が貼られていた。[杉並区西荻窪 北島浅一]と判読出来、電話番号も読み取れる。そこから本作の制作年がわかるのでは、と調べてみた。年譜に依れば、北島が西荻窪に越してきたのは1926・大正15年。その少し後から「朝一(あさいち)」の雅号を使い始めたようだ。それに合わせてか、当時の洋画家によくみられる英字サインに変えて漢字印[朝]を多用する。1929・昭和4年頃からだという。本作は[朝一]サインだけだ。そこで制作年は、1926〜1929年の間かと推定した。[朝]の崩し方などから更に後年作の可能性もあるが、円熟期に入った彼が活発に働いている頃で、絵から活き活き感が伝わって来る。

 北島浅一      御厨純一

こだわり話はここまでにして、この後はもう一人、奇遇とも言えるほど彼とそっくりな経歴の持ち主、だが画風は対照的な画家、御厨純一(みくりやじゅんいち)にも触れながら書いていく。

北島浅一は1887・明治20 年生まれ。佐賀県小城中学生の時、当地を訪れた美校生、辻永(1884年生まれ)の絵を見て画家を志し上京して白馬会研究所で学び、1907年東京美術学校に入学した。卒業は萬鉄五郎(1885生)、栗原忠二(1886生)や片多徳郎(1889生)と一緒で萬が【裸体美人】を提出した1912・明治45年、北島の【石炭運】は御厨の【擬講】と共に買上げとなった。翌1913年第7回文展に【蜀江の夕】が初入選して以降、第9回から12回まで連続入選。卒業7年後の1919・大正8年パリに渡る。エコール・ド・パリが全盛を迎える1920年代以前に渡欧した世代で一つ歳上に青山熊治、川島理一郎、田辺至、藤田嗣治らがいる。熊岡美彦(1889生)は同期入学である。「パリ豚児」と呼ばれる世代より10歳近く年上になる。1921年【踊り場】がサロン・ドートンヌに入選、翌年帰国する。

【パリーの踊り子】1922  【裸婦】1926

帰国後の1924・大正13年第5回帝展から1934年第15回(最後の)帝展まで、継承した新文展でも入選を続ける。1948・昭和23年61歳で逝去するまで官展の常連であった。団体活動としては、1920・大正9年四十年社、1929・昭和4年第一美術協会の創設メンバーに名を連ねた。両会には多少の出入りはあるが基本形は青山、片多、熊岡、栗原、御厨、萬、佐藤哲三郎(1889生)、三国久(1885生)ら美校同級生である。

もう一人の御厨純一は、北島と同じ佐賀県出身。佐賀市生まれで北島の小城郡は近隣である。中学のとき同じ教師(梶原熊雄、京都府画学校出身1870生)に絵を習い、美校入学年も卒業年も卒業制作買上げまで一緒、生年だけでなく没年も同じだった。1913・大正2年に撮影された1枚の写真がある。佐賀県美術協会設立会合で場所は上野。黒田清輝と同じ歳の久米桂一郎(1866生)、岡田三郎助(1867生)は美校教授、北島、御厨は前年卒業したばかりであった。若い二人の姿は性格人柄を示しているようでその画風までもうかがわせる。

さて北島浅一に戻る。実は北島の画業の全容がよくわからない。帰国した1924年5月に滞欧記念個展が三越で開催され多くの作品が流通したと思われる。一方、後年の制作では、違う「朝一」が描いたのではないか、と思うような絵もよく見かける。掴みどころがない、という方が適切かもしれない。その年次、キャリア、実力から言って大正、昭和戦前期画壇における中心となるべき人物であるにもかかわらずそういった存在になっていないのも不思議だ。北島の個性もあろう。組織運営、人事には興味なく不得手だったのかもしれないが、しかし当時の帝展内部の事情も背景にあった。

大正後半の文展→帝展改組に伴い1922・大正11年、中村彜(1887生)、片多、牧野虎雄(1890生)が帝展審査委員に就き、改元前後に熊岡、青山、田辺が新設の帝国美術院賞を受賞して北島・御厨世代が画壇中枢となった。しかし直後の1925・大正14年以降、フランスから帰国した中村研一(1895生)前田寛治(1896生)、中野和高(1896生)らの作品が帝展の沈滞を打破し新旧の在野団体とも渡り合えるとの世評が高くなり、1929、30年には前田、鈴木千久馬(1894生)が審査委員となる。一方で北島の仲間は青山、片多が相次いで亡くなる(1932年、1934年)等、帝展内部における勢力図が一気に変わったのである。若返りである。北島浅一の帝展出品作への合評会批評からはそれを感じ取ることができる。帝展後輩組のコメントは直截的で遠慮がない。(そこからは北島世代と彼らとのデッサン手法の違い、彼らが陥った帝展大作主義の弊なども読み取れる。)

1917(第11回文展)萬鉄五郎:何処までも感興本位の人・・作品はいつでも面白いが不満な処はいつでもある・・(描かれた娘は)生き生きとしている。

萬は北島と同級生。この評が北島作品のイメージを規定することになる。以下、帝展となった後の後輩連中からの評である。

1924(第5回帝展):太い線でグイグイ・・手際はうまい・・墨画の味・・カリカチュアの趣をさえ持っている・・複雑な構図に筆を染めたらどうか・・

1925(第6回):垢ぬけした・・外国に行ってきた人らしいスッキリ・・そろそろ大物に・・

1927(第8回):色調がいい、要領はいい、帝展の会場ではコクが足りない、デッサンに不備が多い為に平面、シャレタ絵、技巧もシッカリ、軽い處、その軽い處を狙ったのだろう・・

1928(第9回):もっと傑れた技巧を持っている筈、あまい、一寸気を付ければいい好きな絵、技術色彩に異存はないが対象の把握力に浅さ、大ヅカミな集約的コンポジションを・・

1931(第12回):少しふざけ過ぎている

1932(第13回):つつましやかな處がいいと思う

1936(新文展):荒い筆でここまで人物を描けるとは容易ならざるものだ

 

【パリー郊外】1921(10号)【中庭】滞欧作

【路上】滞欧作  【三人の女】滞欧作

私見では、北島浅一が本領を発揮し傑作群を残したのは滞欧時代である。特に中期以降の軽妙で素早いタッチは、華やかで動きのある近代都市パリのタウンシーンに合致しているのだ。描く側と描かれる側の感性がドンピシャである。

一つ年下の安井曾太郎がフランスから戻った後、日本の風土をモチーフにすることの困難さから長いスランプに陥り、画壇では日本的油彩画の追求というテーマが流行ったりした。北島にも同様の葛藤、志向があったのだろうか。1934・昭和9年、第一美術協会を退会した後は官展(系)を発表の場に画題も自然の風景が主となり奔放な輪郭線も少なくなっていった。時に南画的仏教画的でもあった。しかし、1948・昭和23年61歳で逝去するまで、生涯を通して官展への出品は絶やさず、その常連であり続けた。    (この項続く)

本稿、続稿は【北島浅一・御厨純一展図録】1986年佐賀県立美術館刊(松本誠一氏執筆)から多くを教示いただいた。

文責:水谷嘉弘

【topics】佐分真の「巴里日記」に板倉鼎が登場していた

板倉鼎と同時期にパリに居た「洋画界を疾走した伝説の画家(一宮市三岸節子記念美術館展覧会での呼称)」佐分真(1898年生まれ、美校卒業は鼎の2年先輩)が、パリで鼎と行き来していたことを記した文献があるのを知った。鼎サイドの資料と共に時系列で紹介する。

1)本ホームページで既に何度か紹介したパリの大久保作次郎送別会は、1927年3月22日に開催されている。集合写真には二人が写っていることから鼎は佐分とそこで再会していたと思われる。佐分は同日の日記に同会の模様を書いている。

-夜、七時半から大久保作次郎氏の送別會を日本人會でする。會する者藤田(註:嗣治)氏以下四十餘名、盛會。森田(註:亀之助)氏夢中になってはしゃぐ。嬉しい晩だ。そして席上、近く歸朝する中山正實氏のアパルトマンを吾々で引きつぐ事に相談定まる。非常にいい家だ。郊外ムードンの地、何とも有難い事だ。來る土曜午前中見に行く筈。段々運勢開けるらしい。-

  (シルエット作成 松戸市教育委員会)

2)佐分真は、1927・昭和2年2月小寺健吉とともにパリに渡り、4月中山正實から引き継いだパリ近郊ムードンの一軒家に落ち着く。滞欧中の日記を4冊残しており、これらは遺稿集「素麗」(冒頭画像参照)に「巴里日記」として収録された。4月12日の項に鼎が登場する。

―快晴 稍々寒・・・(ムードン駅で)偶然板倉氏夫妻が寫生に来たのに會ふ。伴い歸る。・・・―

 佐分真遺稿集「素麗」(限定650部)春鳥会 1936年刊 表紙スケッチ(パリ郊外 couilly風景)

3)この件を須美子は松戸の鼎実家あてに書く。

―(先週ムードンに行った時)駅のそばでお友達の佐分利(ママ)さんと小寺健吉氏にお目にかかりました。お二人がすぐそばの家へ案内して下さいました。二人で四間ばかり借りて居らっしゃるのですけど、お風呂も附いて立派な台所もあり・・・私達もそこに移りたくなってしまひました。家の窓からでも画が描ける様になってゐます。(1927年4月19日付け書簡)―

須美子は余程ムードンが気に入ったのか再度手紙に書いている。

―郊外のムードンと云ふ所へ鼎さんのスケッチのお供で参りました。・・・まるで東京と松戸との比の様に巴里からムードンへ行きますと胸が軽くなる様な気が致しました。駅と鉄橋を中央に両方に岡があり赤ガワラの一軒家がチラチラ青葉の間からのぞいて居ります。・・・(1927年4月21日付け書簡)―

4)5月3日、日本人会館で行われた荻谷巌送別会には、佐分、鼎共に出席している。(「巴里週報」第86号)

5)「巴里週報」(当時の日本人社会のミニコミ誌、石黒敬七主宰)第97号(創刊二周年記念号)1927年8月1日発行、には藤田嗣治の祝辞はじめ多くの在仏者の名刺広告が掲載されている。佐分、鼎も出稿していた。

   

6)同年夏、佐分は鼎のアトリエを訪ねる。辛口のコメント込みではあるが、鼎を高く評価している。

―・・・夕食を富士でとり、後板倉氏を訪ねる。板倉氏には勿論若人の作にして近代的な一味あり、そしてよき神経の行き届きし感じで行く行くは相當の作を成す人と思はせた。唯一種の味にこだはってどっしりとした底力を発揮し得るや否やが疑問だ。もしそれをしも得たらんには一入の結果がみられるだらう。(巴里日記、1927年8月25日)―

   

板倉鼎「垣根の前の少女」1927                   板倉鼎「剣のある静物」1927

須美子の同日付け書簡に、前日24日夜小寺健吉が来宅し鼎の絵を誉めていたとあり、小寺と同居していた佐分がそれを聞いて早速訪れたのであろう。先立つ8月19日付けの須美子書簡は、鼎が「垣根の前の少女」を制作中とあり、それを描く様子が詳細に記されている。小寺も佐分もこの作品を目にしたと思われる。鼎側に佐分来訪の記述は無い。

7)板倉鼎も佐分真を意識していた事が分かる記述がある。

―・・・この頃(五六年)巴里に来た画家の数は数百人になりませうが一寸もよい仕事でみとめられていません。率から云ったら極少数の人、佐分氏とか前田(註:寛治)氏とか中野(註:和高)氏とかが出て行っておりますが何れも四年以上の人ばかりでして、佐分氏など足りなかったので、又来ておられます。・・・(1928年2月22日付け書簡)―

パリに少しでも長く居たいが為の父親に訴える文脈であり、リスペクトしているゆえ名を挙げたのだろう先輩画家たちの滞在年数は実際より長く書かれている。佐分は初めてパリに来てやっと1年経った頃合いである。小寺と混同していたのかもしれない。

鼎はそれから1年半後の1929年9月29日に急逝するのだが、佐分がそれに言及した文章は見当たらない。同月24日にパリを発ち約1か月、オランダ、ドイツを旅していた期間にあたる。余談になるが、この時観たレンブラントがその後の佐分のスタイルを決定づけることになる。

上記の6)は同時代画家の証言として貴重である。佐分真の板倉鼎を見る眼の確かさもわかる。1927年夏は「パリで1年かけて、持っていた型、日本で学んだ描き方を捨てた」と、鼎自身が書き、モダンで洗練されたスタイルを獲得しつつあった頃だ。静物画が多くやや様式化した生硬な表現も見受けられるのだが、佐分の慧眼から鼎の意図が達成されようとしており、観者にも伝わりかつまだ過程にあった等を知ることが出来るのである。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】川島理一郎 painter & traveler、1920年代半ばの海外スケッチ

川島理一郎は、1886・明治19年栃木県(現)足利市の生糸商家に生まれた。事業に失敗して渡米した父を追い1905年、19才の時海を渡る。ワシントンのコーコラン美術学校、ニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザインを卒業して1911年渡欧。日本人画学生が学ぶ定番だったパリのアカデミー・ジュリアン、アカデミー・コラロッシに入る。1913年、東京から来た同じ歳の藤田嗣治と親交し共同生活する。同年日本人として初めてサロン・ドートンヌに【巴里風景】他1点が入選した。第1次世界大戦勃発時も欧州に留まり、翌1915年アメリカへ。1919・大正8年、14年ぶりに帰国するが3か月後には再びパリに行く。1920年代から1931年までは欧州、1927年から1939年までは中国本土、朝鮮、台湾、1941~1943年にかけて東南アジアを歴訪して制作に励んだ。この間、本邦でも描き続けた。

戦後は文部省の依頼でパリにフランス画壇の現況視察に赴いた他、日展の審査員、役員を務める。日本芸術院会員でもあった。1971年85歳で長寿を全うした。

パリを訪れること生涯通算で10度、滞在期間も長く我が国近代洋画史における代表的な国際派の画家である。painter & travelerと称したい。

手許にpainter & traveler川島理一郎の鉛筆画、パステル画の風景デッサン(スケッチ)が4点ある。川島の画業ピークの一つである1920年代半ばの作である。

① 1924年作【上海】鉛筆画 24㎝✕33㎝

(参考)1920年代~30年代前半【瀬戸内海・卜部造船所】15㎝✕20㎝

② 1924~25年作【ヴェニス】 鉛筆画 25㎝✕32㎝

③ 1927年作【ニース】パステル画 19㎝✕22㎝

④ 1924~25年作【(仮題)イタリアの寺院】パステル画32㎝✕47㎝

 

①【上海】

川島理一郎が上海を訪れたのは複数回ある。著書「美術の都パリ」1952美術出版社、には、戦争前まではヨーロッパへは海路が一般的であり(彼は2回辿っている)日本の船はほぼ寄港した、とある(ロシア鉄道を使う陸路もあり彼は3回経験している)。本作は関東大震災後、大林組社長の勧めで中国大陸のみ、上海、蘇州、南京を1か月間巡った1924・大正13年の制作と比定したが、彼にとって1930年代まで何度も目にした光景でありその頃の作かもしれない。

参考【瀬戸内海・卜部造船所(卜部港)】瀬戸内海を航行する船上から(現)尾道市因島にあった卜部造船所(卜部港)をスケッチしたと思われる。1920年代から30年代前半にかけての作か。

(1924年作)(1920年代~30年代前半)

②【ヴェニス】

1924年中国大陸から戻り38歳となった川島は、同年秋、東京大森にアトリエを新築し新婚の妻エイと渡欧する。25年6月に帰国するがこの間の滞欧作は傑作揃いである。パリ、ローマ、ヴェニス、ナポリの風景画が多い。[・・・一段と自分の信ずるところを決定的にやって見た・・・パリとイタリイ風景とを漸くにして自分の作としての発表が出来たかに思へた・・・これらの作品は一般の人達にも認められたやうだった(「川島理一郎画集」序文1933アトリエ社、のち「緑の時代」に改題)]心身共に充実していた時期であり、帰国後の7月には国画創作協会に新設された西洋画部門(後の国画会)に梅原龍三郎と共に同人に招請された。年譜には、この滞欧中にデッサン含め約100点を制作する、とある。

(1924~25年作)

③【ニース】

1927年2月、マチスをニースのアトリエに訪ねた折りの作と思われる。川島がマチスと知り合ったのは1913年だが、このニース訪問の時から親しくなったようだ。[マチスは人と話しながらでも、或は煙草を喫ひながらでも、決して鉛筆を手から離さない・・・私の持っていたスケッチブックを見つけられ・・・一々親切に批評して呉れて・・・(「旅人の眼」1936龍星閣)]マチスからデッサンの重要性、常にデッサンし続ける事を学んだという。同年(昭和2年)4~5月に東京で開催された第2回国画会展にパリから【ニースのお祭り】他パステル画3点を出品しており、本作も同時期に描かれたと思われる。1951・昭和26年、パリにマチスを再訪して帰国後その模写を展覧会に出品している。

(1927年作)

川島理一郎がスケッチ、デッサンを重要視し、師マチスの教えによく従って手を動かしていたことは、デッサン集を出版しているだけでなく(「自選デツサン集」1947建設社)、数多い著書のほとんどすべてにデッサンが掲載されていることからもうかがえる。川島の作品はリズム感を感じさせるものが多い。余計ながら、運動神経もよかったのではないかと想像する。基本的には正統的な写実に属するが、フォーヴ的筆致を獲得してリズミカルな線、快いデフォルメが見られる。

④【(仮題)イタリアの寺院】

川島理一郎はデッサン展(展示)の多い画家だが、同様にパステル展(展示)も多いことが気になっていた。ざっと年譜を見ても自身が制作に確信を持った1925年7月の(滞欧)新作画展では全87点中パステル画が13点ある。翌々27年の国画制作協会展にはパリからの出品4点全てがパステル画だった。戦後も1951年フランス視察からの帰国展展示は現地での模写66点がパステルと鉛筆、54年開催の51年パリスケッチ出品はパステル20点、といった按配である。川島にとってパステルは重要な画材といえるのだ。

彼が「美術手帖」1948・昭和23年11月号に寄稿した文章を(要約して)引用する。

[自分のパステル画は色で描いたデッサンである…デッサンにつける色彩は水彩絵具、時に油絵具を用いるが…かなり以前からこのやり方に不満…デッサンと色彩は離れたものではない…(パステルは)デッサンを描きつつ色も出せる…印象を即座にまとめる美点…自然を凝視して表現に強い情熱を盛り込む…自分の骨肉を分けた作品そのものである…(パステル画について)]戦後の文であり戦前のパステル制作と合致しない点もあるかと思うが、明快な色彩を自由に手早く駆使する描き方は終生を通して川島作品の本領たる所であり、彼がこれを好むのも故あることなのだ。

 (1924~25年作)

所蔵するパステル画の題材は、パッラーディオ様式と思われる建物だが同定出来ず制作年代も判定が難しい。色調、描法他から記載の如く推定した。

川島は生涯2度にわたってその作品群を大量に失っている。1923年の関東大震災と1930年末のインド洋での欧州からの貨物船沈没である。そのため、初期の滞米作品、滞欧作品(個展のため資生堂に約200点保管していた)と、1930年5~11月の滞欧作品を見ることができない。特に後者は次の画業ピークを迎える1933年から1936年にかけての日光、承徳(旧満洲・熱河)、東京での重厚味ある作品群に繋がるだけに残念である。

「緑の時代」には1934・昭和9年の熱河訪問を書いた「承徳の景観」の章があり【熱河大佛殿】と題されたスケッチが掲載されている。同じ構図で額裏に【大佛寺全景】と記された油彩画(出来はスケッチの方が良さそうだ)があるので下記に並べて挙げる。

(1934年作)挿画画像

    川島理一郎【大佛寺全景】1934(SM)

 

(文責:水谷嘉弘)

【news】「あーと・わの会」ホームページのコラム欄に執筆を始めました

美術愛好家団体「あーと・わの会」(会員約70名、私設美術館19館)が公開しているホームページのコラム欄に執筆することになりました。タイトルは「近代日本洋画こぼれ話」。本ホームページに随時upしている【column】の再録、加筆が中心ですが、わの会ホームページは閲覧(クリック)数が多く、特に「作家略歴」(約5000名を紹介)と「コラム」は人気が高いようです。折りに触れ板倉鼎、須美子に言及し顕彰活動の一助にしたいと考えています。

https://www.wa-nokai.org/

文責:水谷嘉弘

【topics】板倉鼎の新情報到来

千葉県館山市を中心に南房総地域の美術振興活動をしている「安房美術会」の溝江晃氏から、板倉鼎に関する新たな情報を頂戴したので紹介する。同会は昨2021年、発足100周年を迎え記念事業の一環として記念誌発行準備を進めており実行委員長を務める同氏と情報交換した際、板倉鼎が1924・大正13年7月、館山にあったレストラン「鏡軒」で行われた第1回安房美術会展に出品していた事実を教示いただいた。

「安房美術会」は、美術館所蔵品図録やミュージアムショップ販売用絵葉書を制作する老舗「京都便利堂」創業者で社会風刺漫画雑誌「東京パック」を発行した中村弥二郎(有楽)が初代会長となり、南房総地域の観光振興、関東大震災復興を目的として1921 年に発足した文化団体。地元の画家、歌人、俳人、文人らが参加した。当時、鋸南町保田(現、安房郡)に住み始めたばかりの、物理学者にして歌人の石原純、愛人関係にあったアララギ派歌人の原阿佐緒が設立時メンバー(約20人)の中にいた。

ここから、板倉鼎と繋がってくる。鼎は東京美術学校在学中の1922年頃写生に出かけた鋸南町保田で石原、原と出会い、美校を卒業した直後の1924年6月から7月初めまで約1ヶ月石原、原の住居「靉日荘」に滞在していた事が分かっている。

しかし、当地での活動については鼎自身の書簡や年譜にもほとんど記述がない。今般、溝江氏からの連絡で、鼎が石原と知り合った1922年に「安房美術会」に入会、1924年7月の第1回展に作品を出品していることが判明したのである。同月にかけて1ヶ月間も滞在していた背景もこれで合点がいく。残念ながら出品作の作品名、出品数は不明だが、鼎が当地で描いた絵は何点か残っているので展覧会図録(2015年、松戸市教育委員会刊)から画像を紹介する。冒頭に掲載した作品名は【石原先生保田の家】1924年作、下記は【(仮題)島影】1924年作、【房総保田より大島遠謀】1925年作。第1回展出品作だった可能性もある。第1回展出品者は16人、会場となったレストラン「鏡軒」は震災で倒壊したためバラックの葭簀張りだったそうだ。翌1925年、石原純が同会第2代会長に就く。

   

鼎は、1925年11月、与謝野寛(鉄幹)、晶子の媒酌で昇須美子と挙式する。須美子は文化学院で晶子に学び、原阿佐緒も晶子の弟子。原が与謝野晶子経由で須美子を知り、保田で交流が始まった鼎と引き合わせた、とも考えられる。1926年2月、新婚の鼎、須美子夫妻はハワイ経由パリに向かう。しかし、鼎は1929・昭和4年パリで客死、須美子も帰国後の1934年に実家のある鎌倉で病気のため亡くなった。保田への再訪はかなわなかったが、鼎にとってその地での生活は、美校卒業後留学までの短い2年間の中でも自由で希望に満ちた一時だったに違いない。

(文責:水谷嘉弘)

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