【topics】シンガポール国立美術館訪問の報告会を行いました

昨年4月の「板倉鼎・須美子展」開催に尽力、支援いただいた千葉市美術館、千葉県立美術館の方々にシンガポール国立美術館「City Of Others: Asian Artists In Paris, 1920’S−1940’S」展の観覧報告をしました。

会場は千葉市美術館。同館山梨絵美子館長、西山純子学芸課長、千葉県立美術館貝塚健館長はじめ両館の学芸員計7人が参加されました。現地で撮影した美術館建物や展覧会会場の模様、板倉鼎・須美子作品他展示作品をスライドショーに編集し、私が執筆したエッセイ【シンガポール国立美術館訪問録 ―アジアからパリに渡ったエトランジェ達の展覧会―】(本HP、メニューGALLERY-BOOKSに掲載)をテキストに使って説明しました。日本人画家以外のベトナム人、中国人画家の作品や大戦間時代にパリで活動したアジア人芸術家を改めて認識し、その活動に興味を持たれたようです。同展を訪問する予定を立てている人もいました。私のシンガポール勤務経験談や、芸術活動と社会・経済の関係性に興味を持っていただきました。

シンガポール国立美術館の堀川理沙さんに報告会開催を伝えたところ、同展には毎週のように日本から美術関係者が訪れているそうです。かつて無かったことで同展の注目の高さを喜んでいました。アジア人画家への関心が高まることを期待していました。

なお、同館前の広場パダンでは8月9日のナショナルデーパレード等シンガポール建国60周年記念の記念式典が催されるため、同館は今月半ば以降、開館時間短縮日、臨時休館日が多いようです。同館ホームページの告知を紹介しておきます。

(quote)The Gallery will close at 3pm on 14, 21, 28 June and 5, 12, 19 July, and remain closed all day on 26 July, 1–3, 8–10, and 15–17 August. Tours after 2pm will be cancelled.(unquote)

写真は終了後の懇親会です。

山梨絵美子千葉市美術館館長と貝塚健千葉県立美術館館長

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】川島理一郎・小出楢重・佐分真 挿絵3枚

今回は以前本コラムで取り上げた3人の画家たちの手すさび的に描いた3枚の挿絵を題材にしたい。3人とは年齢順に、川島理一郎(1886〜1971)、小出楢重(1887〜1931)、佐分真(1898〜1936)である。皆、達者な描き手だが画家としての歩み、系統、作品の質は全く異なる。互いに接点もなかったのではないか。昭和戦前戦中期の近代洋画人をfocusしている私にとって彼等は外せない人物だが、一緒には論じ辛い面々でもあった。しかし、本格的なタブローと違いこれらの挿絵は軽妙さにおいて大いに通ずる点があるのだ。関西人気質溢れた洒脱な漫談風随筆で知られた楢重、戯れ文をものし徳川夢声、高田保らと「風流倶楽部」を結成した佐分、戦後まで生きて長寿を全うした川島も多くのエッセイ、戯画を遺していて、皆、遊び心に富んでいる。私は素描の類いが好きでインターネットオークションで気軽にbidしているうちにその3人の同系統の画が揃ってしまったのである。安価で入手できたし、作品というより落書きに近い感じだ。おそらく挿絵の注文を受けとしてこなしたであろう画を手すさびというのは失礼千万かとは思うが、彼等も楽しんで描いたように見えるのである。(冒頭画像は近代日本美術史家、匠秀夫の著作書影。匠は近代日本美術と文学の相関関係をしばしば考察した。同著は挿絵を題材としたアンソロジーとして刊行された(2004年)。中段右は小出楢重の「蓼喰ふ虫」谷崎潤一郎(1929年)所収の挿絵である。

川島理一郎【人物五態】小出楢重【近江の火祭】

佐分真【パリジャン】

1)川島理一郎の「(仮題)人物五態」紙本鉛筆(21.7㎝✕12.3㎝)制作年不詳。

川島は文筆を得意としエッセイ集5冊、自撰デッサン集1冊を出版したが全てにデッサンを挿画として掲載している。目次には必ず挿画目次の項があり例えば「緑の時代」は全305ページに挿画が126点ある。レンジも広く、作品として展示されるレベルから油彩下書き、挿絵(【人物五態】のようにメモを添えたものも多い)、簡略な線描、カットまで、素描のfull lineupだ。同画はカットのアイディア出しの1枚のようだ。川島は、75歳を過ぎた最晩年の1962年頃から油彩の画風が一変しパズル片を散乱させたような、或いは長目の歪んだ楕円が浮遊しているような半抽象の画面になる。カラリスト振りが復活し、しなやかな曲線が印象的な色鮮やかな作品もある。デッサンもデフォルメが進んだり、稚気に富んだものがある。それと歩調をあわせるようにスケッチやデッサンとは趣を異にする遊びっけのある戯画を発表した。題材はダンサーや芸人等々。82歳の時、生前最後の出版物となった「戯作小品」1968・昭和43年美工出版社、はその集大成といえる。前書きに[製作の合間に楽しみつゝ描いたものが、たまりましたので御見せします 私と同じ様な気持で御覧頂ければ幸です]とある。油彩(SM)が20点掲載されているがそれらの下絵ないし同じモチーフの素描も没後の展覧会図録(銀座和光1981年)で確認できる。その中の、当時一世を風靡した山本リンダのヒット歌謡曲「こまっちゃうな」に因んだ【こまっちゃうな】と題した素描と「戯作小品」所収の油彩画を並べて紹介する。(以下、参考画像2点)

川島理一郎【こまっちゃうな】素描(図録) 油彩(SM)

2)小出楢重の「近江の火祭」紙本墨画(18.3㎝✕13.2㎝)1928年頃。

彼の代表的な挿絵、谷崎潤一郎と組んだ「蓼喰ふ虫」には大阪毎日新聞に掲載された83枚(1928~29)があるがその中にも、小出随筆のアンソロジー「小出楢重随筆集」所収の挿絵(小出は生前3冊の随筆集を刊行したが何れも挿絵がある)にも、それが描かれていれば一目で楢重とわかる火、煙や雲や境界表現に印象的な渦巻き模様が登場する。それのある画が欲しいと思って手に入れた。絵の上部に薄っすらと「志賀縣之巻」と書かれた字が読める。楢重が終焉の地となった芦屋に転居した後(1926)の充実した時代、谷崎や直木三十五「大阪を歩く」1930の挿絵を描いた頃、近江にしばしば旅行していたようだ。近江風景の連作群(紙本インク画)1928もある。楢重には「挿絵の雑談」と題するエッセイがあって[私は主として線のみを用いて凸版を利用し黒と白と線の効果を考えている]という一文がある。単色線画が多く遺されている。(以下、参考画像2点)

小出楢重【天神祭】紙本墨画 【亀の随筆】挿絵(図録)

3)佐分真の「パリジャン(仮題)」紙本鉛筆・水彩(イメージサイズ12.5㎝✕6㎝、紙寸は18㎝✕11㎝か?)1935年頃。

1937年の「郷土の画家たちⅢ 佐分真」展図録(愛知県美術館)に同系統の「キャフェ」「マドロス」と題された鉛筆・水彩デッサンが掲載されている。制作は1935年頃とある。佐分が2回目の渡欧から帰国した後、自裁する前年である。この頃文藝春秋のユーモリスト座談会で人気を博した佐分は筆もたちフランス滞在に想を得た「東西御手本色模様」「モンパルナスの女」といった戯作的読み物を執筆している。それらに因んだ挿絵、カットではなかろうか。なおこの画は1970年、佐分の郷里愛知県一宮市、やよい画廊で開催された素描展で頒布されたようだ。展覧会案内がついていた。佐分の展覧会一覧に1969年3月と1970年3月、やよい画廊の個展開催が記されている。同画の額裏には他でもよく見かける佐分の妹保子の能筆の鑑書きが貼られていた。(以下、参考画像2点)

佐分真【パリのキャフェ】グワッシュ 【マドロス】(図録)

以上、挿絵3点に共通して言える事は走り書きに近いだけに簡略な少ない線で描かれている点だ。それ故、画家が引く地の線が現れ属性が垣間見えるのである。川島からは師マチスに学んだ「常に手を動かしデッサンし続ける」描き方が伝わって来るし、楢重は濃厚な日本裸婦の油彩画連作を描く一方で浮世絵を観察し日本画風の作品を遺していた事がわかる。そこにも渦巻きがある。彼らより10歳あまり年下の佐分はフランス留学で華やかなエコール・ド・パリを目の当たりにする。昭和モダン、新制作協会創立(1936)メンバーの兄貴世代に属するのである。

文責:水谷嘉弘

【topics】シンガポール国立美術館を訪問しました

シンガポール国立美術館で開催中の展覧会「City Of Others: Asian Artists In Paris, 1920S-1940S」2025・4・2〜2025・8・17を訪れました。板倉鼎の「赤衣の女」が同展のメインヴィジュアルに採用されており担当の Director&Curator 堀川理沙氏にご案内いただきました。

訪問レポートは、【TOPICS】の他、(menu)GALLERY (submenu)BOOKS にもUPしました。ここでは現地で撮ったスナップを紹介します。

  

            

  

  

   

 

 

  

 

  

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】伊原宇三郎 その7「Toho丸の甲板にて」の制作年を探る

本コラムでは以前、額裏情報から制作年を探り出す試みで田辺至と伊原宇三郎作品を取りあげた(2021年7月、2021年9月)。今回は、同じ伊原宇三郎の作品だが裏面ではなく表面に描かれたモチーフから制作年を割り出す話である。画題は【Toho丸の甲板にて】である。

伊原宇三郎の表記油彩画(12号P)を入手した。1920年代〜40年代にかけて昭和戦前戦中期の近代日本洋画をfocusして調べたりエッセイの類いを綴っている者にとって制作年は必須の情報なのだが当該作に年記は無い。私は、伊原の画風変遷から彫像のような人体描写、矩形の存在感が際立つ滞欧作ではなく、また戦後の巧みで描き熟れた風景写生画でもない、図録などではあまり見かけないフランスからの帰国(1929年)以降、陸軍嘱託となる戦争記録画時代(1938年〜1945年)に先立つ頃の作ではなかろうか、と見立てた。戦争期の船舶の雰囲気を感じなかったからでもある。伊原作品をlineupしたかった面もある。

年譜をあたると、1937年5月東京日本橋三越における海軍協会主催の洋画諸大家新作海洋美術展覧会に出品しているとの記述があった。そこで、本作はこの展覧会出品作或いはそのエスキースではないか、と想定したのである。しかし確たる証拠がない。

大学で船舶工学を専攻し三菱重工業長崎造船所にいた友人信原眞人君に絵を見てもらうことにした。伊原の署名の下にフランス語で「Toho丸の甲板にて」と書かれている。トーホー丸とは何時頃建造された船なのか。また絵から読み取れる事柄がないか、訊ねたのだ。彼からの返事を要約すると次の通りだ。

「船舶史記録に依れば、飯野商事および飯野海運が所有した東邦丸は4代にわたって存在していた。その存在期間は、第一代1936〜1943、第二代1944〜1945、第三代1948〜1996、第四代1972〜1982、なのだが、伊原氏が画いた東邦丸は第一代の東邦丸と思われる。画かれている救命ボートに記されている船名が「MS TOHOMARU」と読めるため、MS=Motor Ship、即ち主機がディーゼル機関だと考えられる。第一代東邦丸の主機はディーゼル機関であることから当該の船は第一代と判断した。というのも第二代、三代、四代は、いずれも、SS=Steam Ship、即ち主機は蒸気タービン機関だからだ。」極めて納得の行く解明である。決め手となったのはモチーフとなった甲板上の救命ボートなのだった。私のいわば文系的見立てと信原君の理系的検証がmeetしたのである。持つべきものは友、だ。

参考までに、彼が教えてくれた歴代東邦丸の情報(抜粋)は次の通り。

「第一代 東邦丸。1936川崎造船所で竣工、飯野商事が運航、油槽船として米西海岸からの石油輸送に従事、1938 海軍が徴用、1941 三菱重工業横浜造船所にて艤装工事を施工、給油船に改造、1943  米軍潜水艦の魚雷を受け沈没。総トン数:9,987。載貨重量:13,431 t。垂線間長:152.4 m。船幅:19.8 m。船深:11.32 m。喫水:8.98 m。主機:川崎MANディーゼル機関、9,987 PS。船速:16 kn。

第二代 東邦丸。1944 三菱重工業長崎造船所で竣工、飯野海運が運航、1945  被弾沈没。総トン数:10,238。載貨重量:14,960 t。垂線間長:148.0 m。船幅:20.4 m。船深:12.0 m。喫水:8.98 m。主機:蒸気タービン機関、5,000 PS。船速:15 kn。

第三代 東邦丸。1948竣工、飯野海運が運航、1996売却。

第四代 東邦丸。1972竣工、飯野海運が運航、1982解撤。」

「Toho丸の甲板にて」は、伊原が陸軍嘱託になる前、第一代東邦丸が海軍徴用となる前、の1937・昭和12年に乗船して海軍協会主催の海洋美術展出品作を描いたのではないか、と結論付けたのである。

伊原宇三郎は立体物である対象を的確な描写で絵画平面に置換する優れたデッサン力と、モチーフを(伊原の言に頼れば)有機的に配置する画面構成力に長けた画家である。本作は切り取られた構図の中で、救命ボート船縁のゆったりとした滑らかな線と背景の大海原とが、当時の世相がまだ落ち着いていることを示しているように感じる。

さて、「トーホー丸の甲板にて」を描いた頃の伊原の作品群について改めて考えてみたい。4年間のフランス滞在を終えて1929・昭和4年7月に帰国した後、1938年夏、陸軍の嘱託画家として中国大陸を北から南へ順に従軍するまでの間、伊原の画業はあまり展開していないと思ったからである。画壇的には華々しい実績を挙げているのだが・・・

伊原の年譜を追ってみる。帰国した年の10月、第10回帝展に滞欧作「椅子によれる」を出品して特選となる。以降、帝展改組騒動(松田改組)で帝展未開催となった年の前年、1934年第15回まで続けて出品した。うち第11回「二人」、第13回「*(木へんに日、羽)上二裸婦」は特選となり、第15回では審査員に任じられた。典型的な東京美術学校出身者のエリートキャリアを歩んだ官展アカデミストである(伊原は1921年3月首席卒業)。

更に、教育者、洋画界牽引者としての活動が目立つ。1930年から32年まで帝国美術学校西洋画科教授、翌1933年3月美校助教授に就任。近代美術館建設期成会、銀座美術家協会、オリンピック東京大会組織委員会、等々多数の団体の発起人や委員に就いている。それらを補完する意味合いもあるのだろう各種展覧会出品、執筆活動(キリコ、ピカソ、ドランの紹介単行本、アトリヱ、みづゑ、美術新論等美術雑誌、新聞への寄稿等)、座談会出席が旺盛である。戦中期1941年10月「新美術」に掲載された「畫家の労作」は画家の何たるかを啓蒙する優れたレポートで石橋正二郎の推挙で発表され、戦後1955年にはブリヂストン美術館から復刻されている。画力筆力に加え、コミニュケーション能力、行政・組織運営能力に富んだ多才な伊原だからこそこなせたといえる。しかしながら多忙ゆえか、この時期の創作活動は滞欧時代の延長線上の作品が目立つ。伊原宇三郎はその経歴から当然有るべき画集が何故か未刊行だが、図録等を見る限り滞欧後期サロン・ドートンヌに入選した「横臥裸婦」「白衣を纏える」と同系統の彫像的人体像、2~3人群像図が多い。帰国年の帝展特選作「椅子によれる」は滞欧作品だった。デッサン力に富み西欧古典、ルネサンスを学んでアカデミズム指向だっただけに当時のヨーロッパ新潮流(フォーヴ以降)に距離を置いた制作姿勢は伝わって来るが、1933年第14回帝展出品作「トーキー撮影風景」に見られる構図や画面構成の展開が図られないまま戦争記録画時代に突入したのが残念だ(戦後期作品に画面構成に秀でた作品群が登場する)。「Toho丸の甲板にて」も招聘に応じた制作、といったところか。ただ後年肖像画の第一人者と見做されるきっかけとなった「徳川家達公肖像」「深井英五氏像」の完成はこの時期1936年であり画期と言える。

【椅子によれる】1929 【トーキー撮影風景】1933(共に図録画像)

こののち、伊原は陸軍嘱託として中国大陸に赴く。荒野を背景に戦う兵士や軍人群像を描くのだが、そこに至ってかつて西欧でルネサンスに学び追求した画面構成、群像描写に向き合うことになるのである。伊原宇三郎に限らず、藤田嗣治、中村研一、小磯良平等渡欧して近世絵画に接しデッサン力に秀でた画家たちは時代の要請に応じて戦争記録画に取り組み力作を遺していった。この事実は、我が国近代洋画史における大きな研究課題だと考えている。体制側、戦争責任といった観点とは異なる作画上の視点から分析すべきテーマではなかろうか。

文責:水谷嘉弘

【news】シンガポール国立美術館に板倉鼎作品【赤衣の女】が展示されます

2023年10月本欄【news】で、シンガポール国立美術館から板倉鼎について照会があった旨お知らせしました。このたび同館より来月から開催される展覧会の開会式案内が到来しました。メインヴィジュアルに鼎の「赤衣の女」が使われています。同展には、鼎の他、藤田嗣治、川島理一郎も展示されているようです。

展覧会名「City Of Others: Asian Artists In Paris, 1920S-1940S」2025・4・2〜2025・8・17 担当:director(curator)堀川理沙氏

展覧会フライヤー掲載作品:板倉鼎「赤衣の女」 Woman in Red Dress 1929(昭和4)年 116.8×80.3cm キャンバス、油彩 松戸市教育委員会所蔵 第1回仏蘭西日本美術家協会展(パリ)1929年4月 出品作品

 

参考までに2023年10月6日掲載の【news】を再掲します。

先月、シンガポール国立美術館の director&curator の方 から板倉鼎について照会がありました。同館は2015年設立の東南アジアの近現代美術を専門とする美術館です。「2025年開催予定の「City of Others: Asian Artists in Paris 1920s-40s」という特別企画展の準備を進めている。従来「日本の画家がみたパリ」というように国別の枠組みで捉えられてきた大戦間の画家のパリ体験を、ベトナム、中国、日本の画家(工芸家)の足跡を追い一つの展覧会のなかで横断的に検証する企画。大戦間時代の日本人画家の活動を調べていく過程で板倉鼎・須美子を知り、多くの作品を所蔵する松戸市教育委員会で現物を実見出来ないか、展覧会に展示する作品を借用できないか」との問い合わせでした。

板倉鼎・須美子を知ったキッカケは同展の準備でパリに出向き当時のサロン等に出品した東南アジア画家を調査していた時。企画展にはベトナム人、中国人に加え日本人画家を何人か取り上げ在パリ作品を展示したい。キキメとなる藤田嗣治や佐伯祐三の展示作品は内定しており、板倉鼎について当社団のホームページを閲覧してコンタクトして来られたそうです。早速、松戸市教育委員会の田中典子学芸員に繋ぎました。

本ホームページ【近代日本洋画こぼれ話】で取り上げた川島理一郎、清水登之、等に加え、板倉鼎と同様忘れられたエコール・ド・パリの画家の一人である高野三三男も展示候補になっているようで、同時代の本邦洋画家の再評価、顕彰を旨としている当社団にとって嬉しい連絡でした。近年の繁栄著しいASEANの中心都市シンガポールで板倉作品が展示紹介される展覧会に大いに期待しています。(再掲了)

文責:水谷嘉弘

 

【news】板倉鼎の代表作【休む赤衣の女】が東京国立近代美術館に展示されています

今般、板倉鼎の代表作【休む赤衣の女】が東京国立近代美術館(千代田区北の丸公園3-1)に寄託替えとなり、2025年2月11日から始まった所蔵作品展「MOMATコレクション」で展示されているのでお知らせします。(冒頭写真は、東京国立近代美術館 小松弥生館長、鼎作品担当研究員(学芸員) 横山由季子さん、水谷)

 

「MOMATコレクション展」のキキメ、4階1室「ハイライト」に展示されており作品前にはインバウンダーはじめ人溜まりがしていました。かなりの訴求力でした。会期は6月15日まで。今回展は裏のテーマで夫婦共に芸術家だった画家の作品をpickupしたとのこと。鼎の隣はロベール・ドローネーでしたし、三岸好太郎・節子夫妻、吉田博・ふじを夫妻、ジョージア・オキーフ等など、須美子作品も近美に入れば・・・と思いました。近代日本洋画では、原田直次郎【騎龍観音】、関根正二【三星】、靉光【眼のある風景】、藤田嗣治【血戦ガダルカナル】等の他、板倉鼎がパリで最も親しく付き合った東京美術学校同期の岡鹿之助作品も出品されています。是非ご覧ください。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】佐分真 その4 素描・少女像と画集「SABOURI」、その他

近代日本洋画こぼれ話「佐分真その3 2枚のデッサンと、付いていた品々」に[ 1936年10月、没後半年で刊行された画集「佐分真」(限定450部)春鳥会、には油彩画47点の他デッサン11点(コンテ9点、鉛筆2点)が収録されていた ]と書いた。その後、この中のコンテ作品1点を入手した。【少女像】1932年(推定)、コンテ53.9㎝✕41.5㎝、である。

画集「佐分真(SABOURI)」 表紙・目次(最終頁)

佐分真の生涯に関する文献を読むと必ず触れられるのが、自宅アトリエでの自死についてだ(1936・昭和11年4月23日、享年38歳)。遺書は有ったが原因は謎で多くの友人たちが思い思いの文を綴っている。親しい画友(小寺健吉、伊原宇三郎、林重義、田口省吾、伊藤廉、宮田重雄、小堀四郎、益田義信ら)はアトリエを整理して遺作展を催し(1936年9月)、既述の画集を刊行した。小寺によればフランスから持ち帰った多くの作品が無署名のままキャンバスに巻かれてアトリエに放ってあったそうだ。展示するため補強修復し、ほとんどの作品は無署名でスタンプサインを作って押印し、作品をA,Bにランク分けして画集掲載作を選定したという。画集掲載の油彩画47点は、自画像1点から始まり、(滞欧後期・昭和3年~7年)34点、(滞欧前期・昭和2年~3年)6点、(帰朝後・昭和7年~11年)4点、(滞欧前・大正14年~15年)2点、の順に仕分けられている。期毎の点数にばらつきがあり時期の仕分けが不可解だ。佐分の2回の渡欧は昭和2年~5年10月と、昭和6年末~7年末であり時系列的な前後期と合致しないからである。しかしこれは、仕分けが昭和5年初めからの画風の変化 ~写生的な風景画から重厚な人物画へ~ に応じたものと考えれば理解できる。佐分の画業のピークは、2回の滞欧期をまたがる昭和3年頃から亡くなる2年前の昭和9年頃まで、と皆の認識が一致していたのだろう(画集には最晩年の壁画画稿、絶筆各1点もある)。

【貧しきキャフェーの一隅】1930・昭和5年 図録画像

【室内】1934・昭和9年 図録画像

佐分は1929・昭和4年9月下旬から約1か月間のオランダ・ドイツ行を境に画風が変わる。代表作とされる【貧しきキャフェーの一隅】昭和5年、をはじめ明暗の対比と濃密なマチエールが印象的な、佐分作品を特徴付けるレンブラント風の人物画はみなこの期間の作に挙げられている。

さて、このコンテ作品は額裏に小説家、劇作家の川口松太郎(1899生まれ)が識を認めていた。全文を転記する。[佐分眞作 少女像 昭和六十年改装 予の友人にして若く自殺せる天才なり 川口松太郎]

  

子息純一氏は「画家佐分眞 わが父の遺影」1996求龍堂、に [佐分は、自作を売ることをほとんどしなかったので、没後、親戚・友人の一部にあげた残りは、東京と名古屋の家に保存された。] と書いている。本作は友人に配られたうちのひとつだろう。遺作画集に採択された作品であり二人はかなり近しかったに違いない。私が見聞した限り佐分サイドの資料から松太郎に関する情報に接したことはないが、二人の接点は容易に想像できる。文藝春秋ルートだ。

佐分の年譜には「1931年11月末再びフランスへ渡る。この頃より文藝春秋や美術雑誌などから執筆を依頼され・・・随筆を寄稿」、「1935年12月文藝春秋主催のユーモリスト座談会に出席、大いに駄弁を弄して好評を博す。この時の出席者によって「風流倶楽部」を結成。・・・」とある。

川口松太郎は文藝春秋が発行する「オール読物」1934年に掲載した「鶴八鶴次郎」で翌35年第一回直木賞を受賞。また松太郎の鎌倉在住文士仲間、久米正雄は、佐分と共にパリで交流した文化人の集まり「コンパル会」のメンバーだった。因みに佐分の代表作のひとつ【室内】1934、第15回帝展特選・画集掲載、は、同じく鎌倉文士で文藝春秋とも関わりのある大佛次郎(1897生)が佐分から直接贈られている(現在、大佛次郎記念館所蔵)。

参考:両会の主たるメンバー「風流倶楽部」徳川夢声、高田保、辰野九紫、石黒敬七、宮田重雄、等。「コンパル会」福島繁太郎、久米正雄、吉屋信子、石黒敬七、宮田重雄、長谷川昇、小寺健吉、伊原宇三郎、伊藤廉、田口省吾、小堀四郎、等。

このように佐分は2回目渡仏からの帰国以降、文学者との付き合いやメディアでの活動が目立つようになる。一方画業の方は所属する二つの会派を離脱する。軸足を移した感がある。1935年5月の松田(帝展)改組による官展運営(美術界)の新体制が佐分にとって不本意だったのかもしれない。美校藤島武二教室出身、パリ留学、帝展特選3回、といったトップキャリアにも関わらず新体制ではそれに相応しい処遇が成されなかったのは事実だ。不自然でさえある。画壇の政治性に嫌気がさし、文才と語り口に恵まれた佐分が仲間も多いそちらに寄っていったのは妥当な成り行きにも見える。しかしそこに至るまでの長い間、佐分真の書いた文章や言動を顧みると、最後の2、3年の振る舞いは擬態であり、内実はアカデミズムを担う正統な画家として在りたい、という強い思いを持ち続けていたと確信する。最も身近な画友であり絵画研究やキャリアにおいても同じ行程を先駆けていた先輩の伊原宇三郎(1894生)は「佐分が旧帝展で育った画家であり、佐分の本質をよく識っている私は・・・」と書き「何とかして周囲の力ででも安住の世界が与へられてゐればよかった」と続ける(「佐分の死」1936年5月)。しかしそうならず、思いの成就から引き離されたやるせなさ、自分の居場所と信じていた所からの疎外感が自死の遠因にあったのではないか、と感じるのである。子息純一氏が佐分真の通夜の模様を記した場面に、その一端が如実に示されていると思えてならない。

(quote)アトリエの北側に柩を据えて・・・通夜の晩は多数の人々が訪れたが、一番印象に残っているのは、「風流倶楽部」のメンバーと画友の一部が合流し、故人の自殺という深刻な状況を和らげようと賑やかな雰囲気を盛り上げたことである。・・・お棺のそばにはそういう賑やかな連中がぎっしり席を占領していたので、別室の応接間のほうでは通夜の席らしく、会葬者たちが言葉少なに控えていた。その中には故人と親密な画家の姿も見えたが、心なしかアトリエの会葬者とは同席したくないような様子で・・・今から思えば、学生時代からの旧友には、帰国後の佐分がそういう仲間と交際するのを快からず思っていた人もいたのではないかという気がする。(unquote)

純一氏はじめ観者の多くが佐分の人物画に沈潜した精神を、風景画にも写実をこえた精神性を感じると書いている。それはとりもなおさず佐分自身が精神を凝縮し魂を込めて画面と向き合っていたからに他ならない。そんな一本気で生真面目な、本来的には不器用だと思える人物が、美校以来の官展系画友達と、最晩年の「風流倶楽部」仲間と、テイストの異なる二方の付き合いに分断されていた事実を重く捉えるものである。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】 目次(35)~(1)& バックナンバーの検索方法

35)2024年12月 二瓶徳松 その2 1933年 満洲で描いた肖像画

34)2024年11月 中村彜 清水多嘉示の生写真と下落合の二瓶徳松

33)2024年10月 川島理一郎 その4 秀作 北京聴鴻楼(西太后旧居)

32)2024年9月 伊原宇三郎 その6 滞欧風景画の秀作 南仏アルルふたたび

31)2024年8月 二瓶徳松 作品「(仮題)教会」を巡って

30)2024年3月 佐分真 その3 2枚のデッサンと、付いていた品々

29)2023年11月 青山熊治・田辺至・大久保作次郎・鈴木千久馬 昭和初期の本邦婦人像

28)2023年9月 川島理一郎 その3 昭和初期の本邦風景画・人物画

27)2023年8月 佐分真・板倉鼎 パリの交流

26)2023年6月 伊原宇三郎 その5 滞欧人物画、お気に入りモデルの坐像4点はどれだ?

25)2023年5月 清水多嘉示 その2 滞欧人物画、モデルはソニア?!

24)2023年4月 小寺健吉 1920年代 2度の渡欧・「巴里郊外」2点

23)2023年2月 川島理一郎 その2 素描あれこれ

22)2023年1月 佐分真 その2 挿画 パリのキャフェ

21) 2022年12月 伊原宇三郎 その4 仏エトルタ海岸 連作5点

20) 2022年11月 里見勝蔵 里見を巡る三人の画家たち

19) 2022年10月 里見勝蔵・荒井龍男 展覧会のキャプション

18) 2022年9月 田辺至・北島浅一・宮本恒平 1922、3年頃のイタリア風景

17) 2022年8月   佐分真 滞欧風景画の秀作 イタリア・アッシジ

16) 2022年7月   伊原宇三郎 その3 滞欧風景画の秀作 南仏アルル

15) 2022年6月   中野和高・田口省吾・鱸利彦 黄金世代〜俊秀年次と狭間の年次

14) 2022年5月   御厨純一・北島浅一 同郷、同じ歳、東京美術学校同級、没年も一緒の二人の画家 その2

13) 2022年4月   北島浅一・御厨純一 同郷、同じ歳、東京美術学校同級、没年も一緒の二人の画家 その1

12) 2022年3月   川島理一郎 painter & traveler、1920年代半ばの海外スケッチ

11) 2022年1月   藤田嗣治 離日前、最後の同窓会

10) 2021年11月 安井曾太郎 作者は誰だ?

9) 2021年10月  伊原宇三郎 その2 1912(明治45・大正1)年 ~18才時~ の作品

8) 2021年9月   伊原宇三郎 額裏情報から制作年を割り出す

7) 2021年9月   岸田劉生 劉生戯画「京の夢 大酒の夢」

6) 2021年8月   小出楢重 素描―習作―完成作

5) 2021年7月   田辺至 名刺と挿画原画

4) 2021年6月   清水登之 美術館所蔵品とかすっていた

3) 2021年6月   清水多嘉示 その1(続) 渡仏以降の生写真

2) 2021年5月   清水多嘉示 その1 渡仏前の生写真と中村彜

1) 2021年5月   島村洋二郎 一枚の絵葉書

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【近代日本洋画こぼれ話】二瓶徳松 その2 1933年 満洲で描いた肖像画

(冒頭画像は【山井格太郎像】F10号)

2024年8月1日付け【こぼれ話】に【二瓶徳松 作品「(仮題)教会」を巡って】を掲載した。それを読まれた方からメールを頂戴した。こぼれ話で紹介した落合道人氏とのやり取りで「なかなか見つからない」と話題になった二瓶徳松の満洲時代の作品についてである。抜粋して引用させていただく。

(quote) 8月の【近代日本洋画こぼれ話】を拝読しました。1933年、二瓶氏が渡満中に大連で描かれた人物画を所蔵しています。人物は私の曽祖父で満鉄総務部の顧問でした。当時小学生の父は大連の家で二瓶等氏が作画するのを見ていたと話していました。(中略)曽祖父は1922年から上落合2丁目552番地に住み(途中家族の一部と渡満)、1943年に中野区城山町へ越していました。確かに二瓶氏が下落合に居た時期と重なるので何らかの交流があったのかもしれません。 (unquote)

上落合に住んでいた肖像画の主は、山井格太郎という。メールを発信されたのは山井のひ孫の方で作品の画像を送っていただいた。非常に良い作品で作者の画力がすぐにわかる絵だった。重要な情報が含まれていた。

1)作品に1933・昭和8年の年記が入っており、二瓶の画風変遷のミッシングリンクだった美校卒業年に帝展入選(1924年)した後の昭和戦前期の作品が出現したこと。

2)署名がT.Niheiとあった。二瓶はしばしば画名を変える人物でこの署名は本名の「とくまつ」(徳松)或いは「つねまつ」(經松)で作品を発表していた美校卒業頃まで使っていたと思われた。その後、帝展入選時は「ひとし」(等)と名乗っていた。そこで満洲作品のイニシャルはHと考えていたのだが、肖像画の画像を見るとTである。「とくまつ」に戻しているようなのだ。その後も頻繁に画名を変更した人物なので充分あり得ることだ(戦後名乗った「とうかん」(等観)を既に使用していた可能性もある)。

3)とすれば、前回の、【二瓶徳松こぼれ話】のテーマにした教会も満洲在かもしれない。モチーフの教会の佇まいは欧州ではなく本邦、画面のT署名は「とくまつ」を名乗っていた美校卒業頃まで、を根拠として1920年頃の二瓶の郷里、北海道在の教会を描いたと判断した。ただし、【こぼれ話】に書いた落合道人氏とのやり取りで、氏は、満洲の可能性はないだろうか、とも述べられていた。今回の署名発見がその説の有力な裏付けになった。落合道人氏の炯眼の通りだ。満洲在であれば教会の日本的佇まいも納得出来るのである。

 【(仮題)教会】作品と署名T.Nihei

【山井格太郎像】署名T.Nihei  【真珠】1922年 二瓶經松

この情報を新宿下落合の郷土史家、落合道人氏に伝えたところ以下の返信を頂戴した。

(落合道人氏)『山井格太郎氏像』は、とてもいい出来ですね。メガネはあとで描き加えたものでしょうか。顔の向きは右向きですが、メガネは真正面のように描かれているのが気になります。山井氏と二瓶等のつながりは、外務省の「対支文化事業」計画の一環として、美術分野では美校の正木直彦校長や藤島武二、石井柏亭、そして山井格太郎氏を招集したあと、美校卒業者で事業の協力者を募ったときに、山井格太郎=二瓶等つながりができたのではないでしょうか。1926年(大正15)にアトリヱ社が発行した『アトリヱ美術年鑑』には、外務省の事業について簡単に掲載されていました。また、1931年(昭和6)に東京毎夕新聞社から刊行された『育英之日本』には、山井格太郎氏についての詳細が紹介されていますね。ちなみに、『育英之日本』の人物紹介で「同文会調査編纂顧問」とあるのは、近衛篤麿や岸田吟香(劉生の父親)らが東亜同文会(現・霞山会)を上海で起ち上げたあと、東亜同文書院の学生たちが中国全土の秘境を探検調査(「大旅行」と呼称)した際の、探検レポート編纂の顧問をされていたものでしょうか。同探検レポート「大旅行」記録は、現在の霞山会館に数多く保存されていますので、山井格太郎氏についての資料もあるのかもしれません。上落合552番地は、ちょっと印象深い番地でして、南隣りには作家の吉川英治が暮らしています。ちょうど、同じ時期に住んでいますので、お隣り同士だったのではないでしょうか?落合地域の中でも、いろいろなつながりが見えて面白いですね。

(水谷)私は実作経験に乏しく落合道人殿のように肖像画の図像分析からメガネと顔の向きの方向齟齬は指摘出来ませんが、この作品のキキメであり秀作となっている要因はメガネに在ると観ています。顔の表情、姿勢佇まいが威厳を醸し出しているのはメガネ表現ゆえで、それを描いて絵筆を擱いたのではないでしょうか。道人殿ご指摘の方向齟齬は威厳効果を強調する為に意図的だったのかもしれません。この時代の美校油画出身者のデッサン力は非常に高く、特に3次元表現の鍛えられ方は半端ではないのでそう思うのです。

私宛にメールを発信された山井格太郎氏の曾孫の方も、これらのコメントに満足されたようだ。

(山井格太郎の曾孫の方)肖像画の人物は私の父方の曽祖父で満鉄総務部顧問をしていた山井格太郎(やまのいかくたろう)といい、当時67才でした。曽祖父は面倒見の良い人で、中国人の学生や日本から来た若い知識人・スポーツ選手などをよく自宅に招いていたようです。家族で大連に渡る前には淀橋区上落合に住んでいたので、下落合にアトリエを構えていた二瓶氏と既に面識があったのかもしれません。落合道人様のメールも読ませて頂きました。曽祖父の活動についても詳しく知ることができて大変ありがたく思いました。また、満州はもともとロシア革命で追われたロシア人が多く移り住んだ場所で、ロシア正教会も多かったようです。素人考えでお恥ずかしいのですが、二瓶氏の「教会」も満州で描いたのかも、と思っています。

今回、二瓶徳松の満洲における作品と活動に関する新情報を得たので、その後判明した彼の経歴を画名の変遷と合わせてまとめてみたい。

二瓶徳松:略年譜

1897札幌生まれ(徳松)、1916北海中学校卒業(徳松)、在学中に美術グループ「団栗会」を結成、1917光風会入選(徳松)、1918美校入学、退学(徳松)、1919美校再入学(徳松)、その頃新宿下落合に自邸兼アトリエ建設(徳松)、1922光風会「真珠」出品(經松)、1923帰郷、北海中学美術教師、美校卒制制作(徳松)、1924美校卒業、第5回帝展「裸女」初入選(等)、1927個展開催@札幌(等)、1928渡仏、1929帰国、第10回帝展「足を拭ふ女」入選(等)、その後渡満(中国)満洲美術会、大連女子美術学校校長等に参加、歴任、1945帰国、池袋に転居、1949野口英世の肖像画(郵便切手の原画)を制作、1955新世紀美術協会創立に参加(等観)、1990逝去(93歳)、東京美術学校同窓会名簿には等観(徳松)号:等で掲載。(落合道人氏のブログを参照させていただいた)

  

二瓶徳松は、私がエコール・ド・パリの早逝画家、板倉鼎の顕彰活動を始めた頃、「板倉鼎・須美子書簡集」(2020年、松戸市教育委員会)に鼎の美校同級生としてしばしば登場することでその名を知り、落合道人氏のブログ「落合学」で中村彝との関係を知った。しかしながら今年4月に開催された「板倉鼎・須美子展」千葉市美術館、11月の「中村彝展」茨城県近代美術館、の展示には二瓶の名前は登場しない。美校同期入学の佐伯祐三とはパリで亡くなる直前にも接点が有ったが、佐伯関連資料に二瓶の名は散見される程度のようだ。それぞれとの関係が濃密とは言えなかったからであろう。

二瓶徳松は、同時代の優れた画家との往来があり画力を有し一定の実績を挙げながらも、作品が散逸していること、代表作と言える作品が知られていないこと、画名の変遷が相次ぎ同一の画家として認識し辛いこと、確たる縁故地がないこと、等々から埋没してしまっている。出身地札幌の母校、私立北海中学校の後継、北海高等学校の同窓会(美術部OB会)が顕彰活動の母体になっていただけないだろうか、と期待している。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】中村彝 清水多嘉示の生写真と下落合の二瓶徳松

2021年5月31日付けの【こぼれ話】で【清水多嘉示 渡仏前の生写真と中村彜】と題した篇を掲載した。彫刻家清水多嘉示の同郷(長野県諏訪)の友人で後年教育指導家となる川上茂(後に上條に改姓)旧蔵のアルバムを入手したからである。1923年3月、パリに留学した清水が長野県松本女子師範学校にいた川上宛に出した絵葉書も貼られていた。清水は渡仏前に諏訪高等女学校で美術教師を務めており、1922・大正11年2月には同校と松本女子師範で清水主宰による「中原悌二郎・中村彝作品展」を開いている。アルバムにはその時の会場写真があったのだ。その件を書いたのだが、2023年6月に増補として以下の文を挿入した。本篇に関わる部分を再掲する。

清水多嘉示と中村彝の未完成作品 清水多嘉示と中原悌二郎作品   「中原悌二郎・中村彜作品展」会場写真(諏訪高等女学校) 1922年2月

(quote)今般、茨城県近代美術館の首席学芸員吉田衣里さんから照会の電話をいただいた。中村彝は茨城県出身で彼女は彝の研究者のようだ。清水多嘉示が諏訪高等女学校で主宰した「中原悌二郎・中村彜作品展」会場写真、清水の後ろに写る2枚の絵についてだ。私は、清水が制作途上の自作を展示したものと理解していたのだが、吉田さんは「中村彜作品ではないか、【泉】はポーラ美術館所蔵の【泉のほとり】ではないか」と言う。早速調べてみた。会場写真は白黒のせいか陰影が濃く筆致が粗く見えるが、まさに瓜二つだった。ポーラ美術館ホームページの同作解説は、制作1920年とされていて [・・・従来この【泉のほとり】はルノワールの模写といわれてきたが、近年の研究によってそれが模写ではなく、中村彜の創作であることが明らかになってきた。(中略)「素戔嗚尊に題をとって勝手に想像で描いたもの」という中村の言葉からもうかがえる。(中略)彼は、1920年頃、展覧会の特別陳列などでルノワールの裸婦像を目にしたようだ。その衝撃から裸体画を描きたいという思いにとらわれ、この【泉のほとり】を制作したという。・・・] とある。しかし、吉田さんは中村彜「藝術の無限感」所収の洲崎義郎宛て書簡の同作に関する記述に注目する。[・・・何時もの欠点の「動線の不明」と「色の釣り合いの不整」とがつきまとって、絵の効果を鈍くして居るのですが、要点がよく分からないので思ひきった「シマリ」を入れる事が出来なくて、これにも閉口しております。・・・]。会場写真(1922年撮影)では右下部分が空白になっていて「未完成」表示もある。他にもそれを傍証する資料があって、吉田さんは同作の制作過程を再考する要があると考えたようだ。彼女の研究によるレポート発表を待ちたい。

【泉】諏訪高女会場撮影 「未完成」表示 【泉のほとり】ポーラ美術館

なお、もう1枚の【花】と題された未完成作品のその後は不明だそうだ。類似作品【ダリアの静物】の画像を示していただいた。

【花】諏訪高女会場撮影 「未完成表示」  【ダリアの静物】1919

同展に関する写真は、清水多嘉示の代表的な研究者である武蔵野美術大学(元)教授で彫刻家の黒川弘毅氏から「清水多嘉示アーカイブ」にも見当たらない、と連絡をいただいた。(unquote)

ここから本題に入る。【泉のほとり】の制作年代についてである。2024年11月から茨城県近代美術館で始まった没後100年記念 中村彝展(以下、本展)は質量共に充実した本格的な回顧展である。代表作で重文指定の【エロシェンコ氏の像】、【頭蓋骨を持てる自画像】や新宿中村屋の相馬俊子を描いた連作群等約120点が展示されていた。【泉のほとり】もポーラ美術館から到来していた。更に、その近くの壁面には、[(彝は)1920年(大正9)頃、展覧会の特別陳列などでルノワールの裸婦像を目にしたようだ。その衝撃から裸体画を描きたいという思いにとらわれ、この【泉のほとり】を制作したという。黄色と淡紅色を基調とした肌の色合い、溶け込むようなやわらかな筆触などに、ルノワールの影響がみられる。(ポーラ美術館ホームページ)]という、そのルノワールの裸体画群の一作【泉による女】も大原美術館から特別出品されていた。彜は同作も1915年3月に観ている。

ルノワール【泉による女】1914 大原美術館

私は[(吉田衣里さんは) 彝の【泉のほとり】制作過程を再考する要があると考えたようだ。彼女の研究によるレポート発表を待ちたい。]と書いたが、今般の本展でその成果が示された。展覧会図録から彼女執筆の本作解説文を引用して紹介する。

(quote)  (前略) 改めて(【泉のほとり】の)制作経緯について整理すると、本作の構想が最初に記されているのは、大正9年9月27日付けの洲崎義郎宛書簡であった。(中略) 彝が本作を発想したのは「仏蘭西近代絵画及彫塑展覧会」(水谷註:1920・大正9年9月)に刺激を受け、【エロシェンコ氏の像】及び【女】を制作していた渦中のことであった。(中略) 意欲的に制作を開始して、11月11日頃には、「遠景の森とその手前に展開する野原と、女の「上半身」の関係」がかなり「ウマク」いっていると感じたが、一方で欠点も眼に付き、その数日後の書簡には「余りうマクいかないので悲観した」と記している。その後、体調不良が続くなどして、本作は未完のままアトリエの壁に飾られていたが、大正11年2月、長野で教員をつとめていた彫刻家・清水多嘉示が主宰する「中原悌二郎・中村彝作品展」に出品する作品が必要になり、他に作品が残っていなかったためか、画面右下が白く残された本作が未完のまま出品された(*1)。そして大正13年1月8日に彝は本作を今村繁三に譲るつもりで作品を今村に見せたようであることから、その直前に未成の部分を仕上げたと考えられる(*2)。

(*1)脚注:清水は、長野県諏訪高等女学校の美術教員をつとめていた。展覧会は、長野県諏訪高等女学校(2月5日)及び長野県松本女子師範学校(2月10・11日)で開催された。彝は、柏崎の洲崎義郎が所蔵する作品5点を展示したいので輸送するよう指示したが、雪によりかなわなかったという。(*2)脚注:未成であった画面右下の部分は、他の部分に比してタッチが大ぶりで右端の女性の脚などが十分に描かれておらず、今村に見せる直前に急いで加筆したように見える。  (unquote)

生写真展示風景生写真展示風景(その2)

吉田さんの調査を経て、会場キャプション及び図録では【泉のほとり】の制作年は「大正9〜13(1920〜24)年」と表示されていた。先行するポーラ美術館の研究を尊重し、また制作期間を示したためと思われるが、彝が現在残されている作品に仕上げたのは、1924年であることは明らかであろう。

また、会場写真に写っていたもう1枚の未完成作品【花】は現在所在不明との事だが、1924年11月1~6日、水戸商業会議所で開催された第1回白牙会展には同名の作品が彜から賛助出品されている。同月13日に同会会員が返却のため下落合のアトリエを訪れたが一か月後の12月24日、彜は死去した。1947年の第17回白牙会展にやはり同名の【花】が特別出品されているが、こちらの画像は諏訪高女展展示の未完成作とは異なっていた。2013年、茨城県つくば美術館発行の「ようこそ、白牙会展へー茨城洋画界の幕開け」展図録から知ったことである。第1回展に彜が提供した【花】は時系列的に諏訪高女展展示作の可能性はあるが、残念ながら当該作品の画像は残っていないようだ。

現在茨城県近代美術館の館長は荒屋鋪透氏である。氏の前職は【泉のほとり】を所蔵し1920年作としたポーラ美術館の館長だった。氏が茨城県近代美術館長に異動し郷土の偉大な画家中村彝の没後100年に過去最大といえる回顧展を開催する時点で同作の完成年が1924年と判明したことに不思議な巡り合わせを感じる。既述したが同作のすぐ近くには彝が同作を描く契機となったルノワールの裸婦像群の一点【泉による女】も展示されていた。いわれのある絵画には時代や場所を超えて人や物の交錯がつきものである。本作もその事例であると言えるだろう。

さて、アルバムには、川上が清水から貰ったのだろう、清水が東京新宿の『下落合』に住む中村彝を訪ねてアトリエ前の庭で自ら撮った写真も貼られていた(1920年前後)。裏面に清水のサインがある彜の【友の像】1912年頃、の下書きデッサンと思われる写真もあった。

アトリエの前で椅子に座る中村彝( 清水多嘉示撮影)パネル展示

 アルバム写真と裏面(右上が中村彜【友の像】のデッサン写真、左下はザッキンを訪ねた清水多嘉示)

本展にはアトリエ前の彜の生写真が資料として展示されていたが、ここから『下落合』をキイワードとして話を展開して行く。吉田さんは本展図録の【泉のほとり】解説で、1922年諏訪高女における中原・中村展に出品された中村彝の作品数について、8点(うち5点が油彩画か)と書かれた当時の信濃毎日新聞の2人の書き手による記事を探し出して紹介している。アルバムには【男の顔(河野氏の像)】1920年作、の生写真があったので展示されていた1点と判断してもよいかと思う。

そこで改めて検討したいのがもう一枚貼られていた作者画題ともに不明な作品の生写真である。私は、[中村彝の作品展示会なので彝の絵が他にもあるのではないか。彝が描いた相馬俊子像があるかもしれない。しかし、多嘉示主宰の地元展覧会に自作を展示するのもおかしくない。]として清水多嘉示が描いた婚約者今井りんの肖像だと結論付け、本篇冒頭に触れた【こぼれ話】に書いた。だが本展の図録を読み終えて、もしかしたら彝作品かもしれない、と考え直しているのだ。諏訪高女展覧会に出品する予定だった新潟柏崎、洲崎義郎所蔵の作品5点が雪のため送れず、[他に作品が残っていなかったためか (図録解説文)]東京『下落合』の彝が手元にあった未完成の2作を出品したと思われる。そこで当時『下落合』に住んでおり、彝に私淑した画家二瓶徳松に思い当たるのである。新宿『下落合』に関して他に追随を許さない郷土史家、落合道人氏のブログ「落合学」の記述から、二瓶と彜に関わる文節を適宜編集して抜粋引用させていただく。

[二瓶は1897・明治30年札幌生まれ、1918年東京美術学校入学、実家が裕福で在学中に豪華なアトリエ兼自邸を建設、1918~19年頃竣工。中村彜アトリエから西へ270mのところ、彜アトリエと曾宮一念アトリエの中間地点にあたる。大塚にアトリエを建てようとしていた二瓶を下落合に呼び寄せたのは中村彜自身だった。中村彜のもとへも親しく出入りしていたようで彜自身も「二瓶君」については洲崎義郎あての手紙で、曾宮一念のアトリエ建設とともに言及している。二瓶は小遣いにも困らなかったらしく師事した中村彜から直接「女の像」(少女像)を30円で購入している。]

落合道人氏はブログで、彜に師事した画家鈴木良三(1898~1996)の遺稿集からも以下を引用紹介している。

[(二瓶が)彜さんを知ったのは美校先輩の曾宮一念氏が彼を連れて彜さんを紹介したのが初めてで、彼のアトリエが出来てから、在学中に彜さんの八号の「俊ちゃんの像」を買ったことから交友は繁くなった。美校を卒業する時は特待生として一番の成績だった。(中略)二瓶さんの絵は終始彜さんの影響を受け、ルノアール張りの色調で、すこぶる生真面目な、優等生風の作画を続けた。野口英世博士の肖像なども郵便切手になる程つつましい出来であった。]

アルバム写真中村彜【男の顔】アルバム写真作者画題不明  二瓶徳松(經松)【真珠】1922

以上の情報を得て、未完成作品2点が展示された経緯から判断すると彝の周辺にあった作品が諏訪に送られていた可能性は高く、アルバムに生写真のある【男の顔】【友の像】デッサンの他、二瓶の持つ「女の像」(【俊ちゃんの像】?)があったかもしれない。作者画題不明の生写真がそれだったと言えないだろうか?!私が調べた限り中村彝、清水多嘉示それぞれの作品リスト(カタログレゾネ)には生写真の画像は見当たらない。生写真の絵自体を分析するに如くはないのだが白黒で背景や筆致など細部は不鮮明だ。本展に展示された相馬俊子像とはかなり印象は異なるが、完成度の高い手慣れた仕上がりなので渡仏前のまだ若い多嘉示の絵なのだろうか?吉田さんの見解を伺おうと思っている。

私が清水多嘉示の画業を追いかける過程で入手した生写真が、思わぬ展開で中村彜に繋がり、彜がその代表作【エロシェンコ氏の像】を描きあげた年にルノワールの裸婦像を見て触発され着手した【泉のほとり】が4年の空白期間をおいて完成された経緯が明らかになったことに驚いた。会場にその写真が展示されていたのは面映ゆかった。またお役に立てたことも嬉しく、本展監修者、吉田衣里さんに御礼申し上げます。

最後に。本展の開会式には大井川茨城県知事はじめ参会者が多かった。郷土の偉大な画家中村彝が忘れられようとしている危機感が開催の背景にあったようだ。地元地銀の常陽銀行が展覧会図録を県内全ての小中高、特別支援学校に寄贈したこと、クラウドファンディングが実施されて1千万円を超える資金が集まったことも披露された。その原資によって「中村彝を見て、感じて、描いてみる」と名付けられたプロジェクトの高校生特派員代表として、県立水戸第三高校3年生の市川萌音さんが東京新宿『下落合』にある中村彝アトリエ記念館を訪ねたり、彝の作品を模写して同展会場に展示していると報告した。若々しい体験談だけに印象に残った。近代日本洋画を代表する一人、中村彝を思い返そうとする本展の在り方に敬意を表したい。

   茨城県近代美術館 没後100年 中村彜展 展覧会フライヤーと図録

1973・昭和48年11月に、「没後50年記念 中村彜展」が日動サロンで開かれ、その後、茨城県立美術博物館(当時)に巡回している。日動画廊の長谷川仁社長が茨城県笠間市を本籍とする関係から同展開催に尽力したようだが、滝悌三氏は「日本の洋画界七十年」(2000年 日経事業出版社)に[(日動サロンの有料展)中村彜展は(入場者数が、直後に開催された「フランス名作展」より)さらに下がって、14日間約三万人、一日二千人余に留まった。]とnegativeな書き方をされている。日動サロンは銀座のど真ん中に在り格好の立地とはいえ一日二千人余の観覧者数を「留まった」とするのは、現在の公私立美術館における企画展来場者数を思うと隔世の感がある。今般の茨城県近代美術館における本展、2024年9月に岐阜県美術館で始まった山本芳翠展、4月〜6月にかけて開催された板倉鼎・須美子展(千葉市美術館)等をトリガーとして、近年顧みられることが少なくなってしまった彼らと同時代の明治、大正、昭和戦前期の画家たちの再評価、顕彰活動が拡がって行くことに期待している。

文責:水谷嘉弘

 

 

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