【近代日本洋画こぼれ話】川島理一郎 その3 昭和初期の本邦風景画・人物画

川島理一郎(1886・明治19年~1971・昭和46年)は生涯2度にわたってその作品群を大量に失っている。1923年の関東大震災と1930年末のインド洋での欧州からの貨物船沈没である。そのため、初期の滞米滞欧作品(個展のため資生堂に約200点保管していた)と、1930年5~11月の滞欧作品(フランス、スペイン)を見ることができない。前者の方は画業の初期(1910年代)から第1次ピーク(1924年秋からの2度の渡欧)に至るまでの展開期、後者の方は第1次ピーク(1920年代半ば)と第2次ピークの1933年から1936年にかけての日光、承徳(旧満洲)、東京での作品群とを繋ぐ時期のものである。それぞれミッシングリンクとなってしまい残念である。川島自身、[震災の時は東京市民挙っての災害であっただけにまだあきらめられる点が多かったが二度目の出来事は一層自分にとってショッキングであった。それはスペインでの制作数十点を…(失ったのだ)]と記している(「貴重な経験」1936「旅人の眼」所収)。しかし川島は逆境に強い画家だ。[私は、これを単なる天災とは考へなかった…描き直して来いといふ神の声であると信じた一度描いた時より二度目の方が更に良いものが出来るのは勿論である(同上)]。二度の作品群消失のあとに新たな画風を確立し二度の画業ピークに達したのである。

ここから本題に入る。2回目の画業ピークとなる1930年代半ば(昭和10年前後)の筆致の重い作品群についてである。第1次画業ピークである1924年秋から27年秋にかけての2度の渡欧期作品の特徴は躍動感ある筆運びが心地よい画面だったが、それが1930年末の欧州からの貨物船沈没の報を受けてスペインにとんぼ返りした頃(後援者である大林組大林社長新宅に搬入する家具等の再調達のため)、筆運びの重い艶やかで厚い塗りにとって代わったのである。栃木県立美術館杉村浩哉氏の表現を借りれば「さらさらすいすい」から「どっしりぐいぐい」へ、となる。当時の作品評には「革のような柔軟なマチエール」とあったようだ。言い得て妙、である。

1933・昭和8年11月、夏から秋にかけて日光で取材した24点の発表を皮切りに、翌34年満洲・熱河省承徳(現・中華人民共和国河北省)、35年東京、36年日光の風景を題材とした制作が続いた。ピークの1回目から2回目への画風の変化、1930年代初頭からの変化は、川島が[1928年以後のマチスの傾向は、厚いパットで原色に近い色を入念に塗っている…色と色との対比が実によく、一重の重厚さと力強さをさへ感じさせる(マチスを語る)「マチス画集」1933アトリエ社所収]と述べたマチスの画風変化に呼応しているように思われる。タイムラグがあるのは試行の期間と、日本、中国本土をモチーフとした時にその風土が新たな描き方にマッチしたためではないかと考える。

1935・昭和10年の個展では東京風景をモチーフにした作品を発表したが[昼間の東京は…構造的な力強さを欠いている(のに比し)…夜になると驚くべき美しさを現はして来るのを知った…東京の夜景が…色と光による近代的な美しさ…新鮮な表現の展開であると思った…内容に伴ふ形式の新しい発見へ自身の努力を傾注した(東京風景)1935「緑の時代」所収]と書いている。花火や賑わう繁華街の夜景を描いた作品が多い。

1930年末の貨物船沈没で失ったスペインでの制作数十点が惜しまれるのはこの変化の過程を知る事が出来たかもしれないから尚更なのだ。その後再び筆致が軽く流れる画風に戻るのだが、ここでは画風の振幅による表現巾の確保、形骸化の回避といったバランス感覚が働いているのではないか、を指摘するに留める。

第2次ピーク期間の小品があるので画像を載せる。

【夜叉像 三代将軍廟】1933(SM)   【少女】1935(SM)

【尾張町筋の夜】1935(3号)   【秋の百花園】1935(3号)

1933・昭和8年の日光、1935・昭和10年の東京を描いた風景画と、1935年頃作の少女像である。第2次ピークとなる1930年代半ば(昭和10年前後)の筆致の重い作品群である。東京風景2点は1935年11月銀座伊東屋で開催された第三回川島理一郎個人展覧会出品作である。同展は「東京風景と花」と題され30点が展示されたが画題がほぼ判明している。出品目録には画像が10点あり【尾張町筋の夜】はその一つだ。目録には[今回の個展の作品について愉悦を感ずることの出来るのはこれらの作品が悉く私の純粋な画的生活からの所産だったことである…最も自由なまた最も純粋な表現への努力だったと云ひ得るやうに考へる]と記している。同年5月に報じられた帝展改組(所謂、松田改組)を受けて各団体の役員を辞し、また退会して画壇に距離を置いた事を言っているのだが、言葉と裏腹に重くなり始めた筆運びに彼には珍しい筆の跳ねが残る粗いタッチが加わって、私には彼の秘めた憤慨が感じられる。

美術雑誌「造形」昭和31年4月号には小熊捍理学博士が[…川島君には大作が少ない。上野の展覧会作でも小さいものばかりである。然もその小さい画から大きい効果が出ているのをいつも不思議だと感じている。これは恐らく色彩による構成が原動力になるのであろう。現に私は二号という極く小さい板に画いた裸婦の全身像を壁にかけているが、この小さい画面が不思議にも広い壁面をドッシリとおさえているのにおどろいている。]と書いている。川島作品の絵の特徴を捉えている文章であり長目に引用した。このように川島には小品が多く、広く流通したと思われるのだが、経済的な側面や活動の拠点確保の観点からであろう、川島は1919・大正8年、14年振りの帰国の時から定期的に個展(小品展)、作品頒布会を開催しているからである。後援会も組織している。大型の油彩画は多くがミュージアムピースやコレクターアイテムとなっている。(大作が少ないのはtravelerに起因しているかもしれない。晩年は自宅アトリエ制作の展覧会発表作など大作も多い。)

ここで、川島画業の第1次(1920年代半ば)、第2次ピーク(1930年代半ば)について振り返ってみたい。

第1次ピークの「緑の時代」については以前同題のエッセイから次の様に引用した。[…一段と自分の信ずるところを決定的にやって見た…巴里と伊太利風景とを漸くにして自分の作としての発表が出来たかに思へた…これらの作品は一般の人達にも認められたやうだった(「川島理一郎画集」序文1933、のち「緑の時代」に改題)]。川島は続けてこう書いている。[その頃から(註:1924~25年)私には写実の力強さが最も必要になって来て「緑の時代」に這入った…緑一色の世界、その諧調から成る深さ、廣さ又空間的な實在性と自然の躍動の素力の把握による作品へと進んで、「セーヌ風景」や「巴里郊外」「森」などの作品は、更に続く次の渡欧(註:1926~27年)による収穫である]。「緑の時代」にあたる1924年から27年までの2度の渡欧期作品は躍動感ある筆運びが心地よい。緑色もさることながら、青色がより美しく感じられる。青と、勢いを感じさせるタッチが呼応して画面を大きく見せ拡がりを与えている。

【リュクサンブール公園】1925  【ナポリよりポッツオリを望む】1925

【セーヌ風景】1926    【古羅馬の跡】1926(全て図録画像)

それが、既述したように1930・昭和5年末の欧州からの貨物船沈没(二度目の作品消失)の報を受けてスペインにとんぼ返りした頃、筆運びの重い艶やかで厚い塗りにとって代わったのである。

【承徳大観】1934 【須弥福寿廟 承徳 黄金之龍】1934(共に図録画像)

【東照宮】1933~36頃      【夜の浅草】1935(共に図録画像)

【緑陰】1935      【夜叉門】1936(共に図録画像)

「緑の時代」1937龍星閣には1934・昭和9年の熱河訪問を書いた「承徳の景観」の章があり【熱河大佛殿】と題されたスケッチが掲載されている。同じ構図で額裏に【大佛寺全景】と記された油彩画(出来はスケッチの方が良さそうだ)と並べて挙げる。

(1934年作)挿画画像     【大佛寺全景】1934(SM)

さて、最後に時は遡るが1922年末の帰国船で親しくなった中沢弘光と共に訪れた京都奈良(1923年3月)で描いた油彩画秀作【舞妓】について触れておきたい。1回目ピーク前夜の頃である。下記画像右の作品(10号)は資生堂・福原信三氏旧蔵、その後著名なコレクター野原宏氏が所蔵していたが、2022年暮れ足利市立美術館での川島展開催を記念して同館に寄贈された。2002年展覧会図録掲載の同名作品2作の連作といえるが、自由闊達な筆遣いと色遣いが若い舞妓の艶やかでややアンニュイな姿と表情を存分に写している。

この後、この時期までの作品は関東大震災で烏有に帰すことになるが、これら舞妓3点は、川島が[震災の翌年私は支那へ渡って…風物を最も新鮮な気持ちで描いてみた…それは即興的なものではあったが…始めて自己を発見した快味を覚へた物であった(緑の時代)]と書き、続く渡欧で第1次ピークを迎える直前のミッシングリンクの最後部に位置する重要な作品群といえよう。

【舞妓】(図録画像)  【舞妓】(図録画像) 【舞妓】(水谷撮影)1923

本稿は、2002年川島理一郎展図録(栃木県立美術館、足利市立美術館 杉村浩哉氏執筆)から画像をはじめ多くを教示いただいた。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】佐分真・板倉鼎 パリの交流

「洋画界を疾走した伝説の画家(一宮市三岸節子記念美術館展覧会での呼称)」佐分真(1898年生まれ)は、同時期にパリに居た板倉鼎(1901生)との行き来を「巴里日記」他に綴っている。佐分は美校で鼎の2年先輩だが、パリ滞在は1927~30年、1932年の約5年間。鼎の滞在1926年7月~29年9月(急病で逝去)とほとんど重なっている。(冒頭画像は「巴里日記」が所収されている佐分真の遺稿集「素麗」(限定650部)春鳥会1936年刊)

佐分は1927・昭和2年2月、小寺健吉とともにパリに渡りしばらくパリ市内に滞在した後、4月近郊ムードンに移住した。住んだ家は中山正實画伯夫妻が帰国した後のアトリエ付きの広い一軒家、小寺兄弟とともに3人一緒である。佐分はムードンの位置をこう書いている。

―モンパルナスの画学生区から僅かに、十分許りの地点丁度上野から田端と云った場所に、あの美しい森と丘と、そして、又やさしい、ムードンの村・・・―(佐分随筆「滞佛断篇」1931年5月発表)

鼎が松戸の実家あてに出した書簡の例えとよく似ているのが面白い。

―今日は四月の十四日です。今週は毎日ムードンと云ふ郊外、丁度乗物の時間から云ふと松戸の東京市に対するような関係で巴里をはなれてる高台ですがそこへスミ子も一処に通って居ります。―(鼎書簡1927年4月14日)

この時の鼎・須美子夫妻のムードン通いの初日に佐分と行き会うのだ。

―最初の日、駅のそばでお友達の佐分利(ママ)さんと小寺健吉氏にお目にかかりました。お二人がすぐそばの家へ案内して下さいました。二人で四間ばかり借りて居らっしゃるのですけれど、お風呂も附いて立派な台所もあり・・私達もそこに移りたくなってしまひました。家の窓からでも画が描ける様になってゐます。―(須美子書簡1927年4月19日)

 「素麗」表紙スケッチ(パリ郊外 couilly風景)

佐分は滞欧中の日記を4冊残しており、これらは遺稿集「素麗」に「巴里日記」として収録された。須美子の書いた通り、4月12日の項に鼎が登場する。

―快晴 稍々寒・・・(ムードン駅で)偶然板倉氏夫妻が寫生に来たのに會ふ。伴い歸る・・・―(佐分「巴里日記」1927年4月12日)

パリの大久保作次郎送別会は同年3月22日開催、集合写真には二人共居り、その場がパリでの再会だったと思われる。因みに、この写真には本稿に登場する人物は前田寛治を除く9人が写っている。

 (人名比定は「青春のモンパルナス」井上由理氏)

佐分は同日の日記に同会の模様を書いている。後先になるが紹介する。

―夜、七時半から大久保作次郎氏の送別會を日本人會でする。會する者藤田(註:嗣治)氏以下四十餘名、盛會。森田(註:亀之助)氏夢中になってはしゃぐ。嬉しい晩だ。そして席上、近く歸朝する中山正實氏のアパルトマンを吾々で引きつぐ事に相談定まる。非常にいい家だ。郊外ムードンの地、何とも有難い事だ。來る土曜午前中見に行く筈。段々運勢開けるらしい。―(佐分「巴里日記」1927年3月22日)

5月3日、日本人会館で行われた荻谷巌送別会には、佐分、鼎共に出席している。

「巴里週報」(日本人社会のミニコミ誌、石黒敬七主宰)第97号(創刊二周年記念号)1927年8月1日発行、には藤田嗣治の祝辞他多くの在仏者の名刺広告が掲載されている。佐分、鼎も出稿していた。

 (「巴里週報」第86号)

同年夏、佐分はパリ市内の鼎アトリエを訪れた。辛口のコメント込みではあるが、鼎を高く評価している。

―・・夕食を富士でとり、後板倉氏を訪ねる。板倉氏には勿論若人の作にして近代的な一味あり、そしてよき神経の行き届きし感じで行く行くは相當の作を成す人と思はせた。唯一種の味にこだはってどっしりとした底力を発揮し得るや否やが疑問だ。もしそれをしも得たらんには一入の結果がみられるだらう。―(佐分「巴里日記)1927年8月25日)

 

板倉鼎「垣根の前の少女」1927   板倉鼎「剣のある静物」1927

須美子の同日付け書簡の、

―・・昨晩小寺健吉氏が家へいらっしゃいまして、いろいろまじめな批評をして下さいまして、とても今やっている仕事は良いと云っていらっしゃいました。―(須美子書簡1927年8月25日)

と呼応する。小寺と同居していた佐分がそれを聞いて早速訪れたに違いない。先立つ8月19日付けの須美子書簡には、鼎が「垣根の前の少女」を制作中とあり、それを描く様子が詳細に記されている。小寺も佐分もこの作品を目にしたと思われる。鼎側に佐分来訪の記述は無い。しかし、鼎が美校の先輩佐分真を意識していたと分かる記述がある。

―・・・この頃(五六年)巴里に来た画家の数は数百人になりませうが一寸もよい仕事でみとめられていません。率から云ったら極少数の人、佐分氏とか前田氏とか中野氏とかが出て行っておりますが何れも四年以上の人ばかりでして、佐分氏など足りなかったので、又来ておられます。・・・―(鼎書簡1928年2月22日)

佐分が鼎宅を訪れた翌年の書簡である。パリに少しでも長く居たいがための父親に訴える文脈であり、リスペクトしているゆえ名を挙げたのだろう先輩画家たちの滞在年数は実際より長く書かれている。前田氏は寛治、中野氏は和高だが、佐分は初めてパリに来てやっと1年経った頃合いである。小寺と混同していたのかもしれない。

鼎はそれから1年半後の1929年9月29日に急逝するのだが、佐分がそれに言及した文章は見当たらない。同月24日にパリを発ち約1か月、オランダ、ドイツを旅していた期間にあたる。余談になるが、この時観たレンブラントがその後の佐分のスタイルを決定づけることになる。

佐分真が板倉鼎作品を評した記述は同時代画家の証言として貴重である。佐分の眼の確かさもわかる。1927年夏は「パリで1年かけて、持っていた型、日本で学んだ描き方を捨てた」と、鼎自身が書き、モダンで洗練されたスタイルを獲得しつつあった頃だ。静物画が多くやや様式化した生硬な表現も見受けられるのだが、佐分の慧眼から鼎の意図が達成されようとしており、観者にも伝わりかつまだ過程にあった等を知ることが出来るのである。この佐分もやがて2回目の渡欧から帰国した後、1936年に自死してしまう。天賦に恵まれたにもかかわらずそれを全うすることなく世を去った二人の画家は、遺した文章からもお互いを認め合っていた。

文責 水谷嘉弘

【topics】中村彝作品と清水多嘉示 ― 大正11年撮影の展覧会写真

2021年5月31日付け本コラム【近代日本洋画こぼれ話】清水多嘉示 その1 渡仏前の生写真 を読まれた茨城県近代美術館の首席学芸員吉田衣里さんから照会が有った。中村彝は茨城県出身で彼女は彝の研究者のようだ。1922・大正11年3月、清水多嘉示が教員を務めていた長野県諏訪高等女学校で主宰した「中原悌二郎・中村彝展覧会」の会場写真を入手して掲載したのだが、多嘉示の背景に写る2枚の油彩画は中村彝の作品ではないか、との指摘だった。 (冒頭写真参照) 多嘉示と中村彜【泉】【花】(未完成表示)

私は、清水が制作途上の自作を展示したものと理解していたのだが、吉田さんは「中村彜作品ではないか、【泉】はポーラ美術館所蔵の【泉のほとり】ではないか」と言う。早速調べてみた。会場写真は白黒のせいか陰影が濃く筆致が粗く見えるが、まさに瓜二つだった。ポーラ美術館ホームページの同作解説は、制作1920年とされていて [・・・従来この【泉のほとり】はルノワールの模写といわれてきたが、近年の研究によってそれが模写ではなく、中村彜の創作であることが明らかになってきた。(中略)「素戔嗚尊に題をとって勝手に想像で描いたもの」という中村の言葉からもうかがえる。(中略)彼は、1920年頃、展覧会の特別陳列などでルノワールの裸婦像を目にしたようだ。その衝撃から裸体画を描きたいという思いにとらわれ、この【泉のほとり】を制作したという。・・・] とある。

【泉】1922諏訪高女会場撮影 【泉のほとり】ポーラ美術館

しかし、吉田さんは中村彜「藝術の無限感」所収の洲崎義郎宛て書簡の同作に関する記述に注目する。[・・・何時もの欠点の「動線の不明」と「色の釣り合いの不整」とがつきまとって、絵の効果を鈍くして居るのですが、要点がよく分からないので思ひきった「シマリ」を入れる事が出来なくて、これにも閉口しております。・・・]。会場写真(1922年撮影)では右下部分が空白になっていて「未完成」表記もある。他にもそれを傍証する資料があって、吉田さんは同作の制作過程を再考する要があると考えたようだ。彼女の研究による論文発表を待ちたい。

【花】1922諏訪高女会場撮影 【ダリアの静物】1919
なおもう1枚の【花】と題された未完成作品のその後は不明だそうだ。類似作品【ダリアの静物】の画像を示していただいた。

【泉】未完成表示 【花】未完成表示

他の同展会場写真や多嘉示が撮った彜のアトリエ前のスナップなど現物を見たいとの事だったので開催中の猪熊弦一郎回顧展を観がてら茨城県近代美術館を訪れた。併設されている中村彝アトリエは、建物は復元だが椅子や画架等の調度品は本物、東京新宿下落合の中村彝アトリエと逆の関係だそうだ。館からは吉田さんと副館長の金澤宏さんが同席され、旧友の小泉晋弥茨城県天心記念五浦美術館館長(茨城大学名誉教授)も来てくれて充実した会合になった。

自宅庭先の中村彜(多嘉示撮影) 展覧会場の多嘉示(中原悌二郎作品と)

さて余談ながら、同展に関する写真には他にも興味深いものが多くあった。これらは清水多嘉示の代表的な研究者である武蔵野美術大学(元)教授で彫刻家の黒川弘毅氏から「清水多嘉示アーカイブ」にも見当たらない、と連絡いただいた。氏のご教示でテーブル上の中原悌二郎著「彫刻の生命」を前にした集合写真は、前列右端は清水の諏訪中学校時代の美術教師西岡瑞穂、左端は後に清水夫人となる今井りん、と判明した。そこである事に気付いた。作者、画題共に不明の「婦人像」の写真が有ったのだが、これは多嘉示が描いた今井りんではないか?前掲したテーブル前の集合写真の前列左端の彼女と似た相貌なのである。

(前列左から)今井りん、多嘉示、川上茂?、西岡瑞穂

 作者、画題不明の「婦人像」 

武蔵野美術大学彫刻学科研究室刊「清水多嘉示資料論集Ⅱ」(2015年)所収の青山敏子氏(多嘉示の三女)「父清水多嘉示と母りん」に依れば、[・・・(多嘉示の父)鶴蔵が(多嘉示の)渡欧の条件としたのは、婚約者を決めてから行くように、ということでした(中略)諏訪高女の前校長土屋文明は迷うことなく今井りんを推薦したのです。・・・]1923年3月の渡欧を控えた1921、22年頃の事と思われる。展覧会は1922年2月であり会場写真に二人が並んで写っていてもおかしくはない。中村彝の作品展示会なので彝の絵が他にもあるのではないか。彝が描いた相馬俊子像があるかもしれない。しかし、多嘉示主宰の地元の展覧会に自作を展示するのもおかしくはない。展示されていなかった可能性もあるが、件の絵は清水多嘉示作、婚約者今井りんの肖像と考える次第だ。如何だろうか?

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】伊原宇三郎 その5 滞欧人物画、お気に入りモデルの坐像 4点はどれだ?】

今回は趣味譚である。いささかオタク的になる。ご容赦いただきたい。主人公はこのコラムで既に4回取り上げた伊原宇三郎(1894・明治27年〜1976・昭和51年)である。事の起こりは毎日オークションの伊原宇三郎の滞欧人物画、仮題【外国婦人】1929年作、の出品だった。伊原宇三郎は本邦近代洋画におけるアカデミズムを語る時に外せない画家で、画業を追うだけでなく作品も何点か持っている。ただ彼の女性人物画、特に戦前の滞欧期の作品は、手許に置きたいのだが機会が無かった。

オークション出品作について調べる為に1984年11月、伊原の郷里徳島県郷土文化会館で開催された伊原展図録を見て或るページに目が留まった。【青衣婦人像】1929年作、と題する作品で、図版解説に伊原自身の文章が引用掲載されていた。長いが重要な記述があるので紹介する。

(quote)「トリコの女」この絵は1929年3月、巴里での作で、私の滞欧作としては最も後期に属します。非常に良いモデルで二ヶ年近くも使っていたので、手慣れていた故為もあって短期間で出来上りました。強いて動機とでもいうものを申せば、この絵では、生々しい色や、盛り上げや、不要な変形や、粗暴なタッチ等で熱情を露骨に表することを極力避けて、平凡なポーズと、大まかな調子と、透明な灰色を基調とした地味な間色とで、各要素を極めてデリカな有機関係に捉え、単純な中に落ちついた品位と、常套でない感情とを漂わせ、そしてどっしりしたボリュウムを出したいと思って試みたものです。同じようなもの四枚描いた中で、これが比較的、部分的には好きな色や調子が出た方なのですが、最初の狙いはこんなのではありませんでした。何とも致し方がありません。(unquote)(水谷註:伊原は留意したポイントごとに細かく〈、〉を入れている点に注目したい)

そして解説文の最後に( )書きで、《同時製作の「トリコの女」の解説より 1930年展出品》と付されていた。

②【青衣婦人像】1929(図録画像)⑤【緑衣婦人像】1928(図録画像)

読んで俄然興味が湧いてきた。本人が一番出来が良いとした①【トリコの女】を知らず、図録等でも見たことが無く、さらに同様に描いた作が4点もあると知ったからである。伊原の文章は当該作品に限らずその後の伊原の創作姿勢、作品全体を解釈するうえからも、画家自身に依る貴重な証言である。その為にもこの婦人像4点を特定したいと思ったのだ。オークション出品作も入手出来れば参考になるかもしれない。

伊原がコメントした①【トリコの女】は、上記の②【青衣婦人像】と共通点が多いと思われるので②【青衣婦人像】の特長を挙げてみた。

・着衣像、着衣に落ち着いた色彩を感じさせる・どっしりと椅子に座った動ずる風のない姿勢(全身坐像) ・体の前で手を組む(自然なポーズ) ・物憂げな虚空を見つめるような表情 ・大型キャンバス(92cm✕60cm、M60号)

これを上記の展覧会図録1984年刊と照合して特長が複数合致すると思われたのが当該作品のほかに下記4作品あった。

②【青衣婦人像】1929 92 cm✕60cm、全身坐像 ③【民族衣装の婦人像】1926~27 72 cm✕60cm、ほぼ全身坐像 ④【白いレースの婦人像】1927~28 92 cm✕73cm、ほぼ全身坐像 ⑤【緑衣婦人像】1928 80 cm✕100cm、半身坐像 ⑥【白いシュミーズ】1928~29 91 cm✕73cm、ほぼ全身坐像

更に、1994年刊の伊原宇三郎生誕百年記念展(目黒区美術館・徳島県立近代美術館)図録をみると、④の制作年が1926~27、⑥の制作年も1926~27に修正されている。⑤は変わっていない、1928のままである。モデルに関係がありそうだ。伊原の自己解説文にあるように①【トリコの女】のモデルを高く評価しており、特定を目指す婦人像4点は1928~29に当該モデルを描いた坐像と考えてよさそうである。この時代の代表作【椅子によれる】1929年作(第10回帝展特選)のモデルも丸顔の彼女である。モデルの顔立ちや、「常套でない感情を漂わせ」の文意に沿った作品を探せばいい。違うモデルを使ったと思われる早い時期制作の③④⑥は対象から外れる。②【青衣婦人像】と⑤【緑衣婦人像】が候補だ。

図録解説文に①【トリコの女】が「1930年展出品」とあるのも有力な情報である。伊原が1930年協会展に出したのは、帰国した翌年の第5回展(1930・昭和5年1月東京府美術館、3月大阪朝日会館)で前田寛治の勧めで滞欧作を一挙公開した。両会場の出品リスト(東京48点、大阪24点)と会場写真が残されている。会場写真は来場者とのスナップだが背景に写り込んでいる作品画像をリストと照合して一部同定出来た。婦人像はリストに東京16点、大阪8点ある。内、図録画像や会場写真で同定、比定できたのは、東京12点、大阪6点である。本コラムの目的、婦人坐像の4点中3点が出品されたとの結論に達した。以下がその3点である。

①【トリコの女】1929(60号?)、比定、出品リスト・会場写真あり ②【青衣婦人像】1929(M60号)、同定、リスト・図録あり、写真なし ⑦【婦人坐像】1929(20〜30号?)、比定、出品リスト・会場写真あり。 これに既に候補作とした、⑤【緑衣婦人像】1928(50号)、同定、出品リストなし、図録あり

を加えて4点とした。但し、それぞれ疑問点もあるので記しておく。

①題名のトリコは、フランス語の編み物の意と思われる。会場写真からは編んだ上衣を着ているように見えるが、図録などには未掲載 ②出品リスト上の題名は【青衣】 ⑤全身像ではなく半身像、画面横長、モデルは同じ人物だろうか? ⑦会場の写り込み写真を見る限り、本作は他3点に比べ小さい

   写真は1930年協会第5回展、東京会場である。

左。伊原(右)と清水登之。背景の絵を①【トリコの女】と比定した。 右。下段右から婦人像4点は、【?】、⑦【婦人坐像】に比定、【黄色い上衣?】、【カナぺの女(出品リストでは別名)】。 ①【トリコの女】は題名も画像もここでしか見ず、その後戦災で失われたのかもしれない。以上、所期の目的、坐像4点の目途をたてることが出来た。

さて、オークションの結果である。落札した。作品画像を紹介する。よく見ると、展覧会場写真にある⑦【婦人坐像】1929(20〜30号?)と瓜二つである。⑧は⑦のエスキースに違いあるまい。

 ⑧仮題【西洋婦人像】1929(12号)

参考までに、この時期の伊原婦人像のモデルの表情を並べてみよう。みな、伊原が言うところの「単純な中に落ちついた品位と、常套でない感情とを漂わせ」ているように思えるのだがどうだろう。

【白衣を纏える】1928 ②【青衣婦人像】1929

⑧仮題【西洋婦人像】1929  【椅子によれる】1929

最後に。繰り返し伊原宇三郎を取り上げてきて気になっていることがある。伊原宇三郎の画業を総覧する本格的な画集が刊行されていないのだ。何とも合点のいかないことである。「何とも致し方がありません。」ではすまされないと思うのである。

本稿は、作品画像ほか多くを1984年徳島県郷土文化会館、1994年目黒区美術館、徳島県立近代美術館開催の伊原宇三郎展図録から教示いただいた。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】清水多嘉示 その2 滞欧人物画、モデルはソニア?!

以前、本コラムで彫刻家&画家の清水多嘉示(1897・明治30年〜1981・昭和56年)の渡仏(1923・大正12年3月〜1928・昭和3年4月)前後の生写真を紹介した(2021年5月、6月)。今回は、その清水の滞欧作品を紹介する。油彩画の方である。清水は絵画、彫刻の両部門で同時にサロン・ドートンヌに入選した初の日本人である(1924年)。帰国後しばらくは絵画作品の展覧会出品が多かったが、やがてブールデルの良き弟子として彫刻の道を歩んだ。創設に参画した(1929年)帝国美術学校(現武蔵野美術大学)では絵画彫刻双方の授業を受け持ったようだ。人工に膾炙した作品【みどりのリズム】1951年作は上野公園に設置された彫刻である。しかし、清水の絵画に対する評価も非常に高い。同時代の美術評論家柳亮は清水の展覧会図録(生誕110年記念エコール・ド・パリ清水多嘉示の絵画彫刻展、三越名古屋栄店、2007)で次のように書いている。

(quote)それにつけても私が恨みに思うのは、帰朝後は段々彫刻の方へ重心がかかり、絵画からは去るともなく遠去かってしまったことで、そのため絵画の領域で清水がかつてフランスで見せた抜群の技倆が、日本では周知される手だてを失ったまま今日に至ったことである。(unquote)

彼が最も多く絵画作品を残したのは渡欧時代であり代表作も滞欧作品にある。サロン・ドートンヌ入選作は風景画が多い。しかし、前出の柳亮は人物画について多く語っている。再び引用する。

(quote)清水は・・・色に対して鋭敏な感受性をもった画家で天与のものといわなければなるまい。私の脳裏に焼き付いて離れないのは・・・モデルの娘が身に着けたピンクの服装の美しい色合いである・・・背景の木立の緑と照応して醸し出すさわやかなリズムの二重奏には・・・賛歌が唄われているように思われた。・・・色彩の美しさが端的に目につく。だが・・・娘の表情とか・・・坐ポーズでさり気なく腰をひねった肢体のしなやかなつかみかたには、フォルムに対する彫刻家の鋭い観察の眼が光っていると私は感じた。(unquote)

 仮題【裸婦ソニア】1927(フランスサイズ10号)

さて、私の持つ清水多嘉示作品も人物画である。当初の画題は不明だ。当時の滞欧日本人画家にはそれぞれ気に入りのモデルがいて人物画作品(特に女性)には同じ顔立ちが多い。例えば中村研一のターニャ、佐分真のアリスがそうだ。藤田嗣治はユキやキキがよく知られている。そこでこの裸婦像のモデルは誰なのか調べてみた。まず、気づいたのは図録掲載の清水の絵には裸婦像が少ないことだった。彫刻作品には多くの裸婦像があるので意外だった。年譜などに依って、ソニアという名のモデルだとわかる。ソニアは二人いたがそのうちの一人だ。本作を、残されているソニアの写真や他作品と比べてみた。彼女は苗字がわかっているソニア・シャロピーではなく、苗字不詳の方のソニアだった。同定した決め手は、フランスで清水と親しく交流していた児島善三郎(1893年生まれ)の作品【立てるソニア】1927年作である。

ソニア  児島善三郎【立てるソニア】1927

顔立ち、髪型、更に腰から臀部にかけて大きく張った体形から、清水裸婦像のモデルもソニアに違いない。【立てるソニア】は児島の滞欧時代の代表作の一つであるが(神奈川県立近代美術館所蔵)児島は清水からソニアを紹介されたようだ。因みに清水が帰国後の1929年第10回帝展に初出品した絵画【憩ひの読書】1928年作のモデルはソニアである。展覧会図録には彼女がモデルとわかる作品が数点あった。

【憩ひの読書】1928  【緑衣の少女】1927

当該作品を観てみよう。やや腰をひねり両手を一方の体側に寄せた清水お好みのポーズである。児島善三郎も「見返り」がソニアの体形を美しく見せる姿勢だと感じていたのだろう。裸体画だけに線は身体の輪郭を示すだけだが明解な一本の連続線ではない。左腕の、胸部と腹部を仕分けて二の腕から前腕を浮き出させる部分、左乳房内側の部分はノミの彫り残しの淵のようだ。筆触による面取りと橙一色の濃淡で肌の起伏を示し背景の暗緑色一色と相俟ってそれを補強している。そしてソニアの、アンバランスといってもいい程の腰と大腿部が観る者を圧倒して来る。この作品は、前出の図録が「この年は清水の6年に亙るフランスでの制作活動の中でもエポックメーキング的な年」と書いている1926年から、ソニアを多く描いた27、28年にかけての制作だろう。彫刻家にして画家、多嘉示ならではの筆致である。仮題【裸婦ソニア】1927年作としておきたい。なお、画面左下に「Shimidzu」の署名がある。蛇足ながら同時期、同じ場所に住んでいた同じイニシャル「T.S」の清水登之と見分けるのに重要だ。

   仮題【裸婦ソニア】署名部分

帰国後の清水多嘉示は、1940年以降官展系の新文展、(戦後)日展に毎年彫刻を出品するが、絵画は戦時特別展1944年までの5回だけだった。柳亮ならずともその画才を堪能出来ない事をつくづく残念に思うのである。

(追記)

2021年5月31日付けコラム【清水多嘉示 その1 渡仏前の生写真】で川上茂旧蔵アルバムについて書き、その後(増補)として武蔵野美術大学黒川弘毅教授のご教示を紹介した。

  

同氏から武蔵野美術大学彫刻学科研究室刊「清水多嘉示資料論集1」(2009年)、「清水多嘉示資料論集Ⅱ」(2015年)を贈呈いただいた(冒頭、画像参照)。Ⅱ所収のレゾネをcheckしたが、アルバムに貼付されていた【婦人像】、本コラムの(仮題)【裸婦ソニア】の画像は見当たらなかった。青山敏子氏(多嘉示の三女)、八ヶ岳美術館特別研究員井上由理氏も交えてアルバムを見ていただき、婦人像は後の多嘉示夫人今井りんさんの肖像画か否か、解明を期待している。

 りん、多嘉示、川上茂?、西岡瑞穂(1922年)

 多嘉示?【婦人像(今井りん像?)】   今井りん(1925年頃)

本稿執筆にあたり、文中で記載した図録の他に、「清水多嘉示彫刻絵画自選展図録」日本橋三越1971、「青春のモンパルナス 清水多嘉示滞仏記」井上由理氏2006、に多くを教示いただいた。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】小寺健吉 1920年代 2度の渡欧・「巴里郊外」2点

近代日本洋画の1920年代から1930年代制作の絵をFOCUSして来ている。これまでを振り返って見ると、取り上げた画家は何度か掲載した1927・昭和2年3月22日にパリで開催された大久保作次郎(1890・明治23年生まれ)送別会の集合写真にかなり写っている。ここにいるのは洋画家だけで30人を超え計41人、当時の日本人画家の、のみならずエコール・ド・パリを代表する一人でもある藤田嗣治(1886生)を頂点とする集団といえるが、本コラムにその名前を記した人物は18人を数える。

  (写真の人名比定は「青春のモンパルナス」2006井上由理氏に依る)

写真の左端、ビッグボス藤田に肩を抱かれているのが小寺健吉(1887・明治20年~1977・昭和52年)である。一目見ただけで風貌や姿勢などから藤田とはタイプが違うのがはっきり分かるのが面白い。年齢も美校卒業も藤田の一つ下である。美術評論家の柳亮(集合写真にいる)が小寺の卒寿記念画集(1977日動出版)にこう書いている。

[小寺は岐阜県大垣の生まれで(水谷註:成育地は宮城県石巻)美校を出たのは明治44年、同級生には大野隆徳、富田温一郎、横井礼市、山口亮一等、不思議に彼と同質のヒューマニストが多く在籍し、一級上級の長谷川昇、藤田嗣治、近藤浩一路、田辺至などの秀才クラスとは、肌合や気質の点でも対照的だったといわれている]

因みに、一級下のクラスは片多徳郎、北島浅一、佐藤哲三郎、三国久、御厨純一、等を輩出し「銀会」「四十年社」「第一美術協会」を次々に立ち上げて積極的な団体活動を行っている。初の在野彫刻団体「構造社」の主要メンバー斉藤素巌、神津港人もいた。萬鉄五郎、栗原忠二も同期である。上下を才気溢れる活発な連中に挟まれていた感がある。

同画集に夫婦の肖像画が収録されている。人となりが伝わって来るので紹介したい。彼はこの本が刊行された4か月後に90年の生涯を終えた。

  

【二人像】1974(画集掲載) 「自筆署名」(卒寿記念画集添付)(1977)

板倉鼎顕彰活動の一環で鼎が接した画家達の作品を蒐集しているが、小寺健吉はその一人だ。大久保送別会参加時は2回目の渡欧中だった。彼は住んでいたムードンで行きあった板倉鼎夫妻を自宅に招いたり(1927年4月14日)、鼎宅を訪れて制作中の絵を誉めたり(同年8月24日)した近しい先輩だからだ(「板倉鼎・須美子書簡集」)。ムードンでは近隣に多くの日本人画家が居て[小型の日本人村となり、私が年長のため(註:40歳)村長の異名を貰うことになった]と、画集収録の自叙年譜に書いている。弟廉吉、佐分真の3人で画家中山正實が帰国した後のアトリエ付き一軒家に住んだ。のどかな所のようで佐分がエッセイに述べている。

[あるか無きかの風にアプリコの白い花がほろほろと散る。牛がモウと鳴く。『あゝ牛が鳴く、君、牛が鳴くよ』とK氏が云ふ。・・往昔三十と云へば既に一國一城の主だ。それが今更牛がなくと云って感心してゐる。いはむや大先輩のK氏に於てをやである。誠に天下は泰平だ。](佐分真1931「滞佛断篇」)

いうまでもなくK氏は小寺健吉である。

次の画像は、1966・昭和41年7月から3か月間の欧州再訪時(79歳)の作品。センチメンタルジャーニーだったのだろう。豊かな彩りと小寺らしい事物の造形が滋味円熟味を帯びて心地よい仕上がりになっている。同年10月、パリで藤田嗣治に最後となった面会をしている。

  

【ムードンの家々】1966     【レザンドリー風景】1966(共に画集掲載)

さて、小寺の最初の渡欧は大久保送別会の5年前の1922・大正11年だった(35歳)。近藤浩一路、鈴木良治と同行した。既に文展5回、帝展2回の入選実績ある中堅画家になっていた。その頃の風景画が1点ある。

 

【巴里郊外(セーヌ下流)】1922〜23(3号)   ボード裏面

小寺自身が執筆した前出の画集年譜1922年の項に「(しばらくパリ市内にいた後)セーヌ下流のビヤンクールに移転した」とありその辺りの風景と思われる。本作を観た第一印象は、イメージとして持っていた小寺作品とはかなり違うものだった。お土産絵だろうと思うが、小寺の1回目渡欧時の作品はなかなか見つからないので、取り敢えず入手して調べてみた。

年譜は更に「河畔の並木道や河中の中の島など右も左も画趣に富んでいた。それらの作品は今日所蔵者から集めることは困難である。・・・幸い多少残った写真を複写して画集に載せることにした」とある。比べる同時期の作品は見つからず、本作は小品、画集画像は大作白黒版で肝心の色遣いがわからない。筆致が2回目渡欧時の作品とは違い、点描や細部描写が無くストロークが長目の線を多用していることがわかる程度だ。入手作は実作かどうか確信が持てない。

  

【白壁の家(巴里郊外)】1922     【丘の家(巴里郊外)】1922

既出の柳亮の評伝を読んで小寺の絵の変遷を知ることが出来た。

[美校での岩村透の西洋美術史の講義は印象派で終わりをつげ後期印象派にまでは及ばなかった。小寺が渡欧する時にはマチスの名前ぐらいは知っていたが、ボナールもブラマンクもドランもその存在はまるで知らなかったと言っている]とある。画家の名も知らないまま、初めて観るポスト印象派やそれに続いた新潮流の絵画作品は生の実物だったのである。柳は[彼がもっとも心惹かれたのはボナールの色彩の輝かしい美しさであった・・・ヴラマンクの影響を受けてプルッシャン・ブルーを取り入れたこともあったが、天成のカラリストである小寺は永くはそこに止まらなかった]。

続けて[小寺の第二回目渡欧で・・・彼を最も魅了したのはパリの装飾美術館に陳列されているタピスリー(ゴブラン織りの壁掛)であった。・・・古色を帯びた色調や素朴な表現様式が彼の心を惹きつけ・・・彼の色彩に微妙なニュアンスを与え色の深みや巾の増大に大きく役立ったのである]と書く。小寺はその頃からしばらくの間、緻密な細部描写が施された装飾的な着想画や、重厚な筆触が残る本格的な人物像を描く。

  

【南欧のある日】1928           【水辺】1929

2回目の渡欧は1927年1月、佐分真と共に渡仏した。同年11~12月、佐分、片岡銀蔵、一木隩二郎と4人でイタリアに出向く。この旅行時ソレントでの写生を基にした「南欧のある日」が帰国後の1928年第9回帝展で特選となり、翌年の無鑑査出品に「水辺」を発表する。共にコブラン織り影響下の典型作と言えよう。柳は[これらの大作はある時期の小寺芸術のピークをなすものとみてよかろう]と書いている。

本篇の題にした「巴里郊外」の2点目は、その2回目の渡欧時1927~28年の制作である。描かれた事物が括り出されたかのような造形になっているのはコブラン織りの時代の画風だろう。緑系一色に赤茶と白が点在するだけの色彩構成だが5月の新緑が薫って来るようだ。注目すべきは単色の色遣いに巧みさを感じさせる点だ。本作は、帰国後、続いて完成期に入った戦後の、濃淡の深みがある複数の色を駆使するカラリストの風景画へ至る起点になっているように思える。

  

【五月の巴里郊外】1928(15号)    (左から小寺、佐分、片岡1927)

コブラン織風作品で画壇的な地位を確立したのを一区切りとして、以降は平明で穏やかに移ろう色が美しい平面的な写生画や、俯瞰図であっても箱庭のような親しみのある風景画に転じる。小寺の後半生の画風を確立して行くのである。先に挙げた欧州再訪の絵はそれだ。私が小寺作品について抱いていたイメージはタピスリー時代以降の作品についてであった。長寿を全うしただけに同系統の多くの作品が残されている為でもあった。

  

【首飾りの娘】1928(画集掲載) 【写生する少女】1933(画集掲載)

  

【芦ノ湖】1939(画集掲載)    【杭州西湖】1944(画集掲載)

  

【村の人たち】1950(画集掲載)   【雪の町夜明け(蔵王)】1961(画集掲載)

【森の秋】1971(画集掲載)

時系列で画像を並べてみた。

通覧して思うのは中沢弘光、山本森之助、石井柏亭、南薫蔵と続いた本邦写生画の流れが小寺や三歳下の大久保作次郎までで跡切れ、以降質的な変化が起こった点。彼らは官展アカデミストだったが、10歳近く歳下の同系統の世代、フォーヴ系の世代が欧州絵画の古典を見つめ直し新潮流と格闘したのとは異なる画風の推移、確立であり、渡欧体験だった。

事の是非を問うのではない。最近の絵画傾向をも併せて鑑みて、小寺健吉の絵を懐かしく感じるのである。

本稿は、「小寺健吉画集」1977日動出版、から画像をはじめ多くを教示いただいた。

文責:水谷嘉弘

【news】「NHKラジオ深夜便」に出演しました

NHK「ラジオ深夜便 明日へのことば」に出演しました。水谷が玉谷邦博ディレクターからの質問に答えるインタビュー形式の番組です。

日時:令和5年3月15日(水)午前4時5分〜4時50分

放送チャネル:NHKラジオ第1、FM

番組名:ラジオ深夜便 ▽ 明日へのことば

タイトル:「ビジネス発・アート着」の道を歩んで

内容は、企業人及び美術愛好家としての活動歴に沿って経験やエピソードを語ったものです。

インタヴューは板倉鼎と「一般社団法人板倉鼎・須美子の画業を伝える会」の紹介、板倉鼎の顕彰活動から入り、社団法人設立、「フジタとイタクラ展」、「近代日本洋画こぼれ話」執筆、「日本美術家連盟」の座談会などについて話しました。

その他話題は多岐にわたりましたが有力なメディアに取り上げていただき、放送直後から多くの電話やメールを頂戴しました。当社団の活動に大きな力となりました。なお、放送内容は、[社団法人について]に掲載しました。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】川島理一郎 その2 素描あれこれ

以前、本コラムでpainter & travelerと呼称した川島理一郎(1886~1971)が海外で描いた素描(デッサン)4点を紹介した。その続きだ。再度画像を載せる。うち1点は冒頭の画像、(イタリアか?)1924~25頃 。

  (上海)1924  (ヴェニス)1924~25  (ニース)1927

今回は川島理一郎の素描仕事を概観してみたい。川島は素描作品を非常に多く残している。文筆を得意とし生涯でエッセイ集を5冊出版したが、「自撰デッサン集」1947建設社、1冊の他すべてのエッセイ集にデッサンを挿画として掲載している。目次には必ず挿画目次の項があり「緑の時代」1937龍星閣、は全305ページに挿画が126点ある。川島著作本所収の挿画はレンジも広い。デッサン作品として展示されるレベルから、油彩の下絵、挿し絵(説明書きを添えたものもある)、簡略な線描、カットまで、素描のfull lineupだ。制作年不詳だが挿し絵やカット仕様の余技的な素描が手許にある。作品レンジを知る一助になると思う。

   

川島がデッサンに打ち込むようになったきっかけは、1927年2月の南仏ニースへのマチス訪問だったようだ(マチス58歳、川島40歳)。その後、生涯の師と仰ぐことになる。川島はその時のことを「マチス画集」1933アトリエ社、に「マチスは…夥しいデッサンを一枚一枚と私の前に展げた。『…画家は平素スケッチをしなければいけない。なんでもかまわぬ、ひまさえあればやるとよい。…』(と語った)」と書いている。栃木県立美術館の杉村浩哉氏は「後年、理一郎の作品の多くに、おびただしい準備素描があるのは、こうしたマチスの教えを守っているのだろう」と「川島理一郎展」図録2002年で論じている。(冒頭画像右、ニース海岸風景を描いたパステル画はその時の作であろう)素描(デッサン)作品の点数、展示機会が多いだけでなくそれをメインにした展覧会も複数回ある画家なのだ。

では、川島のデッサンはどんなものなのか。

生来の資質だと思われる恵まれたリズム感に、「充實した力で一貫してゐる」と評した(「旅人の眼」所収:フリエスとヴァロキエ)オトン・フリエスの影響をうかがわせる筆致が加わり、マチスに学んだ「手を休めず常にデッサンし続けること」から出来あがっている。対象を良く見て穏当で的確な写生をベースに軽妙な線、ちょっとしたデフォルメも入る。自由だが手の込んだ描き方でもある。面白みや洒落た味がある。油彩画にも共通するが必ずと言っていいほど点景人物が登場しその描写が極めて巧みだ。時系列でみるとアメリカからパリに渡った1912年(26歳時)アカデミー・ジュリアンで勉強した頃のアカデミックな人体デッサンを除くと、油彩のモチーフに呼応して1920年代~1931年(欧州)、1934年~戦中期(満洲・本邦・中国大陸(北支,南支)・東南アジア)、戦後期、1960年代(最晩年)に大別される。描線の長短や硬軟、陰影のつけ方に違いはあるが晩年の半抽象作品以外、丁寧に描かれたデッサンは同じ印象だ。画集、展覧会図録、エッセイ集などに掲載されている各時期の代表的なデッサン画像は次の通りである。

(上段)

  【ベニスの祭日】1925 【巴里の仮装音楽会】1926 【椅子にかける裸婦】1931

(中段)

  【樹下のカフェー】1933 【須弥福寿廟境内】1934 【奔流(日光)】1936

(下段)

  【ワットポー寺院の巨像】1941 【フィリピン服の女】1943 【窓】1959

挿画がふんだんに入った戦前戦中の欧米・中国大陸紀行のエッセイ集、「旅人の眼」1936、「緑の時代」1937、「北支と南支の間」1940、の3冊が刊行されている。1941年と42年のタイをはじめとするインドシナ紀行は出版されなかったが、「みづゑ」440号1941年6月、「新美術」17号1942年12月に、スケッチグラビア各8点が確認できる。綿密に描き込んだ秀作が多い。(1957・昭和32年5月、前々年創立名誉会員となった新世紀美術協会第2回展に中国、東南アジアスケッチ90余点を特別展示している)これら紀行本、紀行記事の挿画になった風景スケッチを原図とする油彩画も多い。両者を上下に並べてみる。(刊行本画像、雑誌画像)

(上段)

   【南仏ニースのお祭り】 【広東避難民】 【ワットチェン(ママ)の塔】

(下段)

  【ニースの祭日】1927 【施米】1939 【バンコク・ワットアルン塔】1941

川島に「素描雑記」というエッセイがある。(前出「自選デツサン集」所収)説得力のある文が書かれていた。「自然の力の流れとしてのリズムは…枝の形…幹の延び方…葉の重なり方などにはっきり感じられる」と言い、「木の葉は太陽に向かって一つも重ならず、勢いの良い枝があると他の枝はその下から逃げて他の方へ伸びてゆく」と続ける。そして「芸術的に良い形のものは必ず同時に自然のリズムに順応した形であらねばならぬ」と〆る。人体における皮膚と筋骨の相関、水の流れと岩の形の相関等々目に見える形態は必然と述べる。それを過不足なく表現するのが芸術の本領と確信しているようだ。この世に存在するものが持つ必然のリズムをまず線描で捉える試みが川島の素描なのである。デフォルメがあっても崩れることなく、一見錯綜しているようでも描写する対象が混乱せずその姿を伝えてくるのは描く者にそういった強固な認識があるからであろう。

戦後作品の下絵デッサンと完成油彩画は次の通りだ。

 【婦人】1960 【置物の犬を前に】

 【浮世絵の誘惑】1969 【浮世絵の誘惑(その2)】(全て図録画像)

75歳を過ぎた最晩年の1962・昭和37年頃から油彩の画風が一変しパズル片を散乱させたような、或いは長目の歪んだ楕円が浮遊しているような半抽象の画面になる。カラリスト振りが復活し、しなやかな曲線が印象的な色鮮やかな作品もある。デッサンもデフォルメが進んだり、稚気に富んだものがある。それと歩調をあわせるようにスケッチや(狭義の)デッサンとは趣を異にする遊びっけのある戯画を発表した。題材はダンサーや芸人等々。82歳の時、生前最後の出版物となった「戯作小品」1968・昭和43年美工出版社、はその集大成といえる。前書きに「製作の合間に楽しみつゝ描いたものが、たまりましたので御見せします 私と同じ様な気持で御覧頂ければ幸です」とある。油彩(SM)が20点掲載されているがそれらの下絵ないし同じモチーフのデッサンも展覧会図録で確認できる。その中の当時一世を風靡した山本リンダのヒット歌謡曲「こまっちゃうな」に因んだ【こまっちゃうな】と題した作品のデッサンと油彩画の画像を掲載して本稿を終えることにする。

 (素描、図録画像)【こまっちゃうな】1968(油彩、SM)

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】佐分真 その2 挿画 パリのキャフェ

本コラムはこぼれ話と銘打ったこともあって、当初は田辺至、小出楢重、岸田劉生の挿画、戯画といった周縁的な作品を続けて取り上げた。その後、題材を本格的なタブローに移していったが今回は久し振りに挿画について書いてみたい。第17回コラム、滞欧風景画の秀作【アッシジ】1927年、を描いた佐分真(1898・明治31年生まれ)の挿画だ。(冒頭画像は、佐分真筆「テラスの春」1935年1月の挿画)

「挿画描き」は名の出た洋画家の共通項といえる。例えば【アッシジ】はイタリア旅行中の制作だが、同行者には佐分の生前死後を通じて何かと面倒を見た美校先輩の小寺健吉がいて画業前半期の代表作を描いたが、その小寺には徳田秋声の小説「仮装人物」他の挿画がある。佐分が新聞や雑誌の連載小説に挿画を描いたという記録は残っていないが、彼自身は2回目の渡仏を終えた頃から文筆家としても人気が出て雑誌類に多くの随筆を書いているので当該作は自らの原稿に添えた挿画だろう。白色でハイライトしたグワッシュ作品である。


仮題【パリのキャフェ】1935~36年頃 グワッシュ(23㎝✕28㎝)

年譜には「1931年11月末再びフランスへ渡る。この頃より文藝春秋や美術雑誌などから執筆を依頼され死の直前まで滞仏生活の体験を中心とした随筆を寄稿」とある。作品を観てみよう。【パリのキャフェ】と仮題をつけたが、店内から見えるテラスのオーニングに「CAFÉ DE LA C」と書かれている。当時はエコール・ド・パリの全盛時、モンパルナスには「LE DOME」「LA ROTONDE」など名高いキャフェがあるがここは1927年に創業して日が浅い「LA COUPOLE」と思われる。佐分執筆の読物「画室長屋の人々」1936年3月、に書かれた男二人がクーポールの一隅から会話しながら来店客を観察している場面を想起させる。この絵から強く感じるのはモダニズム時代の到来である。国内洋画界はパリ豚児の世代(1895年前後生まれ)から新制作派協会(1936・昭和11年創立)の世代(1900~06年生まれ)へと移行していくが、新制作派協会メンバー達は1930年代後半に挿画にも進出してくる。それまでの時代劇的、職人的な挿絵が都会的であか抜けたイラスト風になって新鮮なのだ。猪熊弦一郎(1902生)、小磯良平(1903生)、脇田和(1908生)らであるが、彼らの少し年上になる佐分真はその新傾向を既に取り込んでいると言ってよい。本作は黒色グワッシュによる線描画だが白材(触れると白紛がつく)の遣い方が印象的だ。佐分は水彩による作品も残していて1935年5月名古屋松坂屋で開催した個展には5点出品している。【雪景】と題された作品と比定できるグワッシュ画には黒、茶と共に白が多く用いられている。

なお、本作には興味深い符合がある。1987年9月の愛知県美術館「郷土の画家たちⅢ佐分真展」図録に【デッキの上で】1932(鉛筆)、と題する画像が掲載されているのである。画面奥の人物描写に違いはあるが構図その他ほとんど同一といってよい。グワッシュ画には署名が入っており後年、公開する作品制作に際し鉛筆画を原画としたのだと推測できる。

佐分にとって2回目の渡欧は意に沿うものとは言えなかったようで1年で引きあげてくる(1932年12月)。帰国後1933、34年と帝展で連続特選(通算3回)を取る。だが1935年5月の松田改組による新体制は佐分にとって不本意だったのか、その後すべての会派を離脱し無所属となる。代わってメディアでの活動が目立つようになり、やや軸足を移した感もある。年譜は「1935年12月文藝春秋主催のユーモリスト座談会に出席、大いに駄弁を弄して好評を博す。この時の出席者によって「風流倶楽部」を結成。この前後より随筆家としての名声大いに上がり諸雑誌から執筆を依頼され、その特異な文章は大いに世の好評を博した」と書く。

モンパル会メンバーからの久米正雄あて寄せ書き(1932年大晦日)

このころの佐分の活動を知る手掛かりに「モンパル会」という集まりがある。佐分だけでなく伊原宇三郎の年譜にも出てくる。フランスで親交のあった文化人が帰国後組織し、日本人画家が多く住んでいたモンパルナスに因んだ名称だ。小寺健吉もメンバーである。しばしば集まっていたようで1935年5月には日本橋三越で展覧会もやっている。京橋にあったレストラン「アラスカ」で行われた会合の際、欠席した鎌倉在住の久米正雄に宛てた寄せ書き書簡がある。佐分、伊原、小寺の他、画家仲間では林重義、田口省吾、伊藤廉、宮田重雄の名がある。福島繁太郎もいる。判読出来ない字も多いが、佐分は欠席した久米に「・・・わしゃかなしうてかなしうて 又の逢瀬をひたすらに お待ち申してをりまする」と記し、田口は「佐分が大きな顔をマッカにして声をわれんばかりにどなる」と描写している。切手の消印は年号部分が切れて日付けだけ「 .1.1 」と読め、封筒裏に林重義の字で31日とある。医者細谷省吾の「芸術家が盛んに為替を論じて居る」との文から、円が対ドルで大巾に下落した1932年の大晦日と推測する。佐分は帰国したばかりだ。この寄せ書き書簡からは佐分は快活にして豪快な印象を受けるのだが・・・

しかし、その3年4か月後、佐分真は自宅アトリエで自死してしまうのである(1936・昭和11年4月23日、享年38歳)。遺書が残されていたが原因は不明だ。子息の佐分純一氏は「最後の数年も表面的には陽気な表情をひけらかしていたそうであるが、それは道化のポーズであり・・・最後には自虐的な境地まで追い込まれた」と書いている。絶筆となった1936年3月の伊豆写生旅行での作品3点は、33年頃にみられた平板で重く沈んだ印象の絵から一変して明度が高く軽やかで伸びのある絵に仕上がっていた。うち1点が純一氏に形見として伝わった。

本稿は「画家佐分真の軌跡展図録」1997年一宮市博物館、「佐分真展図録」2011年一宮市三岸節子記念美術館、「日本の近代美術と文学」2004年匠秀夫、を参照させていただいた。

文責:水谷嘉弘

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