【topics】佐分真の「巴里日記」に板倉鼎が登場していた

板倉鼎と同時期にパリに居た「洋画界を疾走した伝説の画家(一宮市三岸節子記念美術館展覧会での呼称)」佐分真(1898年生まれ、美校卒業は鼎の2年先輩)が、パリで鼎と行き来していたことを記した文献があるのを知った。鼎サイドの資料と共に時系列で紹介する。

1)本ホームページで既に何度か紹介したパリの大久保作次郎送別会は、1927年3月22日に開催されている。集合写真には二人が写っていることから鼎は佐分とそこで再会していたと思われる。佐分は同日の日記に同会の模様を書いている。

-夜、七時半から大久保作次郎氏の送別會を日本人會でする。會する者藤田(註:嗣治)氏以下四十餘名、盛會。森田(註:亀之助)氏夢中になってはしゃぐ。嬉しい晩だ。そして席上、近く歸朝する中山正實氏のアパルトマンを吾々で引きつぐ事に相談定まる。非常にいい家だ。郊外ムードンの地、何とも有難い事だ。來る土曜午前中見に行く筈。段々運勢開けるらしい。-

  (シルエット作成 松戸市教育委員会)

2)佐分真は、1927・昭和2年2月小寺健吉とともにパリに渡り、4月中山正實から引き継いだパリ近郊ムードンの一軒家に落ち着く。滞欧中の日記を4冊残しており、これらは遺稿集「素麗」(冒頭画像参照)に「巴里日記」として収録された。4月12日の項に鼎が登場する。

―快晴 稍々寒・・・(ムードン駅で)偶然板倉氏夫妻が寫生に来たのに會ふ。伴い歸る。・・・―

 佐分真遺稿集「素麗」(限定650部)春鳥会 1936年刊 表紙スケッチ(パリ郊外 couilly風景)

3)この件を須美子は松戸の鼎実家あてに書く。

―(先週ムードンに行った時)駅のそばでお友達の佐分利(ママ)さんと小寺健吉氏にお目にかかりました。お二人がすぐそばの家へ案内して下さいました。二人で四間ばかり借りて居らっしゃるのですけど、お風呂も附いて立派な台所もあり・・・私達もそこに移りたくなってしまひました。家の窓からでも画が描ける様になってゐます。(1927年4月19日付け書簡)―

須美子は余程ムードンが気に入ったのか再度手紙に書いている。

―郊外のムードンと云ふ所へ鼎さんのスケッチのお供で参りました。・・・まるで東京と松戸との比の様に巴里からムードンへ行きますと胸が軽くなる様な気が致しました。駅と鉄橋を中央に両方に岡があり赤ガワラの一軒家がチラチラ青葉の間からのぞいて居ります。・・・(1927年4月21日付け書簡)―

4)5月3日、日本人会館で行われた荻谷巌送別会には、佐分、鼎共に出席している。(「巴里週報」第86号)

5)「巴里週報」(当時の日本人社会のミニコミ誌、石黒敬七主宰)第97号(創刊二周年記念号)1927年8月1日発行、には藤田嗣治の祝辞はじめ多くの在仏者の名刺広告が掲載されている。佐分、鼎も出稿していた。

   

6)同年夏、佐分は鼎のアトリエを訪ねる。辛口のコメント込みではあるが、鼎を高く評価している。

―・・・夕食を富士でとり、後板倉氏を訪ねる。板倉氏には勿論若人の作にして近代的な一味あり、そしてよき神経の行き届きし感じで行く行くは相當の作を成す人と思はせた。唯一種の味にこだはってどっしりとした底力を発揮し得るや否やが疑問だ。もしそれをしも得たらんには一入の結果がみられるだらう。(巴里日記、1927年8月25日)―

   

板倉鼎「リラの葉を持つ少女」1927                   板倉鼎「剣のある静物」1927

須美子の同日付け書簡に、前日24日夜小寺健吉が来宅し鼎の絵を誉めていたとあり、小寺と同居していた佐分がそれを聞いて早速訪れたのであろう。先立つ8月19日付けの須美子書簡は、鼎が「リラの葉を持つ少女」を制作中とあり、それを描く様子が詳細に記されている。小寺も佐分もこの作品を目にしたと思われる。鼎側に佐分来訪の記述は無い。

7)板倉鼎も佐分真を意識していた事が分かる記述がある。

―・・・この頃(五六年)巴里に来た画家の数は数百人になりませうが一寸もよい仕事でみとめられていません。率から云ったら極少数の人、佐分氏とか前田(註:寛治)氏とか中野(註:和高)氏とかが出て行っておりますが何れも四年以上の人ばかりでして、佐分氏など足りなかったので、又来ておられます。・・・(1928年2月22日付け書簡)―

パリに少しでも長く居たいが為の父親に訴える文脈であり、リスペクトしているゆえ名を挙げたのだろう先輩画家たちの滞在年数は実際より長く書かれている。佐分は初めてパリに来てやっと1年経った頃合いである。小寺と混同していたのかもしれない。

鼎はそれから1年半後の1929年9月29日に急逝するのだが、佐分がそれに言及した文章は見当たらない。同月24日にパリを発ち約1か月、オランダ、ドイツを旅していた期間にあたる。余談になるが、この時観たレンブラントがその後の佐分のスタイルを決定づけることになる。

上記の6)は同時代画家の証言として貴重である。佐分真の板倉鼎を見る眼の確かさもわかる。1927年夏は「パリで1年かけて、持っていた型、日本で学んだ描き方を捨てた」と、鼎自身が書き、モダンで洗練されたスタイルを獲得しつつあった頃だ。静物画が多くやや様式化した生硬な表現も見受けられるのだが、佐分の慧眼から鼎の意図が達成されようとしており、観者にも伝わりかつまだ過程にあった等を知ることが出来るのである。

文責:水谷嘉弘

【column】川島理一郎こぼれ話 painter & traveler、1920年代半ばの海外スケッチ

川島理一郎は、1886・明治19年栃木県(現)足利市の生糸商家に生まれた。事業に失敗して渡米した父を追い1905年、19才の時海を渡る。ワシントンのコーコラン美術学校、ニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザインを卒業して1911年渡欧。日本人画学生が学ぶ定番だったパリのアカデミー・ジュリアン、アカデミー・コラロッシに入る。1913年、東京から来た同じ歳の藤田嗣治と親交し共同生活する。同年日本人として初めてサロン・ドートンヌに【巴里風景】他1点が入選した。第1次世界大戦勃発時も欧州に留まり、翌1915年アメリカへ。1919・大正8年、14年ぶりに帰国するが3か月後には再びパリに行く。1920年代から1931年までは欧州、1927年から1940年までは中国本土、朝鮮、台湾、1941~1943年にかけて東南アジアを歴訪して制作に励んだ。

戦後は文部省の依頼でパリにフランス画壇の現況視察に赴いた他、日展の審査員、役員を務めた。1971年85歳で没する。

パリを訪れること生涯通算で8度、滞在期間も長く我が国近代洋画史における代表的な国際派の画家である。painter & travelerと称したい。

手許にpainter & traveler川島理一郎の鉛筆画、パステル画の風景スケッチが三点ある。川島の画業ピークの一つである1920年代半ばの作である。

① 1924年作【上海】鉛筆画 24㎝✕33㎝

② 1924~25年作【ヴェニス】 鉛筆画 25㎝✕32㎝

③ 1927年作【ニース】パステル画 19㎝✕22㎝

①【上海】

川島理一郎が上海を訪れたのは複数回ある。著書「美術の都パリ」美術出版社1952年、には、戦争前まではヨーロッパへは海路が一般的であり(彼は2回辿っている)日本の船はほぼ寄港した、とある(ロシア鉄道を使う陸路もあり彼は3回経験している)。しかし、本作は関東大震災後、大林組社長の勧めで中国大陸のみ、上海、蘇州、南京を1か月間巡った1924・大正13年の制作とするのが妥当と思われる。帰国後大阪三越で新作展を開催し油彩画43点の他にデッサン12点出品、と年譜にあるのも参考にした。

(1924年作)

②【ヴェニス】

1924年中国大陸から戻り38歳となった川島は、同年秋、東京大森にアトリエを新築し新婚の妻エイと渡欧する。この時の滞欧作は傑作揃いである。パリ、ヴェニス、ナポリの風景画が多い。心身共に充実していた時期であり、帰国後の1925・大正14年6月には国画創作協会に新設された西洋画部門(後の国画会)に梅原龍三郎と共に同人に招請された。年譜には、この滞欧中にデッサン含め約100点を制作する、とある。

(1924~25年作)

③【ニース】

1927年2月、マチスをニースのアトリエに訪ねた折りの作と思われる。川島がマチスと知り合ったのは1921年だが、このニース訪問の時から親しくなったようだ。「マチスは人と話しながらでも、或は煙草を喫ひながらでも、決して鉛筆を手から離さない・・・私の持っていたスケッチブックを見つけられ・・・一々親切に批評して呉れて・・・」マチスからデッサンの重要性、常にデッサンし続ける事を学んだという。同年(昭和2年)4~5月に東京で開催された第2回国画会展にパリから【ニースのお祭り】他パステル画3点を出品しており、本作も同時期に描かれたのではなかろうか。1951・昭和26年、パリにマチスを再訪して帰国後その模写を展覧会に出品している。

(1927年作)

川島理一郎がスケッチ、デッサンを得意とし、師マチスの教えによく従って手を動かしていたことは、デッサン集を出版しているだけでなく(「自選デツサン集」建設社1947年)、数多い著書のほとんどすべてにデッサンが掲載されていることからもうかがえる。川島の油彩画はリズム感を感じさせるものが多い。余計ながら、運動神経もよかったのではないかと想像する。基本的には正統的な写実に属するが、フォーヴ的筆致を獲得してリズミカルな線、快いデフォルメが見られる。

川島は生涯2度にわたってその作品群を大量に失っている。1923年の関東大震災と1930年末のインド洋での欧州からの貨物船沈没である。そのため、初期の滞米作品、滞欧作品(個展のため資生堂に約200点保管していた)と、1930年5~11月の滞欧作品を見ることができない。特に後者は次の画業ピークを迎える1933年から1936年にかけての日光、承徳(旧満洲・熱河)、東京での重厚味ある作品群に繋がるだけに残念である。

「緑の時代」1937年龍星閣、には1934・昭和9年の熱河訪問を書いた「承徳の景観」の章があり【熱河大佛殿】と題されたスケッチが掲載されている。私は、同じ構図で額裏に【大佛寺全景】と記された油彩画(出来はスケッチの方が良いと思う)を持っており下記に並べて挙げる。

(1934年作)挿画画像

    川島理一郎【大佛寺全景】1934(SM)

本稿は、2002年川島理一郎展図録(栃木県立美術館、足利市立美術館 杉村浩哉氏執筆)を参考にさせていただいた。

(文責:水谷嘉弘)

【news】「あーと・わの会」ホームページのコラム欄に執筆を始めました

美術愛好家団体「あーと・わの会」(会員約70名、私設美術館19館)が公開しているホームページのコラム欄に執筆することになりました。タイトルは「近代日本洋画こぼれ話」。本ホームページに随時upしている【column】の再録、加筆が中心ですが、わの会ホームページは閲覧(クリック)数が多く、特に「作家略歴」(約5000名を紹介)と「コラム」は人気が高いようです。折りに触れ板倉鼎、須美子に言及し顕彰活動の一助にしたいと考えています。

https://www.wa-nokai.org/

文責:水谷嘉弘

【topics】板倉鼎の新情報到来

千葉県館山市を中心に南房総地域の美術振興活動をしている「安房美術会」の溝江晃氏から、板倉鼎に関する新たな情報を頂戴したので紹介する。同会は昨2021年、発足100周年を迎え記念事業の一環として記念誌発行準備を進めており実行委員長を務める同氏と情報交換した際、板倉鼎が1924・大正13年7月、館山にあったレストラン「鏡軒」で行われた第1回安房美術会展に出品していた事実を教示いただいた。

「安房美術会」は、美術館所蔵品図録やミュージアムショップ販売用絵葉書を制作する老舗「京都便利堂」創業者で社会風刺漫画雑誌「東京パック」を発行した中村弥二郎(有楽)が初代会長となり、南房総地域の観光振興、関東大震災復興を目的として1921 年に発足した文化団体。地元の画家、歌人、俳人、文人らが参加した。当時、鋸南町保田(現、安房郡)に住み始めたばかりの、物理学者にして歌人の石原純、愛人関係にあったアララギ派歌人の原阿佐緒が設立時メンバー(約20人)の中にいた。

ここから、板倉鼎と繋がってくる。鼎は東京美術学校在学中の1922年頃写生に出かけた鋸南町保田で石原、原と出会い、美校を卒業した直後の1924年6月から7月初めまで約1ヶ月石原、原の住居「靉日荘」に滞在していた事が分かっている。

しかし、当地での活動については鼎自身の書簡や年譜にもほとんど記述がない。今般、溝江氏からの連絡で、鼎が石原と知り合った1922年に「安房美術会」に入会、1924年7月の第1回展に作品を出品していることが判明したのである。同月にかけて1ヶ月間も滞在していた背景もこれで合点がいく。残念ながら出品作の作品名、出品数は不明だが、鼎が当地で描いた絵は何点か残っているので展覧会図録(2015年、松戸市教育委員会刊)から画像を紹介する。冒頭に掲載した作品名は【石原先生保田の家】1924年作、下記は【(仮題)島影】1924年作、【房総保田より大島遠謀】1925年作。第1回展出品作だった可能性もある。第1回展出品者は16人、会場となったレストラン「鏡軒」は震災で倒壊したためバラックの葭簀張りだったそうだ。翌1925年、石原純が同会第2代会長に就く。

   

鼎は、1925年11月、与謝野寛(鉄幹)、晶子の媒酌で昇須美子と挙式する。須美子は文化学院で晶子に学び、原阿佐緒も晶子の弟子。原が与謝野晶子経由で須美子を知り、保田で交流が始まった鼎と引き合わせた、とも考えられる。1926年2月、新婚の鼎、須美子夫妻はハワイ経由パリに向かう。しかし、鼎は1929・昭和4年パリで客死、須美子も帰国後の1934年に実家のある鎌倉で病気のため亡くなった。保田への再訪はかなわなかったが、鼎にとってその地での生活は、美校卒業後留学までの短い2年間の中でも自由で希望に満ちた一時だったに違いない。

(文責:水谷嘉弘)

【column】藤田嗣治こぼれ話 離日前、最後の同窓会

藤田嗣治の署名もある扇面色紙がある。東京美術学校西洋画科出身者7名の[交を温む]と題した寄書きである。扇面上部に[昭和24年2月5日夜]とあり資料性も有るかもしれないと気付いた。藤田は翌3月10日に羽田からアメリカヘ旅立っているからである。そのままフランスに移りやがて帰化してその地で亡くなった。日本における最後の同窓会だったのではなかろうか。出席者の顔ぶれは藤田と美校同期(明治43年3月卒業)の長谷川昇、田中良、近藤浩一路、(明治44年卒業の)富田温一郎、大先輩和田英作(明治30年卒業)、北蓮蔵(明治31年卒業)である。

   

藤田嗣治を巡る当時の状況を鑑みると、彼と気持ちの繋がっていた、彼が信頼を置いていた面々が密やかに送別の場を設けたのではないかと思う。公けになった記録には残っていないかもしれない。戦後の藤田嗣治に対する世間の目は厳しいものだった。嗣治の又甥、藤田嗣隆氏の「レオナルド藤田嗣治覚書」には、平成18年の回顧展を訪れた老人が語ったというエピソードが紹介されている。「江古田の藤田家の近所に住んでいた少年時代、野球遊びのボールが庭に飛び込んだので取らせて貰いに行った話を親にしたら、あんな戦犯の家なんかに行くんじゃない、とえらく叱られました」。

藤田の評伝や展覧会図録には[藤田は出国前の数ヶ月、世間から身を隠した。詮索好きな記者たちや彼を誹謗する者によって、脱出計画が頓挫させられるのを恐れたのである][ジャーナリストとの接触を嫌った藤田は夫人と二人、九段の外国人向けのホテルに身を隠した]といった記述があった。当夜、惜別の辞で藤田はもう日本へは帰ってこない、との覚悟を述べたのだろうか? 翌月、見送りの岡田謙三夫妻らを前に羽田で語ったという「絵描きは絵だけ描いてください。仲間げんかをしないで下さい。日本画壇は早く世界的水準になって下さい」は、よく知られた言葉である。

   

寄書き扇面色紙は綺麗に表装され専用のタトウに収められていた。席上複数枚揮毫され各氏が持ち帰ったうちの一点かと思われる。前出の藤田嗣隆氏は嗣治の兄継雄の孫にあたる。嗣治の面影を感じさせる方で「フジタとイタクラ」展に来場いただき、板倉鼎の姪の方とお引き合わせした。お二人の大叔父(伯父)は90年前パリで会っていたのである。

   

最後に。1949年3月、藤田嗣治は日本から追われる思いで母国を離れ、1968年1月、81歳で亡くなるまで二度とその土を踏まなかった。しかし、帰化し洗礼を受けても日本を思い続けていたとの多くの証言がある。今日、エコール・ド・パリ、更に近代西洋絵画史を語る際、日本人画家として名が出るのはレオナール・フジタである。東京美術学校で学んだ手法を捨て日本国籍を返上した彼の作品がパリ、サントノレ通りにある駐仏日本大使公邸に飾られていた。遭遇した時、私は、天国の藤田は喜んでいるのか、冷やかに見ているのか、測りがたく感じたものであった。

(文責:水谷嘉弘)

【column】 目次(10)~ (1)

10)2021年11月 安井曾太郎こぼれ話 作者は誰だ?

9) 2021年10月  伊原宇三郎こぼれ話 その2 1912(明治45・大正1)年 ~18才時~ の作品

8 )2021年9月   伊原宇三郎こぼれ話 額裏情報から制作年を割り出す

7) 2021年9月   岸田劉生こぼれ話 劉生戯画「京の夢 大酒の夢」

6) 2021年8月   小出楢重こぼれ話 素描―習作―完成作

5 )2021年7月   田辺至こぼれ話 名刺と挿画原画

4 )2021年6月   清水登之こぼれ話 美術館所蔵品とかすっていた

3 )2021年6月   清水多嘉示こぼれ話 その2 渡仏以降の生写真

2) 2021年5月   清水多嘉示こぼれ話 その1 渡仏前の生写真

1) 2021年5月   島村洋二郎こぼれ話 一枚の絵葉書

【topics】日本美術家連盟が「板倉鼎」を取り上げます

一般社団法人「日本美術家連盟」常任理事の入江観先生から、同連盟の部会「明治以降美術の業績調査委員会(笠井誠一委員長)」で板倉鼎を取り上げてくださる旨の連絡を頂戴しました(本ホームページ、2020年7月2日付け【topics】ご参照)。

その後、野田哲也先生、中林忠良先生(日本美術家連盟理事長)にお目にかかった際、この件をご報告し改めて板倉鼎についてご説明しました。

板倉鼎顕彰活動にとって、現代日本洋画、版画を代表する先生方にお力添えいただけることは心強い限りです。

関連行事には当法人からも参画する予定です。

(文責 水谷嘉弘)

 

【column】安井曾太郎こぼれ話 作者は誰だ?

或る画廊に入った途端、12号の油彩画が目に飛び込んで来た。林間水辺の群像図である。入荷間もないらしく店主の側の壁にキャンバスのまま立て掛けてあった。誰の作品か問うと「未完成、何かの習作のようで署名はない。キャンバス裏面に日動画廊のシールが貼られていて安井と書いてあるが・・・」との返事。確かに、塗り残しはあるし細部に手が入っていない。ただ自分が知る限りでは安井曾太郎の作とはとても思えなかった。しかし、群像5人の構図がよく、人物の描線に味があって一目で気に入ってしまい即頂くことにした。以下、作者について推理する。

本作を見てまず思い立つのが、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(1824年〜1898年)である。黒田清輝(1866年〜1924年)がフランス留学中の1893・明治26年3月にアトリエを訪ねて以来、近代日本洋画へ大きな影響を与えた。藤島武二、青木繁はその構想画に装飾性を学び、児島虎次郎はその作品三点を大原美術館に収蔵する。里見勝蔵はシャヴァンヌの素描を愛蔵していた。少し後の世代、板倉鼎は1927年3月の松戸の実家宛の手紙に「パンテオンと云ふお寺へシャヴァンヌという人の壁画を見にまゐりました」と記している。シャヴァンヌは壁画を得意としたが、本作も画面上部が半円で区切られており、底辺部真ん中の果物籠は壁画の題名パネルを嵌め込む部分になるのかもしれない。

次に連想したのが斉藤与里(1885・明治18年〜1959・昭和34年)だ。与里は現在の埼玉県加須市生まれ。20才の時(1905・明治38年)画家を目指して京都の聖護院洋画研究所・関西美術院に入り、浅井忠、鹿子木孟郎に学ぶ。同門に3歳年下の安井曾太郎、梅原龍三郎がいた。1906年鹿子木についてパリへ渡りジャン・ポール・ローランスのアカデミー・ジュリアンに入学する。本作に通じる一連の作品を並べてみた。

斉藤与里作品 (左から)

【木蔭】1912(明治45・大正1)年作・第1回フュウザン会展出品 【第2回フュウザン会展欄間装飾画】1913年作

【朝】1915年作・第9回文展初入選 【収穫】1916年作・第10回文展特選

本作の作者は与里作品を観たに違いない。1910年代後半から20年代半ばにかけて日本国内での制作だと思う。フランス留学経験者で既に当地でシャヴァンヌを観ていたとも思う。画面はフラットで装飾性を帯び、構想画を意識しているからだ。当時全盛だった主観主義的なポスト印象派やフォーヴを指向する若手ではあるまい。彼らはまだフランスに旅立っていない。本作は習作とはいえ完成度が高く筆致がこなれている。すっきりとしたモデリング、線描が巧みで姿態に動きもある。

こういった見立てを安井曾太郎(1888・明治21年〜1955・昭和30年)の経歴と照らし合わせてみた。1904年、18才で聖護院洋画研究所入所。1907年、渡仏する。斉藤与里がマルセイユまで出迎える。安井もアカデミー・ジュリアンに入学。与里は翌年帰国するが、安井は同校で勉強を続け、日本人で初めて校内コンクールで優勝する。それまでの日本人最優秀は与里の第12位だった。1914・大正3年、第一次世界大戦が勃発し帰国する。翌年、第2回二科展に滞欧作44点を特別出品し注目されたが、この後10年以上のスランプに陥る。二科展への出品は続けるが、作画上の模索を繰り返し話題になることも少なかったようだ。西欧と本邦との風土の違いから表現に苦悩したといわれている。この間、1919・大正8年9月に斉藤与里、梅原龍三郎と共に兜屋画廊主催洋画展の審査員を務めている。1929・昭和4 年に発表した【坐像】と翌年の【婦人像】が安井様式の誕生を告げ以降大家への道を歩む。京都国立近代美術館館長を務めた富山秀男氏は「生誕90年記念安井曾太郎展」図録(1978年ブリヂストン美術館)にこう書いている。

(帰国後は)作画上の模索と低迷を経験しなければならなかった。(中略)僅かな期間に作風が幾転変したのもその間の模索と苦闘の激しさを物語っている。一時はドランやボナールなどの作風に惹かれたような時期もあった。すなわち形体や色彩の関係を単純化してみたり、また逆に紫色などを混ぜながら、暖かく柔らかい色調で全体を緻密にまとめ上げるような試みも行っているのである。

 

安井曾太郎作品(図録画像)

左上【水浴】1914年作 左下【夫人の像】1918年作 右上【黒き髪の女】1924年作  右下【樹蔭】1919年作

本作が描かれたと思われる時期は帰国後の安井が模索していた頃に重なる。1919年作の【樹蔭】は林間の裸婦群像図でテーマは類似するが印象がまるで違う。きっちり描き込んであり重厚感溢れる。人体表現も肉づきがよい。様々に試作し、後年のしなやかで流麗な描線を獲得する過程で描いた、と理解しないと本作には繋がらない。

 

キャンバス裏面に貼られた日動画廊のシールは昭和戦前期のものらしい。日動画廊に当該部分の画像を送って訊ねてみた。親切に対応していただいた。その返事はこうだった。「戦前のシールと思われます。ただ、当社ではシールをキャンパス地に直接貼ることはしません。木枠か額裏に貼ります。副社長に確認しましたが、シールの字体は先代では無いとのことでした。」日動画廊の創業は1928・昭和3年、本作制作(と思われる)時期とは時間的な乖離がある。シールは表面が素である上部端に貼られてはいるが・・・

現役の画家にこの絵を見せて感想を聞いてみた。「とても上手だ、左端の人物が持つ平籠に入れられた赤い果物の画き方が絶妙。」と言う。

状況証拠的には、画学校、パリ、交友、等などシャヴァンヌ―斉藤与里―安井曾太郎を結ぶ線は太い。本作の作者はその周辺にいた人物と考えられないだろうか。日動画廊シールの「安井」も、故なしには記されないと思うのである。佳作であることは確信するが、作者については推理を重ねるばかりで埒が明かない。本稿を読まれた方の知見、ご意見を教示いただきたく、よろしくお願い申し上げる次第です。

(文責:水谷嘉弘)

 

 

 

 

第4期運営体制のお知らせ

当社団法人は9月30日に第3期事業年度を終え、先日社員総会を開催いたしました。今期も前期と同様の役員陣で運営にあたります。

今期は、前期に続き美術関係者との面談、ギャラリー訪問、刊行物への寄稿等を行うとともに、コロナ禍の状況を見定めながら積極的な対外活動を進めて行きます。板倉鼎を巡る画家たちの作品展、セミナー開催等の実施や後援を予定しています。

よろしくお願い申し上げます。

代表理事・会長 水谷嘉弘

【column】伊原宇三郎こぼれ話 その2 1912(明治45・大正1)年 ―18才時― の作品

前回取り上げた伊原宇三郎は官展アカデミズムにおけるbignameの一人である(1894・明治27年〜1976・昭和51年)。画家としての全盛期は戦争記録画制作に費され、平時であれば描かれたであろう作品群を観る事が出来ないのはつくづく残念に思う。

伊原は東京美術学校(以下、美校)西洋画科の藤島武二教室に学び首席で卒業した(1921・大正10年)。才にも恵まれていたのだろう。若い頃から絵は上手かったようだ。郷里徳島での小学生時代に既に日本画の模写をし、大阪に転校した1911・明治44年には関西中等学校美術展覧会で一等賞を取っている。17才の時である。先年、1912年の年記が入った風景画が市場に出た。改元のあった同年は近代日本洋画史を画期する年でもあり、後に大家となる伊原18才と当時の中央画壇との作品の距離感を知りたくて購入した。

【稲干し】1912(4号)の署名部分

1912年は、明治画壇を牽引した白馬会の後継ともいえる光風会創立の年だが、美校卒業制作で萬鐵五郎が【裸体美人】を提出し10月には銀座読売新聞社社屋で斎藤与里、岸田劉生らの第一回ヒュウザン会展(のちフュウザン会)が開かれている。白馬会・外光派に物足りなさを感じた若手画家たちの新たな動きが顕在化した年でもあった。二年後には文展の審査姿勢に反旗した中堅画家たちが二科会を設立している。しかし、大阪にいた中学生伊原宇三郎の絵はそういった動向とは無縁だった。当然といえよう。【稲干し】と題する伊原作は、農婦二人が刈り終わった田地に腰をかがめて手を差し伸ばしている。ミレーの【落穂拾い】を彷彿させるものだ。中景の男性の大きさと全体の遠近感の不釣り合い、地面の表現などに稚拙な点もある。しかし明るめの中間色で色調を統一し、その濃淡で画面分割して安定感ある構図を作る巧みさ、穏やかで拡がりのある田園風情は18才の作として秀逸だ。若きバルビゾン派といえよう。伊原がミレー作を識っていたのかは分からない。バルビゾン派の紹介は既に始まっており1903・明治36 年には【ミレー画譜】【ミレ名画全集第壹輯】等が出版されていた。後年彼は、中等学校展覧会一等賞が人生で最も嬉しかった出来事でそれで画家になる決意を固めたと書いている。賞品にもらった油絵道具一式で【稲干し】を描いたに違いない。

伊原のキャリアを振り返ってみる。黒田清輝が東京美術学校西洋画科開設と同時に教授に就任しコランの外光派を伝えたのは1896・明治29年。黒田やそれに続くフランス留学→美校教官組はミレー、コローに強い共感を示しており、印象派の強い表現ではなくその傍系に位置する穏健なコランの外光派に寄っていく。1916・大正5年に美校に入学した伊原もその流れに属しているといえよう。彼の徳島中学時代の美術教師は丹羽林平、安藤義茂である。丹羽は美校西洋画科第2回卒業生(1898・明治31年)、安藤は美校図画師範科第4回卒業生(1911・明治44年)でありその指導はバルビゾン派→外光派の流れを汲むものだったと思われる。伊原本人は大阪での美術教師の名前を挙げていないが、美校図画師範科第5回卒業生(1912年)塩月桃甫と写生に出掛けていたようだ(塩月桃甫は、太宰治の友人で小説家の塩月赳の父)。京都にはフォンタネージ(バルビゾン派)の高弟、浅井忠が始めた聖護院洋画研究所・関西美術院もあリ、近くにはそこで学んだ画家達も多くいたであろう。

2021年春、南薫造(1883・明治16年〜1950・昭和25年)の回顧展があった。出世作とされる1912 年作【六月の日】が出展されていた。奇しくも伊原の【稲干し】と同じ年、同じ題材である。収穫作業後の農夫を描いているが印象派そのものと言って良い。2才年上の美校先輩、児島虎次郎が同時期留学中のベルギーで描いた油彩画にも似た筆触が見出せる。三宅克己らの水彩から学び始めまずイギリスに留学した南はフランスに渡って印象派に馴染み、帰国してからは印象派、そして晩年にかけてフォーヴ的なスタイルに変わって行く。一方、11才年下の伊原は学生時代にバルビゾン派・外光派から入り、フランスに留学してポスト印象派以降を知り古典古代を見聞したあと、ルーブル美術館でのアングル模写を経由してピカソやドランの新古典主義に収束する。二人の歩みの違いにも近代日本洋画史の、世代毎に性急に西欧絵画をcatchupして行く流れが見えて来るのである。

伊原の生誕100年記念回顧展図録(1994年)に掲載されている最も若い時期の作品は美校入学前後の1915-16・大正4-5年―21-22才と、1916年―22才、のもの。前者は短めの筆触を残す明るい印象派的な屋外椅子テーブルの写生画、後者は波打つ粗い筆触線と強めの色彩対比が目立つフォーヴ風の人物画である。しかし表現主義的な描写は体質に合わなかったのか、1920年以降は落ち着いた色彩、質感を出す筆遣い、正統的な写実で官展アカデミズムに直結していく作品を多く描いている。今回取り上げた宇三郎18才の作 ―面で捉える上手さを既に示している― の延長線上で描き続けていると見なすことが出来るのだ。

本稿は、1984年徳島県郷土文化会館、1994年目黒区美術館、徳島県立近代美術館で開催された伊原宇三郎展図録を参考にさせていただいた。

(文責:水谷嘉弘)

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