【近代日本洋画こぼれ話】 青山熊治・田辺至・大久保作次郎・鈴木千久馬 昭和初期の本邦婦人像

(註:本篇は初稿執筆後、鈴木千久馬(1894生)の【少女の顔】(1935年制作)を入手したため原題の3人に加え増補として最終節に文章を追加した)

以前、東京美術学校出身者8人(生年順~田辺至、北島浅一、宮本恒平、伊原宇三郎、鱸利彦、中野和高、田口省吾、佐分真)が1920年代に描いた滞欧風景画を続けて取り上げたが、今回は彼等と同輩先輩にあたる画家3人が描いた対照的なモチーフ、本邦人物画(婦人像)を取り上げる。今回の3人は青山熊治・田辺至(1886・明治19年生まれ)、大久保作次郎(1890生まれ)である。田辺至は滞欧風景画に続いての登場、大久保作次郎は1927年3月パリで撮った彼の送別会集合写真でお馴染みである。

明治末から大正年間を通じて(1910年以降)、白樺派によってポスト印象派のセザンヌ、ゴッホ等が紹介されていたとはいえ、1886年生まれの藤田嗣治や田辺至らは1910・明治43年に卒業した美校で印象派までしか教わっていない。藤田は1913・大正2年にフランスに渡ってすぐにアンリ・ルソーの作品を見せられ「実の所、自分はセザンヌ、ゴーガン、ファン・ゴッホ、ルノワールを知らずして、いきなり、ピカソの立体派、アンリ・ルソーの傑作を見せられたのだからその感動も大きかった」と自らの展覧会図録で回想している(1929朝日新聞社)。藤田、田辺の一歳下、1887年生まれの小寺健吉は1922・大正11年に最初の渡欧に出かけるが、小寺についても、柳亮が「美校での岩村透の西洋美術史の講義は印象派で終わりをつげ後期印象派にまでは及ばなかった。小寺が渡欧する時にはマチスの名前ぐらいは知っていたが、ボナールもヴラマンクもドランもその存在はまるで知らなかったと言っている」と小寺画集掲載の評伝に書いている(1977日動出版部)。大久保作次郎は小寺渡欧の翌年1923年に渡欧した。藤田と同じ歳の青山熊治は1914年にシベリア鉄道経由で欧州に渡っており情報の少なさは全員同じだったろう。画家の名前さえよく知らないまま、初めて観たポスト印象派やそれに続いた新潮流の絵画、エコール・ド・パリの作品は生の現物だったのである。

 大久保作次郎【鏡の前】1939(20号)

まず三人の中で一番年下の大久保作次郎(1890・明治23年生まれ)から観て行こう。大久保は、19世紀印象派を古典と見なしたかのような忠実で謙虚なアカデミズムの画家である。この作品は1939・昭和14年制作でパリから戻って12年後の49歳時の制作であり他の画家の2点とは直接の比較は出来ないが、官展アカデミストらしい秀作である。大久保も滞欧作品には代表作の【マルセイユの魚売り】等にやや粗い筆致があるが、帰国後は一貫して本作からも伝わってくる懇切で堅実な画風を示している。この作品は20号の大型作品だが、画面全体に塗り残す所はない。先輩二人が書いた十数年前の絵と比べても筆触跡はほとんどなく丁寧で落ち着いた筆遣い、色遣いである。大久保は欧州新潮流の絵画に影響されることなく、既に渡仏前に知り共感していた印象派の画風を継続した。室内で化粧する大画面の女性半身像は、構図、テーマともに家庭団欒図に代表される帝展様式を彷彿させる。完成度が高く1971年に刊行(サンケイ新聞社)された画集にも掲載されている。大久保の長い画歴にあってこの時期の代表的作品のひとつといえよう。この年、彼は安宅安五郎、柚木久太、鈴木千久馬、中野和高、ほか官展系の先輩後輩画家たちと創元会を立ち上げ創立会員になっている。

続いて青山熊治と田辺至の婦人画を観る。共に帰国後の1926・大正15年頃の作品と思われるが、明るい色遣いや、輪郭を崩すまでには至らないが短い筆触を残す奔放な描き方はパリで初めて実物を観たに違いない印象派の影響を受けている。絵具もしっかり塗り込んでいるのは美校先輩の印象主義絵画と一緒だ。既述したようにこの世代は印象派に続くポスト印象派、フォーヴ、キューブには同時に接した。しかしそれらにはあまり反応せず座学で学んだ印象派に寄っていったのは興味深い。他に比べれば正統的に見える作風に惹かれたのかもしれない。1910年代から20年代初めにかけての留学者は国家を代表して油画の本場西欧で正統な画業を学び本邦に伝えるという啓蒙的な意識が強くあったと考えられる。1922・大正11年文部省在外研究員として欧州歴訪し帰国後美校教授に昇任した田辺は特にそうだったろう。当時西欧画壇で一定の評価が固まった最新の主義主張であった印象派に依拠したのは必然だったとも言える。

 青山熊治【婦人像】1926(8号)

青山熊治は、現在では忘れられてしまったがクラスヘッド的存在、実は現役時代にも一度忘れられてしまった経緯がある画家だ。1904・明治37年に美校に入学して在学中に【老工夫】が東京勧業博で受賞、その後、【アイヌ】で白馬会賞、文展でも連続受賞して1914年に陸路欧州に向かう。だが第一世界大戦に遭遇して行動できず、資金調達にも苦労してパリを発ち帰国したのは1922年だった。画壇から忘れられていた。1926年に大作(2m×3.6m)【高原】が帝展で帝国美術院賞を受賞、一気に復活して1928年には審査員となったのである。しかし、1932年に急病で世を去る。波乱の生涯を送った。画題が示すように人物画を得意とし、【アイヌ】【高原】は群像構想図である。紹介する作品は【高原】制作年に描かれている。彼の人物画は面長長顎が特徴で、この女性は他の作品にも登場する。青山の絵は渡仏後は明度が高くなるが、彩度は抑えたまま、静寂、沈潜といった印象で当時全盛だった外光派表現とは一線を画している。構図と筆触面で描く本格派の画家、という印象である。本作は背景の緑青色効果で明るく映るが厚塗りで筆を置いた跡がくっきりと残る重厚な絵に仕上がっている。

田辺至は、以前本コラムで紹介したように戦前の象徴的な西洋画アカデミズム・エリートである。兄は哲学者、田辺元。東京府立四中、美校、研究科(現在の大学院)、助手、助教授、欧州留学、教授。文展第1回から入選、受賞を重ね、審査員。戦後は一線から退きフリーで活動した。上手な描き手で油画のほか銅版画、挿絵など、モチーフも風景、人物、静物なんでもこなした。文展時代から幅広い題材を描き、外遊後、戦時に至る間は裸体画、戦中戦後は静物画が多い。本作は帰国後間もない頃の作品と思われる。制作年が明らかな渡仏前の作と比べ明るくなっている。色遣い、筆触など先の青山作品と相通ずる所が多く、これも落ち着きのある絵に仕上がっている。

 田辺至【少女ノ顔】1920年代後半(推定)(4号)

以上述べてきた彼らの画風は、彼らから遅れること数年乃至十数年、1920年代半ば以降にパリに渡った同世代、例えば熊岡美彦(1889生)が現地ではフォーヴ風の絵を多く描き、1920年代初めにパリに行ったが年齢的には一世代下のパリ豚児たちの多くがフォーヴに傾倒し、例えば中山巍(1893生)、里見勝蔵(1895生)がヴラマンクばりの絵を描いた事とは対照的であった。本題とは逸れるが、更に下の1900年代前半生まれのモダニズム世代に属する田辺至の教え子、板倉鼎(1901生)がパリ留学前の1924年頃に描いた作品は、今回の青山田辺作品と同時期の制作だがかなり垢抜けた印象である。鼎の資質もあったに違いないが新たな情報や新鮮な感覚が到来し始めていたのである。

また、田辺至と同期同年齢ながらパリに腰を据え世に出ることを志した藤田嗣治(1886・明治19年生まれ)も全く違っていた。彼は信念通り自分のスタイルを確立しエコール・ド・パリの花形画家になって行くのである。

青山、田辺、大久保の三人はみな帰国後、官展アカデミズム界で順調にSTEPUPし、帝展審査員に任じられた。同じキャリアの辻永(1894生)や田辺至、小寺健吉、大久保作次郎、などこの世代の長寿を得た画家たちは、パリ豚児たちと違って、戦後も画風を変えることなく描きなれた穏健な作品を発表し続けた。持ち味と言えるが、官展アカデミズムの伝統維持、見方を変えれば弱点となる様式の形骸化に通じていたとも言えよう。

 (参考)板倉鼎【黒いショールの女】1924年頃 所蔵者宅で撮影

(増補)

以上を書き終えた後、かなり経ってから鈴木千久馬(1894生)の婦人像が到来した。大久保作次郎の項で名前を挙げ、田辺至の項に続けた〆の文章で触れた中山巍(1893生)、里見勝蔵(1895生)らパリ豚児と同世代である。千久馬は1921年美校藤島武二教室出身、同期に伊原宇三郎(1894生)、前田寛治(1896生)等がいる。所謂、花の大正10年組、黄金世代だが渡欧したのは皆に遅れ1928年、既に1925年から27年まで3回連続して特選になっており帰国後の1930年には審査員に任じられたように典型的な美校エリートコースを歩んでいた。同年1930年協会会員となり最終回となる第5回展(1930年)に出品するものの同会解散後発展的に発足した独立美術協会には参加せず帝展に残った。先駆けて渡欧した同世代の多くの
画友達が現地で強くフォーヴの洗礼を受けたのに比し、渡欧前に既にドランの影響が顕著な新古典派系画風で成果を得ていた彼は現地ではピカソの詩情に惹かれている。ユトリロにも感ずる所があった。同期の帝展アカデミスト伊原宇三郎に似て又異なる点だ。【少女の顔】を観てみよう。千久馬の孫(日本画家望月春江の娘鈴木美江氏の子息)鈴木英之氏に依れば、モデルは千久馬の長女、吉田千鶴さんでご健在だそうだ。彩度を感じる色、自由な筆遣いで先輩3人のオーソドックスな婦人像に比し若々しい筆致だ。モデルが実の娘でまだあどけなさの残る年頃だったせいか、その頃の帝展出品作に比べ和やかな出来だ。大久保作次郎世代の多くが戦後になっても印象主義的画風を遵守したのに対し、千久馬の、大久保や同期の中野和高(1896年生)らと結成した創元会(1941年)等への出品作は1950年頃から徐々にスタイルを変え、晩年のさわやかなで平明な詩情を漂わせる日本画的味わいも備えた「白の時代」に至る。これが彼の最終形として広く知られることとなったが、渡欧時のユトリロへの共感が顕在化したのかもしれない。本作はそこに至る過程としての一品と言って良かろう。

 鈴木千久馬【少女の顔】1935年(6号)

(増補 了)

文責:水谷嘉弘

第6期運営体制のお知らせ

当社団法人は9月30日に第5期事業年度を終え、本日、定時社員総会を開催いたしました。今期も前期と同様の役員陣で運営にあたります。

代表理事・会長 水谷嘉弘 博物館学芸員資格者
理事 高橋明也 東京都美術館館長
理事 水川史生 共立女子大学教授
監事 園井健一 公認会計士・税理士

第5期は第1期から第4期まで取り組んで来た活動が具体的成果となって顕在化した事業年度であった、と総括しました。主たる事例は次の通りです。

① 刊行物~一般社団法人日本美術家連盟機関紙「連盟ニュース」に座談会記事「板倉鼎と須美子のもうひとつのエコール・ド・パリ」が掲載された(2022年10月発行)

② ラジオ放送~NHK「ラジオ深夜便・明日へのことば」(インタビュー番組)に水谷が出演。板倉鼎、当社団について語った(2023年3月15日)

③ 展覧会企画~板倉鼎と同時代のフォーヴ系画家里見勝蔵と彼を巡る三人の画家の展覧会を企画、社団が協賛した(2022年10月@池之端画廊)

第3期、第4期はコロナ禍のためイベントや人的交流機会への参加を控え執筆、調査活動が中心でしたが、前期(第5期)は環境が好転したこともあり多くの媒体を通じて板倉鼎や社団を紹介、言及する機会が到来しました。

今期(第6期)も第5期活動を継承し、板倉鼎に関する広報機会の確保、執筆活動、展覧会の企画・後援等幅広く顕彰活動を行い、また社団の認知向上につながるイベントへの参加や人的交流機会を持ち、関連資料蒐集も継続します。

よろしくお願い申し上げます。

代表理事・会長 水谷嘉弘

【news】シンガポール国立美術館からの照会

先月、シンガポール国立美術館の director&curator の方 から板倉鼎について照会がありました。同館は2015年設立の東南アジアの近現代美術を専門とする美術館です。

「2025年開催予定の「City of Others: Asian Artists in Paris 1920s-40s」という特別企画展の準備を進めている。従来「日本の画家がみたパリ」というように国別の枠組みで捉えられてきた大戦間の画家のパリ体験を、ベトナム、中国、日本の画家(工芸家)の足跡を追い一つの展覧会のなかで横断的に検証する企画。大戦間時代の日本人画家の活動を調べていく過程で板倉鼎・須美子を知り、多くの作品を所蔵する松戸市教育委員会で現物を実見出来ないか、展覧会に展示する作品を借用できないか」との問い合わせでした。

板倉鼎・須美子を知ったキッカケは同展の準備でパリに出向き当時のサロン等に出品した東南アジア画家を調査していた時。企画展にはベトナム人、中国人に加え日本人画家を何人か取り上げ在パリ作品を展示したい。キキメとなる藤田嗣治や佐伯祐三の展示作品は内定しており、板倉鼎について当社団のホームページを閲覧してコンタクトして来られたそうです。早速、松戸市教育委員会の田中典子学芸員に繋ぎました。

本ホームページ【近代日本洋画こぼれ話】で取り上げた川島理一郎、清水登之、等に加え、板倉鼎と同様忘れられたエコール・ド・パリの画家の一人である高野三三男も展示候補になっているようで、同時代の本邦洋画家の再評価、顕彰を旨としている当社団にとって嬉しい連絡でした。近年の繁栄著しいASEANの中心都市シンガポールで板倉作品が展示紹介される展覧会に大いに期待しています。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】川島理一郎 その3 昭和初期の本邦風景画・人物画

川島理一郎(1886・明治19年~1971・昭和46年)は生涯2度にわたってその作品群を大量に失っている。1923年の関東大震災と1930年末のインド洋での欧州からの貨物船沈没である。そのため、初期の滞米滞欧作品(個展のため資生堂に約200点保管していた)と、1930年5~11月の滞欧作品(フランス、スペイン)を見ることができない。前者の方は画業の初期(1910年代)から第1次ピーク(1924年秋からの2度の渡欧)に至るまでの展開期、後者の方は第1次ピーク(1920年代半ば)と第2次ピークの1933年から1936年にかけての日光、承徳(旧満洲)、東京での作品群とを繋ぐ時期のものである。それぞれミッシングリンクとなってしまい残念である。川島自身、[震災の時は東京市民挙っての災害であっただけにまだあきらめられる点が多かったが二度目の出来事は一層自分にとってショッキングであった。それはスペインでの制作数十点を…(失ったのだ)]と記している(「貴重な経験」1936「旅人の眼」所収)。しかし川島は逆境に強い画家だ。[私は、これを単なる天災とは考へなかった…描き直して来いといふ神の声であると信じた一度描いた時より二度目の方が更に良いものが出来るのは勿論である(同上)]。二度の作品群消失のあとに新たな画風を確立し二度の画業ピークに達したのである。

ここから本題に入る。2回目の画業ピークとなる1930年代半ば(昭和10年前後)の筆致の重い作品群についてである。第1次画業ピークである1924年秋から27年秋にかけての2度の渡欧期作品の特徴は躍動感ある筆運びが心地よい画面だったが、それが1930年末の欧州からの貨物船沈没の報を受けてスペインにとんぼ返りした頃(後援者である大林組大林社長新宅に搬入する家具等の再調達のため)、筆運びの重い艶やかで厚い塗りにとって代わったのである。栃木県立美術館杉村浩哉氏の表現を借りれば「さらさらすいすい」から「どっしりぐいぐい」へ、となる。当時の作品評には「革のような柔軟なマチエール」とあったようだ。言い得て妙、である。

1933・昭和8年11月、夏から秋にかけて日光で取材した24点の発表を皮切りに、翌34年満洲・熱河省承徳(現・中華人民共和国河北省)、35年東京、36年日光の風景を題材とした制作が続いた。ピークの1回目から2回目への画風の変化、1930年代初頭からの変化は、川島が[1928年以後のマチスの傾向は、厚いパットで原色に近い色を入念に塗っている…色と色との対比が実によく、一重の重厚さと力強さをさへ感じさせる(マチスを語る)「マチス画集」1933アトリエ社所収]と述べたマチスの画風変化に呼応しているように思われる。タイムラグがあるのは試行の期間と、日本、中国本土をモチーフとした時にその風土が新たな描き方にマッチしたためではないかと考える。

1935・昭和10年の個展では東京風景をモチーフにした作品を発表したが[昼間の東京は…構造的な力強さを欠いている(のに比し)…夜になると驚くべき美しさを現はして来るのを知った…東京の夜景が…色と光による近代的な美しさ…新鮮な表現の展開であると思った…内容に伴ふ形式の新しい発見へ自身の努力を傾注した(東京風景)1935「緑の時代」所収]と書いている。花火や賑わう繁華街の夜景を描いた作品が多い。

1930年末の貨物船沈没で失ったスペインでの制作数十点が惜しまれるのはこの変化の過程を知る事が出来たかもしれないから尚更なのだ。その後再び筆致が軽く流れる画風に戻るのだが、ここでは画風の振幅による表現巾の確保、形骸化の回避といったバランス感覚が働いているのではないか、を指摘するに留める。

第2次ピーク期間の小品があるので画像を載せる。

【夜叉像 三代将軍廟】1933(SM)   【少女】1935(SM)

【尾張町筋の夜】1935(3号)   【秋の百花園】1935(3号)

1933・昭和8年の日光、1935・昭和10年の東京を描いた風景画と、1935年頃作の少女像である。第2次ピークとなる1930年代半ば(昭和10年前後)の筆致の重い作品群である。東京風景2点は1935年11月銀座伊東屋で開催された第三回川島理一郎個人展覧会出品作である。同展は「東京風景と花」と題され30点が展示されたが画題がほぼ判明している。出品目録には画像が10点あり【尾張町筋の夜】はその一つだ。目録には[今回の個展の作品について愉悦を感ずることの出来るのはこれらの作品が悉く私の純粋な画的生活からの所産だったことである…最も自由なまた最も純粋な表現への努力だったと云ひ得るやうに考へる]と記している。同年5月に報じられた帝展改組(所謂、松田改組)を受けて各団体の役員を辞し、また退会して画壇に距離を置いた事を言っているのだが、言葉と裏腹に重くなり始めた筆運びに彼には珍しい筆の跳ねが残る粗いタッチが加わって、私には彼の秘めた憤慨が感じられる。

美術雑誌「造形」昭和31年4月号には小熊捍理学博士が[…川島君には大作が少ない。上野の展覧会作でも小さいものばかりである。然もその小さい画から大きい効果が出ているのをいつも不思議だと感じている。これは恐らく色彩による構成が原動力になるのであろう。現に私は二号という極く小さい板に画いた裸婦の全身像を壁にかけているが、この小さい画面が不思議にも広い壁面をドッシリとおさえているのにおどろいている。]と書いている。川島作品の絵の特徴を捉えている文章であり長目に引用した。このように川島には小品が多く、広く流通したと思われるのだが、経済的な側面や活動の拠点確保の観点からであろう、川島は1919・大正8年、14年振りの帰国の時から定期的に個展(小品展)、作品頒布会を開催しているからである。後援会も組織している。大型の油彩画は多くがミュージアムピースやコレクターアイテムとなっている。(大作が少ないのはtravelerに起因しているかもしれない。晩年は自宅アトリエ制作の展覧会発表作など大作も多い。)

ここで、川島画業の第1次(1920年代半ば)、第2次ピーク(1930年代半ば)について振り返ってみたい。

第1次ピークの「緑の時代」については以前同題のエッセイから次の様に引用した。[…一段と自分の信ずるところを決定的にやって見た…巴里と伊太利風景とを漸くにして自分の作としての発表が出来たかに思へた…これらの作品は一般の人達にも認められたやうだった(「川島理一郎画集」序文1933、のち「緑の時代」に改題)]。川島は続けてこう書いている。[その頃から(註:1924~25年)私には写実の力強さが最も必要になって来て「緑の時代」に這入った…緑一色の世界、その諧調から成る深さ、廣さ又空間的な實在性と自然の躍動の素力の把握による作品へと進んで、「セーヌ風景」や「巴里郊外」「森」などの作品は、更に続く次の渡欧(註:1926~27年)による収穫である]。「緑の時代」にあたる1924年から27年までの2度の渡欧期作品は躍動感ある筆運びが心地よい。緑色もさることながら、青色がより美しく感じられる。青と、勢いを感じさせるタッチが呼応して画面を大きく見せ拡がりを与えている。

【リュクサンブール公園】1925  【ナポリよりポッツオリを望む】1925

【セーヌ風景】1926    【古羅馬の跡】1926(全て図録画像)

それが、既述したように1930・昭和5年末の欧州からの貨物船沈没(二度目の作品消失)の報を受けてスペインにとんぼ返りした頃、筆運びの重い艶やかで厚い塗りにとって代わったのである。

【承徳大観】1934 【須弥福寿廟 承徳 黄金之龍】1934(共に図録画像)

【東照宮】1933~36頃      【夜の浅草】1935(共に図録画像)

【緑陰】1935      【夜叉門】1936(共に図録画像)

「緑の時代」1937龍星閣には1934・昭和9年の熱河訪問を書いた「承徳の景観」の章があり【熱河大佛殿】と題されたスケッチが掲載されている。同じ構図で額裏に【大佛寺全景】と記された油彩画(出来はスケッチの方が良さそうだ)と並べて挙げる。

(1934年作)挿画画像     【大佛寺全景】1934(SM)

さて、最後に時は遡るが1922年末の帰国船で親しくなった中沢弘光と共に訪れた京都奈良(1923年3月)で描いた油彩画秀作【舞妓】について触れておきたい。1回目ピーク前夜の頃である。下記画像右の作品(10号)は資生堂・福原信三氏旧蔵、その後著名なコレクター野原宏氏が所蔵していたが、2022年暮れ足利市立美術館での川島展開催を記念して同館に寄贈された。2002年展覧会図録掲載の同名作品2作の連作といえるが、自由闊達な筆遣いと色遣いが若い舞妓の艶やかでややアンニュイな姿と表情を存分に写している。

この後、この時期までの作品は関東大震災で烏有に帰すことになるが、これら舞妓3点は、川島が[震災の翌年私は支那へ渡って…風物を最も新鮮な気持ちで描いてみた…それは即興的なものではあったが…始めて自己を発見した快味を覚へた物であった(緑の時代)]と書き、続く渡欧で第1次ピークを迎える直前のミッシングリンクの最後部に位置する重要な作品群といえよう。

【舞妓】(図録画像)  【舞妓】(図録画像) 【舞妓】(水谷撮影)1923

本稿は、2002年川島理一郎展図録(栃木県立美術館、足利市立美術館 杉村浩哉氏執筆)から画像をはじめ多くを教示いただいた。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】佐分真・板倉鼎 パリの交流

「洋画界を疾走した伝説の画家(一宮市三岸節子記念美術館展覧会での呼称)」佐分真(1898年生まれ)は、同時期にパリに居た板倉鼎(1901生)との行き来を「巴里日記」他に綴っている。佐分は美校で鼎の2年先輩だが、パリ滞在は1927~30年、1932年の約5年間。鼎の滞在1926年7月~29年9月(急病で逝去)とほとんど重なっている。(冒頭画像は「巴里日記」が所収されている佐分真の遺稿集「素麗」(限定650部)春鳥会1936年刊)

佐分は1927・昭和2年2月、小寺健吉とともにパリに渡りしばらくパリ市内に滞在した後、4月近郊ムードンに移住した。住んだ家は中山正實画伯夫妻が帰国した後のアトリエ付きの広い一軒家、小寺兄弟とともに3人一緒である。佐分はムードンの位置をこう書いている。

―モンパルナスの画学生区から僅かに、十分許りの地点丁度上野から田端と云った場所に、あの美しい森と丘と、そして、又やさしい、ムードンの村・・・―(佐分随筆「滞佛断篇」1931年5月発表)

鼎が松戸の実家あてに出した書簡の例えとよく似ているのが面白い。

―今日は四月の十四日です。今週は毎日ムードンと云ふ郊外、丁度乗物の時間から云ふと松戸の東京市に対するような関係で巴里をはなれてる高台ですがそこへスミ子も一処に通って居ります。―(鼎書簡1927年4月14日)

この時の鼎・須美子夫妻のムードン通いの初日に佐分と行き会うのだ。

―最初の日、駅のそばでお友達の佐分利(ママ)さんと小寺健吉氏にお目にかかりました。お二人がすぐそばの家へ案内して下さいました。二人で四間ばかり借りて居らっしゃるのですけれど、お風呂も附いて立派な台所もあり・・私達もそこに移りたくなってしまひました。家の窓からでも画が描ける様になってゐます。―(須美子書簡1927年4月19日)

 「素麗」表紙スケッチ(パリ郊外 couilly風景)

佐分は滞欧中の日記を4冊残しており、これらは遺稿集「素麗」に「巴里日記」として収録された。須美子の書いた通り、4月12日の項に鼎が登場する。

―快晴 稍々寒・・・(ムードン駅で)偶然板倉氏夫妻が寫生に来たのに會ふ。伴い歸る・・・―(佐分「巴里日記」1927年4月12日)

パリの大久保作次郎送別会は同年3月22日開催、集合写真には二人共居り、その場がパリでの再会だったと思われる。因みに、この写真には本稿に登場する人物は前田寛治を除く9人が写っている。

 (人名比定は「青春のモンパルナス」井上由理氏)

佐分は同日の日記に同会の模様を書いている。後先になるが紹介する。

―夜、七時半から大久保作次郎氏の送別會を日本人會でする。會する者藤田(註:嗣治)氏以下四十餘名、盛會。森田(註:亀之助)氏夢中になってはしゃぐ。嬉しい晩だ。そして席上、近く歸朝する中山正實氏のアパルトマンを吾々で引きつぐ事に相談定まる。非常にいい家だ。郊外ムードンの地、何とも有難い事だ。來る土曜午前中見に行く筈。段々運勢開けるらしい。―(佐分「巴里日記」1927年3月22日)

5月3日、日本人会館で行われた荻谷巌送別会には、佐分、鼎共に出席している。

「巴里週報」(日本人社会のミニコミ誌、石黒敬七主宰)第97号(創刊二周年記念号)1927年8月1日発行、には藤田嗣治の祝辞他多くの在仏者の名刺広告が掲載されている。佐分、鼎も出稿していた。

 (「巴里週報」第86号)

同年夏、佐分はパリ市内の鼎アトリエを訪れた。辛口のコメント込みではあるが、鼎を高く評価している。

―・・夕食を富士でとり、後板倉氏を訪ねる。板倉氏には勿論若人の作にして近代的な一味あり、そしてよき神経の行き届きし感じで行く行くは相當の作を成す人と思はせた。唯一種の味にこだはってどっしりとした底力を発揮し得るや否やが疑問だ。もしそれをしも得たらんには一入の結果がみられるだらう。―(佐分「巴里日記)1927年8月25日)

 

板倉鼎「垣根の前の少女」1927   板倉鼎「剣のある静物」1927

須美子の同日付け書簡の、

―・・昨晩小寺健吉氏が家へいらっしゃいまして、いろいろまじめな批評をして下さいまして、とても今やっている仕事は良いと云っていらっしゃいました。―(須美子書簡1927年8月25日)

と呼応する。小寺と同居していた佐分がそれを聞いて早速訪れたに違いない。先立つ8月19日付けの須美子書簡には、鼎が「垣根の前の少女」を制作中とあり、それを描く様子が詳細に記されている。小寺も佐分もこの作品を目にしたと思われる。鼎側に佐分来訪の記述は無い。しかし、鼎が美校の先輩佐分真を意識していたと分かる記述がある。

―・・・この頃(五六年)巴里に来た画家の数は数百人になりませうが一寸もよい仕事でみとめられていません。率から云ったら極少数の人、佐分氏とか前田氏とか中野氏とかが出て行っておりますが何れも四年以上の人ばかりでして、佐分氏など足りなかったので、又来ておられます。・・・―(鼎書簡1928年2月22日)

佐分が鼎宅を訪れた翌年の書簡である。パリに少しでも長く居たいがための父親に訴える文脈であり、リスペクトしているゆえ名を挙げたのだろう先輩画家たちの滞在年数は実際より長く書かれている。前田氏は寛治、中野氏は和高だが、佐分は初めてパリに来てやっと1年経った頃合いである。小寺と混同していたのかもしれない。

鼎はそれから1年半後の1929年9月29日に急逝するのだが、佐分がそれに言及した文章は見当たらない。同月24日にパリを発ち約1か月、オランダ、ドイツを旅していた期間にあたる。余談になるが、この時観たレンブラントがその後の佐分のスタイルを決定づけることになる。

佐分真が板倉鼎作品を評した記述は同時代画家の証言として貴重である。佐分の眼の確かさもわかる。1927年夏は「パリで1年かけて、持っていた型、日本で学んだ描き方を捨てた」と、鼎自身が書き、モダンで洗練されたスタイルを獲得しつつあった頃だ。静物画が多くやや様式化した生硬な表現も見受けられるのだが、佐分の慧眼から鼎の意図が達成されようとしており、観者にも伝わりかつまだ過程にあった等を知ることが出来るのである。この佐分もやがて2回目の渡欧から帰国した後、1936年に自死してしまう。天賦に恵まれたにもかかわらずそれを全うすることなく世を去った二人の画家は、遺した文章からもお互いを認め合っていた。

文責 水谷嘉弘

【topics】中村彝作品と清水多嘉示 ― 大正11年撮影の展覧会写真

2021年5月31日付け本コラム【近代日本洋画こぼれ話】清水多嘉示 その1 渡仏前の生写真 を読まれた茨城県近代美術館の首席学芸員吉田衣里さんから照会が有った。中村彝は茨城県出身で彼女は彝の研究者のようだ。1922・大正11年3月、清水多嘉示が教員を務めていた長野県諏訪高等女学校で主宰した「中原悌二郎・中村彝展覧会」の会場写真を入手して掲載したのだが、多嘉示の背景に写る2枚の油彩画は中村彝の作品ではないか、との指摘だった。 (冒頭写真参照) 多嘉示と中村彜【泉】【花】(未完成表示)

私は、清水が制作途上の自作を展示したものと理解していたのだが、吉田さんは「中村彜作品ではないか、【泉】はポーラ美術館所蔵の【泉のほとり】ではないか」と言う。早速調べてみた。会場写真は白黒のせいか陰影が濃く筆致が粗く見えるが、まさに瓜二つだった。ポーラ美術館ホームページの同作解説は、制作1920年とされていて [・・・従来この【泉のほとり】はルノワールの模写といわれてきたが、近年の研究によってそれが模写ではなく、中村彜の創作であることが明らかになってきた。(中略)「素戔嗚尊に題をとって勝手に想像で描いたもの」という中村の言葉からもうかがえる。(中略)彼は、1920年頃、展覧会の特別陳列などでルノワールの裸婦像を目にしたようだ。その衝撃から裸体画を描きたいという思いにとらわれ、この【泉のほとり】を制作したという。・・・] とある。

【泉】1922諏訪高女会場撮影 【泉のほとり】ポーラ美術館

しかし、吉田さんは中村彜「藝術の無限感」所収の洲崎義郎宛て書簡の同作に関する記述に注目する。[・・・何時もの欠点の「動線の不明」と「色の釣り合いの不整」とがつきまとって、絵の効果を鈍くして居るのですが、要点がよく分からないので思ひきった「シマリ」を入れる事が出来なくて、これにも閉口しております。・・・]。会場写真(1922年撮影)では右下部分が空白になっていて「未完成」表記もある。他にもそれを傍証する資料があって、吉田さんは同作の制作過程を再考する要があると考えたようだ。彼女の研究による論文発表を待ちたい。

【花】1922諏訪高女会場撮影 【ダリアの静物】1919
なおもう1枚の【花】と題された未完成作品のその後は不明だそうだ。類似作品【ダリアの静物】の画像を示していただいた。

【泉】未完成表示 【花】未完成表示

他の同展会場写真や多嘉示が撮った彜のアトリエ前のスナップなど現物を見たいとの事だったので開催中の猪熊弦一郎回顧展を観がてら茨城県近代美術館を訪れた。併設されている中村彝アトリエは、建物は復元だが椅子や画架等の調度品は本物、東京新宿下落合の中村彝アトリエと逆の関係だそうだ。館からは吉田さんと副館長の金澤宏さんが同席され、旧友の小泉晋弥茨城県天心記念五浦美術館館長(茨城大学名誉教授)も来てくれて充実した会合になった。

自宅庭先の中村彜(多嘉示撮影) 展覧会場の多嘉示(中原悌二郎作品と)

さて余談ながら、同展に関する写真には他にも興味深いものが多くあった。これらは清水多嘉示の代表的な研究者である武蔵野美術大学(元)教授で彫刻家の黒川弘毅氏から「清水多嘉示アーカイブ」にも見当たらない、と連絡いただいた。氏のご教示でテーブル上の中原悌二郎著「彫刻の生命」を前にした集合写真は、前列右端は清水の諏訪中学校時代の美術教師西岡瑞穂、左端は後に清水夫人となる今井りん、と判明した。そこである事に気付いた。作者、画題共に不明の「婦人像」の写真が有ったのだが、これは多嘉示が描いた今井りんではないか?前掲したテーブル前の集合写真の前列左端の彼女と似た相貌なのである。

(前列左から)今井りん、多嘉示、川上茂?、西岡瑞穂

 作者、画題不明の「婦人像」 

武蔵野美術大学彫刻学科研究室刊「清水多嘉示資料論集Ⅱ」(2015年)所収の青山敏子氏(多嘉示の三女)「父清水多嘉示と母りん」に依れば、[・・・(多嘉示の父)鶴蔵が(多嘉示の)渡欧の条件としたのは、婚約者を決めてから行くように、ということでした(中略)諏訪高女の前校長土屋文明は迷うことなく今井りんを推薦したのです。・・・]1923年3月の渡欧を控えた1921、22年頃の事と思われる。展覧会は1922年2月であり会場写真に二人が並んで写っていてもおかしくはない。中村彝の作品展示会なので彝の絵が他にもあるのではないか。彝が描いた相馬俊子像があるかもしれない。しかし、多嘉示主宰の地元の展覧会に自作を展示するのもおかしくはない。展示されていなかった可能性もあるが、件の絵は清水多嘉示作、婚約者今井りんの肖像と考える次第だ。如何だろうか?

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】伊原宇三郎 その5 滞欧人物画、お気に入りモデルの坐像 4点はどれだ?】

今回は趣味譚である。いささかオタク的になる。ご容赦いただきたい。主人公はこのコラムで既に4回取り上げた伊原宇三郎(1894・明治27年〜1976・昭和51年)である。事の起こりは毎日オークションの伊原宇三郎の滞欧人物画、仮題【外国婦人】1929年作、の出品だった。伊原宇三郎は本邦近代洋画におけるアカデミズムを語る時に外せない画家で、画業を追うだけでなく作品も何点か持っている。ただ彼の女性人物画、特に戦前の滞欧期の作品は、手許に置きたいのだが機会が無かった。

オークション出品作について調べる為に1984年11月、伊原の郷里徳島県郷土文化会館で開催された伊原展図録を見て或るページに目が留まった。【青衣婦人像】1929年作、と題する作品で、図版解説に伊原自身の文章が引用掲載されていた。長いが重要な記述があるので紹介する。

(quote)「トリコの女」この絵は1929年3月、巴里での作で、私の滞欧作としては最も後期に属します。非常に良いモデルで二ヶ年近くも使っていたので、手慣れていた故為もあって短期間で出来上りました。強いて動機とでもいうものを申せば、この絵では、生々しい色や、盛り上げや、不要な変形や、粗暴なタッチ等で熱情を露骨に表することを極力避けて、平凡なポーズと、大まかな調子と、透明な灰色を基調とした地味な間色とで、各要素を極めてデリカな有機関係に捉え、単純な中に落ちついた品位と、常套でない感情とを漂わせ、そしてどっしりしたボリュウムを出したいと思って試みたものです。同じようなもの四枚描いた中で、これが比較的、部分的には好きな色や調子が出た方なのですが、最初の狙いはこんなのではありませんでした。何とも致し方がありません。(unquote)(水谷註:伊原は留意したポイントごとに細かく〈、〉を入れている点に注目したい)

そして解説文の最後に( )書きで、《同時製作の「トリコの女」の解説より 1930年展出品》と付されていた。

②【青衣婦人像】1929(図録画像)⑤【緑衣婦人像】1928(図録画像)

読んで俄然興味が湧いてきた。本人が一番出来が良いとした①【トリコの女】を知らず、図録等でも見たことが無く、さらに同様に描いた作が4点もあると知ったからである。伊原の文章は当該作品に限らずその後の伊原の創作姿勢、作品全体を解釈するうえからも、画家自身に依る貴重な証言である。その為にもこの婦人像4点を特定したいと思ったのだ。オークション出品作も入手出来れば参考になるかもしれない。

伊原がコメントした①【トリコの女】は、上記の②【青衣婦人像】と共通点が多いと思われるので②【青衣婦人像】の特長を挙げてみた。

・着衣像、着衣に落ち着いた色彩を感じさせる・どっしりと椅子に座った動ずる風のない姿勢(全身坐像) ・体の前で手を組む(自然なポーズ) ・物憂げな虚空を見つめるような表情 ・大型キャンバス(92cm✕60cm、M60号)

これを上記の展覧会図録1984年刊と照合して特長が複数合致すると思われたのが当該作品のほかに下記4作品あった。

②【青衣婦人像】1929 92 cm✕60cm、全身坐像 ③【民族衣装の婦人像】1926~27 72 cm✕60cm、ほぼ全身坐像 ④【白いレースの婦人像】1927~28 92 cm✕73cm、ほぼ全身坐像 ⑤【緑衣婦人像】1928 80 cm✕100cm、半身坐像 ⑥【白いシュミーズ】1928~29 91 cm✕73cm、ほぼ全身坐像

更に、1994年刊の伊原宇三郎生誕百年記念展(目黒区美術館・徳島県立近代美術館)図録をみると、④の制作年が1926~27、⑥の制作年も1926~27に修正されている。⑤は変わっていない、1928のままである。モデルに関係がありそうだ。伊原の自己解説文にあるように①【トリコの女】のモデルを高く評価しており、特定を目指す婦人像4点は1928~29に当該モデルを描いた坐像と考えてよさそうである。この時代の代表作【椅子によれる】1929年作(第10回帝展特選)のモデルも丸顔の彼女である。モデルの顔立ちや、「常套でない感情を漂わせ」の文意に沿った作品を探せばいい。違うモデルを使ったと思われる早い時期制作の③④⑥は対象から外れる。②【青衣婦人像】と⑤【緑衣婦人像】が候補だ。

図録解説文に①【トリコの女】が「1930年展出品」とあるのも有力な情報である。伊原が1930年協会展に出したのは、帰国した翌年の第5回展(1930・昭和5年1月東京府美術館、3月大阪朝日会館)で前田寛治の勧めで滞欧作を一挙公開した。両会場の出品リスト(東京48点、大阪24点)と会場写真が残されている。会場写真は来場者とのスナップだが背景に写り込んでいる作品画像をリストと照合して一部同定出来た。婦人像はリストに東京16点、大阪8点ある。内、図録画像や会場写真で同定、比定できたのは、東京12点、大阪6点である。本コラムの目的、婦人坐像の4点中3点が出品されたとの結論に達した。以下がその3点である。

①【トリコの女】1929(60号?)、比定、出品リスト・会場写真あり ②【青衣婦人像】1929(M60号)、同定、リスト・図録あり、写真なし ⑦【婦人坐像】1929(20〜30号?)、比定、出品リスト・会場写真あり。 これに既に候補作とした、⑤【緑衣婦人像】1928(50号)、同定、出品リストなし、図録あり

を加えて4点とした。但し、それぞれ疑問点もあるので記しておく。

①題名のトリコは、フランス語の編み物の意と思われる。会場写真からは編んだ上衣を着ているように見えるが、図録などには未掲載 ②出品リスト上の題名は【青衣】 ⑤全身像ではなく半身像、画面横長、モデルは同じ人物だろうか? ⑦会場の写り込み写真を見る限り、本作は他3点に比べ小さい

   写真は1930年協会第5回展、東京会場である。

左。伊原(右)と清水登之。背景の絵を①【トリコの女】と比定した。 右。下段右から婦人像4点は、【?】、⑦【婦人坐像】に比定、【黄色い上衣?】、【カナぺの女(出品リストでは別名)】。 ①【トリコの女】は題名も画像もここでしか見ず、その後戦災で失われたのかもしれない。以上、所期の目的、坐像4点の目途をたてることが出来た。

さて、オークションの結果である。落札した。作品画像を紹介する。よく見ると、展覧会場写真にある⑦【婦人坐像】1929(20〜30号?)と瓜二つである。⑧は⑦のエスキースに違いあるまい。

 ⑧仮題【西洋婦人像】1929(12号)

参考までに、この時期の伊原婦人像のモデルの表情を並べてみよう。みな、伊原が言うところの「単純な中に落ちついた品位と、常套でない感情とを漂わせ」ているように思えるのだがどうだろう。

【白衣を纏える】1928 ②【青衣婦人像】1929

⑧仮題【西洋婦人像】1929  【椅子によれる】1929

最後に。繰り返し伊原宇三郎を取り上げてきて気になっていることがある。伊原宇三郎の画業を総覧する本格的な画集が刊行されていないのだ。何とも合点のいかないことである。「何とも致し方がありません。」ではすまされないと思うのである。

本稿は、作品画像ほか多くを1984年徳島県郷土文化会館、1994年目黒区美術館、徳島県立近代美術館開催の伊原宇三郎展図録から教示いただいた。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】清水多嘉示 その2 滞欧人物画、モデルはソニア?!

以前、本コラムで彫刻家&画家の清水多嘉示(1897・明治30年〜1981・昭和56年)の渡仏(1923・大正12年3月〜1928・昭和3年4月)前後の生写真を紹介した(2021年5月、6月)。今回は、その清水の滞欧作品を紹介する。油彩画の方である。清水は絵画、彫刻の両部門で同時にサロン・ドートンヌに入選した初の日本人である(1924年)。帰国後しばらくは絵画作品の展覧会出品が多かったが、やがてブールデルの良き弟子として彫刻の道を歩んだ。創設に参画した(1929年)帝国美術学校(現武蔵野美術大学)では絵画彫刻双方の授業を受け持ったようだ。人工に膾炙した作品【みどりのリズム】1951年作は上野公園に設置された彫刻である。しかし、清水の絵画に対する評価も非常に高い。同時代の美術評論家柳亮は清水の展覧会図録(生誕110年記念エコール・ド・パリ清水多嘉示の絵画彫刻展、三越名古屋栄店、2007)で次のように書いている。

(quote)それにつけても私が恨みに思うのは、帰朝後は段々彫刻の方へ重心がかかり、絵画からは去るともなく遠去かってしまったことで、そのため絵画の領域で清水がかつてフランスで見せた抜群の技倆が、日本では周知される手だてを失ったまま今日に至ったことである。(unquote)

彼が最も多く絵画作品を残したのは渡欧時代であり代表作も滞欧作品にある。サロン・ドートンヌ入選作は風景画が多い。しかし、前出の柳亮は人物画について多く語っている。再び引用する。

(quote)清水は・・・色に対して鋭敏な感受性をもった画家で天与のものといわなければなるまい。私の脳裏に焼き付いて離れないのは・・・モデルの娘が身に着けたピンクの服装の美しい色合いである・・・背景の木立の緑と照応して醸し出すさわやかなリズムの二重奏には・・・賛歌が唄われているように思われた。・・・色彩の美しさが端的に目につく。だが・・・娘の表情とか・・・坐ポーズでさり気なく腰をひねった肢体のしなやかなつかみかたには、フォルムに対する彫刻家の鋭い観察の眼が光っていると私は感じた。(unquote)

 仮題【裸婦ソニア】1927(フランスサイズ10号)

さて、私の持つ清水多嘉示作品も人物画である。当初の画題は不明だ。当時の滞欧日本人画家にはそれぞれ気に入りのモデルがいて人物画作品(特に女性)には同じ顔立ちが多い。例えば中村研一のターニャ、佐分真のアリスがそうだ。藤田嗣治はユキやキキがよく知られている。そこでこの裸婦像のモデルは誰なのか調べてみた。まず、気づいたのは図録掲載の清水の絵には裸婦像が少ないことだった。彫刻作品には多くの裸婦像があるので意外だった。年譜などに依って、ソニアという名のモデルだとわかる。ソニアは二人いたがそのうちの一人だ。本作を、残されているソニアの写真や他作品と比べてみた。彼女は苗字がわかっているソニア・シャロピーではなく、苗字不詳の方のソニアだった。同定した決め手は、フランスで清水と親しく交流していた児島善三郎(1893年生まれ)の作品【立てるソニア】1927年作である。

ソニア  児島善三郎【立てるソニア】1927

顔立ち、髪型、更に腰から臀部にかけて大きく張った体形から、清水裸婦像のモデルもソニアに違いない。【立てるソニア】は児島の滞欧時代の代表作の一つであるが(神奈川県立近代美術館所蔵)児島は清水からソニアを紹介されたようだ。因みに清水が帰国後の1929年第10回帝展に初出品した絵画【憩ひの読書】1928年作のモデルはソニアである。展覧会図録には彼女がモデルとわかる作品が数点あった。

【憩ひの読書】1928  【緑衣の少女】1927

当該作品を観てみよう。やや腰をひねり両手を一方の体側に寄せた清水お好みのポーズである。児島善三郎も「見返り」がソニアの体形を美しく見せる姿勢だと感じていたのだろう。裸体画だけに線は身体の輪郭を示すだけだが明解な一本の連続線ではない。左腕の、胸部と腹部を仕分けて二の腕から前腕を浮き出させる部分、左乳房内側の部分はノミの彫り残しの淵のようだ。筆触による面取りと橙一色の濃淡で肌の起伏を示し背景の暗緑色一色と相俟ってそれを補強している。そしてソニアの、アンバランスといってもいい程の腰と大腿部が観る者を圧倒して来る。この作品は、前出の図録が「この年は清水の6年に亙るフランスでの制作活動の中でもエポックメーキング的な年」と書いている1926年から、ソニアを多く描いた27、28年にかけての制作だろう。彫刻家にして画家、多嘉示ならではの筆致である。仮題【裸婦ソニア】1927年作としておきたい。なお、画面左下に「Shimidzu」の署名がある。蛇足ながら同時期、同じ場所に住んでいた同じイニシャル「T.S」の清水登之と見分けるのに重要だ。

   仮題【裸婦ソニア】署名部分

帰国後の清水多嘉示は、1940年以降官展系の新文展、(戦後)日展に毎年彫刻を出品するが、絵画は戦時特別展1944年までの5回だけだった。柳亮ならずともその画才を堪能出来ない事をつくづく残念に思うのである。

(追記)

2021年5月31日付けコラム【清水多嘉示 その1 渡仏前の生写真】で川上茂旧蔵アルバムについて書き、その後(増補)として武蔵野美術大学黒川弘毅教授のご教示を紹介した。

  

同氏から武蔵野美術大学彫刻学科研究室刊「清水多嘉示資料論集1」(2009年)、「清水多嘉示資料論集Ⅱ」(2015年)を贈呈いただいた(冒頭、画像参照)。Ⅱ所収のレゾネをcheckしたが、アルバムに貼付されていた【婦人像】、本コラムの(仮題)【裸婦ソニア】の画像は見当たらなかった。青山敏子氏(多嘉示の三女)、八ヶ岳美術館特別研究員井上由理氏も交えてアルバムを見ていただき、婦人像は後の多嘉示夫人今井りんさんの肖像画か否か、解明を期待している。

 りん、多嘉示、川上茂?、西岡瑞穂(1922年)

 多嘉示?【婦人像(今井りん像?)】   今井りん(1925年頃)

本稿執筆にあたり、文中で記載した図録の他に、「清水多嘉示彫刻絵画自選展図録」日本橋三越1971、「青春のモンパルナス 清水多嘉示滞仏記」井上由理氏2006、に多くを教示いただいた。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】小寺健吉 1920年代 2度の渡欧・「巴里郊外」2点

近代日本洋画の1920年代から1930年代制作の絵をFOCUSして来ている。これまでを振り返って見ると、取り上げた画家は何度か掲載した1927・昭和2年3月22日にパリで開催された大久保作次郎(1890・明治23年生まれ)送別会の集合写真にかなり写っている。ここにいるのは洋画家だけで30人を超え計41人、当時の日本人画家の、のみならずエコール・ド・パリを代表する一人でもある藤田嗣治(1886生)を頂点とする集団といえるが、本コラムにその名前を記した人物は18人を数える。

  (写真の人名比定は「青春のモンパルナス」2006井上由理氏に依る)

写真の左端、ビッグボス藤田に肩を抱かれているのが小寺健吉(1887・明治20年~1977・昭和52年)である。一目見ただけで風貌や姿勢などから藤田とはタイプが違うのがはっきり分かるのが面白い。年齢も美校卒業も藤田の一つ下である。美術評論家の柳亮(集合写真にいる)が小寺の卒寿記念画集(1977日動出版)にこう書いている。

[小寺は岐阜県大垣の生まれで(水谷註:成育地は宮城県石巻)美校を出たのは明治44年、同級生には大野隆徳、富田温一郎、横井礼市、山口亮一等、不思議に彼と同質のヒューマニストが多く在籍し、一級上級の長谷川昇、藤田嗣治、近藤浩一路、田辺至などの秀才クラスとは、肌合や気質の点でも対照的だったといわれている]

因みに、一級下のクラスは片多徳郎、北島浅一、佐藤哲三郎、三国久、御厨純一、等を輩出し「銀会」「四十年社」「第一美術協会」を次々に立ち上げて積極的な団体活動を行っている。初の在野彫刻団体「構造社」の主要メンバー斉藤素巌、神津港人もいた。萬鉄五郎、栗原忠二も同期である。上下を才気溢れる活発な連中に挟まれていた感がある。

同画集に夫婦の肖像画が収録されている。人となりが伝わって来るので紹介したい。彼はこの本が刊行された4か月後に90年の生涯を終えた。

  

【二人像】1974(画集掲載) 「自筆署名」(卒寿記念画集添付)(1977)

板倉鼎顕彰活動の一環で鼎が接した画家達の作品を蒐集しているが、小寺健吉はその一人だ。大久保送別会参加時は2回目の渡欧中だった。彼は住んでいたムードンで行きあった板倉鼎夫妻を自宅に招いたり(1927年4月14日)、鼎宅を訪れて制作中の絵を誉めたり(同年8月24日)した近しい先輩だからだ(「板倉鼎・須美子書簡集」)。ムードンでは近隣に多くの日本人画家が居て[小型の日本人村となり、私が年長のため(註:40歳)村長の異名を貰うことになった]と、画集収録の自叙年譜に書いている。弟廉吉、佐分真の3人で画家中山正實が帰国した後のアトリエ付き一軒家に住んだ。のどかな所のようで佐分がエッセイに述べている。

[あるか無きかの風にアプリコの白い花がほろほろと散る。牛がモウと鳴く。『あゝ牛が鳴く、君、牛が鳴くよ』とK氏が云ふ。・・往昔三十と云へば既に一國一城の主だ。それが今更牛がなくと云って感心してゐる。いはむや大先輩のK氏に於てをやである。誠に天下は泰平だ。](佐分真1931「滞佛断篇」)

いうまでもなくK氏は小寺健吉である。

次の画像は、1966・昭和41年7月から3か月間の欧州再訪時(79歳)の作品。センチメンタルジャーニーだったのだろう。豊かな彩りと小寺らしい事物の造形が滋味円熟味を帯びて心地よい仕上がりになっている。同年10月、パリで藤田嗣治に最後となった面会をしている。

  

【ムードンの家々】1966     【レザンドリー風景】1966(共に画集掲載)

さて、小寺の最初の渡欧は大久保送別会の5年前の1922・大正11年だった(35歳)。近藤浩一路、鈴木良治と同行した。既に文展5回、帝展2回の入選実績ある中堅画家になっていた。その頃の風景画が1点ある。

 

【巴里郊外(セーヌ下流)】1922〜23(3号)   ボード裏面

小寺自身が執筆した前出の画集年譜1922年の項に「(しばらくパリ市内にいた後)セーヌ下流のビヤンクールに移転した」とありその辺りの風景と思われる。本作を観た第一印象は、イメージとして持っていた小寺作品とはかなり違うものだった。お土産絵だろうと思うが、小寺の1回目渡欧時の作品はなかなか見つからないので、取り敢えず入手して調べてみた。

年譜は更に「河畔の並木道や河中の中の島など右も左も画趣に富んでいた。それらの作品は今日所蔵者から集めることは困難である。・・・幸い多少残った写真を複写して画集に載せることにした」とある。比べる同時期の作品は見つからず、本作は小品、画集画像は大作白黒版で肝心の色遣いがわからない。筆致が2回目渡欧時の作品とは違い、点描や細部描写が無くストロークが長目の線を多用していることがわかる程度だ。入手作は実作かどうか確信が持てない。

  

【白壁の家(巴里郊外)】1922     【丘の家(巴里郊外)】1922

既出の柳亮の評伝を読んで小寺の絵の変遷を知ることが出来た。

[美校での岩村透の西洋美術史の講義は印象派で終わりをつげ後期印象派にまでは及ばなかった。小寺が渡欧する時にはマチスの名前ぐらいは知っていたが、ボナールもブラマンクもドランもその存在はまるで知らなかったと言っている]とある。画家の名も知らないまま、初めて観るポスト印象派やそれに続いた新潮流の絵画作品は生の実物だったのである。柳は[彼がもっとも心惹かれたのはボナールの色彩の輝かしい美しさであった・・・ヴラマンクの影響を受けてプルッシャン・ブルーを取り入れたこともあったが、天成のカラリストである小寺は永くはそこに止まらなかった]。

続けて[小寺の第二回目渡欧で・・・彼を最も魅了したのはパリの装飾美術館に陳列されているタピスリー(ゴブラン織りの壁掛)であった。・・・古色を帯びた色調や素朴な表現様式が彼の心を惹きつけ・・・彼の色彩に微妙なニュアンスを与え色の深みや巾の増大に大きく役立ったのである]と書く。小寺はその頃からしばらくの間、緻密な細部描写が施された装飾的な着想画や、重厚な筆触が残る本格的な人物像を描く。

  

【南欧のある日】1928           【水辺】1929

2回目の渡欧は1927年1月、佐分真と共に渡仏した。同年11~12月、佐分、片岡銀蔵、一木隩二郎と4人でイタリアに出向く。この旅行時ソレントでの写生を基にした「南欧のある日」が帰国後の1928年第9回帝展で特選となり、翌年の無鑑査出品に「水辺」を発表する。共にコブラン織り影響下の典型作と言えよう。柳は[これらの大作はある時期の小寺芸術のピークをなすものとみてよかろう]と書いている。

本篇の題にした「巴里郊外」の2点目は、その2回目の渡欧時1927~28年の制作である。描かれた事物が括り出されたかのような造形になっているのはコブラン織りの時代の画風だろう。緑系一色に赤茶と白が点在するだけの色彩構成だが5月の新緑が薫って来るようだ。注目すべきは単色の色遣いに巧みさを感じさせる点だ。本作は、帰国後、続いて完成期に入った戦後の、濃淡の深みがある複数の色を駆使するカラリストの風景画へ至る起点になっているように思える。

  

【五月の巴里郊外】1928(15号)    (左から小寺、佐分、片岡1927)

コブラン織風作品で画壇的な地位を確立したのを一区切りとして、以降は平明で穏やかに移ろう色が美しい平面的な写生画や、俯瞰図であっても箱庭のような親しみのある風景画に転じる。小寺の後半生の画風を確立して行くのである。先に挙げた欧州再訪の絵はそれだ。私が小寺作品について抱いていたイメージはタピスリー時代以降の作品についてであった。長寿を全うしただけに同系統の多くの作品が残されている為でもあった。

  

【首飾りの娘】1928(画集掲載) 【写生する少女】1933(画集掲載)

  

【芦ノ湖】1939(画集掲載)    【杭州西湖】1944(画集掲載)

  

【村の人たち】1950(画集掲載)   【雪の町夜明け(蔵王)】1961(画集掲載)

【森の秋】1971(画集掲載)

時系列で画像を並べてみた。

通覧して思うのは中沢弘光、山本森之助、石井柏亭、南薫蔵と続いた本邦写生画の流れが小寺や三歳下の大久保作次郎までで跡切れ、以降質的な変化が起こった点。彼らは官展アカデミストだったが、10歳近く歳下の同系統の世代、フォーヴ系の世代が欧州絵画の古典を見つめ直し新潮流と格闘したのとは異なる画風の推移、確立であり、渡欧体験だった。

事の是非を問うのではない。最近の絵画傾向をも併せて鑑みて、小寺健吉の絵を懐かしく感じるのである。

本稿は、「小寺健吉画集」1977日動出版、から画像をはじめ多くを教示いただいた。

文責:水谷嘉弘

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