【近代日本洋画こぼれ話】伊原宇三郎 その4 仏エトルタ海岸 連作5点

伊原宇三郎は1920年代後半の滞欧作品群と1960年前後数年の制作が画業のピークを形成していると【伊原宇三郎 その3】で書いた。続けて、
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1956・昭和31年に27年ぶり、二度目の渡欧、フランスに10ヶ月滞在して現地制作を行う。帰国後は60年代半ばから日本全国に写生旅行に出かけて多くの風景画を残した。これらの風景画群は巧みなデッサンに裏付けられた円熟した仕上がりになっている。ただ戦前から戦後にかけての構築度の高い描き込んだ表現とは趣きが異なる印象がある。
(unquote)、
とも書いた。
その風景画群の中に(日本の風景ではないが)1971・昭和46年作の完成度の高い優れた作品がある。エトルタの海岸風景である。1971年第3回改組日展に出品した【黒い船(エトルタ)】は50号の大作だ。


第5作目【黒い船(エトルタ)】1971(50号)図録画像

エトルタはフランス北西部ノルマンディー地方のイギリス海峡に面した海岸町である。対岸のイギリス側と全く同じ石灰岩質の白い岸壁が長く続き波で削られた奇観で知られた。1860年代には観光地として賑わうようになる。モーリス・ルブランのアルセーヌ・ルパン小説「奇巌城」の舞台にもなった。伊原作品の遠景に描かれているくりぬかれて象の鼻のようになった所は「アヴァルの門」と呼ばれる。フランス近代画家も訪れヴーダンやクールベが描いているが、クロード・モネは75点(現存)もの作品をシリーズで残した。我が国でも島根県美術館、アサヒビール大山崎山荘美術館が所蔵しているが、ここでは昨年(2021年11月)の三菱一号館美術館「イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜」に展示された【エトルタ、アヴァルの崖】の図録画像を添付する。


モネ【エトルタ、アヴァルの崖】1885   川口軌外【風景】1926

本邦の画家では川口軌外(1892年生まれ)が1926年8月に2週間余り避暑のため滞在して市街地から東に見えるアモンの崖を描いている。モネや伊原の絵は西を見た景色である。この時、川口に同行したのが清水登之(1887生)と伊原宇三郎だ。伊原は初めてのエトルタ訪問だったと思われるが、気に入ったようで生涯三度の渡仏時にはすべてエトルタを訪れ制作した。冒頭の画像に第5作目、と記したのはそれ故である。


第1作目【フランス・ノルマンディー・エトルタ】1926~27(20号)  第2作目【エトルタ海岸】1926〜27(60号)   共に、図録画像

第1作目はオーソドックスな絵だが、第2作目は伊原には珍しい描き方である。きっちりとした構成とモチーフの持つ明解なイメージを伝えてくる彼の画風とは違う。が、そのころ群像図を手掛けていて残されている習作3点を見て合点がいった。習作は室内における群像図で各人物の姿勢、物の配置と相互関係などを検討している。それと通じていると気付いたのだ。海辺で作業する漁師とその妻たちは向きが左右に、立ち姿と前屈み姿といった異なるポーズをとっている。船上にも人はいる。砂浜には多くの物が散在している。手前に腰掛けている人物は画面構成上からの配置と思う。その観点から見れば60号の大画面にフラットに散りばめられた数多い素材が軽妙な雰囲気を醸し出している。伊原の異色作であり帰国後1933年作の【トーキー撮影風景】につながっていく。


第4作目【エトルタ海岸】1956(8号)図録画像

第4作目は戦後の落ち着いた時期(1956~57)、ベネチアビエンナーレ出席を終えてのフランス再訪は、ノルマンディー、パリ、南仏ヴァンスに10か月滞在して多くの風景画を描いた。この作品は静かな佇まいの旧いエトルタの街中からアヴァルの門を遠望している。色調は落としてあり約30年ぶりのセンチメンタルジャーニーの想いがあるからか、懐かしさを覚える絵である。子息が書いた伊原の年譜には「フランス滞在が新鮮な刺激となり、肩書・役職から離れ絵に専心しようと決心する」とある。エトルタ図3作が描かれたのは、まさに画業のピークを形成していると書いた二つの時期だった。

そして訪問三度目、第5作目が初めに紹介した画像である。では、第3作目は? 第5作目には連作と思われる作品が在って私はそれを所蔵している(冒頭画像)。ふたまわり小さい15号である。キャンバス裏に日仏両語で「仏蘭西西北海岸ノルマンディー地方エトルタ海岸 Plage d`Etretat Normandie France」と伊原が自署している。フランス人が書いたと思われる「Plage d`Etretat (no2)」紙片が別貼りされている。


第3作目【黒い船】1926〜27(15号)


キャンバス裏面

連作と書いたように両作はほとんど同じ風景、構図である。アヴァルの門を背景にして画面中央右端の二本柱の小舟、真ん中の赤い船縁の黒い中型船、二艘の船の間に置かれた小舟とそばに佇む漁師に至る細部まで一致する。50号作品には中央から左にかけて白い縁の船と同じく白い小舟が描き加えられているが、これは大型画面が殺風景になるのを避けるべくモチーフと色彩を付加したものと考える。

私は、この連作作品の15号の方を同じ図柄を描いた三度目の1971年渡欧時ではなく、第1、2作目と同じ時期、1926~27年に描いた第3作目と比定した。1930年協会第5回展出品作である。画題は【黒い船】だ。根拠がある。同展(1930・昭和5年1月東京府立美術館)の伊原出品リストと会場写真である。出品リスト48点の中に#231【黒い船】、#261【ノルマンディーの海岸(エトルタ)】の2点がある。そして来場した清水登之夫妻らと5人で撮影した会場写真の背景に同作と思われる絵が写っている。添付写真を参照されたい。右側長身男性(鈴木亜夫)の背中越しに写っている絵は15号の【黒い船】のように見える。

第5作目が【黒い船(エトルタ)】と題されたのは同じ図柄の第3作目を継承したからではないか、と考えられる。

他に、状況証拠だが、キャンバス裏面の状態、貼られた紙片、と画風が挙げられる。紙片の最下部は「エルネスト クレッソン」と読める。当時伊原はパリ14区のエルネストクレッソン通りに住んでいた。キャンバス枠、裏地の状態(修復跡がある)は1971年製というより90年以上経過した劣化と思える。またこの頃、伊原の画風は印象主義から新古典主義への転換期にあり描き方のレンジが拡がっていた。本作はまだ印象派風の筆触がありやがて量感のある人物画に移行して行く。1971年作のような平明感(図録画像によるが)は希薄で、描かれた物が存在感を発している。

最後のエトルタ作は第1、2、3作目から44年経っていた。絵には拡がりがありすっきりとして第3作目とは違う印象だ。同じ風景が重厚感から清澄感に転じている。77歳の洒脱味、達観が成せる技かもしれない。生涯の決定版といえる第5作目は1971年第3回改組日展に出品される。それが伊原の長い官展キャリアの掉尾を飾る記念碑的佳作となった。

第5作目完成のあと伊原は体調を崩し1976・昭和51年1月、81年の生涯を終える。作品発表の場は、美校同期、前田寛治の誘いで出品した前出の1930年協会第5回展(1930・昭和5年)を除き帝展、新文展、日展と一貫して官展系の展覧会であった。

伊原がエトルタ風景を描いた作品は他にもあると思われるが、本稿では展覧会図録で確認出来たものを取り上げた。また作品画像ほか多くを1994年目黒区美術館、徳島県立近代美術館開催の伊原宇三郎展図録から教示いただいた。

文責:水谷嘉弘

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