【column】安井曾太郎こぼれ話 作者は誰だ?

或る画廊に入った途端、12号の油彩画が目に飛び込んで来た。林間水辺の群像図である。入荷間もないらしく店主の側の壁にキャンバスのまま立て掛けてあった。誰の作品か問うと「未完成、何かの習作のようで署名はない。キャンバス裏面に日動画廊のシールが貼られていて安井と書いてあるが・・・」との返事。確かに、塗り残しはあるし細部に手が入っていない。ただ自分が知る限りでは安井曾太郎の作とはとても思えなかった。しかし、群像5人の構図がよく、人物の描線に味があって一目で気に入ってしまい即頂くことにした。以下、作者について推理する。

本作を見てまず思い立つのが、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(1824年〜1898年)である。黒田清輝(1866年〜1924年)がフランス留学中の1893・明治26年3月にアトリエを訪ねて以来、近代日本洋画へ大きな影響を与えた。藤島武二、青木繁はその構想画に装飾性を学び、児島虎次郎はその作品三点を大原美術館に収蔵する。里見勝蔵はシャヴァンヌの素描を愛蔵していた。少し後の世代、板倉鼎は1927年3月の松戸の実家宛の手紙に「パンテオンと云ふお寺へシャヴァンヌという人の壁画を見にまゐりました」と記している。シャヴァンヌは壁画を得意としたが、本作も画面上部が半円で区切られており、底辺部真ん中の果物籠は壁画の題名パネルを嵌め込む部分になるのかもしれない。

次に連想したのが斉藤与里(1885・明治18年〜1959・昭和34年)だ。与里は現在の埼玉県加須市生まれ。20才の時(1905・明治38年)画家を目指して京都の聖護院洋画研究所・関西美術院に入り、浅井忠、鹿子木孟郎に学ぶ。同門に3歳年下の安井曾太郎、梅原龍三郎がいた。1906年鹿子木についてパリへ渡りジャン・ポール・ローランスのアカデミー・ジュリアンに入学する。本作に通じる一連の作品を並べてみた。

斉藤与里作品 (左から)

【木蔭】1912(明治45・大正1)年作・第1回フュウザン会展出品 【第2回フュウザン会展欄間装飾画】1913年作

【朝】1915年作・第9回文展初入選 【収穫】1916年作・第10回文展特選

本作の作者は与里作品を観たに違いない。1910年代後半から20年代半ばにかけて日本国内での制作だと思う。フランス留学経験者で既に当地でシャヴァンヌを観ていたとも思う。画面はフラットで装飾性を帯び、構想画を意識しているからだ。当時全盛だった主観主義的なポスト印象派やフォーヴを指向する若手ではあるまい。彼らはまだフランスに旅立っていない。本作は習作とはいえ完成度が高く筆致がこなれている。すっきりとしたモデリング、線描が巧みで姿態に動きもある。

こういった見立てを安井曾太郎(1888・明治21年〜1955・昭和30年)の経歴と照らし合わせてみた。1904年、18才で聖護院洋画研究所入所。1907年、渡仏する。斉藤与里がマルセイユまで出迎える。安井もアカデミー・ジュリアンに入学。与里は翌年帰国するが、安井は同校で勉強を続け、日本人で初めて校内コンクールで優勝する。それまでの日本人最優秀は与里の第12位だった。1914・大正3年、第一次世界大戦が勃発し帰国する。翌年、第2回二科展に滞欧作44点を特別出品し注目されたが、この後10年以上のスランプに陥る。二科展への出品は続けるが、作画上の模索を繰り返し話題になることも少なかったようだ。西欧と本邦との風土の違いから表現に苦悩したといわれている。この間、1919・大正8年9月に斉藤与里、梅原龍三郎と共に兜屋画廊主催洋画展の審査員を務めている。1929・昭和4 年に発表した【坐像】と翌年の【婦人像】が安井様式の誕生を告げ以降大家への道を歩む。京都国立近代美術館館長を務めた富山秀男氏はこう書いている。

(帰国後は)作画上の模索と低迷を経験しなければならなかった。(中略)僅かな期間に作風が幾転変したのもその間の模索と苦闘の激しさを物語っている。一時はドランやボナールなどの作風に惹かれたような時期もあった。すなわち形体や色彩の関係を単純化してみたり、また逆に紫色などを混ぜながら、暖かく柔らかい色調で全体を緻密にまとめ上げるような試みも行っているのである。

 

安井曾太郎作品

左上【水浴】1914年作 左下【夫人の像】1918年作 右上【黒き髪の女】1924年作  右下【樹蔭】1919年作

本作が描かれたと思われる時期は帰国後の安井が模索していた頃に重なる。1919年作の【樹蔭】は林間の裸婦群像図でテーマは類似するが印象がまるで違う。きっちり描き込んであり重厚感溢れる。人体表現も肉づきがよい。様々に試作し、後年のしなやかで流麗な描線を獲得する過程で描いた、と理解しないと本作には繋がらない。

 

キャンバス裏面に貼られた日動画廊のシールは昭和戦前期のものらしい。日動画廊に当該部分の画像を送って訊ねてみた。親切に対応していただいた。その返事はこうだった。「戦前のシールと思われます。ただ、当社ではシールをキャンパス地に直接貼ることはしません。木枠か額裏に貼ります。副社長に確認しましたが、シールの字体は先代では無いとのことでした。」日動画廊の創業は1928・昭和3年、本作制作(と思われる)時期とは時間的な乖離がある。シールは表面が素である上部端に貼られてはいるが・・・

現役の画家にこの絵を見せて感想を聞いてみた。「とても上手だ、左端の人物が持つ平籠に入れられた赤い果物の画き方が絶妙。」と言う。

状況証拠的には、画学校、パリ、交友、等などシャヴァンヌ―斉藤与里―安井曾太郎を結ぶ線は太い。本作の作者はその周辺にいた人物と考えられないだろうか。日動画廊シールの「安井」も、故なしには記されないと思うのである。佳作であることは確信するが、作者については推理を重ねるばかりで埒が明かない。本稿を読まれた方の知見、ご意見を教示いただきたく、よろしくお願い申し上げる次第です。

(文責:水谷嘉弘)

 

 

 

 

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