第8期運営体制のお知らせ

当社団法人は9月30日に第7期事業年度を終え、先日、定時社員総会を開催いたしました。今期も前期と同様の役員陣で運営にあたります。

代表理事・会長 水谷嘉弘 博物館学芸員資格者
理事 高橋明也 東京都美術館館長
理事 水川史生 共立女子大学教授
監事 園井健一 公認会計士・税理士

第7期事業報告(2024・10・1〜2025・9・30)

第7期は、前第6期における千葉市美術館開催の「板倉鼎・須美子」展の後援、代表者水谷の美術エッセイ集「板倉鼎をご存じですかーエコール・ド・パリの日本人画家たちー」の出版などが奏功し、当法人の板倉鼎、須美子顕彰活動の実績が認知されたこともあって広範囲な活動を行うことが出来た。シンガポール国立美術館で開催された展覧会「City Of Others: Asian Artists In Paris, 1920’S−1940’S」展 (以下、COO展)には板倉鼎の作品2点、板倉須美子の作品3点が展示された。

(1)板倉鼎の顕彰、社団法人の認知に資する広報活動(水谷の講演、執筆等)

・コールサック社出版記念会でのスピーチ 同社から出版したエッセイ集の自著解説(2024年12月)

・豊田工業大学大学院での講義 修士課程1年生を対象とした「リベラルアーツ」講座(2025年5月)

・COO展報告会実施 千葉県立美術館貝塚健館長、千葉市美術館山梨絵美子館長はじめ両館学芸員に対するレクチャー。COO展訪問エッセイとスライドショーをテキストに用いた(2025年7月)註:当該エッセイ【シンガポール国立美術館訪問録 ―アジアからパリに渡ったエトランジェ達の展覧会―】は本HP、メニュー[ GALLERYーBOOKS ]に掲載

・季刊文芸同人誌「まんじ」に「エッセイ集「板倉鼎をご存じですか―エコール・ド・パリの日本人画家たち」出版こぼれ話」など美術エッセイ4篇を寄稿

・季刊文芸専門誌「コールサック」9月号に「シンガポール国立美術館訪問録―アジアからパリに渡ったエトランジェ達の展覧会―」を寄稿

・神田神保町の月刊タウン誌「新・本の街」9月号、10月号に「美校・官展アカデミズムの系譜 板倉鼎と田辺至・伊原宇三郎」を寄稿

・東京藝大同窓随想集「a-can-thus」第2号(2025年2月発行)に「「ビジネス発・アート着」続行中」を寄稿

(2)美術界関係者との往来 ~ 美術家や美術館館長・学芸員、ギャラリー・画廊と往来して美術界人脈への展開を図った

・茨城県近代美術館(2024年11月)中村彜展への展示資料提供

・相武常雄氏(金工作家) 公益財団法人日本サッカー協会田嶋幸三名誉会長への三足烏オブジェ贈呈をアレンジ(2025年2月)

・東京国立近代美術館(2025年3月)板倉鼎「休む赤衣の女」が近美に寄託替えされ新収蔵品として展示された。小松弥生館長を表敬訪問

・シンガポール国立美術館(2025年5月)COO展訪問、Director&Curator堀川理沙氏の案内で観覧

・中村研一・琢二生家美術館(2025年6月)中村嘉彦館長を表敬訪問

・入江観氏、中林忠良氏、野田哲也氏、柳澤紀子氏、岸田夏子氏、山中現氏、等著名な美術家の個展、会合に出席して交歓

(3)社団法人ホームページの充実と活用

社団法人ホームページに各種情報、エッセイ「近代日本洋画こぼれ話」をUP、記録として残る広報活動に注力した。シンガポール国立美術館COO展情報など当事業年度にUPした回数は18件

今期(第8期)も第7期までの活動経験と実績をベースに、引き続き認知されつつある板倉鼎・須美子の顕彰活動を実行していきます。よろしくお願い申し上げます。

代表理事・会長 水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】川島理一郎 その5 秀作 ワット・ポー寺院の尖塔(タイ・バンコク)、その他

(冒頭画像は、川島理一郎画集 日動出版1973、年譜タイ作品掲載頁から)

川島理一郎について5篇目を書くネタが出来た。1941・昭和16年のタイ訪問時に描いた作品を入手したためである。川島の画業における第3次ピーク期間に属する。

川島の昭和戦前、戦中期の画業ピークは3回あると見立ててきた。第2次(1933~36年)と第3次(1936~43年)は時期的に連続しており、1936年晩春から初秋にかけて日光に5か月滞在して個展出品作を制作した頃が転換点となっている。第2次の革のような濃厚でつややかさを湛えた画面から展開して、第3次は彼がエッセイ集「緑の時代」1937に書いた日光での”水流への凝視”から生まれた流れるストロークが快い明るい色調となった。

【ワット・ポー寺院の尖塔】12号  【聴鴻楼(西太后旧居)】12号

こぼれ話川島篇の4篇目に中国、北京の頤和園に取材した【聴鴻楼(西太后旧居)】1938(12号)を取り上げたが、本篇はタイ、バンコクの仏教寺院を描いた【ワット・ポー寺院の尖塔】(12号)である。両作は同じ号数、色調、筆致、絵具で描かれており兄弟作のようだ。観た時の爽やかな印象も同じ。背景の青が目に鮮やかだ。

川島は、紀行文とそれに付属するスケッチの多い画家で雑誌等に発表するだけでなくエッセイ集として刊行している。1938・昭和13年陸軍省嘱託となって5月北京、翌39年1月広東、10月大同を訪れたが、これらは1940 年7月刊行の「北支と南支の貌」龍星閣にまとめられた。続いて41年と42年にタイ、43年にはフィリピンに行ったが、残念ながらこの時の紀行は出版されなかった。戦争が激化したためだろう。雑誌「みづゑ」440号(1941年6月)と「新美術」17号(1942年12月)に、インドシナのスケッチが8点ずつ載っている。綿密に描き込んだ秀作が多い。前者に【ワット・ポー寺院の尖塔】の下絵となったスケッチ(同題)が掲載されているので自身が添えた解説文とともに紹介する。

【ワット・ポー寺院の尖塔】デッサン(雑誌画像)

[泰国所見 ワット・ポー寺院の尖塔 泰国の建築は印度風からビルマ式に遷り、漸次シャム化されたのであるが、之等の塔はビルマ式と云ってよいものである。この多くの舎利塔は歴代五族を祀ったものである。(みづゑ440号)]

タイに取材した作品群は1941年9月、銀座資生堂ギャラリーで開催された「泰国風景作品展」に出品された。【金とモザイクの回廊】【バンコック・ワット・ポー寺院】【バンコック・印度寺の門】【盤谷風景】等々。現在ミュージアムピースとなっている秀作も多い。【ワット・ポー寺院の尖塔】と同様、雑誌に掲載されたスケッチを下絵とした油彩画も見出せる。

【盤谷風景】【泰国王宮内ワット・プラケオ寺院前】(共に図録画像)

なお、タイ訪問時に描かれた小品(3号)とデッサンがあるので併せて画像を載せる。

【ナコンパットムの王宮】1941(3号)【アユタヤの仏頭】デッサン

本篇まで5回にわたってpainter & travelerとして記憶すべき画業を遺した川島理一郎の前半生、昭和太平洋戦争期の戦前戦中の作品を概観してきた。川島はイズムにとらわれたりスタイルに固執しないことが見て取れる。その柔軟性は人と国に依って価値観が異なる事を熟知した国際経験に起因しているのではないか、筆致の変更による表現巾の確保、マンネリ回避といったバランス感覚が働いているのではないか、と考えるものである。自由な描き方には本邦で美術教育を受けた者にはみられないおおらかさがある。また、川島の三度のピーク時作品を通覧して気付くことは生来の資質であろうリズム感である。彼の素描や油彩画は身体性を感じさせるものが多い。運動神経もよかったのではないかとも想像する。余談だが、風景画には必ずと言っていいほど点景人物が登場しその描写が極めて上手いことにも留意したい。絵筆のonetouch、twotouchで姿形を捉えている。その巧みさは一歳下の北島浅一と双璧だ、と私は見立てていることも付け加えておきたい。

川島理一郎の色と言えば「緑」が定番である。著作も「緑の時代」「緑の感覚」がありエッセイの題にも「緑のリズム」といった按配だ。「緑」を基調とした作品も多い。しかし作品を実際に眺めると「緑」よりむしろ「青」の方が印象的なのである。栃木県美、足利市美で改めて1925年作の【ナポリよりポッツオリを望む】と【リュクサンブール公園】を観て、「青」の使い方に惹かれてしまった。空や海の「青」が画面を大きくし明るくしている。1920年代中頃の第1次ピークから、本篇で挙げた1940年前後の第3次ピークまで、風景画に使われた背景の空を塗る青は美しい。サッと刷かれた「青」がモチーフを引き立てている。川島に「青空を描く」と題したエッセイがあるのも合点が行く(「緑の感覚」淡路書房1947所収)。ニースやヴェニスの空の美しさを述べ、幾枚も描いたと回想し、藤島武二や梅原龍三郎の絵の空の美しさに触れている。昭和戦中期の執筆と思われるが、「緑」にしばしば言及した時期より下る頃だ。戸外風景以外でも赤と緑で構成する【北京卍字廊】では部分的な青が落ち着きと華やかさを演出している。1935年に執筆した「緑の感覚」に次の一節がある。 [マチスを緑の画家と呼ぶことは出来ないが、時に緑をあしらったものを見ることがある。赤の中に縞があったり、黄色の中に緑の点があったりするのであるが、さすがに巧みに緑を利用しているのに敬服させられる] 川島を青の画家と呼ぶことは出来ないが、川島の青は、師マチスの緑に相当しているようだ。

何故、川島は「緑」に拘ったのだろうか?それは「緑」は木々(植物)に代表される生命の色だからだ、と思う。自然美を描く、生き生きした命ある物の躍動感、生命感を描き出すのが川島理一郎の画家としての資質だったと考えている。その延長線上に自然美と人工美(建造物)の取り合わせ、人工美を描く作品が出て来たのだろう。川島理一郎にとって、緑のリズムは生命のリズムだった。

文責:水谷嘉弘

先頭に戻る