板倉鼎(1901年生まれ)がその書簡(1928・昭和3年2月22日)で[出て行った(世間に認められた、の意)]画家として、3人 〜前田寛治(1896年生)、中野和高(1896生)、佐分真(1898生)〜 の名前を挙げている。1920年代半ば(昭和改元頃)、停滞が目立った帝展の活性化に貢献したり、前田が「パリ豚児」と呼んだ当地でフォーヴに魅せられた世代である。
パリから帰国後、この世代の美校出身者は官展系と在野系に別れて活動したが前田の存在が両者を繋いでいた。1930年協会第5回展(1930年東京府美術館)がその典型例と言える。帝展活性化の側は伊原宇三郎(1894生)、鈴木千久馬(1894生)、中村研一(1895生)、片岡銀蔵(1896生)、鈴木誠(1897生)、田中繫吉(1898生),佐分真(1898生)ら。前田が「パリーの豚児」に挙げたメンバーは、中山巍(1893生)、里見勝蔵(1895生)、宮坂勝(1895生)、佐伯祐三(1898生)ら在野系が多い。鈴木亜夫(1894生)田口省吾(1897生)も在野系だ。皆30歳台前半の若き活力ある一団だった。黄金世代と呼びたい。学術的な論文では土方定一が「昭和期美術の批判的回顧」に[(無方針な)写生から離れて][反省的で科学的な造形意識によって構成]されている例として[帝展ならば前田寛治とか中野和高とか、二科展ならば中山巍とか佐伯祐三とか]と書いている。
そんな彼らの滞欧作品が欲しいと思っていた。伊原作品と相前後して到来したのは中野和高だった。今回はこの1枚の小品から話を進めて行きたい。
1)中野和高の滞欧作品【ベニス風景】(1925年作)が市場に出ていた。カンバスボード裏には本人筆の画題、署名とともに「大禮記念京都大博覽會出品 中野和高殿(東京・無鑑査)」と印刷され、氏名が記入された紙片が貼られている。1928・昭和3年9月に京都、岡崎公園他で開催された昭和天皇即位大礼を祝する大掛かりな博覧会である。中野は前年8月に帰国しており滞欧作を出品したようだ。中野の画風変遷を知るため展覧会図録「中野和高とその時代」宮城県美、愛媛県美1987を調べた。カラー図版【ベニス美術学校前ヨリ】がある。【ベニス風景】と制作年、支持体、筆触や色遣いが合致する。中野はこの年2月、1930年協会第3回展にも滞欧作19点を特別出品している。
中野和高【ベニス風景】1925(4号)
2)中野和高は美校の1921・大正10年卒業生だが、この期は俊秀年次である。前田寛治もそうだ。他に首席で卒業した伊原宇三郎、片岡銀蔵、鈴木千久馬、鈴木亜夫(以上、1894生)、田口省吾(1897生)、田中繁吉(1898生)らがいた。佐分真(1898生)も同期入学、病気で卒業が1年遅れた。
田口省吾 仮題【イタリア風景】1929~32(3号)
3)黄金世代、俊秀年次の一人田口省吾は、父田口掬汀が作家で美術評論家、美術雑誌「中央美術」の創刊者でもある。1929年から1932年にかけて新婚旅行を兼ねて渡欧している。イタリア風景と思われる滞欧作品を所蔵しているので画像を載せる。この作品はオーソドックスな美校卒業生らしい描き方であるが、少数派の在野系で帰国後二科会に滞欧作品10数点を特別出品して会員となった。田口は美術誌上の帝展合評会に登場して父親譲りの論客振りを発揮して活躍した。子は内向の世代の小説家高井有一だ。祖父を軸とする明治文化人達の交友を描いた評伝小説「夢の碑」に父省吾を河西珊吾として登場させている。
4)伊原宇三郎や鈴木千久馬と同年の1894年生まれに鱸利彦(すずきとしひこ)がいる。千葉出身で宮崎育ち、鹿児島出身の藤島武二を師と仰いで美校に進んだ。美校卒業年に文展初入選、以降帝展に6回出品、この間1930~31パリ留学する等キャリアに遜色なく典型的なアカデミズムエリートの途を歩んでいる。滞欧作品がある。一見地味だが日の光がさすと画面中央、塀の上から覗く木々の上部や塀部分の色彩、赤黄緑が鮮やかに映え、空や塀の暗色との対比が効果的だ。署名の利彦の下に描かれた、滞欧作にしか確認出来ない名字ゆかりの魚のマークが面白い。
鱸利彦 仮題【サクレクール遠望】1930~31(3号)
しかし黄金世代に属し華やかなキャリアとは裏腹に、鱸は既述したような昭和期初頭の画壇のメルクマールに名前は登場しない。彼は戦後共立女子大教授に就任「一陽会」を立ち上げるが、美校卒業後は高島屋に奉職して商業デザイナーの途を歩んだ事、留学はパリ豚児たちより数年あとずれした事などに起因するのかもしれない。実績からみて画力に不足があったとは思えない。気が付くのは生年こそ伊原たちと同じ黄金世代だが、美校卒業年は俊秀年次より3年早い1918・大正7年という点だ。そしてこの卒業年次には鱸の他に近代洋画史に名を残す者がいないのだ。集団としてのパワーに欠けていたと思わざるを得ないのである。俊秀年次に対する狭間の年次だ。それが鱸の就職や留学遅れの遠因になっていたのかもしれない。現在と違い情報量や勉学機会が限られていた当時は、実年齢に関わり無く学んだ年齢とその時の人脈がその後の活動を決したとも言えよう。この時代を世代論で論じる際の留意すべき事象である。
5)美校同期卒業生という繋がりは単なる交友関係にとどまらず、才能ある者たちが互いに切磋琢磨したがゆえに各人が成長しハイレベルの集団となって初めて「美校同期」として機能した。同一世代にあっても、花の大正10年組、一つ前の俊秀年次(大正5年組)と、狭間の(不穏当な言い方をすれば埋没した)年次(大正6~7年組)を比較するとそれがよくわかるのである。
一方、「美校同期」は卒業後のパリ留学、帝展入選・特選、無鑑査さらに審査員へとSTEPUPしていく画壇エリート群を生み出すvehicleでもあった。それは官展アカデミズムを継承するだけでなく権威の再生産をもたらすシステムとして機能したのだが、ここでは「多士済々集団」であった事実を示すに止める。
文責:水谷嘉弘