1929年(昭和4)9月29日、洋画家・板倉鼎(かなえ)は留学先のパリで28歳の短い生涯を閉じました。大正15年夏にパリに到着して以来、不慣れな異郷で妻子を養い、さらに画業の習得に専心するという多難な生活にもようやく慣れて、一条の光、独自の画風確立の手応えを掴みはじめた矢先の逝去でした。
千葉県、松戸町の医家に生を享け、千葉中学で堀江正章の薫陶を受け、東京美術学校西洋画科に進んで、岡田三郎助、田辺至の指導を受けるや、卒業の翌年渡欧という、まさに画家の登龍門をまっすぐに駆けのぼり、前途洋々たる画業を歩みはじめた途端の病魔との出会でした。
ともにパリにあった美術学校以来の画友・岡鹿之助の尽力もあって、パリの画室に遺された作品はすべて郷里にもたらされ、家族、ことに令妹・板倉弘子の手で、渡欧前の作品と合わせて、今日まで保存されてきました。
板倉鼎の没後75年に、遺された油彩画、膨大な水彩画(下絵)、素描などの中から、油彩88点、水彩画(下絵)20点、素描3点、版画3点、そして、パリでともに描いた妻・須美子の油彩画5点、合わせて119点を選抜し、妹・弘子の「兄板倉鼎の思い出」、詳細年譜を添えて刊行しました。
(美術の図書 三好企画 出版案内より転載)