(冒頭画像は小堀四郎(25歳)美校卒業写真前列中央、後列は左から和田英作、岡田三郎助、藤島武二、長原孝太郎、岡四郎)小堀四郎(1902年生まれ、美校1927年卒業)のフランス留学時(1928~1933)の勉強の流れは同窓藤島武二教室の俊秀、伊原宇三郎(1894年生まれ、1921年卒業)、佐分真(1898年生まれ、1922年卒業)と良く似ている。パリでルーヴルに通って古典作品を観察し、イタリア(ルネサンス)、ネーデルランド(北方ルネサンス)他各国を歴訪し当地の美術館を回って大きな刺激を受けた。ルーヴル美術館で、伊原は新古典派のアングル、小堀はレンブラント、ドーミエ、コローを模写している。佐分と小堀はレンブラントに強く魅かれ、またフランスバルビゾン派のコロー、ドーミエにも学んだ。二人にはレンブラント張り、ドーミエ張りの作品がある。同時代のフォーヴをはじめとする新潮流(美術イズム)には引っ張られなかった。伊原が、小堀の1才年上の同窓(卒業年次は小堀が3年下)パリで客死した板倉鼎(1901〜1929、1924年卒業)の追悼文に書いた[…板倉君は既に日本で十分な基礎的教養があって渡仏後の第一着眼点を十五世紀のイタリールネサンスに置いたらしい。これはなかなか出来ないことである。最初に此古典の洗礼があって次いで色彩構図の科学的研究があり…]は、3人の歩みにも共通する。
相互の関係にも近しい事実が多々挙げられる。後に小堀夫人となる森鷗外の次女杏奴が藤島武二に絵の先生を紹介して欲しいと頼んだ際、候補者として示された4人の名前に伊原、小堀がいた。因みに他の2人は寺内萬治郎(1890年生まれ、1916年卒業)、中村研一(1895年生まれ、1920年卒業)で4人とも絵の上手さ〜デッサン力、構図の巧みさ〜が秀でている。佐分と小堀は同郷(愛知県)で中学(旧制愛知一中)も同じ、実家も名門の素封家だった。小堀が佐分に呼ばれるようにしてフランス語を学んでいたツゥールからパリに移った事、佐分の遺作画集刊行の中心メンバーの一人で最多の作品解説執筆者である事は既に述べた。
ここまで名前をあげた人物は皆、官展アカデミストの系譜に連なる人々だ。小堀四郎の原点がそこにあるのは明らかである。
私が小堀四郎を調べ始めた時、複数冊の小堀図録を取り寄せて通覧し、一番はじめに目に留まり見入ってしまった作品が滞欧時の秀作、風景画【フェスの門】1932と人物画【想ひ】1931であった。しかし、よく観ているうちにそれらは近しい二人の絵とどこか異なっていると気付いたのである。視点は次のようなものだった。滞欧3作を再掲する。
【フェスの門】1932
【想ひ】1931
【フィレンツェ】1933
【フェスの門】の場合。本作は門内から門外への視点で描かれている。似た画面構成となる室内から窓越しに外の風景を描く絵は非常に多い。マチスが代表格であり本邦画家にもしばしば見られる構図だ。これらは窓枠を境にして異なる世界を対照的に描き出し内と外の二元性を示す対比の妙と、構図、画面構成の明解さの2点を獲得している(伊原宇三郎の作品は理詰めで構図が明晰な事が特徴、古典の影響が顕著だ)。境界を示す窓は明彩度の低い巾となるのが一般的だ。しかし小堀作品はどうだろう。室内外ではなく単なる門の内外と言ってしまえばそれまでだが、境界を示す門は内外と同系色、同じ明彩度で仕分け線に見えない。同一次元で画面全体が同じ雰囲気を醸し、静謐で観者の気持ちも穏やかでいられるのである。構図構成はぶれなく確たるものがあるのだが、何かと何かを比べて示すという場面ではないのだ。ここに後年の小堀が写実というより写生的な自然の崇高さを描くに至る予兆を感じる。実の姿を凝視して描く写実ではなく、生の感じを大まかに伝える写生、とでも言えばいいのだろうか。
【フィレンツェ】は小堀ならではのコロー風味の風景写生だ。
【想ひ】は正統で写実的な人物画である。一見して佐分真と同じレンブラント風人物画と思った。しかし見返しているうちにちょっと違うのではないか、と感づいた。レンブラントは光と影、明暗表現の画家である。佐分作品もこれに習っている。沈潜していたり芝居の一場面のようだったりする。だが小堀作品からは劇的な感じは受けない。本作もそうだ。モチーフと背景の色彩は人物を浮き上がらせる組み合わせになっていない。画面全体が同じ圧で静かに思いにふける婦人を写し出している。風景画も人物画も奇をてらわない素直で生真面目な印象は同じだ。
1930年代半ば頃からナショナリズム高揚の世相にあって絵画にも日本的洋画が求められるようになる。単純化、平面化、装飾的な油彩画が出現したが、帰国したのち既に画壇と決別していた小堀はそれらとは無縁の独自のスタイルに入っていった。
1945年8月、終戦を迎える。小堀は戦中疎開した長野県蓼科に制作拠点を移す。10年後、帰京するが1998年に没するまで、たまに東北地方はじめ国内何箇所か訪れたり、イラン・イラク遺跡調査団に同行する(1976年)などの他は、自宅で大型の油彩作品に取り組んでいたようだ。各地に取材した郷土芸能をモチーフにした作品がいくつかある以外は、ほとんどすべてが風景画であり、それも田園風景ではなく自然そのものを描いている。構築物、生き物はほとんど画面に登場せず稀に描いても極く小さい。色彩は自然の豊穣そのままに鮮やかになって行った。画家の目に写った自然の生の表情が主観的な画面に置き換えられ、画面を観る者に崇高や神秘を感じさせる域に行き着くのである。例えば次の3点がある。
【夕焼の星)】1976
【浄寂(雲海)】1981
【冬枯れの美】1986
ではどんなところが敬虔な気持ちにさせられるのだろうか。主な作品を10年毎に取り上げてみよう。
【赫光】1969
【生命の神秘】1979
【二十世紀風景】1988
【赫光】1969 灼熱色にそびえるおぞましい程の岸壁、この世のものとは思えない眺めの中に小さい舟が描かれている。時に豹変する大自然にはなすすべのない人間存在を見せつけられるようだ。圧倒的な自然に畏敬、畏怖の念を抱く。フリードヒの代表作「氷上の難破船」と同一のテーマだ。
【生命の神秘(二)】1979 画家は激しい風雨にまみえたのだと思う。しかし画面は止まっていて幻想的な風景だ。ここにも画面中央に小さい一羽の鳥がいる。大自然と取るに足らない生き物の対比に立ちすくむ。
【二十世紀風景 雲上の暁月】1988 最晩年期86歳時の本作を観た時の直感は、ロマン主義の先の象徴主義更にその先にある抽象表現の領域に入った、というものだった。横線のみで縦の線がないため形態を表す意図はなく、斜めの線もないため消去線が引けず奥行きも描かず、下部の濃い色彩から薄い色へ移ろっていく大気の浮遊感が暗示する不在の表象と感じたのだ。しかし画題を読んでもう一つあると気付いた。1901年に始まりやがて2000年を迎える我が国今世紀の世間心情の移り変わりを示したのではなかろうか、と。国威の発揚と自由で開放的なムードで迎えた今世紀はその後関東大震災に遭い、過剰な拡大指向から軍国主義に陥って戦争を招き、悲惨な戦いのすえ敗戦を迎える。世紀半ばまで暗黒の期間だった。そこから混乱の時を経て復興し活気に満ちた輝ける高度済成長期に突入した。しかし今は歪みが顕在化し翳りが出てきている。この先10年、どうなっていくのだろうか?世紀末、終末には光明、明るい晴れやかな未来を展望していたい…1902年生まれの小堀が自らの生涯と重なる我が国の今世紀の来し方行く末を絵画に置き換えたのではないか、と思ったのである。
小堀は現場でデッサンをしなかったそうである。帰宅して記憶に基づいて制作したという。このプロセスには捨象があり自然を再構成することとなる。結果、「主観的風景画」を描き出したとも考えている。画題がそれを示している。
本稿は、小堀四郎展覧会の各図録、小堀杏奴「追憶から追憶へ」求龍堂1980、から多くを参照させていただいた。
文責:水谷嘉弘