【近代日本洋画こぼれ話】伊原宇三郎 その6 滞欧風景画の秀作 南仏アルルふたたび

伊原宇三郎は1925・大正14年5月、31歳の時、妻しげ子と共にフランスに着く。この年はパリを中心に写生に出かけたりピカソの研究に費やした。翌年2月から3月末までフランス国内を回り多くの風景画を描いた。特に南仏プロヴァンス地方の隣接する都市アヴィニョン、アルルを描いた作品は秀作が多い。以前【南仏アルルの古い街】を紹介した。

【南仏アルルの古い街】1926(8号)

世界界遺産に登録されている古代・中世ローマ帝国の旧都の街並みに触発されるところが多かったのだろう。展覧会図録にも同様の作品が掲載されている。

【アヴィニョンの廃墟】1926

【南仏プロヴァンスの古都アルルにて】1926

新たに同じモチーフの1点を入手した。アルルの秀作、再び到来である。(冒頭画像参照【南仏プロヴァンス地方の古都アルルの廃屋】1926(フランスサイズ15号))

冒頭のアルルが非現実の舞台装置のようなクラシスム作品だったのに対し、今回のアルルはややデフォルメされた廃れた家屋の矩形が茶系の明濁色と相まって濃密な表現が実在感を醸している。一方で画面右三分の一を占めるくすんだ中景が寂寥を演出しており対比の妙が効果的だ。画面構成が思索され確かなデッサンに裏付けられていることは両作の共通点である。カンバス裏面には伊原が丁寧な説明を書きこんでいた。

「南仏 プロヴンス地方の古都アルルの廃屋(現在は人住めり、屋前の野外劇場と共に名物の一となる。数百年前のものなり)」

以前、伊原の風景画について次のように書いた。「滞欧期前半の伊原作品は風景画が多い。粗い筆触を残すものから穏やかで印象主義的なものまで表現は多岐にわたる。」日本的フォーヴから印象派まで、の意だったが、本作は前者に近い。しかし、抑制の効いた筆致が作品に品格を与えクラシスムに通じている。

少し横道にそれるが、本件から画家を巡る当時の事情がよくわかった事がある。絵が専用の木箱に収められていたのだ。落とし戸式の蓋を上げ下げして出し入れするようになっていて箱側面に**氏と苗字が書かれていた。本作の原所有者だと思われた。そう考えたのには理由がある。伊原は渡欧するにあたって画会を組成して出資者を募っていたのである。その頃渡欧する画家が一般的に行っていた資金調達方法だ。伊原渡欧の1年前、1924年4月頃に配布された「画会趣意書」の文面が、伊原宇三郎展図録(1994目黒区美術館、徳島県立近代美術館)に転載されていたので該当する部分を抜粋する。

「画会 会規 第1部 本人出発前の作品、本人滞欧中の作品御随意 甲 会費100円(註:1口)画寸10号P 三寸巾額縁付、乙 会費200円(註:2口)画寸15号F 三寸五分巾額縁付」。伊原の実家がある大阪の今宮中学校の同級生が募集に尽力し滞欧2年予定で1万円余り(註:約100口)集めた、とある。本作は「乙」に申し込んだ人物へ届けられた作品ではないだろうか。画寸、額縁寸だけでなく箱に記された苗字も当時大阪中心部に居住していた富裕層に合致する。伊原が懇切に裏書きした訳も納得できるのだ。(当時の小学校教員の初任給が約70円である。卸売物価指数では、当時の1円は現在の640円)

本作を描いた年、伊原宇三郎は南仏から戻った後、夏は清水登之、川口軌外と3夫妻でノルマンディー地方エトルタ海岸に滞在して制作、秋、ルーブル美術館でコローを模写するなど風景画主体に活動した。翌1927年5月のイタリア行を機にルネサンス絵画の研究に注力する。ルーブルではアングルの「オダリスク」模写を始め、秋のソロン・ドートンヌには【毛皮の女】が初入選した。この頃から帰国する1929年6月までの滞欧期後半は人物画、群像図にシフトしていくのである。持ち味である構成的な空間を失うことはなく、モチーフの存在感が量感豊かで彫像の如き人体で示されて、より古典的な表現が増しネオクラシストになっていった。

文責:水谷嘉弘

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