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【近代日本洋画こぼれ話】中村研一  中村研一・琢二生家記念美術館訪問

板倉鼎(1901~1929)の顕彰活動をきっかけとして同時代の洋画家について調べ始めた。先ず画集や展覧会図録等資料類を集めた。段々飽きたらなくなり小品だが作品の現物も手に入れるようになった。眺めているとその日の天候や時間帯で見え方が違う。絵の表情が変わる。そんな事をエッセイに書いてみようか、自分の持ち物だからキツイ事を書いても、とやかく言われることはあるまい。私が美術エッセイを書き始めるに至った経緯である。要は今までネタ(もの)ありきで書いてきたのだ。しかし、中村研一(1895~1967)については数多く登場してもらったのだがネタ(もの)が手に入らず、主人公として文章に仕立て上げることが出来なかった。

私は中村研一の絵が好きである。1923年から都合5年間の滞欧作はパリで親しく往来したモーリス・アスラン(1882~1947)の影響が強いと評されるが、黒と灰色や暗褐色を基調とした原色を使わない深みのある落着いた絵が好きだ。帰国後、帝展に発表された明暗(光と影)のコントラストが鮮やかでよく構成された作品群は、描線の有無にかかわらずモチーフの輪郭が鮮やかでメリハリが潔い。戦後になって明るい色遣いが加わってくるが、同時に黒い輪郭線が目立つようになる。中村研一の画業は、生涯を通じて重厚感に満ちているのに惹かれるのである。しかし、中村研一のネタ(もの)が無い状況は長く続いた。

然るに今般、私の海外勤務時代の友人小野祐二氏の伝手で(もの)は無くても、ネタで研一をエッセイに書けることになったのである。小野氏は、福岡県宗像市出身で県立宗像高校OB。研一が生まれ又育った場所である。2025年6月、彼に連れられて由緒漂う唐津街道、原町通りに面した「中村研一・琢二生家記念美術館(以下、生家館)」を訪れた。研一、琢二は兄弟画家である。「美術館」とはいうが「生家」の方に重きがあって植え込みに囲まれた門を構える旧家だった。呼び鈴で門扉まで出て来られた主で美術館館長の中村嘉彦さんに付いて玄関で靴を脱いだ。たたき横の靴箱の上に[中村研一記念美術館]と記された横板が置かれていて「そうだったんだ」と来歴に納得した。招じられて応接間に入った途端、目に飛び込んで来たのが隣の居間に掛けられていた見事な人物画だった。初見だった。一目で滞欧作と分かった。

  

「小さき魚釣り」と題された人物画は茶褐色系でまとめられ、釣竿を持ってこちらをキッと見上げる少女の表情があどけなくも凛々しかった。2024 年12月に福岡県立美術館で開催された「中村研一と中村琢二」展で初公開されたという。知らなかった。この絵の隣には展覧会図録等でよく紹介されている見覚えのある「祖母トミの肖像」1931年作が掛けられていた。両作並ぶと壮観だ。

中村研一作品の前で中村嘉彦館長と 中村研一「小さき魚つり」1926図録画像

中村研一の滞欧作、戦前戦中作は、筆捌きがさっぱりとしていて、本邦画家にありがちな細やかさ、悪く言えばチマチマした描き方とは無縁だ。色遣いは明度も彩度も抑えているが陰鬱さが無いので風格が漂う。俯瞰気味にとらえられているアングルも相俟って、「上から目線」とも形容できる描き方と言ってもよかろう。近代日本洋画において独特な存在感のある画家なのだが研一の系譜を知るとそれも納得出来る。

中村館長に新発見の滞欧作フランス少女像の由来を尋ねた。近年、遠い縁戚の方が亡くなられた父君の遺品を整理していて新たに見つかったそうだ。早速生家館に寄託されたとのことである。他にも、藤田嗣治(1886~1968)のデッサンや藤田からの書簡など、貴重な品が見つかり全て生家館に到来したそうだ。そこで、中村研一の縁戚関係について伺った。館長ご自身が作成されたという、大ぶりで綿密に書き込まれた家系図の前で、中村家の由来を説明して下さった。中村家は江戸時代に山口萩藩を脱藩して宗像に定着したそうだ。本家筋(長男筋)は、啓二郎(研一の父)、研一と続く。しかし研一に子はおらず、従兄弟(啓二郎の妹、カツの長男)勝が中村家を継ぐことになる。勝の長男が生家館館長の嘉彦氏である。啓二郎には四男四女があり、カツにも六男三女があって系図はかなり錯綜していたが、中村嘉彦生家館館長は、中村研一、琢二の従兄弟の子だと理解した。啓二郎、カツ兄妹の母トミが、啓二郎が遠地に赴任した為、孫の研一、琢二を宗像の実家に引き取って育てた。肖像画に描かれたトミである。啓二郎は、東京帝大で採鉱冶金を学び住友本社で鉱山技師長を務めたエリートだった。息子4人の名に、研・硺・錬・摩瑳の金属加工に因む漢字を当てている。

嘉彦館長は研一から自分に代わって中村本家を守れ、と言われ、学校も就職も九州から離れるな、と厳命されたそうだ。福岡県立宗像高校(私の友人小野氏の同郷同窓の先輩なのだ)から九州大学に進んだ。就職は上場会社福岡支店からスタート。大企業勤務ゆえ地元から離れざるを得ない時期もあったが、50歳過ぎに福岡にポストを得て帰郷を果たし、今は引き継いだ田畑を耕している。中村家と研一、琢二の画業を守り伝えようとする強い思いをひしひしと感じた。

 

さて、優れた作品が数あるのもさることながら生家だけに資料類が豊富にあった。それも第1級の資料である。既述した藤田嗣治からの書簡3~4通を見せていただいた。かなり書き込んであり2人の関係が伝わって来た。共に名家の出で親戚に陸海軍高官もいることから美校の先輩後輩の仲以上の心理的な近しさもあったに違いない。今、竹橋の東京国立近代美術館で嗣治、研一の太平洋戦争時の作戦記録画が並んで展示されているのを思い出した。部屋の欄干部分には研一の戦場デッサンが何枚か掛けられていた。戦後、藤田嗣治が中村研一に「これからは絵を通して日本の復興の力になろう」と語った、と館長が教えて下さった。

  

戦中戦後の富子夫人をモデルとした作品は東京小金井の研一夫妻の居宅、アトリエ跡の「はけの森美術館」にあるのだろう、見当たらなかった。人物画は秀作「コタバルの娘」1942年作があった。戦前、戦後作を通して瓶花が沢山あった。一方で、駄作?と思う作品もあった。デッサン、形を取る名手との認識だったので意外だった。率直に言って暗めの色だけが並べられていてモチーフや構成が曖昧な絵があったのだが、嘉彦館長も同感と仰ってくれた。残された作品の中にはそんな絵も結構あるのだそうだ。

 

話は転ずるが、他の画家を調べている最中に中村研一に遭遇し、印象に残っている件が二つあるので紹介しておきたい。
一つは森鷗外の次女杏奴のエッセイ(小堀杏奴『追憶から追憶へ』所収)。杏奴が藤島武二(1867~1943)を訪ねて絵の家庭教師を推薦して貰った時、藤島が候補に挙げたのが寺内萬治郎(1890~1964)、中村研一、伊原宇三郎(1894~1976)、小堀四郎(1902~1998)の4人だったそうだ。小堀四郎を選んだ杏奴はやがて彼と結婚した。

もう一つは猫のぬり絵。戦後まもなく子供達のために一線で活躍する画家達が描いたぬり絵の教材である。研一の描く猫は堂々としている。研一は愛猫家で猫が登場する絵もあるが、この教材のように前足を広げて踏ん張る本物の猫はあまりいない。本物は両足をすぼめて前から見ると逆三角形である。立派な猫は何故か研一を彷彿とさせて思わず微笑んでしまった。(暮らしの手帖社「ぬりえ 3」昭和26年発行)
このように中村研一の絵は威風堂々としている。描き手は横綱相撲を取っているかのようだ。モチーフや観者に忖度なく衒いもない。モチーフを描くというよりモチーフの描写を通じて描き手の悠然たる存在を示しているとさえ感じる。安易な感性、情感を拒んでいる。

後日、嘉彦館長に出した礼状にご返事をいただいた。6月の下旬である。要旨を記してみる。「田植えが終わったが、40年以上続けている奈良漬のシーズンに入り、田植えと並行して材料の久留米白瓜の収穫もピークだった。1回で150㎏の瓜を収穫し、種とり、塩漬け、天日干し、粕漬けと一人でやっている。昨日でやっと一段落ついた。」とのこと。都会育ちの私には具体的な作業のイメージは全くわかないがかなりの重労働をこなされているのはわかる。旧家の維持管理と、絵画作品の保存継承と、田畑山林の手入れと、これらは皆、本家筋中村研一から託された責務で、誠意と熱意を以ってさばいている中村嘉彦館長に敬意を表したく思う。手紙には「来月は藤田嗣治作品の件で上京する」そうだ。体調に充分留意され、いつまでもお元気で頑張ってください。

実は、かねてより何とか入手したいと切望している中村研一作品がある。かつてその作品を扱った方に斡旋を頼んでいる。思いが叶い手元にやって来たあかつきには【こぼれ話 中村研一 その2】として認めたい。本篇がその序章になることを密かに願っている。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】 栗原忠二 美校卒業後、渡英した稀有な画家

近代日本洋画をテーマとする「こぼれ話」を書き始めた当初から気になっていたのだが、なかなか取り上げられなかった画家がいる。1886・明治19年生まれの栗原忠二である。(冒頭画像は栗原忠二展覧会@静岡県立美術館1991図録表紙)

明治以降の本邦西洋絵画受容の過程をいくつかに区分けるにあたり、世代論を適用した。展開期における一時期の始期に1885年生まれの萬鉄五郎を位置付けた。萬は、東京美術学校(以下、美校)の卒業制作【裸体美人】(1912・明治45年)が我が国におけるポスト印象派の先駆的作品として知られる人物だ。若くして渡米したものの志半ばで帰国したあと美校に入学したため入学時、卒業時年齢は他の同期生より高く、同期には4才年下(1889年生まれ)までいる。この年齢差、年齢巾が同時期に活動した多数の画家たちを束ねるリーダー的存在として機能した。萬鉄五郎と同じ1885年生まれには斎藤与里、柚木久太らがおり、86年生まれの青山熊治、藤田嗣治、田辺至、川島理一郎、87年生まれの小出楢重、清水登之、中村彜らへと続く。美校卒業同期には北島浅一(1887生)、御厨純一(1887生)、片多徳郎(1889生)、素巌斎藤知雄(1889生)らがいる。熊岡美彦(1889生)も入学時(1907年)は同期だった(卒業は1年遅れて1913年)。

栗原忠二は萬と同期入学、同期卒業である。1928~30年、帝展に3回連続して出品し、1929・昭和4年美校同期らと共に第一美術協会創設メンバーになるなど活躍した。しかし、これだけ「こぼれ話」の題材にした画家との接点がありながら、私が「こぼれ話」に書く機会を失した所以は、栗原の美校卒業以降の行動パターンにある。彼は1912年3月に卒業するが、同年10月渡航し向かった先はイギリスだったのである。「こぼれ話」登場者はほとんどがフランス留学組だ。

美校に西洋画科が設置され(1896・明治29年)、翌年から卒業生を出し始めると欧州留学する者が続出する。西洋絵画受容の展開期に入ったと見做せよう。

白滝幾之助(1873生、1898卒業、1904渡米、渡英)、和田英作(1874生、1897卒業、1900渡仏)、斎藤豊作(1880生、1905卒業、1906渡仏)、児島虎次郎(1881生、1904卒業、1908渡仏)、山下新太郎(1881生、1904卒業、1905渡仏)、南薫造(1883生、1907卒業、同年渡英)、太田喜二郎(1883生、1908卒業、同年ベルギー)他の面々だ。更なる展開が図られた萬鉄五郎に始まる世代、前出の青山熊治(1886生、1907中退、1914渡欧)、藤田嗣治(1886生、1910卒業、1911渡仏)達の兄貴分にあたる。そのほとんどが師、黒田清輝(1866生、1888渡仏)に倣い、油彩画の本場フランスに向かった。

また、浅井忠(1856生、1900渡仏)の関西美術院や小山正太郎(1857生、1900渡仏)の不同舎からも、鹿子木孟郎(1874生、1900渡米、仏へ)、満谷国四郎(1874生、1900渡米、仏へ)、続く弟世代の安井曾太郎(1888生、1907渡仏)、梅原龍三郎(1888生、1908渡仏)が留学した。多くがパリのアカデミー・ジュリアンでジャン・ポール・ローランス(1838~1921)に学んだ。

しかし、フランスではなくイギリス留学した者がいたのである。黒田清輝は美校出身者がイギリスに行くのを嫌ったようだが、その意に従わなかった珍しい人物が、栗原忠二なのだ。栗原の画業を時系列的に見てみよう。(全て図録画像)

【月島の月】1909 【山道の風景】1911水彩 【自画像】1912

栗原忠二は静岡県(現在の)三島市に生まれ、1905・明治38年19歳の時、法律家を目指して上京し中央大学に入学するが、翌々年美校に転じる。イギリス・ロマン派の画家ウィリアム・ターナー(1775~1851)に傾倒して美校の友人たちから「栗原ターナー」と呼ばれた(曾宮一念「思い出」)。3年次に【月島の月】が白馬会展に入選、朦朧とした大気の中で墨田川河口に沈む夕日と川面の小舟が画面全体を覆う赤茶色と茶色に漂う崇高ともいえるターナー調の油彩画だった。そこには既に、後に彼が到達するヴェネツィア水景図の構成と筆さばきを見て取ることが出来る。栗原の本来的な資質が、抒情を好む自然観照家、ロマン派系だったのだろう。東京朝日新聞で好意的に言及された。卒業年(1912)に渡英する。1914年にはフランク・ブラングィン(1867~1956)に師事し、画風が変化する。茫洋とした筆致に動感が加わり、モチーフ描写に構成や造形の意図が感じられるようになった。1919年作のイギリスの田舎町と思われる油彩画が手許にある。同系統同色調の作品2点が「静岡の美術Ⅳ 栗原忠二展」図録(1991静岡県立美術館)に掲載されているので併せて紹介する。同年王立英国美術協会準会員となった。

【(仮題)街並】1918 6号油彩・キャンバス 【納屋】【家並】 共に1919以前 油彩

第一次世界大戦が終わり、翌1920年5月栗原は初めてパリを訪問した。そこで印象派の色彩と軽快な筆遣いを実感したに違いない。帰国後描いたロンドンはじめイギリス各地の風景画の印象が一変する。短く、早く、筆触分割された油彩画は鮮やかだ。所蔵する作品と前出の図録掲載作品を載せる。

【(仮題)イギリスの田園】1920年代前半6号油彩・板 【人物のいる森の風景】【ロンドンの公園】 共に1920年代前半

話はそれるが、栗原の風景画に描かれる点景人物は感心しない。個性、体勢、状況が伝わってこない。一歳下の美校同窓生、北島浅一の卓抜さと比べるとかなり差がある。

さて、栗原忠二は渡英8年後の1920年11月、第一次世界大戦の為長らく果たせなかったターナーの主たる写生地で、ブラングィンも描いたヴェネツィアの地を踏んだ。往年來のターナー好みと先立つパリ訪問で触発されたフランス印象主義が相俟って、ヴェネツィアの光に満ちた揺蕩う大気と水景が明るくおおらかに描かれる。一見同じ印象だが、油彩、水彩に異なる筆遣い、色遣いがみられ、特に水彩画の仕上がりは美しい。ヴェネツィアへは1923年まで毎年訪れ、栗原絵画の代表作群が形成されるに至った。1922年にはイギリスから日本橋三越に水彩画を送って個展を開く。(全て図録画像)

【英国風景】【ロンドンの雨】【春のヴェニス】 全て水彩

12年間のイギリス滞在を終え1924年に帰国し白日会創立に参加して水彩画を出品、これも好評だった。1926年2月再渡欧し翌年11月帰国、1928~30年帝展に3回連続入選、白日会展や四十年社展ほかにも出品し個展(作品頒布会)も開く。1929年には美校同級生と第一美術協会を結成、海軍省から委嘱され海戦図を描くなど活発に動いた。が、1936年11月50歳の時、胃がんに侵されて急逝してしまうのである。本邦での本格的な画業展開を果たす前に亡くなってしまったのだ。帰国後描かれた3枚の油彩画を紹介する(うち2枚は没年作、全て図録画像)。

【雲のある半島】【日清戦争、豊島沖海戦】1936【千葉の海岸】1936

栗原忠二はしかし、エコール・ド・パリの全盛期であり多くの日本人画家が己の画風を模索し取っ掛かりを掴み始めた1920年代半ばには、既に自分の方向性を定めた画家だった点に注目したい。自分のスタイルを持っていた。そのキャリアを、近代日本洋画のメインストリームから外れたところ―傍流―で作り上げていた。傍流といっても、勿論甲乙の価値判断を伴うものではない。多数派に対する少数派といった意味合いである。

少数派の一つ目、イギリス指向だった。近代日本洋画の展開期に入る頃に、フランスではなくイギリスに渡り、ターナー、コンスタブル(1776~1837)、クローゼン(1852~1944)らイギリス・ロマン主義やラファエル前派、或いはイギリス自然主義などイギリス絵画に惹かれた一連の画家群がいた。原撫松(1866~1912、1904渡英)、牧野義雄(1869~1956、1893渡米、1897渡英)、白滝幾之助(1873~1960、1904~1911渡米、渡英)、石橋和訓(1876~1928、1903渡英)、高木背水(1877~1943、1904渡米、1910渡英)、武内鶴之助(1881~1948、1909渡英)、南薫造(1883~1950、1907渡英)、らである。ところが彼らの次の世代―萬鉄五郎を始期とする栗原の同窓生、同年齢者の世代―の多くは印象主義に親しみ、黒田清輝推奨のフランス、ラファエル・コラン由来の外光派に寄って行き、先輩筋を席巻したためイギリス派は衰退する。

だが、栗原は黒田の教え子でありながら、しかも遅れてきたイギリス指向者だったのだ。(美校出身の南薫造〜卒業は栗原の5年上〜は、留学したイギリスからフランスに立ち寄った際、印象派に刺激され帰国後それを自身のスタイルとした。栗原と好対照である)

もうひとつの少数派要素、栗原を語る際には水彩画を外すことが出来ない。明治美術会・太平洋画会系のメンバーを中心に本邦初期の洋画指向者は水彩画に魅せられたものが多かった。我が国の山紫水明にmeetし、筆に水を含ませて描く西洋の水彩画は墨筆に似て馴染みやすかったこともあろう。洋画展開の初期を担った1870年代生まれには美校を経ず画塾等で学んだ後、海外に赴いた画家達が多く居た。渡航時期は1900年前後、行先はアメリカだった。日本から持参し、或いは現地で手掛けた絵が水彩画である。開拓で西進したアメリカでは自然の風景が身近にあり日本人画家の描く抒情的な水彩風景画は好意的に受け入れられた。アメリカ各地で水彩画を販売し資金を得てヨーロッパに渡ったのである。

1897(明治30)年に渡米した三宅克己(1874~1954)が先駆けである。吉田博(1876~1950)は三宅と知り合って水彩画を始め1899年中川八郎(1877~1922)と共に渡米する(1901年、欧州経由で帰国)。穏やかな日本の自然を精緻に描いた風景画は好評でデトロイト、ボストンでの展示販売は順調だった。丸山晩霞(1867~1942、1900渡米)、河合新蔵(1867~1936、1900渡米)、大下藤次郎(1870~1911、1902渡米)、鹿子木孟郎(1874~1941、1900渡米)、満谷国四郎(1874~1936、1900渡米のち渡欧)、石川寅治(1875~1964,1902渡米)、らが続く。彼らは工部美術学校(フォンタネージ)、不同舎(小山正太郎)の系譜に属し、美校出身者(油彩画作品が主流)の多い白馬会への対抗心もあったのかもしれない。水彩画の隆盛は1898年の明治美術会10周年記念展の出品作の過半数が水彩画だったことからもわかる。1992年まで続いた美術雑誌「みづゑ」は1905・明治38年に水彩画専門雑誌として創刊されたのだ。

翻って栗原は美校出身で白馬会に出品していたが、水彩画家としての存在感が際立っていた。他の同年代画家(1880年代生まれ)に比して水彩画の作品がかなり多い。既述のアメリカ・水彩画組とも異なり、下の世代でありアメリカを経由すること無くイギリスに入った。(水彩画界の嚆矢で巨頭の三宅克己も白馬会に属していた。また美校出身の矢崎千代二(1872生)は1900年に卒業して1903年渡米している。その後欧州に渡った。矢崎はパステル画家として知られる)

水彩画家は何故フランスではなく、イギリスに向かったのか?遠因は1859年、来日して水彩画を日本人に教えたのがイギリス人のチャールズ・ワーグマン(1831〜1891)で高橋由一(1828~1894)、小林清親(1847~1915)、五姓田義松(1855~1915)、らが彼に学んだこと。1887年以降イースト、バーレイ、パーソンズ等の水彩画家が相次いで来日して各地で写生し展覧会を開く。イギリス流の細やかで詩情豊かな水彩画が当時の画学生を虜にした。これらの背景には、イギリスにおける水彩画の発展がある。イギリス水彩の父と云われるサンドビー(1730~1809)、コーゼンス、ウィリアム・ブレークに始まり、ターナーからコンスタブル、ロセッティと続く18~19世紀はイギリス水彩画の黄金時代だった。水彩はイギリスの水気の多い風土を描くに適していた。

ここで、ターナーと栗原忠二が描いた水彩画を並べてみる。(全て図録画像)

ターナー【海から見たドーヴァー城】1822【キドウェリー城】1835【青いリギ山、日の出】1842

栗原忠二【リッチモンド・ブリッジ】1910年代後半、【春のテームズ】1920年代

栗原忠二【ヴェニス】【帆船】【ヴェニスの橋】 3点とも1920年代

両者のテームズ川とヴェネツィアを描いた油彩画も並べてみる。

ターナー【議事堂の火災】1835【「ヴェネツィアの太陽」号】1843

栗原忠二【テームズ河畔】【サンタ・マリア。デルラ・サルーテ寺院、ヴェニス】1921以降【ヴェニス】【ヴェニスの港】油彩 1920年代前半

栗原の画業を通覧すると、美校卒制の自画像、墨田川水景画には、ターナー調もさることながら図録画像を見る限り色調、マチエールに明治美術会系統(脂派)が感じられる。同会派のイギリス指向、水彩画指向と通底する点がある。イギリスでは画壇の大立者とはいえ、構図やモチーフが特異なブラングィンに就いたせいかターナー好みはしばらく収まるが、ヴェネツィアを訪れてターナー調が復活する。1991年の栗原展監修者で展覧会図録のメイン執筆者静岡県立美術館の下山肇氏は、栗原のヴェネツィア訪問を[ターナーを再解釈し始めた第1次ヴェネツィア滞在(1920年)]と位置づけ、それ以降に描いた【林道】(油彩画)について[明るいスケッチ風・水彩風の作調・・・印象派に最も近接した作]としている。「ターナーの再解釈」という文言は栗原のヴェネツィア連作を論じる重要なポイントで、若き日の脂派的ターナー調が、印象派体験を経て光と色彩に満ちたターナー調に転じたことを指摘しているのだ。生来の自然観照者だった栗原は、イギリス、フランス、イタリアの自然の中に身を置き、現地でターナーの実作に接して現実と作品の距離感を実感したに違いない。自らの実作にそれを反映したのだと思う。一方で下山氏は、栗原がブラングィンに師事したことを[真に幸運な出会いで会ったろうか]と否定的に論じている。栗原の持ち味がブラングィンとはマッチしないと看破したのではないか。私淑したターナーが表現手法を変えながらも創作における一貫した理念のもとに描き続けた生涯と照らし合わせると寄り道したと捉えていたのかもしれない。

栗原がその才を認められ、キャリアが尊重されながらもターナーの模倣と貶されることがあるのは故無しとは言えまい。栗原が到達したスタイルはターナーをオマージュしてヴェネツィア水景画に収斂したものだったが、一方でターナーの作品変遷と見比べていくとターナーのある時点の表象の追随に留まっていたとも見えるのである。

栗原忠二は第2次渡英(1926年2月~1927年11月)からの帰国後は、画壇活動や普及活動に注力し、展覧会には旧作、ないしその焼き直しの出品が多かった。[日本に来たら、さあ描けぬ、まるで勝手が違ふ。熱々考へたら日本の美は外国と全く異なってゐる、別な美がある・・・そこでやはり水彩だと感じた(「みづゑ」1931・昭和6年1月)]状況でもあった。

しかし、彼は同年代の仲間には持ち得ない彼独自のキャリアからつかんだ表現やテイストに展開できなかったのだろうか。唯美指向の強い画家であり、イギリスのロマン派画家達がそうであったように象徴主義、或いは抽象主義に向かい、彼の情感を反映するスタイルを構築し得たかもしれないのだ。海戦図を描くかたわらそれを予感させる作品も残している。到達する前に世を去ったのは本人ならずとも残念である。

本稿は「静岡の美術Ⅳ 栗原忠二展」図録(1991静岡県立美術館)、下山肇氏執筆に多くを教わった。下山氏はこの後大学教員として転出され4年後に館長として静岡県美にもどるが、直後に栗原研究を完遂することなく逝去された(2005年)。大変惜しまれる。

また「もうひとつの明治美術展」図録(2003静岡県立美術、他)、「ヴェネツィア展―日本人が見た水の迷宮―」図録(2013一宮市三岸節子記念美術館)、を参照させていただいた。

文責:水谷嘉弘

【topics】シンガポール国立美術館訪問の報告会を行いました

昨年4月の「板倉鼎・須美子展」開催に尽力、支援いただいた千葉市美術館、千葉県立美術館の方々にシンガポール国立美術館「City Of Others: Asian Artists In Paris, 1920’S−1940’S」展の観覧報告をしました。

会場は千葉市美術館。同館山梨絵美子館長、西山純子学芸課長、千葉県立美術館貝塚健館長はじめ両館の学芸員計7人が参加されました。現地で撮影した美術館建物や展覧会会場の模様、板倉鼎・須美子作品他展示作品をスライドショーに編集し、私が執筆したエッセイ【シンガポール国立美術館訪問録 ―アジアからパリに渡ったエトランジェ達の展覧会―】(本HP、メニューGALLERY-BOOKSに掲載)をテキストに使って説明しました。日本人画家以外のベトナム人、中国人画家の作品や大戦間時代にパリで活動したアジア人芸術家を改めて認識し、その活動に興味を持たれたようです。同展を訪問する予定を立てている人もいました。私のシンガポール勤務経験談や、芸術活動と社会・経済の関係性に興味を持っていただきました。

シンガポール国立美術館の堀川理沙さんに報告会開催を伝えたところ、同展には毎週のように日本から美術関係者が訪れているそうです。かつて無かったことで同展の注目の高さを喜んでいました。アジア人画家への関心が高まることを期待していました。

なお、同館前の広場パダンでは8月9日のナショナルデーパレード等シンガポール建国60周年記念の記念式典が催されるため、同館は今月半ば以降、開館時間短縮日、臨時休館日が多いようです。同館ホームページの告知を紹介しておきます。

(quote)The Gallery will close at 3pm on 14, 21, 28 June and 5, 12, 19 July, and remain closed all day on 26 July, 1–3, 8–10, and 15–17 August. Tours after 2pm will be cancelled.(unquote)

写真は終了後の懇親会です。

山梨絵美子千葉市美術館館長と貝塚健千葉県立美術館館長

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】川島理一郎・小出楢重・佐分真 挿絵3枚

今回は以前本コラムで取り上げた3人の画家たちの手すさび的に描いた3枚の挿絵を題材にしたい。3人とは年齢順に、川島理一郎(1886〜1971)、小出楢重(1887〜1931)、佐分真(1898〜1936)である。皆、達者な描き手だが画家としての歩み、系統、作品の質は全く異なる。互いに接点もなかったのではないか。昭和戦前戦中期の近代洋画人をfocusしている私にとって彼等は外せない人物だが、一緒には論じ辛い面々でもあった。しかし、本格的なタブローと違いこれらの挿絵は軽妙さにおいて大いに通ずる点があるのだ。関西人気質溢れた洒脱な漫談風随筆で知られた楢重、戯れ文をものし徳川夢声、高田保らと「風流倶楽部」を結成した佐分、戦後まで生きて長寿を全うした川島も多くのエッセイ、戯画を遺していて、皆、遊び心に富んでいる。私は素描の類いが好きでインターネットオークションで気軽にbidしているうちにその3人の同系統の画が揃ってしまったのである。安価で入手できたし、作品というより落書きに近い感じだ。おそらく挿絵の注文を受けとしてこなしたであろう画を手すさびというのは失礼千万かとは思うが、彼等も楽しんで描いたように見えるのである。(冒頭画像は近代日本美術史家、匠秀夫の著作書影。匠は近代日本美術と文学の相関関係をしばしば考察した。同著は挿絵を題材としたアンソロジーとして刊行された(2004年)。中段右は小出楢重の「蓼喰ふ虫」谷崎潤一郎(1929年)所収の挿絵である。

川島理一郎【人物五態】小出楢重【近江の火祭】

佐分真【パリジャン】

1)川島理一郎の「(仮題)人物五態」紙本鉛筆(21.7㎝✕12.3㎝)制作年不詳。

川島は文筆を得意としエッセイ集5冊、自撰デッサン集1冊を出版したが全てにデッサンを挿画として掲載している。目次には必ず挿画目次の項があり例えば「緑の時代」は全305ページに挿画が126点ある。レンジも広く、作品として展示されるレベルから油彩下書き、挿絵(【人物五態】のようにメモを添えたものも多い)、簡略な線描、カットまで、素描のfull lineupだ。同画はカットのアイディア出しの1枚のようだ。川島は、75歳を過ぎた最晩年の1962年頃から油彩の画風が一変しパズル片を散乱させたような、或いは長目の歪んだ楕円が浮遊しているような半抽象の画面になる。カラリスト振りが復活し、しなやかな曲線が印象的な色鮮やかな作品もある。デッサンもデフォルメが進んだり、稚気に富んだものがある。それと歩調をあわせるようにスケッチやデッサンとは趣を異にする遊びっけのある戯画を発表した。題材はダンサーや芸人等々。82歳の時、生前最後の出版物となった「戯作小品」1968・昭和43年美工出版社、はその集大成といえる。前書きに[製作の合間に楽しみつゝ描いたものが、たまりましたので御見せします 私と同じ様な気持で御覧頂ければ幸です]とある。油彩(SM)が20点掲載されているがそれらの下絵ないし同じモチーフの素描も没後の展覧会図録(銀座和光1981年)で確認できる。その中の、当時一世を風靡した山本リンダのヒット歌謡曲「こまっちゃうな」に因んだ【こまっちゃうな】と題した素描と「戯作小品」所収の油彩画を並べて紹介する。(以下、参考画像2点)

川島理一郎【こまっちゃうな】素描(図録) 油彩(SM)

2)小出楢重の「近江の火祭」紙本墨画(18.3㎝✕13.2㎝)1928年頃。

彼の代表的な挿絵、谷崎潤一郎と組んだ「蓼喰ふ虫」には大阪毎日新聞に掲載された83枚(1928~29)があるがその中にも、小出随筆のアンソロジー「小出楢重随筆集」所収の挿絵(小出は生前3冊の随筆集を刊行したが何れも挿絵がある)にも、それが描かれていれば一目で楢重とわかる火、煙や雲や境界表現に印象的な渦巻き模様が登場する。それのある画が欲しいと思って手に入れた。絵の上部に薄っすらと「志賀縣之巻」と書かれた字が読める。楢重が終焉の地となった芦屋に転居した後(1926)の充実した時代、谷崎や直木三十五「大阪を歩く」1930の挿絵を描いた頃、近江にしばしば旅行していたようだ。近江風景の連作群(紙本インク画)1928もある。楢重には「挿絵の雑談」と題するエッセイがあって[私は主として線のみを用いて凸版を利用し黒と白と線の効果を考えている]という一文がある。単色線画が多く遺されている。(以下、参考画像2点)

小出楢重【天神祭】紙本墨画 【亀の随筆】挿絵(図録)

3)佐分真の「パリジャン(仮題)」紙本鉛筆・水彩(イメージサイズ12.5㎝✕6㎝、紙寸は18㎝✕11㎝か?)1935年頃。

1937年の「郷土の画家たちⅢ 佐分真」展図録(愛知県美術館)に同系統の「キャフェ」「マドロス」と題された鉛筆・水彩デッサンが掲載されている。制作は1935年頃とある。佐分が2回目の渡欧から帰国した後、自裁する前年である。この頃文藝春秋のユーモリスト座談会で人気を博した佐分は筆もたちフランス滞在に想を得た「東西御手本色模様」「モンパルナスの女」といった戯作的読み物を執筆している。それらに因んだ挿絵、カットではなかろうか。なおこの画は1970年、佐分の郷里愛知県一宮市、やよい画廊で開催された素描展で頒布されたようだ。展覧会案内がついていた。佐分の展覧会一覧に1969年3月と1970年3月、やよい画廊の個展開催が記されている。同画の額裏には他でもよく見かける佐分の妹保子の能筆の鑑書きが貼られていた。(以下、参考画像2点)

佐分真【パリのキャフェ】グワッシュ 【マドロス】(図録)

以上、挿絵3点に共通して言える事は走り書きに近いだけに簡略な少ない線で描かれている点だ。それ故、画家が引く地の線が現れ属性が垣間見えるのである。川島からは師マチスに学んだ「常に手を動かしデッサンし続ける」描き方が伝わって来るし、楢重は濃厚な日本裸婦の油彩画連作を描く一方で浮世絵を観察し日本画風の作品を遺していた事がわかる。そこにも渦巻きがある。彼らより10歳あまり年下の佐分はフランス留学で華やかなエコール・ド・パリを目の当たりにする。昭和モダン、新制作協会創立(1936)メンバーの兄貴世代に属するのである。

文責:水谷嘉弘

【essay】シンガポール国立美術館訪問録 ―アジアからパリに渡ったエトランジェ達の展覧会― 

シンガポール国立美術館訪問録  ―アジアからパリに渡ったエトランジェ達の展覧会―

水谷嘉弘

去る5月14日にシンガポール国立美術館を訪問した。「City Of Others: Asian Artists In Paris, 1920’S−1940’S」というタイトルの企画展(2025・4・2〜2025・8・17)が開催されている。板倉鼎の「赤衣の女」1929年作がメインヴィジュアルに使われている、と知ったからだ。

1年半ほど前の2023年9月、企画展の準備を進めていた同館のDirector&Curator堀川理沙さんから「大戦間時代の日本人画家の活動を調べていく過程で板倉鼎・須美子を知った。多くの作品を所蔵する松戸市教育委員会で現物を実見出来ないか、展覧会に展示する作品を借用できないか」との問い合わせがあり、話を繋いだ。

シンガポール国立美術館は、2015年設立のASEAN随一の規模を誇る東南アジアの近現代美術を専門とする若い美術館だ。同展は、従来の「日本の画家がみたパリ」というような国別の枠組みを超えて、1920年代から1940年代にかけての大戦間時代 、所謂「エコール・ド・パリ」の時代と重なる芸術家のパリ体験を、シンガポールだけでなくベトナム、中国、日本ほかアジア出身の画家や工芸家の足跡を追い、一つの展覧会のなかで横断的に検証する企画である。同展のパブリシティには「エコール・ド・パリ」の文字がほとんど見当たらない。モンパルナスの藤田嗣治とその仲間達をエコール・ド・パリ(school of Paris)と呼んだと記されている程度である。「エコール・ド・パリ」はあくまでも大戦間時代の一表象との捉え方であり、同展が特定の絵画スタイルや主義、潮流を紹介するのではなく、アジアからパリにやって来た他者達(エトランジェ)が、異国に在って、何処で何をどのように表現したかを、多分野にわたり横断的に鳥瞰することに軸足を置いたからだと理解した。展覧会場第1章に「Workshop to the world」、第3章に「Spectacle and stage」があるのもそれ故であろう。

堀川さんの案内で会場を一巡した。20世紀前半に建てられたイギリス様式の荘重な建物でかつてはシンガポール最高裁、市庁舎として使われ、10年前に美術館に転用しただけに館内も厳かな感じである。大掛かりな展覧会で絵画作品だけでなく彫刻、工芸品(ベトナム漆器)、屏風仕立て(フランス人デュナン、濱中勝)、ポスター(里見宗次)や映像スクリーンに至るまで幅広い展示品類が空間を占めていた。写真(中山岩太が日本人舞踏家小森敏を撮ったパネルもあった)、書籍類が平台に置かれ、短編フィルムも上映されていた。準備に約3年を要し、パリには複数の学芸員が1ヶ月以上滞在して調査にあたったそうだ。板倉鼎の作品は「赤衣の女」と「画家の像」1928年作の2点、須美子の作品は「午後 ベル・ホノルル12」1928年作等3点があった。特にメインヴイジュアル採用の「赤衣の女」はロビーの案内板、エレベータ内部にも大きくUPされ、会場では藤田嗣治の本邦デビュー作「私の部屋」1921年作と同じ壁面にあって、その部屋では最もhighlightされていた。「板倉鼎・須美子の画業を伝える会」の設立など鼎、須美子の顕彰活動をしてきた私には喜ばしい驚きで、少し誇らしい気持ちになった。

一巡りして私は絵画展示の流れから、大戦間時代、アジア出身アーティスト達のパリへのアクセスの推移を次のように把握した。展覧会場の第4章「Sites of exhibition」、第5章「Studio and street」である。

先ず1920年代には多くの日本人芸術家が集団に近い形でパリのアートシーンで一定の存在感を示した。1930年代になると入れ替わるようにハノイでフランス人画家から西欧的な美術教育を受けたベトナム人芸術家の少人数グループが渡仏し活動の場を広げる。他方、同時代を通して中国人芸術家はメインランドから、或いは中国と強い繋がりのあるシンガポール人(建国後)芸術家も、共にほぼ単独でパリに入り創作活動を続けた。三者三様のエトランジェ達のパリ体験だった。

これは背景にある当時の世界情勢、政治経済状況を知ると良くわかる。

1920年代は米国が世界一の債権国となって繁栄を迎える。フランスは第一次世界大戦の戦勝国ながら消耗が激しく政治経済は混迷が続いたがパリは平和オリンピック(1924年)、アール・デコ万博(1925年)と世相的には華やかだった。美術界もエコール・ド・パリ全盛期、日本人画家は藤田嗣治を中心に一大勢力を誇っていた。日本円の過大評価による経済力があった為である。米国同様、戦勝国かつ戦地にならなかった日本は大戦前の金本位制における1us$=2円が大戦後も維持されていたのに対し、フランスフラン(F)は大幅に値下がりし大戦前の1円=2.6Fが10F~15Fで推移した。パリは急激なインフレが進み購買力も落ちたとはいえ大いなる円高を享受したのである。その頃、アジア諸国は英仏蘭ら西欧列強による世界分割が完了し、植民地主義は最盛期を迎えていた。植民地化された国民にとって欧州留学は非現実であった。しかし1929年ニューヨーク発の大恐慌が世界に波及し、1931年末の日本政府の金輸出再禁止を契機として円が対ドルで大巾に下落した1932年以降日本人画家のパリ留学は激減する。一方で、ベトナムは宗主国フランスがインドシナ植民地経営の拠点であったハノイに美術学校を設立(1925年)、本国から赴任した教員(画家)に学んだベトナム人学生達が1931年頃からパリで作品を発表し始めその後移住する者が出た。中国本土は中華民国統治下だったが国共のせめぎあいが続き混乱のただ中にあった。

さて、1920年代を通して日本人画家は多人数がいたからとはいえ(200人、と展覧会冊子には記されている)、絵画スタイル・画風の幅が広範に亘る。画力が高位にあったこと、パリ現地で実物作品を見て多くを学び各自がそれぞれに傾倒したスタイルに寄って行ったことがわかる。言い換えれば、自分独自の絵を描いたのは藤田嗣治らごく少数だった。板倉鼎・須美子夫妻はその範疇に入る。彼らが帰国した後の1930年代、1940年代、パリ経験を積んで画家としての最盛期を迎える頃、日本が戦争に突入したことは不運だった。それに加え、彼我の風物の違いからか画業のモチーフも質も変わってしまった。この時代の日本人画家の滞欧作は見応えがあり同展逆輸入の形で本邦での再評価に繋がることを期待したい。日本国内の展覧会は個人の回顧展、或いは日本人のみのグループ展がほとんどであり、同時代のアジア人画家との並行展示は新鮮で筆致、モチーフの捉え方などその違いについて新たに知るところも多かった。

・展示されていた日本人画家(生年順)

藤田嗣治(1886年生まれ)、川島理一郎(1886)、清水登之(1887)、坂田一男(1889)、中村義夫(1889)、萩谷巌(1891)、川口軌外(1892)、矢部友衛(1892)、東郷青児(1897)、佐伯祐三(1898)、福沢一郎(1898)、岡鹿之助(1898)、野口弥太郎(1899)、高野三三男(1900)、荻須高徳(1901)、板倉鼎(1901)、海老原喜之助(1904)、板倉須美子(1908)、岡本太郎(1911)。

・展示されていた主たるベトナム人画家

先輩格グェン・ファン・チャン(1892年生まれ)と、かなり年下で1歳違いのパリ留学三羽烏の3人:マイ・チュン・トゥ(1906)、レ・フォー(1907)、ヴ・カオ・ダン(1908)。

彼らは皆、1925年にハノイに開校したインドシナ美術学校の卒業生である。フランス人画家タルデューらが印象主義を教えた。1930年代に入りパリに作品を送る者が出て、1937年には美術学校同期のマイ・チュン・トゥとレ・フォーが移住した。絹絵、漆絵の伝統に根差した近代的な絵画を描き好評を博した。穏やかな作品群で、装飾性に富み、マイ・チュン・トゥはアンティミストと呼ばれた。彼らは、先行した日本人画家群とは異なる環境、パリの絵画マーケットからの制作要請に晒されていたようだ。

・シンガポール人(建国後)画家

ジョーゼット・チェン(1906年生まれ)、リュウ・カン(1911)。

中国浙江省に生まれ、パリに移住、ニューヨーク、上海で美術を学んだのち、シンガポールを終の棲家とした女流画家ジョーゼットと、伝説的な国民画家、正統的画風のリュウ・カンはこの展覧会には外せないネームだ。

・中国人画家

サンユー(1895年生まれ)、パン・ユーリャン(1899)、ユン・ジー(1906)。

アジア近代美術のbig nameサンユー(常玉)は1920年代には早くもモンパルナスで知られる存在となっていた。不自然で不思議な体形や輪郭の人物やモチーフ、筆遣いに何故か見入ってしまい飽きが来ない。うねる画面に惹きつけられるユン・ジー(朱沅芷)と共に、中国人画家によく感じる掴みどころのない器量の大きさがあった。

上記した画家の生年から、展覧会がfocusした時代にパリに滞在した日本人画家とアジア諸国出身画家達の年齢差が分かる。既述したように主役となる画家と活動期が間を置かず日本人からベトナム人へと移行したことに合点が行く。世界情勢が戦争に向かっていたこと、日本円の価値下落が無ければ日本人画家達の渡仏は続いたであろう。また、日本人画家の後を継ぐ形になってパリで存在感を増したとはいえ、大戦中もパリに留まったベトナム人画家、中国人画家達は祖国から逃避した人物と見做され、戦中戦後の国家体制の転換も相俟って精神的には厳しい状況にあった。志を絶たれた日本人画家とは異なる苦渋、異国に在って祖国と閉ざされた根無し草の辛さに愛憎半ばしたことだろう。

大戦間時代はアジア諸国が植民地化されていた時期と重なる。1931年パリで開催された「国際植民地博覧会」においてインドシナ館に設営されたアンコールワット(カンボジア)を撮影した写真が大きく引き伸ばされて展示されていたのは象徴的だった。そのような時代を対象として当時の風潮と芸術作品をどのように展示するか。同館のキュレーターは欧州植民地主義や、社会共産主義とのイデオロギー闘争をどう扱うか、議論を重ねたに違いない。展覧会場には第2章に「Theatre of the colonies」があった。展示や展覧会冊子は事実を直視し価値判断を押し付けず植民地主義と反植民地主義の双方の動きを記していた。植民地主義を糾弾することもなかった。当時の日本と韓国、台湾との関係もある。日本人画家と韓国人画家パイ・ウンソン(1900年生まれ)、台湾人画家楊三郎(1907)の作品を並べて取り上げていた。

同展がfocusした1920’S~1940’S時代認識への回答が、最後の第6章「Aftermaths」に示されたように思う。ベトナム人画家三羽烏の一人マイ・チュン・トゥが画業とは別に行った活動だ。彼は1937年にパリに移住し永住した。為に政治体制の変わった第二次世界大戦後は本国からの敵対視に直面した。複雑な気持ちだったろう。彼は歴史の事実を記録に残すことの重要性を述べる。収集した政治的イベントや社会活動を写した動画が展覧会場最後の部屋で上映されていた。彼の代表的なスタイルとして知られるあどけない子供達を描いた作品群はメイン展示の部屋には見当たらなかった。戦後に出現したからか、ただ「Aftermaths」に彼のironicな表情の自画像「眼鏡をかけた自画像」1950年作が掛けられていたのである。会場入り口のアプローチ正面に日本人画家藤田嗣治の自画像「アトリエの自画像」1926年作が掛けられ、終わりの章にベトナム人画家マイ・チュン・トゥが登場した。この二人は時代を代表する画家というだけでなく、異国に永住し祖国に疎まれ他国で他者(エトランジェ)として生涯を終えたという近代の国際情勢が産んだ生き様も共通する。

堀川さんが、会場入り口アプローチの壁面に掲示されていた関係者リストに私の名前があると指差された時はびっくりした。充実した同展を担当された彼女に敬意を表したい

最後に、個人的な話になってしまうが以下を記して本篇を終えたい。私は1990年代後半と2000年代前半の二度、日本企業の代表者としてシンガポールに駐在した。20数年後のシンガポールの見違える変貌と一層の活性化に驚愕した。一方で日本の存在が希薄化していた。シンガポール航空(SQ)は日本への観光客の往復便だった。かつてのSQが日本からシンガポールへのビジネス客、観光客の往復便だったものが様変わりしていた。

シンガポール国家運営の戦略性とそれ故の発展は持続していた。マレーシア中央政府との確執からやむなく独立したシンガポールはリー・クアンユーのもと、当初から国の在り方の方向性がはっきりしていた。国土が淡路島程の広さ、資源がなく人口も少ない中でマレー半島の突端に位置し、中国人、マレーシア人、インド人が共住する特性を生かし、周辺地域へのハブとなり利便性を提供することを国家の存在意義とした。そのためにシンガポールを経由すれば世界各国のどこの都市にも行ける、シンガポールにオフィスを構えれば高度に機能する、観光的魅力に富んでいる等などの環境整備に注力した。チャンギ空港・シンガポール航空の利便性と快適性、先端産業誘致、英才教育制度、人材育成、英語の通用、観光施設の充実等枚挙にいとまがない。私がいた頃に、政府内には競争力強化コミッティという当時は聞き慣れない名称の組織が立ち上がっている。しかしながら文化芸術面では物足りなかった。地勢的な要因から港町、商業都市として位置付けられ、戦争や政治体制の変化があって、歴史的事績も不足していることから文化芸術の蓄積が乏しい。博物館、美術館も貧弱だったのでクリスティーズ、サザビーズなどのオークションが楽しみだった。今回の展覧会に出品されているベトナム人画家はそこで知った。Singapore Festival of Artsという催しも毎年6月に行われていたがパフォーマンスが中心でFine Artは少なかった。

それが、今世紀になると利便性提供の継続的な実行に加え、豊かさ提供の段階に移行する。物質的な事物から始まり感性、精神性の領域へと展開していった。文化芸術分野への資源の投入である。「City of Others」展はその流れの一環にある。ASEANの中心国シンガポールならではの[大戦間時代にアジアからパリのアートシーンに参画したアーティストを横断的に検証する]という好企画は、ASEANに留まらずASIA全体をカバーしていた。

東京から同行したちひろ美術館の松本猛君夫妻、東京都美術館の高橋明也君(当社団理事)と共に展覧会の充実振りに心満たされて美術館の正面玄関を出ると、折しも道の向こうに面した広場パダンでは建国60周年記念式典の会場設営の準備が急ピッチで進められていた。遠くに前日訪れたばかりの現代シンガポールを代表する建造物マリーナベイ・サンズの奇抜な姿が見えた。(2025年5月)

【topics】シンガポール国立美術館を訪問しました

シンガポール国立美術館で開催中の展覧会「City Of Others: Asian Artists In Paris, 1920S-1940S」2025・4・2〜2025・8・17を訪れました。板倉鼎の「赤衣の女」が同展のメインヴィジュアルに採用されており担当の Director&Curator 堀川理沙氏にご案内いただきました。

訪問レポートは、(menu)GALLERY (submenu)BOOKS にUPしました。ここでは現地で撮ったスナップを紹介します。

  

            

  

  

   

 

 

  

 

  

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】伊原宇三郎 その7「Toho丸の甲板にて」の制作年を探る

本コラムでは以前、額裏情報から制作年を探り出す試みで田辺至と伊原宇三郎作品を取りあげた(2021年7月、2021年9月)。今回は、同じ伊原宇三郎の作品だが裏面ではなく表面に描かれたモチーフから制作年を割り出す話である。画題は【Toho丸の甲板にて】である。

伊原宇三郎の表記油彩画(12号P)を入手した。1920年代〜40年代にかけて昭和戦前戦中期の近代日本洋画をfocusして調べたりエッセイの類いを綴っている者にとって制作年は必須の情報なのだが当該作に年記は無い。私は、伊原の画風変遷から彫像のような人体描写、矩形の存在感が際立つ滞欧作ではなく、また戦後の巧みで描き熟れた風景写生画でもない、図録などではあまり見かけないフランスからの帰国(1929年)以降、陸軍嘱託となる戦争記録画時代(1938年〜1945年)に先立つ頃の作ではなかろうか、と見立てた。戦争期の船舶の雰囲気を感じなかったからでもある。伊原作品をlineupしたかった面もある。

年譜をあたると、1937年5月東京日本橋三越における海軍協会主催の洋画諸大家新作海洋美術展覧会に出品しているとの記述があった。そこで、本作はこの展覧会出品作或いはそのエスキースではないか、と想定したのである。しかし確たる証拠がない。

大学で船舶工学を専攻し三菱重工業長崎造船所にいた友人信原眞人君に絵を見てもらうことにした。伊原の署名の下にフランス語で「Toho丸の甲板にて」と書かれている。トーホー丸とは何時頃建造された船なのか。また絵から読み取れる事柄がないか、訊ねたのだ。彼からの返事を要約すると次の通りだ。

「船舶史記録に依れば、飯野商事および飯野海運が所有した東邦丸は4代にわたって存在していた。その存在期間は、第一代1936〜1943、第二代1944〜1945、第三代1948〜1996、第四代1972〜1982、なのだが、伊原氏が画いた東邦丸は第一代の東邦丸と思われる。画かれている救命ボートに記されている船名が「MS TOHOMARU」と読めるため、MS=Motor Ship、即ち主機がディーゼル機関だと考えられる。第一代東邦丸の主機はディーゼル機関であることから当該の船は第一代と判断した。というのも第二代、三代、四代は、いずれも、SS=Steam Ship、即ち主機は蒸気タービン機関だからだ。」極めて納得の行く解明である。決め手となったのはモチーフとなった甲板上の救命ボートなのだった。私のいわば文系的見立てと信原君の理系的検証がmeetしたのである。持つべきものは友、だ。

参考までに、彼が教えてくれた歴代東邦丸の情報(抜粋)は次の通り。

「第一代 東邦丸。1936川崎造船所で竣工、飯野商事が運航、油槽船として米西海岸からの石油輸送に従事、1938 海軍が徴用、1941 三菱重工業横浜造船所にて艤装工事を施工、給油船に改造、1943  米軍潜水艦の魚雷を受け沈没。総トン数:9,987。載貨重量:13,431 t。垂線間長:152.4 m。船幅:19.8 m。船深:11.32 m。喫水:8.98 m。主機:川崎MANディーゼル機関、9,987 PS。船速:16 kn。

第二代 東邦丸。1944 三菱重工業長崎造船所で竣工、飯野海運が運航、1945  被弾沈没。総トン数:10,238。載貨重量:14,960 t。垂線間長:148.0 m。船幅:20.4 m。船深:12.0 m。喫水:8.98 m。主機:蒸気タービン機関、5,000 PS。船速:15 kn。

第三代 東邦丸。1948竣工、飯野海運が運航、1996売却。

第四代 東邦丸。1972竣工、飯野海運が運航、1982解撤。」

「Toho丸の甲板にて」は、伊原が陸軍嘱託になる前、第一代東邦丸が海軍徴用となる前、の1937・昭和12年に乗船して海軍協会主催の海洋美術展出品作を描いたのではないか、と結論付けたのである。

伊原宇三郎は立体物である対象を的確な描写で絵画平面に置換する優れたデッサン力と、モチーフを(伊原の言に頼れば)有機的に配置する画面構成力に長けた画家である。本作は切り取られた構図の中で、救命ボート船縁のゆったりとした滑らかな線と背景の大海原とが、当時の世相がまだ落ち着いていることを示しているように感じる。

さて、「トーホー丸の甲板にて」を描いた頃の伊原の作品群について改めて考えてみたい。4年間のフランス滞在を終えて1929・昭和4年7月に帰国した後、1938年夏、陸軍の嘱託画家として中国大陸を北から南へ順に従軍するまでの間、伊原の画業はあまり展開していないと思ったからである。画壇的には華々しい実績を挙げているのだが・・・

伊原の年譜を追ってみる。帰国した年の10月、第10回帝展に滞欧作「椅子によれる」を出品して特選となる。以降、帝展改組騒動(松田改組)で帝展未開催となった年の前年、1934年第15回まで続けて出品した。うち第11回「二人」、第13回「*(木へんに日、羽)上二裸婦」は特選となり、第15回では審査員に任じられた。典型的な東京美術学校出身者のエリートキャリアを歩んだ官展アカデミストである(伊原は1921年3月首席卒業)。

更に、教育者、洋画界牽引者としての活動が目立つ。1930年から32年まで帝国美術学校西洋画科教授、翌1933年3月美校助教授に就任。近代美術館建設期成会、銀座美術家協会、オリンピック東京大会組織委員会、等々多数の団体の発起人や委員に就いている。それらを補完する意味合いもあるのだろう各種展覧会出品、執筆活動(キリコ、ピカソ、ドランの紹介単行本、アトリヱ、みづゑ、美術新論等美術雑誌、新聞への寄稿等)、座談会出席が旺盛である。戦中期1941年10月「新美術」に掲載された「畫家の労作」は画家の何たるかを啓蒙する優れたレポートで石橋正二郎の推挙で発表され、戦後1955年にはブリヂストン美術館から復刻されている。画力筆力に加え、コミニュケーション能力、行政・組織運営能力に富んだ多才な伊原だからこそこなせたといえる。しかしながら多忙ゆえか、この時期の創作活動は滞欧時代の延長線上の作品が目立つ。伊原宇三郎はその経歴から当然有るべき画集が何故か未刊行だが、図録等を見る限り滞欧後期サロン・ドートンヌに入選した「横臥裸婦」「白衣を纏える」と同系統の彫像的人体像、2~3人群像図が多い。帰国年の帝展特選作「椅子によれる」は滞欧作品だった。デッサン力に富み西欧古典、ルネサンスを学んでアカデミズム指向だっただけに当時のヨーロッパ新潮流(フォーヴ以降)に距離を置いた制作姿勢は伝わって来るが、1933年第14回帝展出品作「トーキー撮影風景」に見られる構図や画面構成の展開が図られないまま戦争記録画時代に突入したのが残念だ(戦後期作品に画面構成に秀でた作品群が登場する)。「Toho丸の甲板にて」も招聘に応じた制作、といったところか。ただ後年肖像画の第一人者と見做されるきっかけとなった「徳川家達公肖像」「深井英五氏像」の完成はこの時期1936年であり画期と言える。

【椅子によれる】1929 【トーキー撮影風景】1933(共に図録画像)

こののち、伊原は陸軍嘱託として中国大陸に赴く。荒野を背景に戦う兵士や軍人群像を描くのだが、そこに至ってかつて西欧でルネサンスに学び追求した画面構成、群像描写に向き合うことになるのである。伊原宇三郎に限らず、藤田嗣治、中村研一、小磯良平等渡欧して近世絵画に接しデッサン力に秀でた画家たちは時代の要請に応じて戦争記録画に取り組み力作を遺していった。この事実は、我が国近代洋画史における大きな研究課題だと考えている。体制側、戦争責任といった観点とは異なる作画上の視点から分析すべきテーマではなかろうか。

文責:水谷嘉弘

【news】シンガポール国立美術館に板倉鼎作品【赤衣の女】が展示されます

2023年10月本欄【news】で、シンガポール国立美術館から板倉鼎について照会があった旨お知らせしました。このたび同館より来月から開催される展覧会の開会式案内が到来しました。メインヴィジュアルに鼎の「赤衣の女」が使われています。同展には、鼎の他、藤田嗣治、川島理一郎も展示されているようです。

展覧会名「City Of Others: Asian Artists In Paris, 1920S-1940S」2025・4・2〜2025・8・17 担当:director(curator)堀川理沙氏

展覧会フライヤー掲載作品:板倉鼎「赤衣の女」 Woman in Red Dress 1929(昭和4)年 116.8×80.3cm キャンバス、油彩 松戸市教育委員会所蔵 第1回仏蘭西日本美術家協会展(パリ)1929年4月 出品作品

 

参考までに2023年10月6日掲載の【news】を再掲します。

先月、シンガポール国立美術館の director&curator の方 から板倉鼎について照会がありました。同館は2015年設立の東南アジアの近現代美術を専門とする美術館です。「2025年開催予定の「City of Others: Asian Artists in Paris 1920s-40s」という特別企画展の準備を進めている。従来「日本の画家がみたパリ」というように国別の枠組みで捉えられてきた大戦間の画家のパリ体験を、ベトナム、中国、日本の画家(工芸家)の足跡を追い一つの展覧会のなかで横断的に検証する企画。大戦間時代の日本人画家の活動を調べていく過程で板倉鼎・須美子を知り、多くの作品を所蔵する松戸市教育委員会で現物を実見出来ないか、展覧会に展示する作品を借用できないか」との問い合わせでした。

板倉鼎・須美子を知ったキッカケは同展の準備でパリに出向き当時のサロン等に出品した東南アジア画家を調査していた時。企画展にはベトナム人、中国人に加え日本人画家を何人か取り上げ在パリ作品を展示したい。キキメとなる藤田嗣治や佐伯祐三の展示作品は内定しており、板倉鼎について当社団のホームページを閲覧してコンタクトして来られたそうです。早速、松戸市教育委員会の田中典子学芸員に繋ぎました。

本ホームページ【近代日本洋画こぼれ話】で取り上げた川島理一郎、清水登之、等に加え、板倉鼎と同様忘れられたエコール・ド・パリの画家の一人である高野三三男も展示候補になっているようで、同時代の本邦洋画家の再評価、顕彰を旨としている当社団にとって嬉しい連絡でした。近年の繁栄著しいASEANの中心都市シンガポールで板倉作品が展示紹介される展覧会に大いに期待しています。(再掲了)

文責:水谷嘉弘

 

【news】板倉鼎の代表作【休む赤衣の女】が東京国立近代美術館に展示されています

今般、板倉鼎の代表作【休む赤衣の女】が東京国立近代美術館(千代田区北の丸公園3-1)に寄託替えとなり、2025年2月11日から始まった所蔵作品展「MOMATコレクション」で展示されているのでお知らせします。(冒頭写真は、東京国立近代美術館 小松弥生館長、鼎作品担当研究員(学芸員) 横山由季子さん、水谷)

 

「MOMATコレクション展」のキキメ、4階1室「ハイライト」に展示されており作品前にはインバウンダーはじめ人溜まりがしていました。かなりの訴求力でした。会期は6月15日まで。今回展は裏のテーマで夫婦共に芸術家だった画家の作品をpickupしたとのこと。鼎の隣はロベール・ドローネーでしたし、三岸好太郎・節子夫妻、吉田博・ふじを夫妻、ジョージア・オキーフ等など、須美子作品も近美に入れば・・・と思いました。近代日本洋画では、原田直次郎【騎龍観音】、関根正二【三星】、靉光【眼のある風景】、藤田嗣治【血戦ガダルカナル】等の他、板倉鼎がパリで最も親しく付き合った東京美術学校同期の岡鹿之助作品も出品されています。是非ご覧ください。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】佐分真 その4 素描・少女像と画集「SABOURI」、その他

近代日本洋画こぼれ話「佐分真その3 2枚のデッサンと、付いていた品々」に[ 1936年10月、没後半年で刊行された画集「佐分真」(限定450部)春鳥会、には油彩画47点の他デッサン11点(コンテ9点、鉛筆2点)が収録されていた ]と書いた。その後、この中のコンテ作品1点を入手した。【少女像】1932年(推定)、コンテ53.9㎝✕41.5㎝、である。

画集「佐分真(SABOURI)」 表紙・目次(最終頁)

佐分真の生涯に関する文献を読むと必ず触れられるのが、自宅アトリエでの自死についてだ(1936・昭和11年4月23日、享年38歳)。遺書は有ったが原因は謎で多くの友人たちが思い思いの文を綴っている。親しい画友(小寺健吉、伊原宇三郎、林重義、田口省吾、伊藤廉、宮田重雄、小堀四郎、益田義信ら)はアトリエを整理して遺作展を催し(1936年9月)、既述の画集を刊行した。小寺によればフランスから持ち帰った多くの作品が無署名のままキャンバスに巻かれてアトリエに放ってあったそうだ。展示するため補強修復し、ほとんどの作品は無署名でスタンプサインを作って押印し、作品をA,Bにランク分けして画集掲載作を選定したという。画集掲載の油彩画47点は、自画像1点から始まり、(滞欧後期・昭和3年~7年)34点、(滞欧前期・昭和2年~3年)6点、(帰朝後・昭和7年~11年)4点、(滞欧前・大正14年~15年)2点、の順に仕分けられている。期毎の点数にばらつきがあり時期の仕分けが不可解だ。佐分の2回の渡欧は昭和2年~5年10月と、昭和6年末~7年末であり時系列的な前後期と合致しないからである。しかしこれは、仕分けが昭和5年初めからの画風の変化 ~写生的な風景画から重厚な人物画へ~ に応じたものと考えれば理解できる。佐分の画業のピークは、2回の滞欧期をまたがる昭和3年頃から亡くなる2年前の昭和9年頃まで、と皆の認識が一致していたのだろう(画集には最晩年の壁画画稿、絶筆各1点もある)。

【貧しきキャフェーの一隅】1930・昭和5年 図録画像

【室内】1934・昭和9年 図録画像

佐分は1929・昭和4年9月下旬から約1か月間のオランダ・ドイツ行を境に画風が変わる。代表作とされる【貧しきキャフェーの一隅】昭和5年、をはじめ明暗の対比と濃密なマチエールが印象的な、佐分作品を特徴付けるレンブラント風の人物画はみなこの期間の作に挙げられている。

さて、このコンテ作品は額裏に小説家、劇作家の川口松太郎(1899生まれ)が識を認めていた。全文を転記する。[佐分眞作 少女像 昭和六十年改装 予の友人にして若く自殺せる天才なり 川口松太郎]

  

子息純一氏は「画家佐分眞 わが父の遺影」1996求龍堂、に [佐分は、自作を売ることをほとんどしなかったので、没後、親戚・友人の一部にあげた残りは、東京と名古屋の家に保存された。] と書いている。本作は友人に配られたうちのひとつだろう。遺作画集に採択された作品であり二人はかなり近しかったに違いない。私が見聞した限り佐分サイドの資料から松太郎に関する情報に接したことはないが、二人の接点は容易に想像できる。文藝春秋ルートだ。

佐分の年譜には「1931年11月末再びフランスへ渡る。この頃より文藝春秋や美術雑誌などから執筆を依頼され・・・随筆を寄稿」、「1935年12月文藝春秋主催のユーモリスト座談会に出席、大いに駄弁を弄して好評を博す。この時の出席者によって「風流倶楽部」を結成。・・・」とある。

川口松太郎は文藝春秋が発行する「オール読物」1934年に掲載した「鶴八鶴次郎」で翌35年第一回直木賞を受賞。また松太郎の鎌倉在住文士仲間、久米正雄は、佐分と共にパリで交流した文化人の集まり「コンパル会」のメンバーだった。因みに佐分の代表作のひとつ【室内】1934、第15回帝展特選・画集掲載、は、同じく鎌倉文士で文藝春秋とも関わりのある大佛次郎(1897生)が佐分から直接贈られている(現在、大佛次郎記念館所蔵)。

参考:両会の主たるメンバー「風流倶楽部」徳川夢声、高田保、辰野九紫、石黒敬七、宮田重雄、等。「コンパル会」福島繁太郎、久米正雄、吉屋信子、石黒敬七、宮田重雄、長谷川昇、小寺健吉、伊原宇三郎、伊藤廉、田口省吾、小堀四郎、等。

このように佐分は2回目渡仏からの帰国以降、文学者との付き合いやメディアでの活動が目立つようになる。一方画業の方は所属する二つの会派を離脱する。軸足を移した感がある。1935年5月の松田(帝展)改組による官展運営(美術界)の新体制が佐分にとって不本意だったのかもしれない。美校藤島武二教室出身、パリ留学、帝展特選3回、といったトップキャリアにも関わらず新体制ではそれに相応しい処遇が成されなかったのは事実だ。不自然でさえある。画壇の政治性に嫌気がさし、文才と語り口に恵まれた佐分が仲間も多いそちらに寄っていったのは妥当な成り行きにも見える。しかしそこに至るまでの長い間、佐分真の書いた文章や言動を顧みると、最後の2、3年の振る舞いは擬態であり、内実はアカデミズムを担う正統な画家として在りたい、という強い思いを持ち続けていたと確信する。最も身近な画友であり絵画研究やキャリアにおいても同じ行程を先駆けていた先輩の伊原宇三郎(1894生)は「佐分が旧帝展で育った画家であり、佐分の本質をよく識っている私は・・・」と書き「何とかして周囲の力ででも安住の世界が与へられてゐればよかった」と続ける(「佐分の死」1936年5月)。しかしそうならず、思いの成就から引き離されたやるせなさ、自分の居場所と信じていた所からの疎外感が自死の遠因にあったのではないか、と感じるのである。子息純一氏が佐分真の通夜の模様を記した場面に、その一端が如実に示されていると思えてならない。

(quote)アトリエの北側に柩を据えて・・・通夜の晩は多数の人々が訪れたが、一番印象に残っているのは、「風流倶楽部」のメンバーと画友の一部が合流し、故人の自殺という深刻な状況を和らげようと賑やかな雰囲気を盛り上げたことである。・・・お棺のそばにはそういう賑やかな連中がぎっしり席を占領していたので、別室の応接間のほうでは通夜の席らしく、会葬者たちが言葉少なに控えていた。その中には故人と親密な画家の姿も見えたが、心なしかアトリエの会葬者とは同席したくないような様子で・・・今から思えば、学生時代からの旧友には、帰国後の佐分がそういう仲間と交際するのを快からず思っていた人もいたのではないかという気がする。(unquote)

純一氏はじめ観者の多くが佐分の人物画に沈潜した精神を、風景画にも写実をこえた精神性を感じると書いている。それはとりもなおさず佐分自身が精神を凝縮し魂を込めて画面と向き合っていたからに他ならない。そんな一本気で生真面目な、本来的には不器用だと思える人物が、美校以来の官展系画友達と、最晩年の「風流倶楽部」仲間と、テイストの異なる二方の付き合いに分断されていた事実を重く捉えるものである。

文責:水谷嘉弘

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