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シンガポール国立美術館訪問録 

シンガポール国立美術館訪問録  ―アジアからパリに渡ったエトランジェ達の展覧会―

水谷嘉弘

去る5月14日にシンガポール国立美術館を訪問した。「City Of Others: Asian Artists In Paris, 1920’S−1940’S」というタイトルの企画展(2025・4・2〜2025・8・17)が開催されている。板倉鼎の「赤衣の女」1929年作がメインヴィジュアルに使われている、と知ったからだ。

1年半ほど前の2023年9月、企画展の準備を進めていた同館のDirector&Curator堀川理沙さんから「大戦間時代の日本人画家の活動を調べていく過程で板倉鼎・須美子を知った。多くの作品を所蔵する松戸市教育委員会で現物を実見出来ないか、展覧会に展示する作品を借用できないか」との問い合わせがあり、話を繋いだ。

シンガポール国立美術館は、2015年設立のASEAN随一の規模を誇る東南アジアの近現代美術を専門とする若い美術館だ。同展は、従来の「日本の画家がみたパリ」というような国別の枠組みを超えて、1920年代から1940年代にかけての大戦間時代 、所謂「エコール・ド・パリ」の時代と重なる芸術家のパリ体験を、シンガポールだけでなくベトナム、中国、日本ほかアジア出身の画家や工芸家の足跡を追い、一つの展覧会のなかで横断的に検証する企画である。同展のパブリシティには「エコール・ド・パリ」の文字がほとんど見当たらない。モンパルナスの藤田嗣治とその仲間達をエコール・ド・パリ(school of Paris)と呼んだと記されている程度である。「エコール・ド・パリ」はあくまでも大戦間時代の一表象との捉え方であり、同展が特定の絵画スタイルや主義、潮流を紹介するのではなく、アジアからパリにやって来た他者達(エトランジェ)が、異国に在って、何処で何をどのように表現したかを、多分野にわたり横断的に鳥瞰することに軸足を置いたからだと理解した。展覧会場第1章に「Workshop to the world」、第3章に「Spectacle and stage」があるのもそれ故であろう。

堀川さんの案内で会場を一巡した。20世紀前半に建てられたイギリス様式の荘重な建物でかつてはシンガポール最高裁、市庁舎として使われ、10年前に美術館に転用しただけに館内も厳かな感じである。大掛かりな展覧会で絵画作品だけでなく彫刻、工芸品(ベトナム漆器)、屏風仕立て(フランス人デュナン、濱中勝)、ポスター(里見宗次)や映像スクリーンに至るまで幅広い展示品類が空間を占めていた。写真(中山岩太が日本人舞踏家小森敏を撮ったパネルもあった)、書籍類が平台に置かれ、短編フィルムも上映されていた。準備に約3年を要し、パリには複数の学芸員が1ヶ月以上滞在して調査にあたったそうだ。板倉鼎の作品は「赤衣の女」と「画家の像」1928年作の2点、須美子の作品は「午後 ベル・ホノルル12」1928年作等3点があった。特にメインヴイジュアル採用の「赤衣の女」はロビーの案内板、エレベータ内部にも大きくUPされ、会場では藤田嗣治の本邦デビュー作「私の部屋」1921年作と同じ壁面にあって、その部屋では最もhighlightされていた。「板倉鼎・須美子の画業を伝える会」の設立など鼎、須美子の顕彰活動をしてきた私には喜ばしい驚きで、少し誇らしい気持ちになった。

一巡りして私は絵画展示の流れから、大戦間時代、アジア出身アーティスト達のパリへのアクセスの推移を次のように把握した。展覧会場の第4章「Sites of exhibition」、第5章「Studio and street」である。

先ず1920年代には多くの日本人芸術家が集団に近い形でパリのアートシーンで一定の存在感を示した。1930年代になると入れ替わるようにハノイでフランス人画家から西欧的な美術教育を受けたベトナム人芸術家の少人数グループが渡仏し活動の場を広げる。他方、同時代を通して中国人芸術家はメインランドから、或いは中国と強い繋がりのあるシンガポール人(建国後)芸術家も、共にほぼ単独でパリに入り創作活動を続けた。三者三様のエトランジェ達のパリ体験だった。

これは背景にある当時の世界情勢、政治経済状況を知ると良くわかる。

1920年代は米国が世界一の債権国となって繁栄を迎える。フランスは第一次世界大戦の戦勝国ながら消耗が激しく政治経済は混迷が続いたがパリは平和オリンピック(1924年)、アール・デコ万博(1925年)と世相的には華やかだった。美術界もエコール・ド・パリ全盛期、日本人画家は藤田嗣治を中心に一大勢力を誇っていた。日本円の過大評価による経済力があった為である。米国同様、戦勝国かつ戦地にならなかった日本は大戦前の金本位制における1us$=2円が大戦後も維持されていたのに対し、フランスフラン(F)は大幅に値下がりし大戦前の1円=2.6Fが10F~15Fで推移した。パリは急激なインフレが進み購買力も落ちたとはいえ大いなる円高を享受したのである。その頃、アジア諸国は英仏蘭ら西欧列強による世界分割が完了し、植民地主義は最盛期を迎えていた。植民地化された国民にとって欧州留学は非現実であった。しかし1929年ニューヨーク発の大恐慌が世界に波及し、1931年末の日本政府の金輸出再禁止を契機として円が対ドルで大巾に下落した1932年以降日本人画家のパリ留学は激減する。一方で、ベトナムは宗主国フランスがインドシナ植民地経営の拠点であったハノイに美術学校を設立(1925年)、本国から赴任した教員(画家)に学んだベトナム人学生達が1931年頃からパリで作品を発表し始めその後移住する者が出た。中国本土は中華民国統治下だったが国共のせめぎあいが続き混乱のただ中にあった。

さて、1920年代を通して日本人画家は多人数がいたからとはいえ(200人、と展覧会冊子には記されている)、絵画スタイル・画風の幅が広範に渡る。画力が高位にあったこと、パリ現地で実物作品を見て多くを学び各自がそれぞれに傾倒したスタイルに寄って行ったことがわかる。言い換えれば、自分独自の絵を描いたのは藤田嗣治らごく少数だった。板倉鼎・須美子夫妻はその範疇に入る。彼らが帰国した後の1930年代、1940年代、パリ経験を積んで画家としての最盛期を迎える頃、日本が戦争に突入したことは不運だった。それに加え、彼我の風物の違いからか画業のモチーフも質も変わってしまった。この時代の日本人画家の滞欧作は見応えがあり同展逆輸入の形で本邦での再評価に繋がることを期待したい。日本国内の展覧会は個人の回顧展、或いは日本人のみのグループ展がほとんどであり、同時代のアジア人画家との並行展示は新鮮で筆致、モチーフの捉え方などその違いについて新たに知るところも多かった。

・展示されていた日本人画家(生年順)

藤田嗣治(1886年生まれ)、川島理一郎(1886)、清水登之(1887)、坂田一男(1889)、中村義夫(1889)、萩谷巌(1891)、矢部友衛(1892)、東郷青児(1897)、佐伯祐三(1898)、福沢一郎(1898)、岡鹿之助(1898)、野口弥太郎(1899)、高野三三男(1900)、荻須高徳(1901)、板倉鼎(1901)、海老原喜之助(1904)、板倉須美子(1908)、岡本太郎(1911)。

・展示されていた主たるベトナム人画家

先輩格グェン・ファン・チャン(1892年生まれ)と、かなり年下で1歳違いのパリ留学三羽烏の3人:マイ・チュン・トゥ(1906)、レ・フォー(1907)、ヴ・カオ・ダン(1908)。

彼らは皆、1925年にハノイに開校したインドシナ美術学校の卒業生である。フランス人画家タルデューらが印象主義を教えた。1930年代に入りパリに作品を送る者が出て、1937年には美術学校同期のマイ・チュン・トゥとレ・フォーが移住した。絹絵、漆絵の伝統に根差した近代的な絵画を描き好評を博した。穏やかな作品群で、装飾性に富み、マイ・チュン・トゥはアンティミストと呼ばれた。彼らは、先行した日本人画家群とは異なる環境、パリの絵画マーケットからの制作要請に晒されていたようだ。

・シンガポール人(建国後)画家

ジョーゼット・チェン(1906年生まれ)、リュウ・カン(1911)。

中国浙江省に生まれ、パリに移住、ニューヨーク、上海で美術を学んだのち、シンガポールを終の棲家とした女流画家ジョーゼットと、伝説的な国民画家、正統的画風のリュウ・カンはこの展覧会には外せないネームだ。

・中国人画家

サンユー(1895年生まれ)、パン・ユーリャン(1899)、ユン・ジー(1906)。

アジア近代美術のbig nameサンユー(常玉)は1920年代には早くもモンパルナスで知られる存在となっていた。不自然で不思議な体形や輪郭の人物やモチーフ、筆遣いに何故か見入ってしまい飽きが来ない。うねる画面に惹きつけられるユン・ジー(朱沅芷)と共に、中国人画家によく感じる掴みどころのない器量の大きさがあった。

上記した画家の生年から、展覧会がfocusした時代にパリに滞在した日本人画家とアジア諸国出身画家達の年齢差が分かる。既述したように主役となる画家と活動期が間を置かず日本人からベトナム人へと移行したことに合点が行く。世界情勢が戦争に向かっていたこと、日本円の価値下落が無ければ日本人画家達の渡仏は続いたであろう。また、日本人画家の後を継ぐ形になってパリで存在感を増したとはいえ、大戦中もパリに留まったベトナム人画家、中国人画家達は祖国から逃避した人物と見做され、戦中戦後の国家体制の転換も相俟って精神的には厳しい状況にあった。志を絶たれた日本人画家とは異なる苦渋、異国に在って祖国と閉ざされた根無し草の辛さに愛憎半ばしたことだろう。

大戦間時代はアジア諸国が植民地化されていた時期と重なる。1931年パリで開催された「国際植民地博覧会」においてインドシナ館に設営されたアンコールワット(カンボジア)を撮影した写真が大きく引き伸ばされて展示されていたのは象徴的だった。そのような時代を対象として当時の風潮と芸術作品をどのように展示するか。同館のキュレーターは欧州植民地主義や、社会共産主義とのイデオロギー闘争をどう扱うか、議論を重ねたに違いない。展覧会場には第2章に「Theatre of the colonies」があった。展示や展覧会冊子は事実を直視し価値判断を押し付けず植民地主義と反植民地主義の双方の動きを記していた。植民地主義を糾弾することもなかった。当時の日本と韓国、台湾との関係もある。日本人画家と韓国人画家パイ・ウンソン(1900年生まれ)、台湾人画家楊三郎(1907)の作品を並べて取り上げていた。

同展がfocusした1920’S~1940’S時代認識への回答が、最後の第6章「Aftermaths」に示されたように思う。ベトナム人画家三羽烏の一人マイ・チュン・トゥが画業とは別に行った活動だ。彼は1937年にパリに移住し永住した。為に政治体制の変わった第二次世界大戦後は本国からの敵対視に直面した。複雑な気持ちだったろう。彼は歴史の事実を記録に残すことの重要性を述べる。収集した政治的イベントや社会活動を写した動画が展覧会場最後の部屋で上映されていた。彼の代表的なスタイルとして知られるあどけない子供達を描いた作品群はメイン展示の部屋には見当たらなかった。戦後に出現したからか、ただ「Aftermaths」に彼のironicな表情の自画像「眼鏡をかけた自画像」1950年作が掛けられていたのである。会場入り口のアプローチ正面に日本人画家藤田嗣治の自画像「アトリエの自画像」1926年作が掛けられ、終わりの章にベトナム人画家マイ・チュン・トゥが登場した。この二人は時代を代表する画家というだけでなく、異国に永住し祖国に疎まれ他国で他者(エトランジェ)として生涯を終えたという近代の国際情勢が産んだ生き様も共通する。

堀川さんが、会場入り口アプローチの壁面に掲示されていた関係者リストに私の名前があると指差された時はびっくりした。充実した同展を担当された彼女に敬意を表したい

最後に、個人的な話になってしまうが以下を記して本篇を終えたい。私は1990年代後半と2000年代前半の二度、日本企業の代表者としてシンガポールに駐在した。20数年後のシンガポールの見違える変貌と一層の活性化に驚愕した。一方で日本の存在が希薄化していた。シンガポール航空(SQ)は日本への観光客の往復便だった。かつてのSQが日本からシンガポールへのビジネス客、観光客の往復便だったものが様変わりしていた。

シンガポール国家運営の戦略性とそれ故の発展は持続していた。マレーシア中央政府との確執からやむなく独立したシンガポールはリー・クアンユーのもと、当初から国の在り方の方向性がはっきりしていた。国土が淡路島程の広さ、資源がなく人口も少ない中でマレー半島の突端に位置し、中国人、マレーシア人、インド人が共住する特性を生かし、周辺地域へのパブとなり利便性を提供することを国家の存在意義とした。そのためにシンガポールを経由すれば世界各国のどこの都市にも行ける、シンガポールにオフィスを構えれば高度に機能する、観光的魅力に富んでいる等などの環境整備に注力した。チャンギ空港・シンガポール航空の利便性と快適性、先端産業誘致、英才教育制度、人材育成、英語の通用、観光施設の充実等枚挙にいとまがない。私がいた頃に、政府内には競争力強化コミッティという当時は聞き慣れない名称の組織が立ち上がっている。しかしながら文化芸術面では物足りなかった。地勢的な要因から港町、商業都市として位置付けられ、戦争や政治体制の変化があって、歴史的事績も不足していることから文化芸術の蓄積が乏しい。博物館、美術館も貧弱だったのでクリスティーズ、サザビーズなどのオークションが楽しみだった。今回の展覧会に出品されているベトナム人画家はそこで知った。Singapore Festival of Artsという催しも毎年6月に行われていたがパフォーマンスが中心でFine Artは少なかった。

それが、今世紀になると利便性提供の継続的な実行に加え、豊かさ提供の段階に移行する。物質的な事物から始まり感性、精神性の領域へと展開していった。文化芸術分野への資源の投入である。「City of Others」展はその流れの一環にある。ASEANの中心国シンガポールならではの[大戦間時代にアジアからパリのアートシーンに参画したアーティストを横断的に検証する]という好企画は、ASEANに留まらずASIA全体をカバーしていた。

東京から同行したちひろ美術館の松本猛君夫妻、東京都美術館の高橋明也君(当社団理事)と共に展覧会の充実振りに心満たされて美術館の正面玄関を出ると、折しも道の向こうに面した広場パダンでは建国60周年記念式典の会場設営の準備が急ピッチで進められていた。遠くに前日訪れたばかりの現代シンガポールを代表する建造物マリーナベイ・サンズの奇抜な姿が見えた。(2025年5月)

【topics】シンガポール国立美術館を訪問しました

シンガポール国立美術館で開催中の展覧会「City Of Others: Asian Artists In Paris, 1920S-1940S」2025・4・2〜2025・8・17を訪れました。板倉鼎の「赤衣の女」が同展のメインヴィジュアルに採用されており担当の Director&Curator 堀川理沙氏にご案内いただきました。

訪問レポートは、(menu)GALLERY (submenu)BOOKS にUPしました。ここでは現地で撮ったスナップを紹介します。

  

            

  

  

   

 

 

  

 

  

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】伊原宇三郎 その7「Toho丸の甲板にて」の制作年を探る

本コラムでは以前、額裏情報から制作年を探り出す試みで田辺至と伊原宇三郎作品を取りあげた(2021年7月、2021年9月)。今回は、同じ伊原宇三郎の作品だが裏面ではなく表面に描かれたモチーフから制作年を割り出す話である。画題は【Toho丸の甲板にて】である。

伊原宇三郎の表記油彩画(12号P)を入手した。1920年代〜40年代にかけて昭和戦前戦中期の近代日本洋画をfocusして調べたりエッセイの類いを綴っている者にとって制作年は必須の情報なのだが当該作に年記は無い。私は、伊原の画風変遷から彫像のような人体描写、矩形の存在感が際立つ滞欧作ではなく、また戦後の巧みで描き熟れた風景写生画でもない、図録などではあまり見かけないフランスからの帰国(1929年)以降、陸軍嘱託となる戦争記録画時代(1938年〜1945年)に先立つ頃の作ではなかろうか、と見立てた。戦争期の船舶の雰囲気を感じなかったからでもある。伊原作品をlineupしたかった面もある。

年譜をあたると、1937年5月東京日本橋三越における海軍協会主催の洋画諸大家新作海洋美術展覧会に出品しているとの記述があった。そこで、本作はこの展覧会出品作或いはそのエスキースではないか、と想定したのである。しかし確たる証拠がない。

大学で船舶工学を専攻し三菱重工業長崎造船所にいた友人信原眞人君に絵を見てもらうことにした。伊原の署名の下にフランス語で「Toho丸の甲板にて」と書かれている。トーホー丸とは何時頃建造された船なのか。また絵から読み取れる事柄がないか、訊ねたのだ。彼からの返事を要約すると次の通りだ。

「船舶史記録に依れば、飯野商事および飯野海運が所有した東邦丸は4代にわたって存在していた。その存在期間は、第一代1936〜1943、第二代1944〜1945、第三代1948〜1996、第四代1972〜1982、なのだが、伊原氏が画いた東邦丸は第一代の東邦丸と思われる。画かれている救命ボートに記されている船名が「MS TOHOMARU」と読めるため、MS=Motor Ship、即ち主機がディーゼル機関だと考えられる。第一代東邦丸の主機はディーゼル機関であることから当該の船は第一代と判断した。というのも第二代、三代、四代は、いずれも、SS=Steam Ship、即ち主機は蒸気タービン機関だからだ。」極めて納得の行く解明である。決め手となったのはモチーフとなった甲板上の救命ボートなのだった。私のいわば文系的見立てと信原君の理系的検証がmeetしたのである。持つべきものは友、だ。

参考までに、彼が教えてくれた歴代東邦丸の情報(抜粋)は次の通り。

「第一代 東邦丸。1936川崎造船所で竣工、飯野商事が運航、油槽船として米西海岸からの石油輸送に従事、1938 海軍が徴用、1941 三菱重工業横浜造船所にて艤装工事を施工、給油船に改造、1943  米軍潜水艦の魚雷を受け沈没。総トン数:9,987。載貨重量:13,431 t。垂線間長:152.4 m。船幅:19.8 m。船深:11.32 m。喫水:8.98 m。主機:川崎MANディーゼル機関、9,987 PS。船速:16 kn。

第二代 東邦丸。1944 三菱重工業長崎造船所で竣工、飯野海運が運航、1945  被弾沈没。総トン数:10,238。載貨重量:14,960 t。垂線間長:148.0 m。船幅:20.4 m。船深:12.0 m。喫水:8.98 m。主機:蒸気タービン機関、5,000 PS。船速:15 kn。

第三代 東邦丸。1948竣工、飯野海運が運航、1996売却。

第四代 東邦丸。1972竣工、飯野海運が運航、1982解撤。」

「Toho丸の甲板にて」は、伊原が陸軍嘱託になる前、第一代東邦丸が海軍徴用となる前、の1937・昭和12年に乗船して海軍協会主催の海洋美術展出品作を描いたのではないか、と結論付けたのである。

伊原宇三郎は立体物である対象を的確な描写で絵画平面に置換する優れたデッサン力と、モチーフを(伊原の言に頼れば)有機的に配置する画面構成力に長けた画家である。本作は切り取られた構図の中で、救命ボート船縁のゆったりとした滑らかな線と背景の大海原とが、当時の世相がまだ落ち着いていることを示しているように感じる。

さて、「トーホー丸の甲板にて」を描いた頃の伊原の作品群について改めて考えてみたい。4年間のフランス滞在を終えて1929・昭和4年7月に帰国した後、1938年夏、陸軍の嘱託画家として中国大陸を北から南へ順に従軍するまでの間、伊原の画業はあまり展開していないと思ったからである。画壇的には華々しい実績を挙げているのだが・・・

伊原の年譜を追ってみる。帰国した年の10月、第10回帝展に滞欧作「椅子によれる」を出品して特選となる。以降、帝展改組騒動(松田改組)で帝展未開催となった年の前年、1934年第15回まで続けて出品した。うち第11回「二人」、第13回「*(木へんに日、羽)上二裸婦」は特選となり、第15回では審査員に任じられた。典型的な東京美術学校出身者のエリートキャリアを歩んだ官展アカデミストである(伊原は1921年3月首席卒業)。

更に、教育者、洋画界牽引者としての活動が目立つ。1930年から32年まで帝国美術学校西洋画科教授、翌1933年3月美校助教授に就任。近代美術館建設期成会、銀座美術家協会、オリンピック東京大会組織委員会、等々多数の団体の発起人や委員に就いている。それらを補完する意味合いもあるのだろう各種展覧会出品、執筆活動(キリコ、ピカソ、ドランの紹介単行本、アトリヱ、みづゑ、美術新論等美術雑誌、新聞への寄稿等)、座談会出席が旺盛である。戦中期1941年10月「新美術」に掲載された「畫家の労作」は画家の何たるかを啓蒙する優れたレポートで石橋正二郎の推挙で発表され、戦後1955年にはブリヂストン美術館から復刻されている。画力筆力に加え、コミニュケーション能力、行政・組織運営能力に富んだ多才な伊原だからこそこなせたといえる。しかしながら多忙ゆえか、この時期の創作活動は滞欧時代の延長線上の作品が目立つ。伊原宇三郎はその経歴から当然有るべき画集が何故か未刊行だが、図録等を見る限り滞欧後期サロン・ドートンヌに入選した「横臥裸婦」「白衣を纏える」と同系統の彫像的人体像、2~3人群像図が多い。帰国年の帝展特選作「椅子によれる」は滞欧作品だった。デッサン力に富み西欧古典、ルネサンスを学んでアカデミズム指向だっただけに当時のヨーロッパ新潮流(フォーヴ以降)に距離を置いた制作姿勢は伝わって来るが、1933年第14回帝展出品作「トーキー撮影風景」に見られる構図や画面構成の展開が図られないまま戦争記録画時代に突入したのが残念だ(戦後期作品に画面構成に秀でた作品群が登場する)。「Toho丸の甲板にて」も招聘に応じた制作、といったところか。ただ後年肖像画の第一人者と見做されるきっかけとなった「徳川家達公肖像」「深井英五氏像」の完成はこの時期1936年であり画期と言える。

【椅子によれる】1929 【トーキー撮影風景】1933(共に図録画像)

こののち、伊原は陸軍嘱託として中国大陸に赴く。荒野を背景に戦う兵士や軍人群像を描くのだが、そこに至ってかつて西欧でルネサンスに学び追求した画面構成、群像描写に向き合うことになるのである。伊原宇三郎に限らず、藤田嗣治、中村研一、小磯良平等渡欧して近世絵画に接しデッサン力に秀でた画家たちは時代の要請に応じて戦争記録画に取り組み力作を遺していった。この事実は、我が国近代洋画史における大きな研究課題だと考えている。体制側、戦争責任といった観点とは異なる作画上の視点から分析すべきテーマではなかろうか。

文責:水谷嘉弘

【news】シンガポール国立美術館に板倉鼎作品【赤衣の女】が展示されます

2023年10月本欄【news】で、シンガポール国立美術館から板倉鼎について照会があった旨お知らせしました。このたび同館より来月から開催される展覧会の開会式案内が到来しました。メインヴィジュアルに鼎の「赤衣の女」が使われています。同展には、鼎の他、藤田嗣治、川島理一郎も展示されているようです。

展覧会名「City Of Others: Asian Artists In Paris, 1920S-1940S」2025・4・2〜2025・8・17 担当:director(curator)堀川理沙氏

展覧会フライヤー掲載作品:板倉鼎「赤衣の女」 Woman in Red Dress 1929(昭和4)年 116.8×80.3cm キャンバス、油彩 松戸市教育委員会所蔵 第1回仏蘭西日本美術家協会展(パリ)1929年4月 出品作品

 

参考までに2023年10月6日掲載の【news】を再掲します。

先月、シンガポール国立美術館の director&curator の方 から板倉鼎について照会がありました。同館は2015年設立の東南アジアの近現代美術を専門とする美術館です。「2025年開催予定の「City of Others: Asian Artists in Paris 1920s-40s」という特別企画展の準備を進めている。従来「日本の画家がみたパリ」というように国別の枠組みで捉えられてきた大戦間の画家のパリ体験を、ベトナム、中国、日本の画家(工芸家)の足跡を追い一つの展覧会のなかで横断的に検証する企画。大戦間時代の日本人画家の活動を調べていく過程で板倉鼎・須美子を知り、多くの作品を所蔵する松戸市教育委員会で現物を実見出来ないか、展覧会に展示する作品を借用できないか」との問い合わせでした。

板倉鼎・須美子を知ったキッカケは同展の準備でパリに出向き当時のサロン等に出品した東南アジア画家を調査していた時。企画展にはベトナム人、中国人に加え日本人画家を何人か取り上げ在パリ作品を展示したい。キキメとなる藤田嗣治や佐伯祐三の展示作品は内定しており、板倉鼎について当社団のホームページを閲覧してコンタクトして来られたそうです。早速、松戸市教育委員会の田中典子学芸員に繋ぎました。

本ホームページ【近代日本洋画こぼれ話】で取り上げた川島理一郎、清水登之、等に加え、板倉鼎と同様忘れられたエコール・ド・パリの画家の一人である高野三三男も展示候補になっているようで、同時代の本邦洋画家の再評価、顕彰を旨としている当社団にとって嬉しい連絡でした。近年の繁栄著しいASEANの中心都市シンガポールで板倉作品が展示紹介される展覧会に大いに期待しています。(再掲了)

文責:水谷嘉弘

 

【news】板倉鼎の代表作【休む赤衣の女】が東京国立近代美術館に展示されています

今般、板倉鼎の代表作【休む赤衣の女】が東京国立近代美術館(千代田区北の丸公園3-1)に寄託替えとなり、2025年2月11日から始まった所蔵作品展「MOMATコレクション」で展示されているのでお知らせします。(冒頭写真は、東京国立近代美術館 小松弥生館長、鼎作品担当研究員(学芸員) 横山由季子さん、水谷)

 

「MOMATコレクション展」のキキメ、4階1室「ハイライト」に展示されており作品前にはインバウンダーはじめ人溜まりがしていました。かなりの訴求力でした。会期は6月15日まで。今回展は裏のテーマで夫婦共に芸術家だった画家の作品をpickupしたとのこと。鼎の隣はロベール・ドローネーでしたし、三岸好太郎・節子夫妻、吉田博・ふじを夫妻、ジョージア・オキーフ等など、須美子作品も近美に入れば・・・と思いました。近代日本洋画では、原田直次郎【騎龍観音】、関根正二【三星】、靉光【眼のある風景】、藤田嗣治【血戦ガダルカナル】等の他、板倉鼎がパリで最も親しく付き合った東京美術学校同期の岡鹿之助作品も出品されています。是非ご覧ください。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】佐分真 その4 素描・少女像と画集「SABOURI」、その他

近代日本洋画こぼれ話「佐分真その3 2枚のデッサンと、付いていた品々」に[ 1936年10月、没後半年で刊行された画集「佐分真」(限定450部)春鳥会、には油彩画47点の他デッサン11点(コンテ9点、鉛筆2点)が収録されていた ]と書いた。その後、この中のコンテ作品1点を入手した。【少女像】1932年(推定)、コンテ53.9㎝✕41.5㎝、である。

画集「佐分真(SABOURI)」 表紙・目次(最終頁)

佐分真の生涯に関する文献を読むと必ず触れられるのが、自宅アトリエでの自死についてだ(1936・昭和11年4月23日、享年38歳)。遺書は有ったが原因は謎で多くの友人たちが思い思いの文を綴っている。親しい画友(小寺健吉、伊原宇三郎、林重義、田口省吾、伊藤廉、宮田重雄、小堀四郎、益田義信ら)はアトリエを整理して遺作展を催し(1936年9月)、既述の画集を刊行した。小寺によればフランスから持ち帰った多くの作品が無署名のままキャンバスに巻かれてアトリエに放ってあったそうだ。展示するため補強修復し、ほとんどの作品は無署名でスタンプサインを作って押印し、作品をA,Bにランク分けして画集掲載作を選定したという。画集掲載の油彩画47点は、自画像1点から始まり、(滞欧後期・昭和3年~7年)34点、(滞欧前期・昭和2年~3年)6点、(帰朝後・昭和7年~11年)4点、(滞欧前・大正14年~15年)2点、の順に仕分けられている。期毎の点数にばらつきがあり時期の仕分けが不可解だ。佐分の2回の渡欧は昭和2年~5年10月と、昭和6年末~7年末であり時系列的な前後期と合致しないからである。しかしこれは、仕分けが昭和5年初めからの画風の変化 ~写生的な風景画から重厚な人物画へ~ に応じたものと考えれば理解できる。佐分の画業のピークは、2回の滞欧期をまたがる昭和3年頃から亡くなる2年前の昭和9年頃まで、と皆の認識が一致していたのだろう(画集には最晩年の壁画画稿、絶筆各1点もある)。

【貧しきキャフェーの一隅】1930・昭和5年 図録画像

【室内】1934・昭和9年 図録画像

佐分は1929・昭和4年9月下旬から約1か月間のオランダ・ドイツ行を境に画風が変わる。代表作とされる【貧しきキャフェーの一隅】昭和5年、をはじめ明暗の対比と濃密なマチエールが印象的な、佐分作品を特徴付けるレンブラント風の人物画はみなこの期間の作に挙げられている。

さて、このコンテ作品は額裏に小説家、劇作家の川口松太郎(1899生まれ)が識を認めていた。全文を転記する。[佐分眞作 少女像 昭和六十年改装 予の友人にして若く自殺せる天才なり 川口松太郎]

  

子息純一氏は「画家佐分眞 わが父の遺影」1996求龍堂、に [佐分は、自作を売ることをほとんどしなかったので、没後、親戚・友人の一部にあげた残りは、東京と名古屋の家に保存された。] と書いている。本作は友人に配られたうちのひとつだろう。遺作画集に採択された作品であり二人はかなり近しかったに違いない。私が見聞した限り佐分サイドの資料から松太郎に関する情報に接したことはないが、二人の接点は容易に想像できる。文藝春秋ルートだ。

佐分の年譜には「1931年11月末再びフランスへ渡る。この頃より文藝春秋や美術雑誌などから執筆を依頼され・・・随筆を寄稿」、「1935年12月文藝春秋主催のユーモリスト座談会に出席、大いに駄弁を弄して好評を博す。この時の出席者によって「風流倶楽部」を結成。・・・」とある。

川口松太郎は文藝春秋が発行する「オール読物」1934年に掲載した「鶴八鶴次郎」で翌35年第一回直木賞を受賞。また松太郎の鎌倉在住文士仲間、久米正雄は、佐分と共にパリで交流した文化人の集まり「コンパル会」のメンバーだった。因みに佐分の代表作のひとつ【室内】1934、第15回帝展特選・画集掲載、は、同じく鎌倉文士で文藝春秋とも関わりのある大佛次郎(1897生)が佐分から直接贈られている(現在、大佛次郎記念館所蔵)。

参考:両会の主たるメンバー「風流倶楽部」徳川夢声、高田保、辰野九紫、石黒敬七、宮田重雄、等。「コンパル会」福島繁太郎、久米正雄、吉屋信子、石黒敬七、宮田重雄、長谷川昇、小寺健吉、伊原宇三郎、伊藤廉、田口省吾、小堀四郎、等。

このように佐分は2回目渡仏からの帰国以降、文学者との付き合いやメディアでの活動が目立つようになる。一方画業の方は所属する二つの会派を離脱する。軸足を移した感がある。1935年5月の松田(帝展)改組による官展運営(美術界)の新体制が佐分にとって不本意だったのかもしれない。美校藤島武二教室出身、パリ留学、帝展特選3回、といったトップキャリアにも関わらず新体制ではそれに相応しい処遇が成されなかったのは事実だ。不自然でさえある。画壇の政治性に嫌気がさし、文才と語り口に恵まれた佐分が仲間も多いそちらに寄っていったのは妥当な成り行きにも見える。しかしそこに至るまでの長い間、佐分真の書いた文章や言動を顧みると、最後の2、3年の振る舞いは擬態であり、内実はアカデミズムを担う正統な画家として在りたい、という強い思いを持ち続けていたと確信する。最も身近な画友であり絵画研究やキャリアにおいても同じ行程を先駆けていた先輩の伊原宇三郎(1894生)は「佐分が旧帝展で育った画家であり、佐分の本質をよく識っている私は・・・」と書き「何とかして周囲の力ででも安住の世界が与へられてゐればよかった」と続ける(「佐分の死」1936年5月)。しかしそうならず、思いの成就から引き離されたやるせなさ、自分の居場所と信じていた所からの疎外感が自死の遠因にあったのではないか、と感じるのである。子息純一氏が佐分真の通夜の模様を記した場面に、その一端が如実に示されていると思えてならない。

(quote)アトリエの北側に柩を据えて・・・通夜の晩は多数の人々が訪れたが、一番印象に残っているのは、「風流倶楽部」のメンバーと画友の一部が合流し、故人の自殺という深刻な状況を和らげようと賑やかな雰囲気を盛り上げたことである。・・・お棺のそばにはそういう賑やかな連中がぎっしり席を占領していたので、別室の応接間のほうでは通夜の席らしく、会葬者たちが言葉少なに控えていた。その中には故人と親密な画家の姿も見えたが、心なしかアトリエの会葬者とは同席したくないような様子で・・・今から思えば、学生時代からの旧友には、帰国後の佐分がそういう仲間と交際するのを快からず思っていた人もいたのではないかという気がする。(unquote)

純一氏はじめ観者の多くが佐分の人物画に沈潜した精神を、風景画にも写実をこえた精神性を感じると書いている。それはとりもなおさず佐分自身が精神を凝縮し魂を込めて画面と向き合っていたからに他ならない。そんな一本気で生真面目な、本来的には不器用だと思える人物が、美校以来の官展系画友達と、最晩年の「風流倶楽部」仲間と、テイストの異なる二方の付き合いに分断されていた事実を重く捉えるものである。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】 目次(34)~(1)& バックナンバーの検索方法

34)2024年12月 二瓶徳松 その2 1933年 満洲で描いた肖像画

33)2024年11月 中村彜 清水多嘉示の生写真と下落合の二瓶徳松

32)2024年10月 川島理一郎 その4 秀作 北京聴鴻楼(西太后旧居)

31)2024年9月 伊原宇三郎 その6 滞欧風景画の秀作 南仏アルルふたたび

30)2024年8月 二瓶徳松 作品「(仮題)教会」を巡って

29)2024年3月 佐分真 その3 2枚のデッサンと、付いていた品々

28)2023年11月 青山熊治・田辺至・大久保作次郎・鈴木千久馬 昭和初期の本邦婦人像

27)2023年9月 川島理一郎 その3 昭和初期の本邦風景画・人物画

26)2023年8月 佐分真・板倉鼎 パリの交流

25)2023年6月 伊原宇三郎 その5 滞欧人物画、お気に入りモデルの坐像4点はどれだ?

24)2023年5月 清水多嘉示 その2 滞欧人物画、モデルはソニア?!

23)2023年4月 小寺健吉 1920年代 2度の渡欧・「巴里郊外」2点

22)2023年2月 川島理一郎 その2 素描あれこれ

21)2023年1月 佐分真 その2 挿画 パリのキャフェ

20) 2022年12月 伊原宇三郎 その4 仏エトルタ海岸 連作5点

19) 2022年11月 里見勝蔵 里見を巡る三人の画家たち

18) 2022年9月 田辺至・北島浅一・宮本恒平 1922、3年頃のイタリア風景

17) 2022年8月   佐分真 滞欧風景画の秀作 イタリア・アッシジ

16) 2022年7月   伊原宇三郎 その3 滞欧風景画の秀作 南仏アルル

15) 2022年6月   中野和高・田口省吾・鱸利彦 黄金世代〜俊秀年次と狭間の年次

14) 2022年5月   御厨純一・北島浅一 同郷、同じ歳、東京美術学校同級、没年も一緒の二人の画家 その2

13) 2022年4月   北島浅一・御厨純一 同郷、同じ歳、東京美術学校同級、没年も一緒の二人の画家 その1

12) 2022年3月   川島理一郎 painter & traveler、1920年代半ばの海外スケッチ

11) 2022年1月   藤田嗣治 離日前、最後の同窓会

10) 2021年11月 安井曾太郎 作者は誰だ?

9) 2021年10月  伊原宇三郎 その2 1912(明治45・大正1)年 ~18才時~ の作品

8) 2021年9月   伊原宇三郎 額裏情報から制作年を割り出す

7) 2021年9月   岸田劉生 劉生戯画「京の夢 大酒の夢」

6) 2021年8月   小出楢重 素描―習作―完成作

5) 2021年7月   田辺至 名刺と挿画原画

4) 2021年6月   清水登之 美術館所蔵品とかすっていた

3) 2021年6月   清水多嘉示 その1(続) 渡仏以降の生写真

2) 2021年5月   清水多嘉示 その1 渡仏前の生写真と中村彜

1) 2021年5月   島村洋二郎 一枚の絵葉書

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【topics】 書評 水谷嘉弘著『板倉鼎をご存じですか』田中善明

小説や映画は、登場人物に感情移入すると、あたかも自分の人生のような感覚に浸ることができる。それは仮の体験ではあるものの、人生経験のひとつになっていく。経験は何も実体験である必要はなく、むしろそれ以上に想像力をかき立ててくれる場合がある。

本書の第1章は筆者である水谷嘉弘氏の体験談からなっている。これがほぼ誰も経験したことがないからどの読者にとっても面白いに違いない。慶応義塾大学と東京藝術大学の両方に籍を置きながら二校に通学し単位を取得するという破天荒な試みは、友人たちの応援を得て慶応大学を卒業。就職したために一年遅れで入学した藝大は、大学職員のアドヴァイスで中退のかたちがとられた。その判断が40年後の学芸員資格取得に生かされようとは。

バンカー(銀行員)として著者は、ニューヨークや香港などの世界五大金融マーケットを、偶然にもそれぞれがもっとも活況を呈した時代に赴任、怒濤の40年間を過ごされている。読むだけで胃が痛くなるほどスリリングである。「所属する組織や会社に対する愛着」を持つ人が多い職場があるなかで、国際部門で働く人々は「仕事内容である職務に対する愛着」が勝っていて、それがアートに対する思い入れに通じるのではないか、という筆者の感想が突き刺さった。だから、退職後も新たな目標を楽しんで設定し、開拓するというスキルが活かされているのか。本題の板倉鼎についての話に向かう序章でありながら、働き方や生活のオン・オフの切り替え、人的ネットワークの心地よい在り方について考えさせられる内容である。

さて、本題となる板倉鼎は、1920年代のエコール・ド・パリの時代を生き、わずか28歳で客死した画家である。幼い娘二人を相次いで亡くし、妻でありのちに画家となった須美子も帰国後に肺結核で間もなく亡くなっている。ほぼ同時代を生き同じくパリで客死した画家・佐伯祐三は有名だが、高い画力と清新なスタイルの作品を残した板倉鼎は最近までほとんど知られていなかった。その差は、何だったのか。

いくつか思い当たるのは、佐伯にはフォーヴィスム画家・ヴラマンクに見せた絵を罵倒されたのちに奇跡の復活を遂げたドラマチックなエピソードがあること、没後目利きのコレクター山本發次郎に作品を見出されたこと、画家仲間の存命中に美術史家の朝日晃が綿密な聞き取り調査をおこない書籍化やドラマ化されたことなどが挙げられる。画家として同等の成果をあげながら、画家ごとに評価が大きく異なるのはどの時代にもあり得る。それを同じ土俵に引き上げて正当に評価していくことが美術史家や美術館にとっての大きな仕事となっている。面白いのは、著者が2017年目黒区美術館で開催の「よみがえる画家-板倉鼎・須美子展」で鼎の作品に一目ぼれし、その後にほぼゼロの状態から研究を始めて出来上がったのが本書であることだ。巻末にある「美術史略年譜」や「美術家・評論家生年表」は、近代美術が専門でない一般読者にとって便利なものであるが、実は著者が美術史や世界史の流れを確認するために作成した、著者自身のための参考資料だったのかもしれない。歴史上のどの作家のどの作品を救い上げようか、その選択を楽しんでいるのが伝わってくる。本書は、仕事の大役を終えて人生をリセットした人間が、オフの時間に楽しんでいた分野に全エネルギーを注ぎ込み、自己の充実とともに新たな社会貢献を果たした例として励みとなる。とはいえ、渡欧した日本の芸術家がなぜ1930年以降に激減するのかといった要因が、為替レートの大幅な変化、それ以前は日本円が過大評価されていたことを読み取ることができるのはバンカーだった著者ならではの重要な視点である。やはり、自己の特性を見つめた上で、第二の人生の楽しみを決める必要があろう。

いずれにしても、板倉鼎という画家とその周辺画家を調査した本書は、フォーヴィスムに影響を受けた里見勝蔵や佐伯祐三らよりも少し下の世代の表現の変化を紹介したものとして貴重である。

本書の中で特に可能性が感じられたのは、著者の作品解説である。たとえば、清水多嘉示という彫刻家であり画家が描いた女性像の表現をめぐっての記述はこうだ。

[ 裸体画だけに線は身体の輪郭を示すだけだが明瞭な一本の連続線ではない。左上の胸部と腹部を仕分けて二の腕から前腕を浮き出させる部分、左乳房内側の部分はノミの彫り残しの淵のようだ。筆触による面取りと橙一色の濃淡で肌の起伏を示し背景の暗緑色一色と相俟ってそれを補強している。 ]

これは著者が収集したコレクションに対する作品解説なので、実物に向き合いながら執筆できるという恵まれた環境にある。まるで絵を描いているかのように作品を観察して詳述する、著者の力を認めないわけにはいかないが、実物を前にして記述してみると、素敵な言葉が降ってくるときが誰にでもあるのではないかと思わせる、そんな可能性が感じられた。我々がコレクターでなければ、美術館に行って実物を前にして鉛筆でメモを取ればよいのである。

本書は板倉鼎が生きた同時代の画家にもスポットが当てられている。岡鹿之助はまだしも、佐分真、北島浅一、御厨純一に清水登之など、最近では美術館で展示される機会がずいぶんと減ったように思える。高度経済成長の波に乗って全国各地に生まれた美術館は、潤沢な予算のもとで地域ゆかりの作家の調査と顕彰が行われた。しかしながら当時は年間あたりの展覧会の本数も今の倍以上で多忙を極め、顕彰は十分にできたとは言えないなかで、現在は学芸員の世代交代が進み彼らの関心の対象が大きく変化している。世間でもファッション雑誌が取り上げるほどの格好良さげなアートがもてはやされている。この点を、美術の素養がありながらビジネスで世界を駆け巡った水谷氏が危惧され、本書のように形に残してくれたことが僕にとって何よりもうれしい。    (サイトウミュージアム学藝員)

(「コールサック」120号 2024年12月号掲載)

【近代日本洋画こぼれ話】二瓶徳松 その2 1933年 満洲で描いた肖像画

(冒頭画像は【山井格太郎像】F10号)

2024年8月1日付け【こぼれ話】に【二瓶徳松 作品「(仮題)教会」を巡って】を掲載した。それを読まれた方からメールを頂戴した。こぼれ話で紹介した落合道人氏とのやり取りで「なかなか見つからない」と話題になった二瓶徳松の満洲時代の作品についてである。抜粋して引用させていただく。

(quote) 8月の【近代日本洋画こぼれ話】を拝読しました。1933年、二瓶氏が渡満中に大連で描かれた人物画を所蔵しています。人物は私の曽祖父で満鉄総務部の顧問でした。当時小学生の父は大連の家で二瓶等氏が作画するのを見ていたと話していました。(中略)曽祖父は1922年から上落合2丁目552番地に住み(途中家族の一部と渡満)、1943年に中野区城山町へ越していました。確かに二瓶氏が下落合に居た時期と重なるので何らかの交流があったのかもしれません。 (unquote)

上落合に住んでいた肖像画の主は、山井格太郎という。メールを発信されたのは山井のひ孫の方で作品の画像を送っていただいた。非常に良い作品で作者の画力がすぐにわかる絵だった。重要な情報が含まれていた。

1)作品に1933・昭和8年の年記が入っており、二瓶の画風変遷のミッシングリンクだった美校卒業年に帝展入選(1924年)した後の昭和戦前期の作品が出現したこと。

2)署名がT.Niheiとあった。二瓶はしばしば画名を変える人物でこの署名は本名の「とくまつ」(徳松)或いは「つねまつ」(經松)で作品を発表していた美校卒業頃まで使っていたと思われた。その後、帝展入選時は「ひとし」(等)と名乗っていた。そこで満洲作品のイニシャルはHと考えていたのだが、肖像画の画像を見るとTである。「とくまつ」に戻しているようなのだ。その後も頻繁に画名を変更した人物なので充分あり得ることだ(戦後名乗った「とうかん」(等観)を既に使用していた可能性もある)。

3)とすれば、前回の、【二瓶徳松こぼれ話】のテーマにした教会も満洲在かもしれない。モチーフの教会の佇まいは欧州ではなく本邦、画面のT署名は「とくまつ」を名乗っていた美校卒業頃まで、を根拠として1920年頃の二瓶の郷里、北海道在の教会を描いたと判断した。ただし、【こぼれ話】に書いた落合道人氏とのやり取りで、氏は、満洲の可能性はないだろうか、とも述べられていた。今回の署名発見がその説の有力な裏付けになった。落合道人氏の炯眼の通りだ。満洲在であれば教会の日本的佇まいも納得出来るのである。

 【(仮題)教会】作品と署名T.Nihei

【山井格太郎像】署名T.Nihei  【真珠】1922年 二瓶經松

この情報を新宿下落合の郷土史家、落合道人氏に伝えたところ以下の返信を頂戴した。

(落合道人氏)『山井格太郎氏像』は、とてもいい出来ですね。メガネはあとで描き加えたものでしょうか。顔の向きは右向きですが、メガネは真正面のように描かれているのが気になります。山井氏と二瓶等のつながりは、外務省の「対支文化事業」計画の一環として、美術分野では美校の正木直彦校長や藤島武二、石井柏亭、そして山井格太郎氏を招集したあと、美校卒業者で事業の協力者を募ったときに、山井格太郎=二瓶等つながりができたのではないでしょうか。1926年(大正15)にアトリヱ社が発行した『アトリヱ美術年鑑』には、外務省の事業について簡単に掲載されていました。また、1931年(昭和6)に東京毎夕新聞社から刊行された『育英之日本』には、山井格太郎氏についての詳細が紹介されていますね。ちなみに、『育英之日本』の人物紹介で「同文会調査編纂顧問」とあるのは、近衛篤麿や岸田吟香(劉生の父親)らが東亜同文会(現・霞山会)を上海で起ち上げたあと、東亜同文書院の学生たちが中国全土の秘境を探検調査(「大旅行」と呼称)した際の、探検レポート編纂の顧問をされていたものでしょうか。同探検レポート「大旅行」記録は、現在の霞山会館に数多く保存されていますので、山井格太郎氏についての資料もあるのかもしれません。上落合552番地は、ちょっと印象深い番地でして、南隣りには作家の吉川英治が暮らしています。ちょうど、同じ時期に住んでいますので、お隣り同士だったのではないでしょうか?落合地域の中でも、いろいろなつながりが見えて面白いですね。

(水谷)私は実作経験に乏しく落合道人殿のように肖像画の図像分析からメガネと顔の向きの方向齟齬は指摘出来ませんが、この作品のキキメであり秀作となっている要因はメガネに在ると観ています。顔の表情、姿勢佇まいが威厳を醸し出しているのはメガネ表現ゆえで、それを描いて絵筆を擱いたのではないでしょうか。道人殿ご指摘の方向齟齬は威厳効果を強調する為に意図的だったのかもしれません。この時代の美校油画出身者のデッサン力は非常に高く、特に3次元表現の鍛えられ方は半端ではないのでそう思うのです。

私宛にメールを発信された山井格太郎氏の曾孫の方も、これらのコメントに満足されたようだ。

(山井格太郎の曾孫の方)肖像画の人物は私の父方の曽祖父で満鉄総務部顧問をしていた山井格太郎(やまのいかくたろう)といい、当時67才でした。曽祖父は面倒見の良い人で、中国人の学生や日本から来た若い知識人・スポーツ選手などをよく自宅に招いていたようです。家族で大連に渡る前には淀橋区上落合に住んでいたので、下落合にアトリエを構えていた二瓶氏と既に面識があったのかもしれません。落合道人様のメールも読ませて頂きました。曽祖父の活動についても詳しく知ることができて大変ありがたく思いました。また、満州はもともとロシア革命で追われたロシア人が多く移り住んだ場所で、ロシア正教会も多かったようです。素人考えでお恥ずかしいのですが、二瓶氏の「教会」も満州で描いたのかも、と思っています。

今回、二瓶徳松の満洲における作品と活動に関する新情報を得たので、その後判明した彼の経歴を画名の変遷と合わせてまとめてみたい。

二瓶徳松:略年譜

1897札幌生まれ(徳松)、1916北海中学校卒業(徳松)、在学中に美術グループ「団栗会」を結成、1917光風会入選(徳松)、1918美校入学、退学(徳松)、1919美校再入学(徳松)、その頃新宿下落合に自邸兼アトリエ建設(徳松)、1922光風会「真珠」出品(經松)、1923帰郷、北海中学美術教師、美校卒制制作(徳松)、1924美校卒業、第5回帝展「裸女」初入選(等)、1927個展開催@札幌(等)、1928渡仏、1929帰国、第10回帝展「足を拭ふ女」入選(等)、その後渡満(中国)満洲美術会、大連女子美術学校校長等に参加、歴任、1945帰国、池袋に転居、1949野口英世の肖像画(郵便切手の原画)を制作、1955新世紀美術協会創立に参加(等観)、1990逝去(93歳)、東京美術学校同窓会名簿には等観(徳松)号:等で掲載。(落合道人氏のブログを参照させていただいた)

  

二瓶徳松は、私がエコール・ド・パリの早逝画家、板倉鼎の顕彰活動を始めた頃、「板倉鼎・須美子書簡集」(2020年、松戸市教育委員会)に鼎の美校同級生としてしばしば登場することでその名を知り、落合道人氏のブログ「落合学」で中村彝との関係を知った。しかしながら今年4月に開催された「板倉鼎・須美子展」千葉市美術館、11月の「中村彝展」茨城県近代美術館、の展示には二瓶の名前は登場しない。美校同期入学の佐伯祐三とはパリで亡くなる直前にも接点が有ったが、佐伯関連資料に二瓶の名は散見される程度のようだ。それぞれとの関係が濃密とは言えなかったからであろう。

二瓶徳松は、同時代の優れた画家との往来があり画力を有し一定の実績を挙げながらも、作品が散逸していること、代表作と言える作品が知られていないこと、画名の変遷が相次ぎ同一の画家として認識し辛いこと、確たる縁故地がないこと、等々から埋没してしまっている。出身地札幌の母校、私立北海中学校の後継、北海高等学校の同窓会(美術部OB会)が顕彰活動の母体になっていただけないだろうか、と期待している。

文責:水谷嘉弘

【column】エッセイ集『板倉鼎をご存じですか ― エコール・ド・パリの日本人 画家たち』出版こぼれ話

私が主宰している一般社団法人「板倉鼎・須美子の画業を伝える会」が千葉市美術館で開催された「板倉鼎・須美子展」(2024・令和6年4月〜6月)の後援団体になった。これに合わせて拙著「板倉鼎をご存じですか ― エコール・ド・パリの日本人画家たち」を上梓した(2024年4月)。本篇はその顛末記である。

きっかけは2023年12月上旬の文芸書専門の出版社コールサック社社長鈴木比佐雄氏からの電話だった。同社のことは、叔父島村洋二郎画伯の顕彰活動家島村直子さんから編著「島村洋二郎詩画集」(2016・平成28年11月)を謹呈されていて知ってはいた。同じく同社刊の福田淑子さんの第2歌集「パルティータの宙」(2023年12月)のカバーに板倉鼎の「金魚と花」を使いたいとのことで所蔵者松戸市教育委員会に話しを通したり、アスリー悠さんを紹介してアート作品集「あなたは一人じゃない」(2024年1月)を刊行したり、等で鈴木氏とも行き来はあった。氏の電話はそれら著者からの情報や、私がNHKラジオ深夜便で美術エッセイを書いていると話したのを知ったからのようだった。藝大同窓随想集「a−can−thus」(2022年11月)、社団法人ホームページと文芸同人誌「まんじ」に連載している「近代日本洋画こぼれ話」を読ませて欲しいと言われる。郵送してしばらくたった頃、会いたい、と再度の電話があった。暮れも押し迫った面談当日は編集者座馬寛彦氏も同行された。二人で私の雑文類を全て読み込んだようだった。驚いたのは既に目次が完成しており、章立て、章題も出来上がっていた。本のタイトル、仕様まで提案書にあった。それを示しながら美術エッセイ集を出版したいと仰有る。翌年4月の千葉市美術館「板倉鼎・須美子展」の開催に間に合わせたいと仰有られる。私としては本格的な板倉回顧展に同期して出版するような重みに耐えられるのか、3ヶ月で出来るのか、と不安だったが本を出せるとの思いがけない成り行きに心を動かされ応諾した。

エッセイ集には「a−can−thus」に寄稿した半生記「ビジネス発・アート着」の他、2023年12月末までに書いた「近代日本洋画こぼれ話」43篇を収録した。第1章のタイトルが「芸術と金融、私の二刀流」。編集者が付けたこのタイトルはその頃最大の話題であった米国野球メジャーリーグ大谷翔平選手の二刀流に因んだとのこと。畏れ多いようなこそばゆい気がした。以降は美術エッセイで、第2章「板倉鼎をご存じですか」、第3章「パリに渡った黄金世代の洋画家たち」、第4章「国際派とアカデミスト 渡欧の成果とその後」、第5章「近代日本洋画趣味譚」、と続く。コロナ禍以降の3年弱の間に、気に入った絵を買ったり思いがけない資料類を手に入れたりした時、脈絡無くランダムに書き綴った雑文の類が章立てに依って自然につながる組み立てになっていた。

編集者に、大学同期の絵本評論家松本猛、美術史家高橋明也両君との三人対談を提案した。我々の世代の美術界人の想いや活動を記す有効な資料になると了解の返事が来た。座談会シリーズを「附録」として位置付けることにし、「a−can−thus」の直前に発行された一般社団法人日本美術家連盟の機関紙「連盟ニュース」2022年10月号に掲載された座談会記事「板倉鼎と須美子のもうひとつのエコール・ド・パリ」の転載も連盟から応諾いただいた(出席者:笠井誠一先生、入江観先生、田中典子さん、水谷)。更に巻末の「美術史略年譜」「美術家・美術評論家生年表」「人名索引」の充実に注力した。最近顧みられることがほとんど無くなってしまった近代日本洋画(明治・大正・昭和期)の系譜を一覧性ある資料として有用性を確保したかった為である。

三人対談は、新宿にある都立戸山高OBクラブで行った(2024年2月12日)。あれこれと話題が多方面にわたり、脱線話も交え4時間近い長丁場になった。座馬さんには原稿起こしで相当な負担をかけてしまったと思う。座談を終えた後の会食の場でも放談が続き楽しくも長く疲れた一日だった。

巻末の解説は、同窓同学科の大先輩、洋画壇重鎮の入江観先生に直接電話をかけてお願いした。快諾いただいた。編集者からゲラをお送りした。先生から「原稿は想定していたよりはるかに多くて大変だと思ったが、目を通したら面白く、読み進むことが出来た」と電話を頂戴して安心した。「跋」として「新しい視点に期待する」のタイトルで原稿をいただいた。

さて、本筋に戻る。年が明け2024年2月はじめに校正ゲラ初校が送られて来た。厚さに度肝を抜かれた。大丈夫か、と思った。その時々で随意に書いた原稿なので表現を統一したり、後先の辻褄を合わせたりと見直しする度にページ数が増え、当初予定の320ページが附録の座談会シリーズ等を加えて最終的に432ページとなってしまった。美術書でありカラーページを含め多くの作品画像掲載が必要である。掲載作品を選定し、その高精細画像を入手するため所蔵している美術館へ依頼する。元データが無い場合はスキャンして原稿に組み込む。更に著作権という難題を解決しなくてはいけない。刊行まで日数の余裕が無くこれは私が自ら対応することにした。総計30人の画家の作品画像を掲載したが、著作権保護期間内の人は20人に上った。美術年鑑の著作権者リストはほとんど役に立たない。エッセイ執筆時に調べて分かったり、その後もたらされた情報が役に立った。手間暇はかかったが、お蔭で取り上げた画家の直系縁戚にあたる方々とやり取りが出来た。電話をかけ、原稿をお送りして画像掲載の許諾を得た。連絡がついた方々にNGを出される方はおらず、むしろ喜んでいただいた。伊原宇三郎子息の伊原乙彰さん、小堀四郎子息の小堀鷗一郎さん、里見勝蔵の孫山内滋夫さん、鈴木千久馬の孫鈴木英之さん、清水多嘉示三女の青山敏子さん、川島理一郎夫人の縁戚原田由香さん等などである。ご丁寧にお電話を賜り自宅に遊びに来てくれ、と仰有られた方もいらした。

本のカバーデザインには板倉鼎の代表作「休む赤衣の女」を採用することは当初から決めていた。コールサック社の装丁デザイナー作成案に社団法人ロゴデザイナー水川史生さんのコメントをもらい3案に絞った。決め手は一般財団法人日本サッカー後援会の評議員仲間、元NHKエグゼクティヴ・アナウンサー、解説委員の山本浩さんの一言だった。3案を見た瞬間、即決された。氏いわく「テレビマンとしてヴィジュアルには最も気を付けて来た。3案の中ではこれだ。鼎の絵の訴求力が凄い。カバーを見てそのまま手に取ってもらえるよう、絵の場所はカバー上部に、活字は目立たない方が良い」との的確なアドバイスを頂戴した。もちろん氏の選択に従った。

私事になるが実母京子が3月はじめに逝去したため、その前後は慌ただしく本書出版に対応する余裕が無かった。著者最終校正が出来なかったのだが、数え歳九十六で天寿を全うした文学書好きだった亡母への感謝と拙著出版の報告をここに書き記しておきたい。

こうしてタイトなスケジュールにもかかわらず編集者座馬さんの誠実で丁寧な仕事のお蔭で板倉展の始まる数日前に初版が刷り上がり納品された。私は仕事絡みで地方出張しており帰京した4月4日の夜、座馬さんが最寄り駅改札口まで現物をデリバリーしてくれた。鼎の絵が鮮やかな綺麗な本だと感じたが目を通す時間はほとんど無く、翌日は「板倉鼎・須美子展」の内覧会、レセプションに向かった。千葉市美術館のミュージアムショップに自分の本が平積みされているのを目の当たりにした時は流石に嬉しかった。東京都美術館館長高橋明也君の帯文や入江観先生の跋が Letter of credit になって多くの人に読んでもらえたようだ。入江先生にお願いした跋文は藝大芸術学科の来歴に触れられている。あまり知られていない同科の成り立ちがよくわかり、貴重な証言と言えるので先生の承諾を得てその部分を引用させていただく。

(quote)そもそも藝大・芸術学科とは、いかなるものなのか。昭和二十四年四月、旧来の東京美術学校が、東京藝術大学に衣替えした年に、「実技の裏付けのある」美学・美術史の研究者を育成する目的で設置された学科であった。当初は、卒業時に論文でも制作でも、どちらでも良かったらしいのだが、論文よりも制作を選択する学生が多くなってしまい、それでは芸術学科設立の趣旨に反するとのことで、私の前年、つまり四年目からは卒業論文に限ることになって科の性格は明確になったことになる。しかしながら、それでもなお、私の前後の世代に画家、彫刻家志望の者がかなり多く出たのは、加山四郎、山本豊市先生等、芸術学科専任の情熱的な先生がおられたからかも知れない。確かに、そういう傾向もあったが、私たちが親しく接した辻茂、山川武、佐々木英也、陰里鉄郎等の先輩方や、同期の辻成史、一年下の若桑みどり等は藝大、その他の大学で教える立場に立ち、又公立美術館の館長職を務める等、私などの眼の届く範囲に限っても、芸術学科の成果は挙がっていたと言うべきかも知れない。水谷さんが在籍した、ほぼ二十年後ともなれば、芸術学科は、既に成熟の域に達し、東京都美術館をはじめ全国各地の公・私立美術館の館長職や各地の公私立大学の指導者として働く数知れぬ出身者が居る現状は、芸術学科の「はぐれ鳥」である私などにとっても頼もしい限りである。(unquote)

出版社が用意したメディアや図書館等の謹呈先リストや、同窓の友人から提供してもらった美術館リストに基づいて約450冊を発送した。書籍の受贈に慣れている多くの図書館から定型ながら礼状が来た。これに比し美術館からの反応は鈍く外部への対応姿勢(ビジネスマナー)、コミュニケーションセンスの欠如、未熟さを感じた。その一方で、板倉鼎を契機として近代日本洋画の勉強を始めた私が多くを学んだ師と思っている方々から礼状が届いた時は感激した。著書や冊子を送って下さった人、[目次を見ただけでも読むのが楽しみだ]と書いてくれた人もいる。多種多様のコメントを頂戴した。美術仲間では使わない表現で板倉作品を語ってくれた銀行時代の上司、同窓後輩の一人は誤植、漢字の変換ミスから私の記述間違いに至るまで詳細にレポートしてくれた。これら友人知人からのかなりの量の手紙やメールが本を出版して得られた一番の果実だった。竹橋の東京国立近代美術館からも一報が届いた。日本近代美術の総本山、近美のライブラリーに収蔵されたようだ。

メディア関係では、美術専門誌「美術の窓」から板倉展の紹介記事執筆を頼まれエッセイ集の告知と書影も合わせて5月号(4月19日発売)に掲載された。また、地方紙「千葉日報」からは書籍送付直後にインタヴューの申込みがあった。本を持った写真と共に5月11日付け学芸欄に「松戸の水谷さん 美術エッセイ集」とのタイトルで掲載された。驚愕したのは出版後1ヶ月半経った5月25日、朝日新聞朝刊の書評ページに取り上げられたことである。まさかと思った。望外の喜びだった。

朝日新聞書評委員で小説家の山内マリコさんが執筆して下さった。千葉市美術館の板倉展を訪問したことから書き起こされ、続いて[(山内さんは)ひそかに鼎&須美子を推す者であった。しかし上には上がいた!]と私のことを紹介し[行動力が半端ではない]と書かれる。[(水谷)いわく「私にとってビジネスは放電、アートは充電だった。」正直、この章がいちばん面白かった。][同時代の日本の洋画家の掘り起こしに力を入れている。そちらは読み応えたっぷり。]と綴られて[ある芸術愛好家(ディレッタント)の集大成といった趣の書だ。]が末尾の一文だった。アマチュアが書いた趣味譚への過分なご評価なのである。 掲載日は早朝からメールやLINEで次々と知らせやおめでとうの連絡が入った。親しい友人たちは「山内さんは、水谷の気持ちや伝えたいこと、我々が感じていることを見事に捉え書かれている」と言い、中には「つげ義春の本と同列に、横尾忠則さん、山内マリコさんといった広く知られた方々から並列に評してもらったのは凄い!」などという悪友の手紙もあった。また、「本文もさることながら、巻末の美術史略年譜、美術家生年表は価値がある」とお誉め?の言葉も何件か到来した。これには私の意図が伝わったと一人ほくそ笑んだ。

朝日新聞書評の威力は凄かった。それまで、千葉市美術館や東京都美術館のミュージアムショップ、神田神保町の東京堂書店などごく限られた本屋でしか扱われず、主としてAmazon経由で流通していたに過ぎなかった本が、コールサック社に依れば新宿の紀伊國屋書店はじめ丸善、三省堂、ジュンク堂、蔦屋書店など大手書店から複数冊の注文が相次いで版元在庫が払底してしまったそうだ。コールサック社の営業担当者が書店回りをしたところ多くの書店が置いてくれたとのことだった。直ぐに増刷(初版の誤字誤植、文章修正など有って第2版をおこした)が決まり7月上旬に納品された。遅ればせながら、山内マリコさんに帯文も新しくした第2版に御礼状を添えてお送りした。

こうして半年に亘ったビジネスマン上がりのアート好きが書いた美術エッセイ集出版の顛末は一段落する。多くの友人知人が応援してくれた。仲の良い、或いはお世話になった方々には贈呈したにもかかわらず、その後かなりの人がわざわざ購入してくれた。周囲の人々に配ったようだった。板倉鼎・須美子の存在と作品を知ってもらいたい、と顕彰活動を始めた身にとってこれほど心強いことはない。最後になるが改めて厚く御礼申し上げたい。本当にありがとうございました。

文責:水谷嘉弘

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