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【近代日本洋画こぼれ話】伊原宇三郎 その4 仏エトルタ海岸 連作5点

伊原宇三郎は1920年代後半の滞欧作品群と1960年前後数年の制作が画業のピークを形成していると【伊原宇三郎 その3】で書いた。続けて、
(quote)
1956・昭和31年に27年ぶり、二度目の渡欧、フランスに10ヶ月滞在して現地制作を行う。帰国後は60年代半ばから日本全国に写生旅行に出かけて多くの風景画を残した。これらの風景画群は巧みなデッサンに裏付けられた円熟した仕上がりになっている。ただ戦前から戦後にかけての構築度の高い描き込んだ表現とは趣きが異なる印象がある。
(unquote)、
とも書いた。
その風景画群の中に(日本の風景ではないが)1971・昭和46年作の完成度の高い優れた作品がある。エトルタの海岸風景である。1971年第3回改組日展に出品した【黒い船(エトルタ)】は50号の大作だ。


第5作目【黒い船(エトルタ)】1971(50号)図録画像

エトルタはフランス北西部ノルマンディー地方のイギリス海峡に面した海岸町である。対岸のイギリス側と全く同じ石灰岩質の白い岸壁が長く続き波で削られた奇観で知られた。1860年代には観光地として賑わうようになる。モーリス・ルブランのアルセーヌ・ルパン小説「奇巌城」の舞台にもなった。伊原作品の遠景に描かれているくりぬかれて象の鼻のようになった所は「アヴァルの門」と呼ばれる。フランス近代画家も訪れヴーダンやクールベが描いているが、クロード・モネは75点(現存)もの作品をシリーズで残した。我が国でも島根県美術館、アサヒビール大山崎山荘美術館が所蔵しているが、ここでは昨年(2021年11月)の三菱一号館美術館「イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜」に展示された【エトルタ、アヴァルの崖】の図録画像を添付する。


モネ【エトルタ、アヴァルの崖】1885   川口軌外【風景】1926

本邦の画家では川口軌外(1892年生まれ)が1926年8月に2週間余り避暑のため滞在して市街地から東に見えるアモンの崖を描いている。モネや伊原の絵は西を見た景色である。この時、川口に同行したのが清水登之(1887生)と伊原宇三郎だ。伊原は初めてのエトルタ訪問だったと思われるが、気に入ったようで生涯三度の渡仏時にはすべてエトルタを訪れ制作した。冒頭の画像に第5作目、と記したのはそれ故である。


第1作目【フランス・ノルマンディー・エトルタ】1926~27(20号)  第2作目【エトルタ海岸】1926〜27(60号)   共に、図録画像

第1作目はオーソドックスな絵だが、第2作目は伊原には珍しい描き方である。きっちりとした構成とモチーフの持つ明解なイメージを伝えてくる彼の画風とは違う。が、そのころ群像図を手掛けていて残されている習作3点を見て合点がいった。習作は室内における群像図で各人物の姿勢、物の配置と相互関係などを検討している。それと通じていると気付いたのだ。海辺で作業する漁師とその妻たちは向きが左右に、立ち姿と前屈み姿といった異なるポーズをとっている。船上にも人はいる。砂浜には多くの物が散在している。手前に腰掛けている人物は画面構成上からの配置と思う。その観点から見れば60号の大画面にフラットに散りばめられた数多い素材が軽妙な雰囲気を醸し出している。伊原の異色作であり帰国後1933年作の【トーキー撮影風景】につながっていく。


第4作目【エトルタ海岸】1956(8号)図録画像

第4作目は戦後の落ち着いた時期(1956~57)、ベネチアビエンナーレ出席を終えてのフランス再訪は、ノルマンディー、パリ、南仏ヴァンスに10か月滞在して多くの風景画を描いた。この作品は静かな佇まいの旧いエトルタの街中からアヴァルの門を遠望している。色調は落としてあり約30年ぶりのセンチメンタルジャーニーの想いがあるからか、懐かしさを覚える絵である。子息が書いた伊原の年譜には「フランス滞在が新鮮な刺激となり、肩書・役職から離れ絵に専心しようと決心する」とある。エトルタ図3作が描かれたのは、まさに画業のピークを形成していると書いた二つの時期だった。

そして訪問三度目、第5作目が初めに紹介した画像である。では、第3作目は? 第5作目には連作と思われる作品が在って私はそれを所蔵している(冒頭画像)。ふたまわり小さい15号である。キャンバス裏に日仏両語で「仏蘭西西北海岸ノルマンディー地方エトルタ海岸 Plage d`Etretat Normandie France」と伊原が自署している。フランス人が書いたと思われる「Plage d`Etretat (no2)」紙片が別貼りされている。


第3作目【黒い船】1926〜27(15号)


キャンバス裏面

連作と書いたように両作はほとんど同じ風景、構図である。アヴァルの門を背景にして画面中央右端の二本柱の小舟、真ん中の赤い船縁の黒い中型船、二艘の船の間に置かれた小舟とそばに佇む漁師に至る細部まで一致する。50号作品には中央から左にかけて白い縁の船と同じく白い小舟が描き加えられているが、これは大型画面が殺風景になるのを避けるべくモチーフと色彩を付加したものと考える。

私は、この連作作品の15号の方を同じ図柄を描いた三度目の1971年渡欧時ではなく、第1、2作目と同じ時期、1926~27年に描いた第3作目と比定した。1930年協会第5回展出品作である。画題は【黒い船】だ。根拠がある。同展(1930・昭和5年1月東京府立美術館)の伊原出品リストと会場写真である。出品リスト48点の中に#231【黒い船】、#261【ノルマンディーの海岸(エトルタ)】の2点がある。そして来場した清水登之夫妻らと5人で撮影した会場写真の背景に同作と思われる絵が写っている。添付写真を参照されたい。右側長身男性(鈴木亜夫)の背中越しに写っている絵は15号の【黒い船】のように見える。

第5作目が【黒い船(エトルタ)】と題されたのは同じ図柄の第3作目を継承したからではないか、と考えられる。

他に、状況証拠だが、キャンバス裏面の状態、貼られた紙片、と画風が挙げられる。紙片の最下部は「エルネスト クレッソン」と読める。当時伊原はパリ14区のエルネストクレッソン通りに住んでいた。キャンバス枠、裏地の状態(修復跡がある)は1971年製というより90年以上経過した劣化と思える。またこの頃、伊原の画風は印象主義から新古典主義への転換期にあり描き方のレンジが拡がっていた。本作はまだ印象派風の筆触がありやがて量感のある人物画に移行して行く。1971年作のような平明感(図録画像によるが)は希薄で、描かれた物が存在感を発している。

最後のエトルタ作は第1、2、3作目から44年経っていた。絵には拡がりがありすっきりとして第3作目とは違う印象だ。同じ風景が重厚感から清澄感に転じている。77歳の洒脱味、達観が成せる技かもしれない。生涯の決定版といえる第5作目は1971年第3回改組日展に出品される。それが伊原の長い官展キャリアの掉尾を飾る記念碑的佳作となった。

第5作目完成のあと伊原は体調を崩し1976・昭和51年1月、81年の生涯を終える。作品発表の場は、美校同期、前田寛治の誘いで出品した前出の1930年協会第5回展(1930・昭和5年)を除き帝展、新文展、日展と一貫して官展系の展覧会であった。

伊原がエトルタ風景を描いた作品は他にもあると思われるが、本稿では展覧会図録で確認出来たものを取り上げた。また作品画像ほか多くを1994年目黒区美術館、徳島県立近代美術館開催の伊原宇三郎展図録から教示いただいた。

文責:水谷嘉弘

第5期運営体制のお知らせ

当社団法人は9月30日に第4期事業年度を終え、先日社員総会を開催いたしました。役員の改選を実施しましたのでお知らせします

代表理事・会長 水谷嘉弘(重任)

理事 高橋明也(重任)

理事 水川史生(新任)

監事 園井健一(重任)

前期は当会が取り組んできた活動がいくつか具体的な形となって実現した事業年度となりました。皆様方のご支援に感謝申し上げます

今期も前期同様、板倉鼎を知ってもらうべく美術関係者との交流、各種刊行物への寄稿、ホームページからの情報発信を行うとともに、コロナ禍の状況を見定めながら積極的な対外活動を進めていきます。板倉夫妻をはじめとする近代日本洋画家たちの紹介や関連イベントの実施、後援を企画します

引き続き板倉鼎、須美子の画業顕彰を行って参りますのでよろしくお願い申し上げます

代表理事・会長 水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】里見勝蔵 里見を巡る三人の画家たち

2022・令和4年10月、池之端画廊で開催された「里見勝蔵を巡る三人の画家たち」展をプロデュースした。〈昭和のフォーヴィストたち 色の競演〉と銘打った。三人の画家とは熊谷登久平(1901・明治34年~1968)、荒井龍男(1904・明治37年~1955)、島村洋二郎(1916・大正5年~1953)である。近代日本洋画に詳しい人でも意外な組み合わせと感じたのではないかと思う。文献を紐解いても彼らの繋がりはよくわからない。

きっかけは島村洋二郎だった。私がエコール・ド・パリの夭折画家、板倉鼎(1901・明治34年~1929)の顕彰活動を始めてしばらく経った2020年夏、志半ばで世を去った洋画家島村の顕彰をしている洋二郎の姪、島村直子さんを紹介された。私は鼎と同時期にパリで活動した東京美術学校卒業生を調べていて、里見勝蔵(1895・明治28年~1981)は前田寛治(1896生)がパリ豚児と呼んだ一人だったが、偶々2021年春、洋二郎が師里見に宛てた近況を報告する絵葉書(昭和18年横須賀発)を入手した。洋二郎は旧制浦和高校を中退した後、数年間東京杉並の里見のアトリエに通うが文献や里見の著述等には記されておらず戦中期には疎遠になっていた、洋二郎の方から距離を置くようになったのだろう、とされていた。しかし近況を伝える親密な綴り振りから二人の関係を見直す必要があると思い直子さんに伝えたところ新事実に吃驚される。彼女がその夏開催のコレクター持ち寄りの展覧会「私の愛する一点展」に里見の【秋三果】を彷彿させる洋二郎作【桃と葡萄】の出品を考えていたため尚更だったようだ。同年暮に刊行された洋二郎研究の集大成「カドミューム・イェローとプルッシャン・ブルー島村洋二郎のこと」にも記述された。

    
島村洋二郎【桃と葡萄】(会場展示)       里見勝蔵【秋三果】図録画像

2021年3月、熊谷登久平を池之端画廊で初めて観た。登久平の中学生時代から戦時を経て晩年の欧州旅行までの回顧展で作品の出来に振幅がみられたが、暖色使いが上手く特に赤茶系で色感を統一した作品は傑作だった。画廊には、登久平の縁戚の方がいて資料を持ち出し雄弁に語ってくれた。画廊主鈴木英之氏を或る美術愛好家団体にお誘いし、その縁で同団体の野原宏氏が所蔵している斎藤与里ほかの作品を池之端画廊で展示することになった。偶然は重なるもので、洋二郎に続いて知ったばかりの熊谷登久平と、野原氏が多くの作品を所蔵されている荒井龍男の里見勝蔵宛絵葉書各1通が相次いで到来したのである。

登久平の葉書は昭和11年10月宇都宮発。文面に記された人名は同年7月に福島二本松で開かれた「独立美術協会派四人展」に出品した画家のようだ。四人の一人は吉井忠で、賛助出品者に里見、林武、福沢一郎、井上長三郎、応援出品者に登久平がいる。発信地も宇都宮であり同展に因む往き来のようだ。


熊谷登久平【ねこ じゅうたん かがみ 裸女】(会場展示)

荒井の葉書は当時居住していたソウル発で(昭和9年9月)「パリに行くので便宜をお授け賜えれば・・シャガールを紹介して欲しい・・後進の為に道をお開き願います・・」という依頼の文面が興味深い。荒井は翌10月渡仏している。実際にシャガールに会ったのか不明だが画家山田新一は荒井の滞欧作展(昭和11年)を観てシャガールの影響を指摘している。洋二郎の絵葉書はシャガールでこれも偶然の呼応だった。

     
荒井龍男【ボードレールの碑】(会場展示)  写真(里見勝蔵と荒井龍男)

今回の四人を繋いだのは、昭和戦前・戦中期に投函された里見勝蔵宛の3枚の絵葉書なのである。これが展覧会に至った経緯だ。親分肌里見の求心力のお蔭とも言える。ここで、里見勝蔵の画歴を振り返ってみたい。


里見宛三人の絵葉書 左から熊谷、荒井、島村(会場展示)

[里見勝蔵小論]

里見勝蔵(1895・明治28年~1981・昭和56年)のフォーヴは1921年9月、26歳の時パリ近郊オーヴェール・シュル・オワーズで出会ったモーリス・ド・ヴラマンク(1876~1958)の当時の画風(暗い色調と激しく感傷的な筆触)から出発した。1925・大正14年3月帰国、9月第12回二科展の滞欧作7点の展示は話題を呼び樗牛賞を受賞する。以降フォーヴィスムの本格的な紹介者、実践者として注目された。しかしそこにはその後の画家里見を暗示する事実もあった。彼が最も自信を持って応募した典型的なヴラマンク型フォーヴの【エトルタ】が落選していたのだ。

    
里見勝蔵【雪景】1925(図録画像)           【エトルタ】1925(図録画像)

ヴラマンクの模倣と見做されたようだ。鑑賞者と本人とに価値観の相違が存在していた。弁筆共に優れ、熱意溢れる個性ゆえ本邦におけるフォーヴ理解の第一人者、スポークスマンとして、また1930年協会(1926年)、独立美術協会(1930年)創立の主導者としての評価が先行する。画家としてはヴラマンクの追随者と認識されてしまい、画業の展開、作品紹介が疎かになって行った。
更に、面倒見の良さや親切な人柄よりも、1930年協会以来の盟友でもう一人のフォーヴの理論的支柱だった評論家外山卯三郎と私的なもつれから仲違いし(1930年頃)、その後の外山の悪意を感じさせる里見評や、設立の中心メンバーだった独立美術協会を福沢一郎(1898生)との確執から飛び出した行動(1937年8月)、強烈な矜持を有する里見の性向などからネガティヴなイメージが定着することになってしまった。戦後、国画会に参加するまで(1954・昭和29年4月)無所属を通し作品が公開される機会がほとんどなかった事もある。
画家里見勝蔵の画業は、ジャーナリスティックな要素が強かったヴラマンク型の戦前滞欧作ではなく、1920年代後半から1930年代半ばにかけての1930年協会、独立美術協会時代の裸婦連作や、1954年~58年の第2次渡欧期に取材した欧州風景画群によって論ずるべきではなかろうか。そちらの方が原色の色遣い、デフォルメ、描線などフォーヴが初めてパリ画壇に登場した1905~6年頃の絵画群に近い。色彩とその組み合わせに共通項がある。

    
【横たわる裸婦】1934年(図録画像)        【ルイユの家】1960年(会場展示)

前者の裸婦連作は帰国後の1927年頃から始まる。里見の文章を引用する。

「風景画家といわれたヴラマンクに師事して僕はフランスで風景を描いたのだが、あの手法で日本の風景を描きこなすことが出来なかった。それでヴラマンクの色調から離れて、原色調で人物と静物を描くことによって、ヴラマンクから逃れ、独自の表現を次第に構成する事が出来た(1968第一回自選展目録)」。

裸婦連作群はそのとおり原色調で、平面的な色彩対比を太い筆触で描いているが、その描法こそ1905年当時のドラン、フリエス、当のヴラマンクのフォーヴである。この文から、里見の理解したフォーヴは彼が出会った時のヴラマンク型フォーヴであり、そこから遠ざかったつもりが本家返りしているのは、近代日本洋画には画面構成、モチーフの造形を追求する過程を順を追って学ぶのではなく一気呵成に西欧新潮流の表象を受容していた一面のある事がわかる。同じ頃、渡欧から戻って優れた裸婦像を描いた画家に小出楢重(1887年生)がいる。しかし二人の裸婦像は印象が全く異なる。所謂日本的油彩画の代表的な作品と言われスタイルや量感が西洋人と異なる日本女性を巧みな構成で艶やかに描いた小出楢重に対し、里見の裸婦像は奔放な筆触、描かれた婦人はデフォルメが進み日本女性が描かれているという感覚も希薄だ。両者の画風の乖離は二人の画家に対する時宜との相性にも直結した。この時代、世間では愛国意識が高まり画壇にも日本回帰の風潮が盛んとなって「日本的油彩画」論議が活発に行われていた。楢重も里見も制作者として時宜への便乗や反発が有ったとは思えない。それぞれの絵画志向の相違であろう。しかし往年のパリフォーヴを彷彿させる色調と描線の里見裸婦像は日本的油彩画とは相容れない作品で世間に評価されることはなかった。なお、里見裸婦連作の過程にはキューヴを感じさせる作品があることも指摘しておきたい。


(仮題)【フランスの田園風景】1960年代(会場展示)

後者の方。戦後まもなくの風景画群は、約4年間の第2次渡欧で描いた100~200点にのぼる習作を持ち帰り以後何年もかけて完成させた。戦前描いた風景画に比べて筆遣いはより大胆で迫力に富み、原色が鮮やかだ。里見―ヴラマンクをつなぐ流れの前に位置するゴッホを思い起こさせる作品もある。国画会展には1959年第33回から1982年第56回の遺作まで毎年出品(不出品は2回のみ)を続けたが、欧州風景をモチーフとしたものが多い。持ち帰って未完成のまま残された習作もあったようだ。中に穏やかな平塗りで描かれた矩形や色面の奥行きに学生時代に影響を受けたセザンヌを感じるものがあった。その上に、観る者には馴染みの勢いのある線を引き、面をしっかり上塗りして完成させるのだろう。下絵には完成イメージの線や面はない。デッサン、エスキースからの変化が大きい。それも里見の方法の一つだったのではないか? というのは本展に取り上げた一人、教え子の島村洋二郎にもデッサンと完成作がかなり異なる様相を見出せるからだ。1935年井荻の里見アトリエに通った洋二郎は里見の制作プロセスを見ていた、と推測している。里見と言えばフォーヴと思われているが、前者の絵にも後者の絵にもキューブの味が漂うのは興趣がある。洲之内徹が里見について書いた文章に興味深い一節があった。峰村リツ子を語る文の中で彼女の人物デッサンにキュービズムを見出し、里見に指導を受けていたことに繋げて「他人はそう思わないだろうが、自分は里見はキュービストだと思っている」と記している(セザンヌの塗り残し)。

里見のパリ豚児時代はヴラマンク型フォーヴ信奉のイデオロギストと理解したい。里見勝蔵の画家、制作者としての評価は、留学帰国後の1930年協会・独立美術協会時代と、孤独な期間を乗り越え二度目の渡欧を果たした戦後の作品をもって決すべきと考える。そこでは、里見自身が書いているように第1次渡欧の帰国前、ヴラマンクが「今、日本に帰りヴラマンクから遠去かれば、君自身の表現を見出すであろう」と語った通り、ヴラマンク型スタイルから脱却し自分のスタイルを持ったと言えるのだ。他の多くの日本人画家は情緒的かつ表象優先の日本型フォーヴに収束していた。第1次渡欧から帰国後すぐに見出した裸婦連作から時を経ること四半世紀、第2次渡欧から戻って里見は人生後半の画業ビークを風景画で構築した。裸婦連作の所で長目に引用した里見の文章の続きを紹介して里見勝蔵小論を終える。

「そして1954年から58年まで再度の渡欧で80歳の老師に再会し改めて風景を研究し僕の風景が出来るまでに十年を要した訳である。」

[小論了]

里見勝蔵と三人との関係は、熊谷登久平は里見が創立メンバーだった独立美術協会会員として、荒井龍男は在野美術団体の後輩として、島村洋二郎は師弟関係として、である。全て別ラインで各人の間に面識があったのかは定かではない。登久平と洋二郎は白日会で接点があるが、10年間出品在籍した登久平に比べ洋二郎は入選1回である。しかし、放浪の画家、長谷川利行と親しくその追悼歌集に寄稿した登久平、パリでボードレールの碑を描き友人たちと詩集「牧羊神」を出版した荒井、手作りの「五線譜の詩集」を遺した洋二郎には同種の感性が通底している。彼らの作品は形態家ではなくカラリストのそれだ。それぞれの代表作やその他資料を多く所蔵する御三方の協力を得、里見作品を加えて「昭和のフォーヴィストたち、色の競演」と謳うことが出来た。

展示作品は里見勝蔵4点、熊谷登久平11点、荒井龍男11点、島村洋二郎13点の計39点に展覧会のきっかけとなった3人から里見勝蔵に宛てた絵葉書3枚他である。

四人の作品が一堂に会した池之端画廊は言問通りから入った三段坂の入り口に面しており里見勝蔵の母校東京美術学校(現東京藝術大学)のすぐ近くである。それも道理で、画廊は2019年春にオーナー鈴木英之氏の母方の祖父、美校日本画科の教授を務めた望月春江のアトリエ跡地に新築した建物なのだ。望月春江の長女(英之氏の母上)も美校日本画科で学んだ鈴木美江氏(現、日本画院理事長)である。更に英之氏の父方の祖父は美校卒業が里見勝蔵の2年後輩にあたる鈴木千久馬である。そんな地縁血縁も濃い展覧会だけにそこに想いを寄せられた方々もいらしたようだ。英之氏の父上久雄氏の同窓友人で美術評論家の瀧悌三氏、里見勝蔵の孫で洋画家の山内滋夫氏は早々に来場していただいた。

文責:水谷嘉弘

【news】「里見勝蔵を巡る三人の画家たち」展が始まりました

令和4年10月12日、当社団法人が協賛した展覧会が池之端画廊(東京都台東区池之端4-23-17 ジュビレ池之端)で始まりました。会期は30日まで。
展示作品は、里見勝蔵4点、熊谷登久平11点、荒井龍男11点、島村洋二郎13点の計39点の他、展覧会のきっかけとなった3人から里見勝蔵に宛てた絵葉書3枚、関連資料類です。

展示作品とキャプション(水谷執筆分)を紹介します。


里見勝蔵 《ルイユの家》   65歳
昭和35年(1960)  油彩 キャンバス
東京美術学校を卒業した翌々年、大正10年(1921)9月、留学したフランスで生涯の師と仰いだブラマンクに出会う。以降、終生一貫してフォーヴィストとして、デフォルメしたモチーフを奔放な筆致と鮮やかな色遣いで描いた。日本におけるフォーヴィスムを代表する画家。本作は昭和29年8月から4年間の第2次渡欧期に1年半近く滞在したブラマンクの住むガドリエール(ルイユ)を題材とした作品。帰国後に完成させたと思われる。戦中戦後の孤独な期間を乗り切った後だけに、うねる曲線の中にも落ち着きを感じさせる。


里見勝蔵 《(仮題)フランスの田園風景》   
65歳~75歳
昭和30年代後半~40年代前半(1960年代) 
油彩 キャンバス
本作は戦後の第2次渡欧期に滞在したフランスのガドリエール(ルイユ)、ベルヌイユの田園風景、スペイン・イビサ島の山野風景をモチーフとし帰国後制作した作品群の一点と思われる。里見-ブラマンクを結ぶ線の前に位置するゴッホに通じている。画業後半のピークを迎えた頃である。昭和29年に会員となった国画会には昭和34年から亡くなる昭和56年まで毎年欠かさず出品し続けたが、欧州の景色を題材にしたものが多くを占めている。


荒井龍男《於巴里(或る風景)》    30歳
昭和9年(1934)  油彩 キャンバス
荒井は器用な画家で一度見た描線を再現するのが巧みだ。大戦間時代の華やかなエコール・ド・パリが終焉した頃渡仏した。多くの日本人画家は帰国していて付き合いに巻き込まれることなくポスト印象派以降の西欧新潮流をじっくり観たのであろう。デュフィ、マチス、ピカソ、ユトリロ、モディリアーニ、等を彷彿させる多様な作品を描いている。基本的にはフォーヴに属する描法である。


荒井龍男《ボードレールの碑》    30歳
昭和9年(1934)  油彩 キャンバス
1904・明治37年大分生まれ、幼い頃朝鮮に渡る。日大在学中に太平洋画会研究所で絵を学ぶ。卒業後朝鮮に戻り官吏になるが1932年28歳の時二科会に入選し画業に専念する。同年夏上京して里見勝蔵を訪ねる。二科会に連続入選し、1934年10月渡仏した。9月に本展の契機となった里見宛の絵葉書を投函している。1932年、詩誌「牧羊神」を創刊した荒井は到着後早々ボードレールの碑を訪れたのであろう。


荒井龍男《虹》    30~32歳
昭和9~11年(1934~36)  油彩 キャンバス
渡仏(1934年10月)する前月、荒井が里見に出した葉書は「フランスに行くのでシャガールを紹介してほしい」と言う文面だった。現地でシャガールに面会出来たのかは定かではないが、荒井の意識していた画家であり、本作を観ればそれが明らかだ。画家山田新一は荒井の帰朝展批評でモディリアーニ、ルドン、シャガールの影響を指摘している。


荒井龍男《(仮題)龍安寺の庭》    36歳頃?
昭和15年頃?(1940年頃?)  油彩 キャンバス
荒井はモチーフの構造や造形を追求するのではなく、線の引き方や面の組み合わせで画面の調子を作っていくタイプの画家である。本作は自由でおおらかな気分で描かれており、塗り込むことなく軽妙に仕上がった佳作だ。1937年3月長谷川三郎、村井正誠らから自由美術家協会の会員に迎えられ、6月ソウルから東京に転居して名実ともに中央画壇に登場した。


荒井龍男《栗拾い》   41~45歳
昭和20~24年(1940年代後半) 油彩 キャンバス
荒井龍男の朱色は美しい。戦中から戦後にかけて描かれた。具象画時代の最後を飾る作品群である。画面全体を明度の低い落ち着いた、しかし鮮やかさを兼ね備えた秀作が多い。持ち味の詩情も湛えている。それまでの色面分割、平面構成的だった画面に造形への意識が見て取れる。荒井には珍しいモデリングを試みた作品を描いたのもこの時代である。


荒井龍男《あべまりあ》   47歳
昭和26年(1951)  油彩 キャンバス
荒井作品の抒情性は造形的脆弱性を併せ持っている。美術評論家田近憲三は「渡欧期間中に重厚にして一見何の面白さもない古典芸術の正しさと厚味を体得しなかったことは、今日に至ってその技術の一つの重壓となって響いている」と指摘した。そこからの解放が抽象化を進め曲線を多用した画業後半のスタイルになっていった。抒情味は失われない。1950年自由美術家協会を脱退し、モダンアート協会を結成した頃である。


荒井龍男《結婚(であ・もでるね・たんつ)》   47歳
昭和26年(1951年)   油彩 キャンバス
1950年9月村井正誠、山口薫らとモダンアート協会を立ち上げ、協会展を2回済ませたあと1952年11月、個展開催のため自作40点を持参してアメリカ、フランス、ブラジルに旅立つ。本作はその前年の制作。既にモチーフの抽象化は始まっていたが、この時期は滑らかな曲線や楕円の重なり、交わりが目立つ。戦後の本邦作は鮮やかな暖色を多用するが本作もその一つである。


荒井龍男《叫ぶ》   49歳
昭和28年(1953)  油彩 紙
本作は1953年5月東京都美術館の日本国際美術展へ招待出品したもの。ニューヨークで制作して送ったと思われる。荒井の絵は具象から抽象へとレンジは広いが、通底しているのは「こだわり」とか「てらい」を感じさせない点である。デラシネのようなところがある。1934年10月から1年10か月の渡仏で西欧には馴染めない感触を得たのではないか、とも思う。第二次大戦後、アメリカは抽象表現主義の中心地となる。荒井にとって新天地の可能性を見出した渡米だったに違いない。


荒井龍男《無題(抽象)》   49歳頃
昭和28年頃(1953年頃)   油彩 キャンバス
1952年11月、自作を携えてアメリカ、フランス、ブラジルを巡回する旅に出る。1953年2月ニューヨークで個展を開いた。本作はニューヨークで描かれたと思われる。アメリカでまた荒井作品の画風が変わる。モチーフの抽象化が、渡米前のくねくねした曲線表現から、画面構成上の整合を図るようになってくる。こののちブラジルで描かれる幾何学的表現への過程と言えよう。モンドリアンを観ていたに違いない。本作も安定感がある。


荒井龍男《エチュード》   50歳
昭和29年(1954)  油彩 キャンバス
ブラジル入りした1954年から画面が明らかに変貌する。4月、続いて翌1955年1月にサンパウロ美術館で個展を催す。盟友山口薫は荒井を評してこう書いている。「荒井の風貌と印象は誰よりも特異であった。日本人というよりスラブ人かと・・・」。見た目だけでなくセンスも日本的ではなく西欧的にもならなかったのではないか?気質的に南米ブラジルに嵌ったのではなかろうか。加えて、サンパウロの建築が気に入ったようだ。モチーフの原型がそれまでの人物、静物から風景になった。


荒井龍男《朱の中の朱(イビラブエラ)》  50歳
昭和29年(1954)  油彩 キャンバス
1955年5月帰国。6月サンパウロ・ビエンナーレ(サンパウロ美術館)、7月ブリヂストン美術館での帰朝展に出品した新作群が遺作となってしまった。9月20日、膀胱癌の手術後急死したのである。享年51歳。代表作となった大作「朱の中の朱」(60号1955年作、東京国立近代美術館所蔵)はサンパウロ・ビエンナーレに出品、本作はその前年に描かれ帰朝展に出品された同題のエスキース(10号)である。両作共に、整った構成、リズミカルな面と線。再び美しい朱色が登場する。色数を抑えながらも画面は鮮やかだ。傑作である。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】田辺至・北島浅一・宮本恒平 1922、3年頃のイタリア風景

【column】で3回続けて、美校卒業「花の大正10年組」或いは前田寛治(1896・明治29年生まれ)が「パリ豚児」と呼んだ面々が属する「黄金世代」の5人、伊原宇三郎・鱸利彦(1894生)、中野和高・田口省吾(1896生)、佐分真(1898生)の滞欧風景画を取り上げた。当社団でproduceした展覧会「里見勝蔵を巡る三人の画家たち」展のコア人物「パリ豚児」里見勝蔵も1895年生まれ、黄金世代である。

今回は彼等の約10歳年長になる先輩画家3人を取り上げる。

3人は田辺至(1886・明治19年生まれ)、北島浅一(1887生)、宮本恒平(1890生)だ。留学時期も黄金世代より数年早い。彼らが西欧滞在中の1921・大正10年頃から1923年にかけて、イタリアを訪ねた時に描いた風景画を観る。なお、8人には東京美術学校西洋画科出身(全員)、エコール・ド・パリ時代にパリ留学(全員)、官展(文展、帝展)系(田口以外)、といった共通項がある。

まず今回の年長者、田辺至である。戦前の洋画壇を代表するアカデミズムエリートだ。【ヴェニス】1923年作、は田辺がキャリアパスの一環で美校助教授時の1922年から24年にかけて文部省在外研究員として欧州歴訪した際の作品である。ポスト印象派以降について限られた情報しか持たぬまま訪れたパリは新たなイズムが出そろった直後だったが、多くの革新的急進的な表現を目の当たりにしたためか田辺の滞欧作にはそれらの影響を感じるものと本来の穏健な画風と巾がある。本作は古い教会と前を行く尼僧をモチーフとしたからか後者の系統だ。帰国後はしばしば帝展審査員を委嘱され28年には美校教授に昇任した。洋画界、官展アカデミズムの長として終戦まで奉職、その後はフリーの立場で在住する鎌倉の近代美術館の支援や大阪、名古屋の有力画廊「美交社」で作品を発表した。

田辺至【ヴェニス】1923(5号)

北島浅一については、かつて次のような一文を記した。「私見では北島浅一が本領を発揮し傑作群を残したのは滞欧時代である。特に中期以降の軽妙で素早いタッチは、華やかで動きのある近代都市パリのタウンシーンに合致しているのだ。描く側と描かれる側の感性がドンピシャである。」

その北島の作品、本稿はパリではなく、田辺と同じイタリア・ヴェニスに取材した【ゴンドラ2】1920~22年頃作である。田辺至や同級生御厨純一の穏当な描法とは反対に、北島の持ち味である省略省力の軽快な筆遣いはイタリアの重々しい史跡や重厚な旧市街といった光景には馴染まないと感じていたが、ヴェニスのゴンドラ図を目にしたときは嵌ったと思った。運河に浮かぶゴンドラの両舳先の反り返った曲線群や河べりを歩く観光客の流れに北島の筆捌きが冴える。画面塗り残しが多いのはまさに北島の面目躍如たるところである。

北島浅一【ゴンドラ2】1920~22(10号)

さて、本コラムでは、田辺、北島は既に何度か取り上げたが宮本恒平は初登場だ。宮本恒平はグルーピングが難しい画家で今回やっと名前を出すことが出来た。と言うのも、美校西洋画科出身だが卒業は1920・大正9年で齢30才になっていた。何年も浪人した、とか生計を立てるために苦学した、とか言うのではなく正反対。親の潤沢な資産を継ぎ、フランスから戻って下落合の目白文化村(現新宿区中落合4丁目)に大邸宅及び別棟に帝展作品制作のためと思われる大アトリエを新築した程の悠々自適、年齢や生活に拘ることなく好きな絵描きの道を歩んだ人物である。同年配ははるかな先輩、同級生は年齢も生活環境も異なる。群れずグルーブや会派に属することもなく他者の記述や年譜にも登場しない。美校を出た後は(東京?)外国語学校に通っている。留学に備え語学に勤しんだのだろう。1921年から23年まで西欧、1930年から36年まで米国、西欧を歴訪したと略年譜にある。遊学というべきだろうが詳細はわからない。その間、終戦まで官展(文展、帝展、新文展)に8回入選している。当時の美校→パリ留学→帝展入選の典型的エリートルートを辿っているが、次の行程の帝展特選になるべき時は「特選なんか必要ないんじゃない、いい身分だからのんきに描かせておけば」とのことで済まされてしまったようだ。

宮本恒平【アシノ・ネロ(黒い驢馬)】1922(10号)

【アシノ・ネロ(黒い驢馬)】1922年作「イタリア、シチリア、タオルミナにて」を観てみよう。一見してパリの美術学校で日本人留学生がフランス人教師から、平板、色が半端、構成に欠ける等と叱咤されるような描き方だ。が、そんなことは意に介せぬような力の抜けた「ふぉわーん」とした味わいの絵に仕上がっている。品の良いおおらかさを感じるのである。世に出ようとか、力作を描こうといった切羽詰まった風がないのだ。温暖な地中海に浮かぶ旧跡の多いのどかな島の光景を描いて過不足がない。キャンバス裏面には彼独特の対称形で活字的な筆跡で題名、制作地が記され、「中央美術 口絵 掲載」と消えかかった赤い字が読める。この作品はニスの黄変が強く、洗浄してもらったのだが宮本本来の色彩が薄れたかもしれない。しかし、絵の持つほんのりした味わいはよく伝わって来る。

10年後、2回目の渡欧の時、フランス、モレーで描いた作品【モレー小景】1932年作、を持っているので紹介する。こちらは宮本作品らしい色合いだが、印象はやはり「ふぉわーん」としている。

宮本恒平【モレー小景】1932(6号)

優雅な官展アカデミストは戦後は日展に出品することもなく空襲を免れた下落合の木造洋館に住んで制作を続け、1965・昭和40年東京オリンピックの翌年に75年の恵まれた生涯を終えた。

8人の画家の作品を通覧してきて、1920年代から40年代にかけて活動した近代日本洋画家の意気込みや研鑽を知りその成果を味わうには、滞欧作品に如くは無し、とあらためて思う。

最後に。「田辺至と藤田嗣治」は、【北島浅一・御厨純一 同郷、同じ歳、東京美術学校同級、没年も一緒の二人の画家】で詳しく述べた一歳下の後輩「北島浅一と御厨純一」と同様のそっくり振りなのである。【田辺至・藤田嗣治 同郷、同じ歳、東京美術学校同級、没年も一緒の二人の画家】なのだ。共に1886・明治19年11,12月の東京生まれ、旧制名門中学校を出て美校西洋画科の同級生となる。1910・明治43年卒業後は本邦アカデミズム或いはエコール・ド・パリ、の画家として好対照の道を歩み、共に1968・昭和43年1月81歳で亡くなった。それぞれ属した場で頂点に立った二人なのだ。この二組四人には運命の妙を感じるのである。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】佐分真 滞欧風景画の秀作 イタリア・アッシジ

美校卒業、花の大正10年組の最若手田中繁吉と同じ歳に佐分真(1898・明治31年~1936・昭和11年)がいる。入学は同期だったが病気して卒業は1年あとの1922年、渡仏も1年遅れの1927・昭和2年2月だった。ムードンに1年半ほど住んだ後、パリ市内に移る。借りたモンパルナス近くのアトリエは田中繁吉が同期の中野和高(1896生)から引き継いだ所だった(ヴォジラール街)。隣に中村研一(1895生)がいた。中野は田辺至(1886生)のアトリエを引き継いだという。佐分と同年生まれに佐伯祐三、岡鹿之助、伊藤廉、福沢一郎、神原泰がいる。美校同期生は一木隩二郎、小泉清、三田康、鈴木誠らだ。大正期新興美術運動や昭和モダニズムを担う世代に差し掛かってきているのが分る。

佐分は、板倉鼎(1901生)が意識していた美校の2年先輩である。板倉夫妻の書簡集には、パリ近郊のムードンを訪れた際、そこにアトリエを構えて住み始めたばかりの佐分と小寺健吉(1887生)に駅近くで出くわし家に招かれたとの記述がある(1927年4月)。佐分の1回目の渡仏は11年先輩の小寺に同行したのである。同年夏には小寺、佐分が続けて鼎宅を訪れ鼎の絵を観て感想を述べている。11月、小寺、一木、一級上の片岡銀蔵と共に4人でイタリア旅行に出発する。この時の小寺の作品【南欧のある日】1928は第9回帝展で特選となり彼の代表作の一つとなった。

私が所蔵する佐分真の【アッシジ】(8号、冒頭画像)もこの旅行で制作されたものである。手前から段々状に層が積みあがっていくような描き方で一番奥が山の頂きからなる地平線。城塞や聖堂が丘陵の上に立っているため同じ風景を重層的に示すことで静謐さに加えて荘重な趣きを醸し出している。佐分が歴史あるキリスト教巡礼地の情景に感銘を受けたことが伝わってくる。

アッシジには2日間滞在したようだが、佐分は日記に「風景八号を一枚描くべく余りに沈鬱なる風景なり 静思すべきもの 淋しき人生そのものの感あり」と書き残している。この時の印象の強さは、佐分が2度目に渡仏した時、長谷川昇(1886生)と南仏ラ・ゴードという村を訪れた際(1932年10月)、小堀四郎(1902生)宛ての手紙に「ここの風景は実に素敵だ。全く伊太利だよ。一寸アッシジを思わせる。・・実に何とも云へぬ。僕たちの悦びを思ってくれ給へ・・」との記述があることからもうかがえる。渡仏前期のアッシジ(1927年)と、渡仏後期のラ・ゴード(1932年)の感激は同質のものだったのだろう。写生風景画は共に秀作である。

しかし描き方は違う。渡仏最初期の1927年作風景画【風景(ムードンからの眺望)】の粗さを感じさせるフォーヴ的な筆致から【アッシジ】を経て【ゴード風景(A)】に至る展開を見ていただきたい。

 

【風景(ムードンからの眺望)】(図録画像)【ゴード風景(A)】(図録画像)

この変化後の画風が人物画に現れた1930年代前半の滞欧作品が佐分の画業のピークである。渡仏した年の秋のイタリア行を経て、1929年9月オランダ行で観たレンブラントがその後の佐分の画業を決定したと言っても過言ではない。明暗でえがき分けた重厚で写実的な絵を描いた、と書けば定番の説明となるが、子息の佐分純一氏(のちに慶應義塾大学名誉教授)は「1930年以降の画面にはオランダ最高の巨匠の光と影が差しはじめているような気がする・・・風景の画面にも写実をこえた精神性が感じられる」としている。友人たちは画集で「ねっちりぬっちり仕事することを学んでいた(伊藤廉)」「四つに組んで正面からひた押しに押して行く(益田義信)」と解説する。益田が「ムダのないタッチで・・引き締める」と評したのは卓見である。佐分の人物画には滞ることをしない筆遣いが各所に見いだされる。それが重い色調にありがちな鈍重さを回避している。

 

【貧しきキャフェーの一隅】1930(図録画像) 【午後】1932(図録画像)

佐分はフランスに到着して日本人画家の多くが惹かれたようにまずフォーヴの影響を受ける。その後西欧各地を訪れ近世絵画を観てそれを学び、とり取り込んでいく。先輩の美校・官展系画家と同様の路を歩む。近世絵画の実見を経て、風景画から人物画、群像図へとモチーフが変遷していくのは、まさに伊原宇三郎(1894生)と同じではないか。人体の量感表現が似た作品も多い。ドランをリスペクトしその紹介本を執筆した伊原自身が、佐分の絵に「ドランの影響を示して居る」(画集解説)と評している。

しかし佐分真は、その後自宅アトリエで自死してしまう(1936・昭和11年4月23日、享年38歳)。遺書が残されていたが原因は謎である。子息純一氏は、「佐分真は、元来ユーモアに富み、茶目っ気のある人だった。最後の数年も表面的には陽気な表情をひけらかしていたそうであるが、それは道化のポーズであり、その実「寂寥や反省に苦しんだであろう(宮田重雄)」し、最後には自虐的な境地まで追い込まれた」と記している。

直ちに友人たち(前出の小寺、伊原、田口、伊藤、宮田、小堀、益田ら)がアトリエを整理して遺作展を催し(1936年9月)、油彩画作品47点、デッサン11点を選んで画集を刊行した(同年10月)。本稿で紹介した絵はほとんどが彼らが採択した画集の掲載作品だ。小寺健吉によればフランスから持ち帰った多くの作品が無署名のままキャンバスに巻かれてアトリエに放ってあったという。展示するために補強修復し、スタンプサインを作って押印したようだ。冒頭の【アッシジ】もそれに該当する作品である。

 

【画室】1933(図録画像)  【室内】1934(図録画像)

佐分真も本コラムで続けて取り上げている官展アカデミストの一人だった。美校卒業翌々年、第5回帝展(1924・大正13年)初入選【静物】。以降、第6、12、13、14、15回と渡欧中を除いて連続入選、うち第12回【貧しきキャフェーの一隅】、14回【画室】、15回【室内】は特選である。

典型的な官展キャリアを歩んでいたのだ。第15回(1934・昭和9年)は松田改組まえの最後の帝展であり、1935年には官展内部で改組対応を巡って諍いもあったようだ。佐分はそれに嫌気がさしたともいわれる。

生涯を通じて画風は変われども密度が高く力の籠った絵を描き続けた佐分だったが、帰国後の帝展出品作は寧ろ平明となり、絶筆となった1936年3月の伊豆写生旅行での作品は軽やかな絵に仕上がっていた。

 

【伊豆風景】1936(図録画像)  【伊豆の浜辺】1936(図録画像)

本稿は、「画集 佐分真」1936年春鳥会、「画家佐分真の軌跡展図録」1997年一宮市博物館、「佐分真展図録」2011年一宮市三岸節子記念美術館、から作品画像を含め多くを教示いただいた。

【ナポリの漁夫】1931(図録画像)

文責:水谷嘉弘

 

 

【topics】日本美術家連盟主催の「板倉鼎」座談会

去る7月下旬、銀座の美術家会館ビルで行なわれた日本美術家連盟主催、エコール・ド・パリの画家「板倉鼎」についての座談会に出席した。

「一般社団法人日本美術家連盟」は美術家の職能団体だが、各種の部会を持ちその一つに「明治以降美術の業績調査委員会」がある。この委員会に板倉鼎(1901・明治34年~1929・昭和4年)が採択された。座談会の出席者は連盟側から業績調査委員長(連盟理事)笠井誠一先生、連盟常任理事で副委員長の入江観先生。お二人共洋画界の重鎮だ。板倉サイドからは鼎の研究者、松戸市教育委員会学芸員田中典子氏と水谷である。

冒頭、笠井先生が板倉鼎を取り上げることについて「近年、近代日本洋画家の存在が忘れられる一方で連盟としてもこの流れを変えて行きたい。特にレアリスム(写実)絵画に焦点をあてたい」と述べられ、「会派に因われずレアリスム画家の正当な評価、見直しをしようと考えている。現代における写実主義の可能性を探っている前田寛治大賞も同様だ。1920年代は西欧と日本のアカデミズムをリンクした大事な時期、その時代にパリで前田、佐分真などと同じ空気を吸っている板倉鼎は大切な存在だ」と続けられた。司会は入江先生である。「松戸市が板倉鼎を顕彰する理由、鼎を取り巻く家庭環境、作品・資料類がどれだけ残っているか」との質問に、田中氏が「鼎は千葉一中から東京美術学校に進学、実家は松戸の医者(個人医院)で現在も縁故者が住んでいる。鼎の妹が兄の作品(約1600点)、兄夫妻の書簡、写真等資料類一切を散逸させることなく大事に保管してきた。松戸市教育委員会の悉皆調査を終えて松戸市に寄贈され、展覧会図録、書簡集(所収371通)刊行の運びとなった」と回答した。

以降、田中氏は板倉鼎のキャリアを辿って鼎、須美子夫妻の松戸の実家とのやり取りや生活、行動について示し、水谷は時代背景である1920年代の日仏社会経済状況、鼎の画風変遷や周辺の日本人画家の話をする等、画家板倉鼎を紹介する流れで進んだ。笠井先生の藝大恩師、伊藤廉(1898生まれ)、入江先生の春陽会における師、岡鹿之助(1898生)ともに鼎の同窓同年代で、特に岡鹿之助は鼎の最も親しい同級生だったこと、また両先生は1950年代から60年代にかけてフランス政府給費留学生としてパリで学んでいた経験をお持ちでそれらも絡めて語られた。

入江先生の「清水登之など米国経由でパリに渡った画家もいたが鼎がハワイ経由にしたわけは?」との問いに、田中氏が「鼎は自宅近くの教会に通った関係でその牧師の移住先ホノルルに立ち寄る事になった(1926)、資金稼ぎに行ったのではない。本人は歓迎に疲れ早くパリに行きたがった」と応じ、水谷が「入江先生お住まいの茅ヶ崎はホノルルと友好都市関係にあり鼎の絵の新発見に期待している。ハワイの日差しと空気が鼎を日本の大気から開放しパリでの画風に繋がる契機となったかもしれない」と付け加える。これを受けて笠井先生は「自分の留学行は南シナ海、インド洋をへて紅海を遡ったが、風土が順々と変わるのを目の当たりにしてカルチャーの違いを体験した、鼎とは経路が違うが同じ効果だとわかる」と返された。

鼎のパリ生活については板倉サイドから3つのポイントを挙げた。両先生が適宜感想を述べられる。

「フランスとの接触による西洋表現の受容と鼎の変化」 鼎がパリ入り半年後(1927)にアンドレ・ロートを多く引用する黒田重太郎「構図の研究」を読み、通学先を日本人留学生の定番だったアカデミー・コラロッシからアカデミー・ランソンのロジェ・ビシエールに変えた事に注目している。キューヴ系に寄って来た。ビシエールの指導内容は鼎が日仏両語でメモを残しているが、田中繁吉がビシエールから言われた言葉を紹介した。[絵は全体の構成が大事だ。背景とモチーフとの関係、床とモチーフの関係、そういう相互の色と形の関係が全体として調和していることが肝要である。その関係に破綻のないように制作せよ。]

「当時のフランス事情、日本人画家たちの交友、経済(家計)状況」 1920年代(大戦間時代)は米国ではジャズエイジ、狂乱の時代とも呼ばれ、パリもオリンピック(1924)、アール・デコ万博(1925)と華やかだった。美術界はエコール・ド・パリ全盛期、300乃至500人の日本人画家も藤田嗣治を中心に、前田がパリ豚児と呼んだ仲間たち他の交友も盛んだった。背景に日本円の過大評価がある。大戦前、金本位制での1us$=2円が大戦後もほぼ維持されていたのに対し、フランスフラン(F)は大幅に値下がりし大戦前の1円=2.6Fがおおよそ10F(1919)、15F(1926)、11F(1928)で推移した。1932年の大暴落まで円高を享受した。日本人画家の生活費は月2000F~3000F(円高ピーク時で130円~200円相当)、鼎は実家から毎月約200円仕送りがあった。留学資金の調達手段として画会を催した画家も多く「1口10号1枚100円」が相場で30口から100口程度集まったようだ。昭和初期の小学校教員の初任給は約70円である。両先生とも、板倉鼎たちの経済事情をご自身の経験と比べられて「戦後しばらく日本は外貨入手が困難で若い画学生が自費でフランス留学するなど考えられなかった。フランス政府の給費がなければ自分たちの留学も実現出来なかった」と異口同音に語られた。

「岡鹿之助と鼎の相互の影響、藤田嗣治の存在、藤田との関係」 しかし鼎の生活は地味で勉学の精進が目立つ。付き合いも少なく岡鹿之助はじめ美校同級生中心だった。入江先生に鼎美校在学中の第4回帝展入選作品(1922)やパリでの鼎作品の画像をお見せしたところ、鼎の絵の印象を「フォーヴの匂いがしない。岡の絵と同様詩情があるが、画質に違いがある。岡の点描に対し鼎の描き方は塗りだ」と指摘される。岡の【魚】1927のモチーフ、構図は、1928頃以降の鼎作品にもよく見られるが、田中氏は「鼎には須美子の影響や色の選択など別の要因があった」とした。水谷は、鼎は藤田とは距離を置いていたようだが岡を通して藤田から[物真似せず自分のスタイルを持つ]事を学んだのではないか、と続けた。笠井先生は、岡と鼎に共通する真面目に勉学に打ち込むストイックさ、藤田との気質の違いに言及され、ご自身の持つ1950年代のパリの印象を、第二次大戦の戦場跡の疲弊した感じ、戦勝国の面影はなく空気は陰鬱だった、美術界もフォートリエのような画家が出ていたと語られた。第一次大戦後のパリも華やかな一方で同じ様相があったのだろう。

入江先生は文学に造詣が深い。鼎夫妻の文学者との交流についても言及された。田中氏が「鼎は房総、保田に写生に出向いた際歌人の石原純、原阿佐緒と知り合い第一回安房美術会展(1924)に出品する。須美子の文化学院での教師が与謝野晶子。夫の寛(鉄幹)と鼎、須美子結婚(1925)の媒酌人となった。須美子の父はロシア文学者昇曙夢で湯浅芳子(翻訳家)、中条(宮本)百合子とも接点があった。百合子は次女と鼎を相次いで亡くした須美子を親身になって支えた。」と述べた。なお、鼎の急逝後(1929)、現地では鼎の代表作となった【休む赤衣の女】のサロン・デ・チュイルリー出品を推した斎藤豊作が、岡らを指揮して対応している。

〆にあたって「鼎の事は、以前松戸在住の画家が本委員会で言及して初めて知った。以来関心を持って図版などを見て来た。私は個人的に岡鹿之助先生や斎藤豊作未亡人にお世話になったことがあり、御存命中に鼎について伺う機会があったのにと残念な気がする」と入江先生が感慨深げに述べられた。

最後に、Q松戸市美術館の設立見込み?、A開館は未定、鼎・須美子作品の展示機会は設定していく。Q今後の展覧会予定?、A今年度松戸市博、来年度千葉市美。等のQ&Aでお開きとなった。コロナ禍の現況を勘案して非公開となったが多岐に渡った約2時間の座談の内容は資料としてFileされ連盟機関紙「連盟ニュース」10月号に掲載される予定である。

前列左から笠井誠一先生、入江観先生。

後列左から、田中典子氏、水谷、鳥山玲氏(業績調査委員会委員、日本画家)

笠井先生から「板倉鼎は夭折したこともあって充分認知されておらず、顕彰活動が遅れている。世に知らしめるのが連盟としても大きな役割りだ」(水谷註:20才代に逝去して美術史上に名が残っている者は少ない。青木繁28才、村山槐多22才、関根正二20才。板倉鼎は28才)と心強いコメントを頂戴したことも合わせて報告する。

文責:水谷嘉弘

【news】日本美術家連盟で「板倉鼎」座談会が開催されました

昨日、銀座の美術家会館で一般社団法人「日本美術家連盟」の部会「明治以降美術の業績調査委員会」主催の「板倉鼎」座談会が開かれました。出席者は、連盟側から笠井誠一先生(明治以降美術の業績調査委員会委員長)、入江観先生(同委員会副委員長・連盟常任理事)、板倉サイドから松戸市教育委員会学芸員田中典子氏、水谷の計4人です。

冒頭、笠井先生が「近年、近代日本洋画家の存在が忘れられる一方で連盟としてもこの流れを変えて行きたい。特にレアリズム(写実)画家の業績に焦点をあてたい」と述べられ、入江先生の司会で始まりました。田中氏は板倉鼎のキャリアを辿って適宜鼎、須美子の松戸の実家とのやり取りや画風変遷について説明し、水谷は時代背景である1920年代の日仏社会経済状況、鼎周辺の日本人画家の話をしました。笠井先生の藝大恩師、伊藤廉(1898生まれ)、入江先生の春陽会における師、岡鹿之助(1898生)ともに鼎の同窓同年代で、特に岡鹿之助は鼎の最も親しい同級生だったこと、また両先生とも1950年代から1960年代にかけてフランス政府給費留学生としてパリで学んでいてその時の経験とも照らし合わせて語っていただきました。

鼎の絵に対する印象、藤田嗣治との関係、岡鹿之助と鼎の相互の影響、文学者との交流などなど約2時間、多岐に渡った座談の内容はfileされ連盟機関紙に掲載される予定です。(後日、本ホームページにも詳細をUPします)

 前列左、笠井誠一先生 右、入江観先生

 笠井先生    入江先生(日動画廊個展会場にて)

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】伊原宇三郎 その3 滞欧風景画の秀作 南仏アルル

伊原宇三郎について3回目を書く。今回はこぼれ話的な周縁の作品ではなく伊原滞欧期の秀作【南仏アルルの旧い街】1926年作(8号)だ。京都の星野画廊、星野圭三氏から到来した。1994年青梅市美「昭和洋画の先達たち」、2008年三重県美「佐伯祐三交流の画家たち展」、2017年目黒区美「よみがえる画家 板倉鼎・須美子展」等に出品されている。

板倉鼎顕彰活動の一環として鼎と繋がりのある画家の資料を蒐集している。伊原は東京美術学校で鼎の3年先輩にあたる。鼎が1926・大正15年7月に渡仏し29年9月に28才で急逝するまでの3年3ヶ月は、伊原の滞欧期間(1925年5月〜1929年6月)とほぼ重なる。パリでの接触も多く「板倉鼎・須美子書簡集」には5度登場する。交流がわかる写真も何枚か残っている。(大久保作次郎送別会1927:集合写真シルエットは松戸市教育委員会作成、渡辺浩三アトリエ1926、)

     

また、伊原は鼎没後の翌1930年4月、東京銀座で開催された遺作展に岡田三郎助、田辺至、御厨純一等と共に発起人に名を連ねている。この展覧会の批評を「美術新論」6月号に寄せており優れた追悼文となっている。

(quote)

これは近時稀に見る充実した、そして胸のすく様な展覧会であった。氏の画風は実に洗練されたものである。・・・板倉君は既に日本で十分な基礎的教養があって、渡仏後研究の第一着眼点を十五世紀のイタリールネッサンスに置いたらしい。これはなかなか出来ないことである。最初に此の洗礼があって、次いで色彩構図の科学的研究があり、両々相俟って氏一流の近代感覚は些かの危険を伴ふことなしに冴えて行った。・・・

(unquote)

やや長めに引用したのは、後半部分に注目したからである。鼎の画風形成の過程は伊原本人にも当て嵌まると言えるのだ。イタリアルネサンスの古典絵画研究が、両名に共通する構成的で端整な具象作品に通じている。

[・・・私の居た頃のパリは、エコール・ド・パリの全盛時代で、ピカソの地位が漸く世界的に認められた時代だけに、クラシックを最上の研究対象にする行き方と、活発な現代活動だけから養分を吸収しようとする行き方の中間の過渡時代・・日本にはクラシックの基盤がなく・・バックボーンの卑弱さは免れ難い。・・画家個人が先ず身を以ってクラシックを通過し幾分でも身につけ、然る後現代に至らねばならないという遠大な構想を立てた・・・](伊原宇三郎「ピカソに惹かれる」1955から抜粋)

   

左)伊原宇三郎「ピカソ模写:楽器、ポルトの便、ギター、トランプ」右)伊原宇三郎「ピカソ模写:コンポートと窓ガラス」1925(共に図録画像)

伊原は渡仏してすぐピカソの新古典主義作品に惹かれる。模写を繰り返すが新古典主義作品でなくキュビズム作品の方が多い。描く対象の構造把握が目的意識にあったのだろう。その後、イタリア旅行に出向きルネサンス絵画に触れ西欧絵画の伝統を学ぶ。パリに戻ってルーブル美術館でアングルの「オダリスク」模写を始める。その頃からモチーフが人体、群像に移行していく。ピカソと邂逅した時の伊原の直感的な共感は、ルネサンス絵画を触媒として具体的なタブローに結実して行ったと言えよう。古典を基盤として自らの造形を作っていく伊原の資質は、ピカソが対象物を分解して画面を構成していくアプローチと通底しているように思える。絵画構成とモチーフ構造の追求、がキイワードである。

【南仏アルルの旧い街】1926・伊原32才、を観てみよう。現実の風景を描写したというより人工的な舞台装置のようだ。時が止まったような、生身の生活空間ではない。三島由紀夫の戯曲、例えば「サド候爵夫人」の舞台背景は室内だが、そのイメージを戸外で再現するとこうなるのではないか、とふと思った。滞欧期前半の伊原作品は風景画が多い。粗い筆触を残すものから穏やかで印象主義的なものまで表現は多岐にわたる。しかし本作の如き静謐で古典的な作品は少ない。数多く残っている彼のピカソ作品模写に、新古典主義に属する絵が少ない点と符合するところがある。伊原の滞欧期後半は人物画、群像図にシフトしていく。構成的な空間と量感豊かで彫像のような存在感ある人体が特徴的だ。1927,28年のサロン・ドートンヌ入選作は【毛皮の女】【横臥裸婦】【赤いソーファの裸婦(白衣を纏える)】である。帰国後もこの傾向がしばらく続く。今日では、伊原宇三郎はピカソの紹介者、古典主義絵画の延長線上にいる人物画家として知られている。風景と人体、描法と構成。それぞれの組み合わせのプロセスにおいて【南仏アルルの旧い街】は過渡的な位置付けが出来る。

新古典主義的な作品だが、ピカソになぞらえれば、新古典主義期に至る前のプロト及び分析的キュビズム期に相当する絵と言えよう。

   

【フォンテンブロー宮】1925(図録画像)【白衣を纏える】1928(図録画像)

伊原にとってパブロ・ピカソ(1881~1973)は学び咀嚼する対象だったと思う。彼が親近感を持ちリスペクトしたのはアンドレ・ドラン(1880~1954)ではなかったか。帰国して10年後の1939・昭和14年にアトリエ社から刊行した「ドラン」はドランを解説しながら自らを語っているようだ。「(フォービスムの)喧騒に飽き疲れた人々は・・落ちついたもとの家を親しんで帰って来た。ネオクラシスムの人々がそれであり・・もっと前に逸早く街の騒ぎから足を洗って・・帰ったのがドランである」として、ドランが戦地から帰還した1920年以後を高く評価し「ドランは現在活躍してゐる大畫家中で極端に言へば唯一人の絵畫の正統を護るクラシストである」と書く。「視覚的でいて視覚万能でなく、必要あり気なものを故意に付加せず・・・感覚の狂奔に身を任すことをせず、ドランの斯ういう信条は其後発展するばかりでこの二十年間何等の方向転換を示していない」のは、新潮流の登場によって変化したり、新たなスタイルを打ち出したりせず、思索し自制的な伊原自身の絵画の事を評しているようだ。

   

【小さな黒い犬のいる風景】1925・26頃(図録画像)【横臥裸婦】1928(図録画像)

1929・昭和4年に帰国してからは、美校を首席で卒業して以来、そのキャリアゆえ官展系アカデミズムを代表する一人として活動した。

1933年には美校助教授に就任する。従軍画家となって戦争記録画家として中国北部、南部、インドシナ等に7回派遣された。

戦後(1945年、伊原51才)は、制作者、教育者のみならず美術(界)振興を推進する立場から活躍した。その生涯を通じた作品群を観ると、画家として油の乗りきる40才台は戦時と重なり、戦後は対外活動に割かれて充分な創作が出来なかった。【南仏アルルの旧い街】を含む1920年代後半の滞欧作品群が1960年前後数年の作とともに画業のピークを形成している。1956年に27年ぶり、二度目の渡欧、フランスに10ヶ月滞在して現地制作を行う。帰国後は60年代半ばから日本全国に写生旅行に出かけて多くの風景画を残した。これらの風景画群は巧みなデッサンに裏付けられた円熟した仕上がりになっている。ただ戦前から戦後にかけての構築度の高い描き込んだ表現とは趣きが異なる印象の作品も多い。

国立近代美術館建設や美術行政への提言等美術界の発展と地位向上に寄与した伊原宇三郎は1976・昭和51年1月、81年の生涯を終えた。本邦近代洋画史、官展史、洋画界の最高峰に位置付けられる人物の一人である。

本稿は、作品画像ほか多くを1994年目黒区美術館、徳島県立近代美術館開催の伊原宇三郎展図録から教示いただいた。

文責:水谷嘉弘

【news】板倉鼎作品の展示情報

板倉鼎の作品2点が千葉県立美術館で展示中ですのでお知らせします。

場所:千葉県立美術館 (冒頭、外観写真は2018・平成30年開催の「原勝郎と板倉鼎」展当時)

千葉市中央区中央港1-10-1  JR京葉線「千葉みなと」徒歩10分

日時:令和4年7月18日(月・祝)まで

展覧会名:令和4年度コレクション展 第2期

展示作品:

 板倉鼎「巴里風景」1929・昭和4年作 キャンバス,油彩

 板倉鼎「金魚」1928・昭和3年作 キャンバス,油彩

本展期間は半ばを過ぎていますが、今後開催されるコレクション展第4期(令和5年1月25日~3月21日)でも板倉作品が展示される予定です。

以上

 

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