板倉鼎はパリ留学中に堅固な画面構成を持つモダンなスタイルを獲得しました。そこからは創作に励むだけでなく理論的な勉強もしていた事がうかがえます。書簡集には松戸の実家宛に、黒田重太郎著『構図の研究』(1925年10月中央美術社刊)を、更に『油絵技法の変遷 上巻』(1927年3月中央美術社刊)を送ってくれるよう依頼した手紙が収録されています。前者は1927・昭和2年1月30日付け葉書と2月3日付け封書、後者は1928年4月30日付け封書です。当社団では当該書物の古書を入手しました。また、板倉須美子(旧姓:昇)の父は当時、ロシア文学者として旺盛な著述活動を行っていた昇曙夢です。昇著作の一冊『芸術の勝利 露西亜研究』(1921年日本評論社出版部刊)と合わせて3冊の書影を紹介します。
(参考)
黒田重太郎について
(1887・明治20〜1970・昭和45)滋賀県大津市出身の画家、美術史家。京都、聖護院洋画研究所・関西美術院で浅井忠に学ぶ。梅原龍三郎、安井曾太郎と同門、ひとつ違い。1912文展入選、1916〜18、21〜23渡欧。1923二科会会員。1924小出楢重、鍋井克之らと信濃橋洋画研究所設立。1943新文展審査員。1947以降、京都市立美術専門学校・京都市立美術大学で教鞭をとる。アンドレ・ロートに師事しキュビズム、新古典主義的な絵画を描く。近代西洋絵画に関する著述も多い。
昇曙夢について
(1878・明治11〜1958・昭和33)奄美群島出身のロシア文学者。若くしてロシア正教会信徒となり1895年上京し日本正教会の教育機関、正教神学校入学。卒業後は神学校講師、新聞社や陸軍幼年、士官学校の嘱託を務めながらロシア文学に関する著述、文献の翻訳を手掛ける。革命後ロシアとの接点も多い。1956『ロシア・ソヴィエト文学史』で日本芸術院賞等受賞。晩年(太平洋戦争後)は奄美群島の本土復帰運動にも尽力、『大奄美史』を編纂した。(wikipediaの記事を参照させていただきました)
(文責:水谷嘉弘)