【topics】中村彝作品と清水多嘉示 ― 大正11年撮影の展覧会写真

2021年5月31日付け本コラム【近代日本洋画こぼれ話】清水多嘉示 その1 渡仏前の生写真と中村彜 を読まれた茨城県近代美術館の首席学芸員吉田衣里さんから照会が有った。中村彝は茨城県出身で彼女は彝の研究者のようだ。1922・大正11年3月、清水多嘉示が教員を務めていた長野県諏訪高等女学校で主宰した「中原悌二郎・中村彝展覧会」の会場写真を入手して掲載したのだが、多嘉示の背景に写る2枚の油彩画は中村彝の作品ではないか、との指摘だった。 (冒頭写真参照) 多嘉示と中村彜【泉】【花】(未完成表示)

私は、清水が制作途上の自作を展示したものと理解していたのだが、吉田さんは「中村彜作品ではないか、【泉】はポーラ美術館所蔵の【泉のほとり】ではないか」と言う。早速調べてみた。会場写真は白黒のせいか陰影が濃く筆致が粗く見えるが、まさに瓜二つだった。ポーラ美術館ホームページの同作解説は、制作1920年とされていて [・・・従来この【泉のほとり】はルノワールの模写といわれてきたが、近年の研究によってそれが模写ではなく、中村彜の創作であることが明らかになってきた。(中略)「素戔嗚尊に題をとって勝手に想像で描いたもの」という中村の言葉からもうかがえる。(中略)彼は、1920年頃、展覧会の特別陳列などでルノワールの裸婦像を目にしたようだ。その衝撃から裸体画を描きたいという思いにとらわれ、この【泉のほとり】を制作したという。・・・] とある。

【泉】1922諏訪高女会場撮影 【泉のほとり】ポーラ美術館

しかし、吉田さんは中村彜「藝術の無限感」所収の洲崎義郎宛て書簡の同作に関する記述に注目する。[・・・何時もの欠点の「動線の不明」と「色の釣り合いの不整」とがつきまとって、絵の効果を鈍くして居るのですが、要点がよく分からないので思ひきった「シマリ」を入れる事が出来なくて、これにも閉口しております。・・・]。会場写真(1922年撮影)では右下部分が空白になっていて「未完成」表記もある。他にもそれを傍証する資料があって、吉田さんは同作の制作過程を再考する要があると考えたようだ。彼女の研究による論文発表を待ちたい。

【花】1922諏訪高女会場撮影 【ダリアの静物】1919
なおもう1枚の【花】と題された未完成作品のその後は不明だそうだ。類似作品【ダリアの静物】の画像を示していただいた。

【泉】未完成表示 【花】未完成表示

他の同展会場写真や多嘉示が撮った彜のアトリエ前のスナップなど現物を見たいとの事だったので開催中の猪熊弦一郎回顧展を観がてら茨城県近代美術館を訪れた。併設されている中村彝アトリエは、建物は復元だが椅子や画架等の調度品は本物、東京新宿下落合の中村彝アトリエと逆の関係だそうだ。館からは吉田さんと副館長の金澤宏さんが同席され、旧友の小泉晋弥茨城県天心記念五浦美術館館長(茨城大学名誉教授)も来てくれて充実した会合になった。

自宅庭先の中村彜(多嘉示撮影) 展覧会場の多嘉示(中原悌二郎作品と)

さて余談ながら、同展に関する写真には他にも興味深いものが多くあった。これらは清水多嘉示の代表的な研究者である武蔵野美術大学(元)教授で彫刻家の黒川弘毅氏から「清水多嘉示アーカイブ」にも見当たらない、と連絡いただいた。同氏と、同じく多嘉示の研究者八ヶ岳美術館特別研究員の井上由理氏両氏のご教示、ご示唆でテーブル上の中原悌二郎著「彫刻の生命」を前にした集合写真の前列左端は後に清水夫人となる今井りん、前列右端は清水の年長の友人武井直也、と判明(判断)した。そこである事に気付いた。作者、画題共に不明の「婦人像」の写真が有ったのだが、これは多嘉示が描いた今井りんではないか?前掲したテーブル前の集合写真の前列左端の彼女と似た相貌なのである。

(前列左から)今井りん、多嘉示、川上茂?、武井直也

 作者、画題不明の「婦人像」 

武蔵野美術大学彫刻学科研究室刊「清水多嘉示資料論集Ⅱ」(2015年)所収の青山敏子氏(多嘉示の三女)「父清水多嘉示と母りん」に依れば、[・・・(多嘉示の父)鶴蔵が(多嘉示の)渡欧の条件としたのは、婚約者を決めてから行くように、ということでした(中略)諏訪高女の前校長土屋文明は迷うことなく今井りんを推薦したのです。・・・]1923年3月の渡欧を控えた1921、22年頃の事と思われる。展覧会は1922年2月であり会場写真に二人が並んで写っていてもおかしくはない。中村彝の作品展示会なので彝の絵が他にもあるのではないか。彝が描いた相馬俊子像があるかもしれない。しかし、多嘉示主宰の地元の展覧会に自作を展示するのもおかしくはない。展示されていなかった可能性もあるが、件の絵は清水多嘉示作、婚約者今井りんの肖像と考える次第だ。如何だろうか?

文責:水谷嘉弘

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