「洋画界を疾走した伝説の画家(一宮市三岸節子記念美術館展覧会での呼称)」佐分真(1898年生まれ)は、同時期にパリに居た板倉鼎(1901生)との行き来を「巴里日記」他に綴っている。佐分は美校で鼎の2年先輩だが、パリ滞在は1927~30年、1932年の約5年間。鼎の滞在1926年7月~29年9月(急病で逝去)とほとんど重なっている。(冒頭画像は「巴里日記」が所収されている佐分真の遺稿集「素麗」(限定650部)春鳥会1936年刊)
佐分は1927・昭和2年2月、小寺健吉とともにパリに渡りしばらくパリ市内に滞在した後、4月近郊ムードンに移住した。住んだ家は中山正實画伯夫妻が帰国した後のアトリエ付きの広い一軒家、小寺兄弟とともに3人一緒である。佐分はムードンの位置をこう書いている。
―モンパルナスの画学生区から僅かに、十分許りの地点丁度上野から田端と云った場所に、あの美しい森と丘と、そして、又やさしい、ムードンの村・・・―(佐分随筆「滞佛断篇」1931年5月発表)
鼎が松戸の実家あてに出した書簡の例えとよく似ているのが面白い。
―今日は四月の十四日です。今週は毎日ムードンと云ふ郊外、丁度乗物の時間から云ふと松戸の東京市に対するような関係で巴里をはなれてる高台ですがそこへスミ子も一処に通って居ります。―(鼎書簡1927年4月14日)
この時の鼎・須美子夫妻のムードン通いの初日に佐分と行き会うのだ。
―最初の日、駅のそばでお友達の佐分利(ママ)さんと小寺健吉氏にお目にかかりました。お二人がすぐそばの家へ案内して下さいました。二人で四間ばかり借りて居らっしゃるのですけれど、お風呂も附いて立派な台所もあり・・私達もそこに移りたくなってしまひました。家の窓からでも画が描ける様になってゐます。―(須美子書簡1927年4月19日)
「素麗」表紙スケッチ(パリ郊外 couilly風景)
佐分は滞欧中の日記を4冊残しており、これらは遺稿集「素麗」に「巴里日記」として収録された。須美子の書いた通り、4月12日の項に鼎が登場する。
―快晴 稍々寒・・・(ムードン駅で)偶然板倉氏夫妻が寫生に来たのに會ふ。伴い歸る・・・―(佐分「巴里日記」1927年4月12日)
パリの大久保作次郎送別会は同年3月22日開催、集合写真には二人共居り、その場がパリでの再会だったと思われる。因みに、この写真には本稿に登場する人物は前田寛治を除く9人が写っている。
(人名比定は「青春のモンパルナス」井上由理氏)
佐分は同日の日記に同会の模様を書いている。後先になるが紹介する。
―夜、七時半から大久保作次郎氏の送別會を日本人會でする。會する者藤田(註:嗣治)氏以下四十餘名、盛會。森田(註:亀之助)氏夢中になってはしゃぐ。嬉しい晩だ。そして席上、近く歸朝する中山正實氏のアパルトマンを吾々で引きつぐ事に相談定まる。非常にいい家だ。郊外ムードンの地、何とも有難い事だ。來る土曜午前中見に行く筈。段々運勢開けるらしい。―(佐分「巴里日記」1927年3月22日)
5月3日、日本人会館で行われた荻谷巌送別会には、佐分、鼎共に出席している。
「巴里週報」(日本人社会のミニコミ誌、石黒敬七主宰)第97号(創刊二周年記念号)1927年8月1日発行、には藤田嗣治の祝辞他多くの在仏者の名刺広告が掲載されている。佐分、鼎も出稿していた。
(「巴里週報」第86号)
同年夏、佐分はパリ市内の鼎アトリエを訪れた。辛口のコメント込みではあるが、鼎を高く評価している。
―・・夕食を富士でとり、後板倉氏を訪ねる。板倉氏には勿論若人の作にして近代的な一味あり、そしてよき神経の行き届きし感じで行く行くは相當の作を成す人と思はせた。唯一種の味にこだはってどっしりとした底力を発揮し得るや否やが疑問だ。もしそれをしも得たらんには一入の結果がみられるだらう。―(佐分「巴里日記)1927年8月25日)
板倉鼎「垣根の前の少女」1927 板倉鼎「剣のある静物」1927
須美子の同日付け書簡の、
―・・昨晩小寺健吉氏が家へいらっしゃいまして、いろいろまじめな批評をして下さいまして、とても今やっている仕事は良いと云っていらっしゃいました。―(須美子書簡1927年8月25日)
と呼応する。小寺と同居していた佐分がそれを聞いて早速訪れたに違いない。先立つ8月19日付けの須美子書簡には、鼎が「垣根の前の少女」を制作中とあり、それを描く様子が詳細に記されている。小寺も佐分もこの作品を目にしたと思われる。鼎側に佐分来訪の記述は無い。しかし、鼎が美校の先輩佐分真を意識していたと分かる記述がある。
―・・・この頃(五六年)巴里に来た画家の数は数百人になりませうが一寸もよい仕事でみとめられていません。率から云ったら極少数の人、佐分氏とか前田氏とか中野氏とかが出て行っておりますが何れも四年以上の人ばかりでして、佐分氏など足りなかったので、又来ておられます。・・・―(鼎書簡1928年2月22日)
佐分が鼎宅を訪れた翌年の書簡である。パリに少しでも長く居たいがための父親に訴える文脈であり、リスペクトしているゆえ名を挙げたのだろう先輩画家たちの滞在年数は実際より長く書かれている。前田氏は寛治、中野氏は和高だが、佐分は初めてパリに来てやっと1年経った頃合いである。小寺と混同していたのかもしれない。
鼎はそれから1年半後の1929年9月29日に急逝するのだが、佐分がそれに言及した文章は見当たらない。同月24日にパリを発ち約1か月、オランダ、ドイツを旅していた期間にあたる。余談になるが、この時観たレンブラントがその後の佐分のスタイルを決定づけることになる。
佐分真が板倉鼎作品を評した記述は同時代画家の証言として貴重である。佐分の眼の確かさもわかる。1927年夏は「パリで1年かけて、持っていた型、日本で学んだ描き方を捨てた」と、鼎自身が書き、モダンで洗練されたスタイルを獲得しつつあった頃だ。静物画が多くやや様式化した生硬な表現も見受けられるのだが、佐分の慧眼から鼎の意図が達成されようとしており、観者にも伝わりかつまだ過程にあった等を知ることが出来るのである。この佐分もやがて2回目の渡欧から帰国した後、1936年に自死してしまう。天賦に恵まれたにもかかわらずそれを全うすることなく世を去った二人の画家は、遺した文章からもお互いを認め合っていた。
文責 水谷嘉弘