松戸市教育委員会から『板倉鼎・須美子書簡集』が刊行され、本日ニュースリリースされました。
板倉鼎・須美子夫妻が1926年から1929年までのパリ留学中に書き綴った書簡を中心として全371通が収録されています。エコール・ド・パリの時代に活動した日本人画家達の想いや生活、交流が細やかに記されています。編集は松戸市教育委員会美術館準備室の田中典子氏、監修は当社団理事、和洋女子大学名誉教授の川崎キヌ子氏です。
仕様:A5判・872ページ・定価4300円
松戸市教育委員会から『板倉鼎・須美子書簡集』が刊行され、本日ニュースリリースされました。
板倉鼎・須美子夫妻が1926年から1929年までのパリ留学中に書き綴った書簡を中心として全371通が収録されています。エコール・ド・パリの時代に活動した日本人画家達の想いや生活、交流が細やかに記されています。編集は松戸市教育委員会美術館準備室の田中典子氏、監修は当社団理事、和洋女子大学名誉教授の川崎キヌ子氏です。
仕様:A5判・872ページ・定価4300円
板倉鼎の遠縁にあたる方から、当社団宛に板倉鼎作品の修復が完了したとの連絡をいただきました。作品は1928年3月、鼎がイタリアに旅した時の風景を描いたものと思われます。額も修復されており、鼎自身が日本に居る妹に文房堂(神田にある明治20年創業の老舗画材店)で購入するよう指図した現物とのこと。修復家は板倉作品の修復を数多く手掛けている小林嘉樹氏です。
板倉鼎の東京美術学校での指導教官、田辺至の作品を収蔵しました。
作品名:「静物」
号数:F15(652Χ530)
制作年:(推定)1940年代後半〜1950年代(美交社時代)。
経緯:田辺至作品の所在情報を入手。当社団では板倉鼎・須美子に関連する資料蒐集も行っており当該作品を購入することにしました。
田辺至について 1886(明治19)年~1968(昭和43)年。東京府立四中を経て、1910(明治43)年、東京美術学校西洋画科卒業。同期に藤田嗣治がいる。哲学者田辺元の実弟。1919(大正8)年、東京美術学校助教授。同年4月に入学した板倉鼎の指導教官となる。油彩画、銅版画を教える。その後2年間のヨーロッパ歴訪を終え同校教授(昭和19年退官)。官展系(文展、帝展)に出品を続け受賞歴多数、審査員を委嘱される。明治40年以降、大正、昭和戦前期に油彩画、銅版画を多く発表している。戦後はフリーな立場で活動した。
令和2年3月1日に国立国際美術館で開催予定だった「美術史学会 美術館博物館委員会 東西合同シンポジウム」について。
テーマは「美術史が生まれる現場から」。全国各地の美術館で作家の発掘・再評価に取り組んでいる学芸員による事例発表の場があり、松戸市教育委員会美術館準備室学芸員田中典子氏の「美術館の開設準備と松戸ゆかりの作家の発掘 板倉鼎・須美子を中心に」もプログラムされていました。
残念ながら、新型コロナウィルス感染拡大防止のため本シンポジウムも事前に中止が決定していたものです。
板倉鼎・須美子を紹介する機会が設けられていたことをお知らせすると共に、後日開催される場合はレポートします。
「一般社団法人 板倉鼎・須美子の画業を伝える会」は広報用フライヤー(チラシ)を発行しました。今後、配布を進めて参ります。
令和2年2月6日、「一般社団法人 板倉鼎・須美子の画業を伝える会」はホームページを開設します。
よろしくお願い申し上げます。
1920年代、共にパリに留学し魅力的な作品を数多く残しながら、惜しくも早世した板倉鼎(かなえ)・須美子夫妻の画業を回顧するとともに、二人と親交の深かった岡鹿之助はじめ、当館所蔵の、同時代にヨーロッパ留学・滞在中の画家たちが描いた作品で学んだ作家たちの作品をあわせて展観し、これまで一般にはあまり知られてこなかった板倉夫妻を中心に、当館がテーマのひとつとしてきた戦前期の「画家の滞欧」の興味深い一側面をご覧いただきます。
本展は2015年10月10日から11月29日まで、松戸市教育委員会の主催で、松戸市立博物館で開催された「よみがえる画家 板倉鼎・須美子展」を参照して、企画構成にあたった同教育委員会の田中典子さんを監修者にお迎えし、主要部分を再現します。また、同時代の滞欧作家たちの作品および関連資料等については、当館所蔵品を中心に新たに構成いたします。
(目黒区美術館ホームページより転載)
1929年(昭和4)9月29日、洋画家・板倉鼎(かなえ)は留学先のパリで28歳の短い生涯を閉じました。大正15年夏にパリに到着して以来、不慣れな異郷で妻子を養い、さらに画業の習得に専心するという多難な生活にもようやく慣れて、一条の光、独自の画風確立の手応えを掴みはじめた矢先の逝去でした。
千葉県、松戸町の医家に生を享け、千葉中学で堀江正章の薫陶を受け、東京美術学校西洋画科に進んで、岡田三郎助、田辺至の指導を受けるや、卒業の翌年渡欧という、まさに画家の登龍門をまっすぐに駆けのぼり、前途洋々たる画業を歩みはじめた途端の病魔との出会でした。
ともにパリにあった美術学校以来の画友・岡鹿之助の尽力もあって、パリの画室に遺された作品はすべて郷里にもたらされ、家族、ことに令妹・板倉弘子の手で、渡欧前の作品と合わせて、今日まで保存されてきました。
板倉鼎の没後75年に、遺された油彩画、膨大な水彩画(下絵)、素描などの中から、油彩88点、水彩画(下絵)20点、素描3点、版画3点、そして、パリでともに描いた妻・須美子の油彩画5点、合わせて119点を選抜し、妹・弘子の「兄板倉鼎の思い出」、詳細年譜を添えて刊行しました。
(美術の図書 三好企画 出版案内より転載)