【topics】日本美術家連盟主催の「板倉鼎」座談会

去る7月下旬、銀座の美術家会館ビルで行なわれた日本美術家連盟主催、エコール・ド・パリの画家「板倉鼎」についての座談会に出席した。

「一般社団法人日本美術家連盟」は美術家の職能団体だが、各種の部会を持ちその一つに「明治以降美術の業績調査委員会」がある。この委員会に板倉鼎(1901・明治34年~1929・昭和4年)が採択された。座談会の出席者は連盟側から業績調査委員長(連盟理事)笠井誠一先生、連盟常任理事で副委員長の入江観先生。お二人共洋画界の重鎮だ。板倉サイドからは鼎の研究者、松戸市教育委員会学芸員田中典子氏と水谷である。

冒頭、笠井先生が板倉鼎を取り上げることについて「近年、近代日本洋画家の存在が忘れられる一方で連盟としてもこの流れを変えて行きたい。特にレアリスム(写実)絵画に焦点をあてたい」と述べられ、「会派に因われずレアリスム画家の正当な評価、見直しをしようと考えている。現代における写実主義の可能性を探っている前田寛治大賞も同様だ。1920年代は西欧と日本のアカデミズムをリンクした大事な時期、その時代にパリで前田、佐分真などと同じ空気を吸っている板倉鼎は大切な存在だ」と続けられた。司会は入江先生である。「松戸市が板倉鼎を顕彰する理由、鼎を取り巻く家庭環境、作品・資料類がどれだけ残っているか」との質問に、田中氏が「鼎は千葉一中から東京美術学校に進学、実家は松戸の医者(個人医院)で現在も縁故者が住んでいる。鼎の妹が兄の作品(約1600点)、兄夫妻の書簡、写真等資料類一切を散逸させることなく大事に保管してきた。松戸市教育委員会の悉皆調査を終えて松戸市に寄贈され、展覧会図録、書簡集(所収371通)刊行の運びとなった」と回答した。

以降、田中氏は板倉鼎のキャリアを辿って鼎、須美子夫妻の松戸の実家とのやり取りや生活、行動について示し、水谷は時代背景である1920年代の日仏社会経済状況、鼎の画風変遷や周辺の日本人画家の話をする等、画家板倉鼎を紹介する流れで進んだ。笠井先生の藝大恩師、伊藤廉(1898生まれ)、入江先生の春陽会における師、岡鹿之助(1898生)ともに鼎の同窓同年代で、特に岡鹿之助は鼎の最も親しい同級生だったこと、また両先生は1950年代から60年代にかけてフランス政府給費留学生としてパリで学んでいた経験をお持ちでそれらも絡めて語られた。

入江先生の「清水登之など米国経由でパリに渡った画家もいたが鼎がハワイ経由にしたわけは?」との問いに、田中氏が「鼎は自宅近くの教会に通った関係でその牧師の移住先ホノルルに立ち寄る事になった(1926)、資金稼ぎに行ったのではない。本人は歓迎に疲れ早くパリに行きたがった」と応じ、水谷が「入江先生お住まいの茅ヶ崎はホノルルと友好都市関係にあり鼎の絵の新発見に期待している。ハワイの日差しと空気が鼎を日本の大気から開放しパリでの画風に繋がる契機となったかもしれない」と付け加える。これを受けて笠井先生は「自分の留学行は南シナ海、インド洋をへて紅海を遡ったが、風土が順々と変わるのを目の当たりにしてカルチャーの違いを体験した、鼎とは経路が違うが同じ効果だとわかる」と返された。

鼎のパリ生活については板倉サイドから3つのポイントを挙げた。両先生が適宜感想を述べられる。

「フランスとの接触による西洋表現の受容と鼎の変化」 鼎がパリ入り半年後(1927)にアンドレ・ロートを多く引用する黒田重太郎「構図の研究」を読み、通学先を日本人留学生の定番だったアカデミー・コラロッシからアカデミー・ランソンのロジェ・ビシエールに変えた事に注目している。キューヴ系に寄って来た。ビシエールの指導内容は鼎が日仏両語でメモを残しているが、田中繁吉がビシエールから言われた言葉を紹介した。[絵は全体の構成が大事だ。背景とモチーフとの関係、床とモチーフの関係、そういう相互の色と形の関係が全体として調和していることが肝要である。その関係に破綻のないように制作せよ。]

「当時のフランス事情、日本人画家たちの交友、経済(家計)状況」 1920年代(大戦間時代)は米国ではジャズエイジ、狂乱の時代とも呼ばれ、パリもオリンピック(1924)、アール・デコ万博(1925)と華やかだった。美術界はエコール・ド・パリ全盛期、300乃至500人の日本人画家も藤田嗣治を中心に、前田がパリ豚児と呼んだ仲間たち他の交友も盛んだった。背景に日本円の過大評価がある。大戦前、金本位制での1us$=2円が大戦後もほぼ維持されていたのに対し、フランスフラン(F)は大幅に値下がりし大戦前の1円=2.6Fがおおよそ10F(1919)、15F(1926)、11F(1928)で推移した。1932年の大暴落まで円高を享受した。日本人画家の生活費は月2000F~3000F(円高ピーク時で130円~200円相当)、鼎は実家から毎月約200円仕送りがあった。留学資金の調達手段として画会を催した画家も多く「1口10号1枚100円」が相場で30口から100口程度集まったようだ。昭和初期の小学校教員の初任給は約70円である。両先生とも、板倉鼎たちの経済事情をご自身の経験と比べられて「戦後しばらく日本は外貨入手が困難で若い画学生が自費でフランス留学するなど考えられなかった。フランス政府の給費がなければ自分たちの留学も実現出来なかった」と異口同音に語られた。

「岡鹿之助と鼎の相互の影響、藤田嗣治の存在、藤田との関係」 しかし鼎の生活は地味で勉学の精進が目立つ。付き合いも少なく岡鹿之助はじめ美校同級生中心だった。入江先生に鼎美校在学中の第4回帝展入選作品(1922)やパリでの鼎作品の画像をお見せしたところ、鼎の絵の印象を「フォーヴの匂いがしない。岡の絵と同様詩情があるが、画質に違いがある。岡の点描に対し鼎の描き方は塗りだ」と指摘される。岡の【魚】1927のモチーフ、構図は、1928頃以降の鼎作品にもよく見られるが、田中氏は「鼎には須美子の影響や色の選択など別の要因があった」とした。水谷は、鼎は藤田とは距離を置いていたようだが岡を通して藤田から[物真似せず自分のスタイルを持つ]事を学んだのではないか、と続けた。笠井先生は、岡と鼎に共通する真面目に勉学に打ち込むストイックさ、藤田との気質の違いに言及され、ご自身の持つ1950年代のパリの印象を、第二次大戦の戦場跡の疲弊した感じ、戦勝国の面影はなく空気は陰鬱だった、美術界もフォートリエのような画家が出ていたと語られた。第一次大戦後のパリも華やかな一方で同じ様相があったのだろう。

入江先生は文学に造詣が深い。鼎夫妻の文学者との交流についても言及された。田中氏が「鼎は房総、保田に写生に出向いた際歌人の石原純、原阿佐緒と知り合い第一回安房美術会展(1924)に出品する。須美子の文化学院での教師が与謝野晶子。夫の寛(鉄幹)と鼎、須美子結婚(1925)の媒酌人となった。須美子の父はロシア文学者昇曙夢で湯浅芳子(翻訳家)、中条(宮本)百合子とも接点があった。百合子は次女と鼎を相次いで亡くした須美子を親身になって支えた。」と述べた。なお、鼎の急逝後(1929)、現地では鼎の代表作となった【休む赤衣の女】のサロン・デ・チュイルリー出品を推した斎藤豊作が、岡らを指揮して対応している。

〆にあたって「鼎の事は、以前松戸在住の画家が本委員会で言及して初めて知った。以来関心を持って図版などを見て来た。私は個人的に岡鹿之助先生や斎藤豊作未亡人にお世話になったことがあり、御存命中に鼎について伺う機会があったのにと残念な気がする」と入江先生が感慨深げに述べられた。

最後に、Q松戸市美術館の設立見込み?、A開館は未定、鼎・須美子作品の展示機会は設定していく。Q今後の展覧会予定?、A今年度松戸市博、来年度千葉市美。等のQ&Aでお開きとなった。コロナ禍の現況を勘案して非公開となったが多岐に渡った約2時間の座談の内容は資料としてFileされ連盟機関紙「連盟ニュース」10月号に掲載される予定である。

前列左から笠井誠一先生、入江観先生。

後列左から、田中典子氏、水谷、鳥山玲氏(業績調査委員会委員、日本画家)

笠井先生から「板倉鼎は夭折したこともあって充分認知されておらず、顕彰活動が遅れている。世に知らしめるのが連盟としても大きな役割りだ」(水谷註:20才代に逝去して美術史上に名が残っている者は少ない。青木繁28才、村山槐多22才、関根正二20才。板倉鼎は28才)と心強いコメントを頂戴したことも合わせて報告する。

文責:水谷嘉弘

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