(註:本篇は初稿執筆後、鈴木千久馬(1894生)の【少女の顔】(1935年制作)を入手したため原題の3人に加え増補として最終節に文章を追加した)
以前、東京美術学校出身者8人(生年順~田辺至、北島浅一、宮本恒平、伊原宇三郎、鱸利彦、中野和高、田口省吾、佐分真)が1920年代に描いた滞欧風景画を続けて取り上げたが、今回は彼等と同輩先輩にあたる画家3人が描いた対照的なモチーフ、本邦人物画(婦人像)を取り上げる。今回の3人は青山熊治・田辺至(1886・明治19年生まれ)、大久保作次郎(1890生まれ)である。田辺至は滞欧風景画に続いての登場、大久保作次郎は1927年3月パリで撮った彼の送別会集合写真でお馴染みである。
明治末から大正年間を通じて(1910年以降)、白樺派によってポスト印象派のセザンヌ、ゴッホ等が紹介されていたとはいえ、1886年生まれの藤田嗣治や田辺至らは1910・明治43年に卒業した美校で印象派までしか教わっていない。藤田は1913・大正2年にフランスに渡ってすぐにアンリ・ルソーの作品を見せられ「実の所、自分はセザンヌ、ゴーガン、ファン・ゴッホ、ルノワールを知らずして、いきなり、ピカソの立体派、アンリ・ルソーの傑作を見せられたのだからその感動も大きかった」と自らの展覧会図録で回想している(1929朝日新聞社)。藤田、田辺の一歳下、1887年生まれの小寺健吉は1922・大正11年に最初の渡欧に出かけるが、小寺についても、柳亮が「美校での岩村透の西洋美術史の講義は印象派で終わりをつげ後期印象派にまでは及ばなかった。小寺が渡欧する時にはマチスの名前ぐらいは知っていたが、ボナールもヴラマンクもドランもその存在はまるで知らなかったと言っている」と小寺画集掲載の評伝に書いている(1977日動出版部)。大久保作次郎は小寺渡欧の翌年1923年に渡欧した。藤田と同じ歳の青山熊治は1914年にシベリア鉄道経由で欧州に渡っており情報の少なさは全員同じだったろう。画家の名前さえよく知らないまま、初めて観たポスト印象派やそれに続いた新潮流の絵画、エコール・ド・パリの作品は生の現物だったのである。
大久保作次郎【鏡の前】1939(20号)
まず三人の中で一番年下の大久保作次郎(1890・明治23年生まれ)から観て行こう。大久保は、19世紀印象派を古典と見なしたかのような忠実で謙虚なアカデミズムの画家である。この作品は1939・昭和14年制作でパリから戻って12年後の49歳時の制作であり他の画家の2点とは直接の比較は出来ないが、官展アカデミストらしい秀作である。大久保も滞欧作品には代表作の【マルセイユの魚売り】等にやや粗い筆致があるが、帰国後は一貫して本作からも伝わってくる懇切で堅実な画風を示している。この作品は20号の大型作品だが、画面全体に塗り残す所はない。先輩二人が書いた十数年前の絵と比べても筆触跡はほとんどなく丁寧で落ち着いた筆遣い、色遣いである。大久保は欧州新潮流の絵画に影響されることなく、既に渡仏前に知り共感していた印象派の画風を継続した。室内で化粧する大画面の女性半身像は、構図、テーマともに家庭団欒図に代表される帝展様式を彷彿させる。完成度が高く1971年に刊行(サンケイ新聞社)された画集にも掲載されている。大久保の長い画歴にあってこの時期の代表的作品のひとつといえよう。この年、彼は安宅安五郎、柚木久太、鈴木千久馬、中野和高、ほか官展系の先輩後輩画家たちと創元会を立ち上げ創立会員になっている。
続いて青山熊治と田辺至の婦人画を観る。共に帰国後の1926・大正15年頃の作品と思われるが、明るい色遣いや、輪郭を崩すまでには至らないが短い筆触を残す奔放な描き方はパリで初めて実物を観たに違いない印象派の影響を受けている。絵具もしっかり塗り込んでいるのは美校先輩の印象主義絵画と一緒だ。既述したようにこの世代は印象派に続くポスト印象派、フォーヴ、キューブには同時に接した。しかしそれらにはあまり反応せず座学で学んだ印象派に寄っていったのは興味深い。他に比べれば正統的に見える作風に惹かれたのかもしれない。1910年代から20年代初めにかけての留学者は国家を代表して油画の本場西欧で正統な画業を学び本邦に伝えるという啓蒙的な意識が強くあったと考えられる。1922・大正11年文部省在外研究員として欧州歴訪し帰国後美校教授に昇任した田辺は特にそうだったろう。当時西欧画壇で一定の評価が固まった最新の主義主張であった印象派に依拠したのは必然だったとも言える。
青山熊治【婦人像】1926(8号)
青山熊治は、現在では忘れられてしまったがクラスヘッド的存在、実は現役時代にも一度忘れられてしまった経緯がある画家だ。1904・明治37年に美校に入学して在学中に【老工夫】が東京勧業博で受賞、その後、【アイヌ】で白馬会賞、文展でも連続受賞して1914年に陸路欧州に向かう。だが第一世界大戦に遭遇して行動できず、資金調達にも苦労してパリを発ち帰国したのは1922年だった。画壇から忘れられていた。1926年に大作(2m×3.6m)【高原】が帝展で帝国美術院賞を受賞、一気に復活して1928年には審査員となったのである。しかし、1932年に急病で世を去る。波乱の生涯を送った。画題が示すように人物画を得意とし、【アイヌ】【高原】は群像構想図である。紹介する作品は【高原】制作年に描かれている。彼の人物画は面長長顎が特徴で、この女性は他の作品にも登場する。青山の絵は渡仏後は明度が高くなるが、彩度は抑えたまま、静寂、沈潜といった印象で当時全盛だった外光派表現とは一線を画している。構図と筆触面で描く本格派の画家、という印象である。本作は背景の緑青色効果で明るく映るが厚塗りで筆を置いた跡がくっきりと残る重厚な絵に仕上がっている。
田辺至は、以前本コラムで紹介したように戦前の象徴的な西洋画アカデミズム・エリートである。兄は哲学者、田辺元。東京府立四中、美校、研究科(現在の大学院)、助手、助教授、欧州留学、教授。文展第1回から入選、受賞を重ね、審査員。戦後は一線から退きフリーで活動した。上手な描き手で油画のほか銅版画、挿絵など、モチーフも風景、人物、静物なんでもこなした。文展時代から幅広い題材を描き、外遊後、戦時に至る間は裸体画、戦中戦後は静物画が多い。本作は帰国後間もない頃の作品と思われる。制作年が明らかな渡仏前の作と比べ明るくなっている。色遣い、筆触など先の青山作品と相通ずる所が多く、これも落ち着きのある絵に仕上がっている。
田辺至【少女ノ顔】1920年代後半(推定)(4号)
以上述べてきた彼らの画風は、彼らから遅れること数年乃至十数年、1920年代半ば以降にパリに渡った同世代、例えば熊岡美彦(1889生)が現地ではフォーヴ風の絵を多く描き、1920年代初めにパリに行ったが年齢的には一世代下のパリ豚児たちの多くがフォーヴに傾倒し、例えば中山巍(1893生)、里見勝蔵(1895生)がヴラマンクばりの絵を描いた事とは対照的であった。本題とは逸れるが、更に下の1900年代前半生まれのモダニズム世代に属する田辺至の教え子、板倉鼎(1901生)がパリ留学前の1924年頃に描いた作品は、今回の青山田辺作品と同時期の制作だがかなり垢抜けた印象である。鼎の資質もあったに違いないが新たな情報や新鮮な感覚が到来し始めていたのである。
また、田辺至と同期同年齢ながらパリに腰を据え世に出ることを志した藤田嗣治(1886・明治19年生まれ)も全く違っていた。彼は信念通り自分のスタイルを確立しエコール・ド・パリの花形画家になって行くのである。
青山、田辺、大久保の三人はみな帰国後、官展アカデミズム界で順調にSTEPUPし、帝展審査員に任じられた。同じキャリアの辻永(1894生)や田辺至、小寺健吉、大久保作次郎、などこの世代の長寿を得た画家たちは、パリ豚児たちと違って、戦後も画風を変えることなく描きなれた穏健な作品を発表し続けた。持ち味と言えるが、官展アカデミズムの伝統維持、見方を変えれば弱点となる様式の形骸化に通じていたとも言えよう。
(参考)板倉鼎【黒いショールの女】1924年頃 所蔵者宅で撮影
(増補)
以上を書き終えた後、かなり経ってから鈴木千久馬(1894生)の婦人像が到来した。大久保作次郎の項で名前を挙げ、田辺至の項に続けた〆の文章で触れた中山巍(1893生)、里見勝蔵(1895生)らパリ豚児と同世代である。千久馬は1921年美校藤島武二教室出身、同期に伊原宇三郎(1894生)、前田寛治(1896生)等がいる。所謂、花の大正10年組、黄金世代だが渡欧したのは皆に遅れ1928年、既に1925年から27年まで3回連続して特選になっており帰国後の1930年には審査員に任じられたように典型的な美校エリートコースを歩んでいた。同年1930年協会会員となり最終回となる第5回展(1930年)に出品するものの同会解散後発展的に発足した独立美術協会には参加せず帝展に残った。先駆けて渡欧した同世代の多くの
画友達が現地で強くフォーヴの洗礼を受けたのに比し、渡欧前に既にドランの影響が顕著な新古典派系画風で成果を得ていた彼は現地ではピカソの詩情に惹かれている。ユトリロにも感ずる所があった。同期の帝展アカデミスト伊原宇三郎に似て又異なる点だ。【少女の顔】を観てみよう。千久馬の孫(日本画家望月春江の娘鈴木美江氏の子息)鈴木英之氏に依れば、モデルは千久馬の長女、吉田千鶴さんでご健在だそうだ。彩度を感じる色、自由な筆遣いで先輩3人のオーソドックスな婦人像に比し若々しい筆致だ。モデルが実の娘でまだあどけなさの残る年頃だったせいか、その頃の帝展出品作に比べ和やかな出来だ。大久保作次郎世代の多くが戦後になっても印象主義的画風を遵守したのに対し、千久馬の、大久保や同期の中野和高(1896年生)らと結成した創元会(1941年)等への出品作は1950年頃から徐々にスタイルを変え、晩年のさわやかなで平明な詩情を漂わせる日本画的味わいも備えた「白の時代」に至る。これが彼の最終形として広く知られることとなったが、渡欧時のユトリロへの共感が顕在化したのかもしれない。本作はそこに至る過程としての一品と言って良かろう。
鈴木千久馬【少女の顔】1935年(6号)
(増補 了)
文責:水谷嘉弘