【近代日本洋画こぼれ話】小堀四郎 その2 我が国には稀少な崇高を描く

 

(冒頭画像は小堀四郎(90歳)1992年展図録より)小堀四郎の戦後作品が「精神性に富んだ神秘的な、宗教的とさえ言える(中略)自然観照が観念性、幻想性を帯びてモチーフに天空や海原が目立つ。彼岸の世界を観るかのようだ」と前篇で述べた。これらの作品を観てまず思い浮かべる言葉が美学上の概念「崇高」である。「崇高」とは雄大な自然描写に高尚さが宿っている美術作品を観た時に得られる感覚、といった意味合いで使われる。敬虔な気持ちにさせられる、とも言えよう。「(狭義の)美」とは異なる「美的範疇」の一つだ(美学ではその他の美的範疇として「滑稽」「悲壮」等がある)。その「崇高」絵画の代表事例が19世紀前半のドイツロマン派の画家、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒである。

18世紀終わりごろから19世紀半ばにかけて支配的な美術イズムであった新古典主義に対抗して勃興したロマン主義と言えば、ジェリコー、ドラクロワに代表される躍動感ある情緒的なフランスの人物、事象表現を連想する。しかし理想主義的なアカデミズム表現とは異なるとの観点から、ロマン主義のレンジは広い。風景画の分野ではコローを、後の印象派に通じる写実描写に注目してロマン派に位置付ける批評家もいる。地域による特長もあった。ドイツのフリードリヒの他、イギリスではターナー、コンスタブルがよく知られている。

フリードリヒ【氷上の難破船】1824 フリードリヒ【大狩猟場】1832

ドイツロマン派絵画は、古典を規範として形態把握を一義とするラテン的なアカデミズムをベースとしながらも、風景の写生に軸足を移しゲルマン的な内省に因って哲学的思索を表現した。フリードリヒの風景画は自然の中に超越的存在を暗示し精神の高揚を喚起している。西欧南方のラテン系とは違う西欧北方系の特長といえる。フリードリヒを日本に初めて紹介したのは東山魁夷(1908~1999)である。ドイツ留学中(1933~1935)に知ったようだ。

小堀四郎の画家としての成長過程を追ってみよう。美校時代は黒田清輝由来のラファエル・コランのフランスアカデミズム教育を受ける。フランス留学時代(1928~1933)にルーヴルでオランダ(北ネーデルランド)のレンブラントとバルビゾン派のコロー、ドーミエを模写した。遺した作品は前篇で紹介した【フィレンツェ】1930や【フェスの門】1932がある。コローの味わいがある前者は、安定した構図と正確なデッサンで小品ながら大きく迫って来る秀作である。帰国後は【死】1941、【鶴川風景 夏】1944、【高原の夕陽】1947、等がある。1935年、画壇から離れて以降は終生、美校の同期生による年1回の上杜会展にのみ出品した。

(掲載作品は全て図録画像)

【死】1941 【鶴川風景 夏】1944 【高原の夕陽】1947

戦後は【高原の聖夜】1961を経て、晩年【無限静寂】1977、【浄寂】1980、【驚異の美】1987、等の連作に取り組んだ。上杜会展出品作 【無限静寂】三部作(100号)は築地カトリック聖堂の祭壇画となった。これらの作品には神秘の世界を感じる。画題からもそれが伝わる。風土の違い、宗教観の違いなどに因って表象の相違はあるものの、モチーフとなる空や大地の表情、壮大さが醸し出す悠久なる自然のイメージがフリードリヒ作品と重なって来る。主観的風景画と言える。

1986年展図録(渋谷区松濤美術館)に寄せた小堀本人の文章に以下の一節がある。[若い時は美しい自然(風景)や草花を見ても、その美しさへの感動が眼に映ずるもので受け、知識によって納得して来た傾向があるが、年を重ねるに従い、目に映ずる物、事の美しさの裏というか、奥というか、目に見えない部分の美しさ、空間、静けさ、深い味わいに神秘を感じる様になって来た。]敬愛する師藤島武二の教えに導かれた悟りもあったに相違ない。

 

【高原の聖夜】1961 【生命の神秘 三】1979 【浄寂 雲上】1980 【人生とは】1982

【驚異の美 昼】1987 【静中動 生命の根源二】1990

小堀四郎がドイツロマン派の影響を受けたのか、自ら達した境地だったのか、ここで問おうとは思わない。彼が語った言葉と完成させた晩年の多くの作品から伝わって来る崇高さを真摯に受け止め味わいたいと思う。小堀四郎という我が国では稀有の画歴と生涯を送った一人の画家の着地点であり独自のスタイルを完成させたからである。興味深いのは、崇高の先達ドイツロマン派が杏奴夫人の父森鷗外が学んだ国と符号することだ。小堀がロマン派的資質の持ち主だったとも思う。因みに「das erhabene」というドイツ語を「崇高」と訳した人は鷗外その人である。

近代日本洋画の系譜に崇高のカテゴリーに属する画家と作品が数少ないことと、フリードリヒの紹介者が日本画家の東山魁夷であった事実は同根であることも指摘しておきたい。ロマン主義の流れは同世紀後半の印象主義から翌20世紀初頭のフォーヴィスムに引き継がれていくが、それは主にフランスを中心としたラテン系ロマン主義の方でドイツ系は其の特異性からか後継が育たなかった。我が国の近代西洋画受容はフランス印象主義の色彩と筆致に偏ってしまい、フォーヴィスムに対しては造形表現としての理論的側面が看過され情緒的共感に収斂して行った。ましてやドイツロマン主義を受け容れる状況でも体質でもなかったと言えよう。この意味で、小堀四郎は近代日本洋画史における稀少な「崇高」表現者と位置付けられるのである。

文責:水谷嘉弘

【news】日経の文化時評に板倉鼎・須美子が登場しました

2026年1月11日(日)の日本経済新聞「文化時評」、窪田直子論説委員の署名記事「YOGAは第2の浮世絵か」に板倉鼎・須美子が登場したのでお知らせします。
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当該記事は、昨年11月の毎日オークションに藤田嗣治の水彩画が出品され中国語圏の顧客とnet入札者が競り合いestimate価格の約5倍で落札されたことから書き起こされ、いま、中国語圏収集家の20世紀初めから半ばにかけて描かれた「YOGA(洋画)」(日本画に対して使われる日本洋画の呼称)への関心が高まっていると述べる。一昨年、脇田和の作品を相当数展示販売した銀座の画廊社長や、昨年里見勝蔵の油彩画を数点販売した京橋の画廊社長の言葉が紹介されている。現在、同時代の日本人洋画家の作品価格はバブル期の1割だと言う。記事は、「オークションハウス、クリスティーズの担当者はこの時期の日本洋画は希少性と質の高さで評価されている、と指摘する」と続ける。記事見出しには「日本の洋画は質が高いことで知られ国内の美術館が収蔵し研究の蓄積もある」との文言が付けられていた。
記事は最後の方で昨年のシンガポールナショナル・ギャラリーの「City Of Others: Asian Artists In Paris, 1920’S−1940’S」に言及し、展示された作品の日本人画家として藤田嗣治や佐伯祐三らとともに、板倉鼎、板倉須美子の名前が取り上げられていた。
当該記事は「バブル崩壊後、洋画ファンは高齢化で去り若いコレクターは現代アートに目が向いて日本洋画はじり貧になりかねない、」との声を紹介し、「明治になって江戸時代の浮世絵は欧米に見いだされジャポニスムの熱狂を生んだ。YOGAは第2の浮世絵になるのだろうか」と〆られている。
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シンガポールナショナル・ギャラリーのCOO展では多くの日本人画家の作品が展示されていましたが、その中から板倉鼎、須美子の名前を載せていただいたことは板倉夫妻の顕彰活動をしている当法人に大きな力となりとてもありがたく窪田さんに厚く御礼申し上げます。また、この記事は近代日本洋画に惹かれて関連書籍を出版し、本ホームページをはじめ文芸誌、同人誌などに近代日本洋画に関する動向や画家について執筆、発信している者にとっても心強く合わせて感謝申し上げます。
なお、COO展を訪れた際の報告エッセイとCOO展の展示風景を、本HPメニュー【TOPICS】アーカイブ2025年6月、に掲載しています。
文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】小堀四郎 取っ掛かりの無かった幻の画家

(冒頭画像は小堀四郎(80歳)1982年展図録より)忘れられたエコール・ド・パリの画家板倉鼎(1901~1929)の顕彰活動の一環として彼と同時代、昭和戦前戦中期に活動した洋画家をfocusして来た。近代日本洋画の通史や展覧会、彼等の画集、著作、図録等を通覧してほとんどの名前は馴染みである。しかし、通史には登場せず、展覧会で実作を見たことは無く、作品が市場に出ることも無い、私にとって取っ掛かりのない幻の画家といえるのが小堀四郎だった。

数年前、懇意にしているギャラリーで小品だが妙に気になり気にいった油彩画を見て初めて名前と現物を知った体たらくであった。その後、本コラムで何度も取り上げた佐分真(1898〜1936)を調べ始めるとしばしば登場する。更に気になった。美校の同窓会名簿を見返すと西洋画科1927・昭和2年3月卒業同期には錚々たる名前が並んでいる。小堀を知るには以前出版された展覧会図録を読むしかなかった。1982ウイルデンスタイン東京(画廊)、1992東京ステーションギャラリー、1995豊田市美術館、2012茅野市美術館刊行の4冊を取り寄せた。これを頼りに本篇を綴ってみたい。

1992年展図録 自筆署名(1982)

1902・明治35年名古屋市生まれ、1998・平成10年8月96歳で亡くなった長寿の人だ。尾張徳川家初代に使えた小堀家(初代)の末裔にあたる。茅野市美術館の回顧展「生誕110年小堀四郎展 美の生命の永遠」の案内文が的確明解なので長くなるが抜粋引用させていただく。

(quote)小堀四郎は、1902年、愛知県名古屋市に漢学者・小堀休忠の四男として生まれました。愛知県立第一中学校(現愛知県立旭丘高等学校)在学中に油彩を知った小堀は生涯芸術の道に進むことを決意し、父より東京美術学校(現東京芸術大学)への進学の許しを得ます。上京後、藤島武二に師事し、1922年に同校へ入学。同期には猪熊弦一郎、牛島憲之、荻須高徳、小磯良平、山口長男ら、のちの日本洋画壇を担う実力者が揃っていました。卒業後、1928年よりフランスに留学。ルーヴル美術館での精力的な模写に加え、ヨーロッパの主要都市を巡り、多くの美術作品に触れるなど、研鑽の日々を過ごし、1933年に帰国しました。翌年藤島武二の媒酌で森鷗外の次女・杏奴と結婚。杏奴は、生涯、最大の理解者として画業に専念する小堀を支えました。1935年、帝展改組による画壇の混乱の中、様々な団体から誘いを受けた小堀は、師である藤島から、「君が真に芸術の道を志すならば、出来得ればどこにも関係するな。芸術は人なり」「俗世に求めている間は人間は出来るものではない」との助言を受け、生涯画壇に属さず、画商との交渉もせず、出品を東京美術学校同期生による「上杜会」のみとし、自身の信じた芸術の道を歩み続けます。(unquote)

若き日の小堀四郎の動向を伝えてくれる最も有用な情報源は既述したように佐分真関係の文献である。佐分が1936・昭和11年4月、東京西ヶ原の自宅で自裁した後、追悼のため親しい仲間たちが様々な活動をしたがそのひとつが遺作画集の刊行だった。アトリエに乱雑に遺された滞欧作を中心とした作品群を仕分けしA評価作品をベースに春鳥会から限定450部の画集「佐分眞」を刊行した。油彩作品には全て、刊行に携わった友人たちの解説文が付いている。小寺健吉、伊原宇三郎、田口省吾、伊藤廉、等に交って小堀もその一人だが、所収された油彩画47点のうち小堀は9点担当し一番多い。佐分、伊藤、小堀は同郷であった。小堀執筆の解説を一篇挙げる。

[【ブルターニュの男】モデルはモンシニ爺さんの弟で服装はフランス西北地方ブルターニュのものだ。第1回滞仏中の作。矢張りオルヌ街のアトリエで出来たものである…此処には大きなアトリエが前庭の中央の小池を囲んで七八つあり…最初の渡仏後期は正面のアトリエで…第二回目の時は右側の奥のアトリエで仕事をされた…]二人の往来が分かる。

モンシニ兄弟はモデルを生業としており小堀がモデルにしていたイタリア人の少年から紹介され更に小堀が佐分に紹介したという。そのため小堀にも同題の作品があり、こちらは帰国後第14回帝展(1933)に出品されている。オーソドックスで生真面目さをうかがわせる仕上がりだ。

佐分真1930【ブルターニュの男】小堀四郎1930(共に図録画像)

佐分の子息佐分純一は著書「画家佐分眞 わが父の遺影」(求龍堂1996)に[同門の(藤島武二の)篤実なる弟子、小堀四郎は四歳年下であるが兄弟弟子の関係でもあり…生涯の画友となった][(小寺健吉、伊藤廉、宮田重雄、山喜多二郎太の他に)父の生前から出入りしていたお友達には…小堀四郎…などの諸氏をよく覚えている]と書いている。

佐分眞展図録(一宮市三岸節子記念美術館2011)の年譜には次のような記載があった。[1929年2月2日、同郷の後輩小堀四郎をパリへ招き、以後頻繁に交流する(中略)1930年4月30日、マドリードに帰り、先発の田口省吾夫妻、宮田重雄、小堀四郎等と宿にて会う]

この小堀四郎の5年に渡る欧州留学はかなり恵まれていた。自身が執筆した1992年展図録の一節を引用する。

[私は渡欧に際して日本で出来ない勉強をと志し…ある程度のフランス語を勉強し、次に自分のこの眼で出来るだけの各民族の芸術作品を観る事、最後に感動した作品を徹底的に模写し体験することを考へ実行してきた] こうして、渡欧直後ルーヴルを見てのち、ツゥ―ルで半年フランス語を学び、パリに戻って約2年間ルーヴルでレンブラント、コロー、ドーミエを模写した。冬は南欧に行って美術館、寺院を訪れる等、欧州各国を歴訪している。生活のパターンが異なっていたからか、美校始まって以来の当たり年とまで言われた俊秀年次(その中にあっても小堀は藤島武二教室に入り特待生に選ばれている)で多くの同級生、同窓生がパリに居たにもかかわらず彼らとの交友についてはほとんど語っていない。1992年展図録の回想にもわずかに[中学の先輩佐分真兄から君のアトリエを借りておいたから早くパリに来る様にと手紙が来て、静かな古都をあとにした。(「九十歳を迎へて」平成4年11月)]とあるだけだ。自他の資料にも交友関係は限られた少数の名前しか出てこないが、佐分展図録(2011)には小堀が写る集合写真が2枚掲載されていた。

記念写真1930パリ(後列右端小堀四郎、左から2人目荻須高徳、中列左端佐分真、前列右から2人目岡本太郎)

もう1枚は美校時代の教授岡田三郎助夫妻が渡仏してきた時(1930)の更に大勢が写る集合写真、律儀な小堀ゆえ参加したのだろう。藤田嗣治岡鹿之助らもいる。

小堀は欧州留学前後、官展アカデミストとして典型的なエリート街道にいた。在学中は帝展に出品しないとの暗黙のルールを守り、1927・昭和2年3月に卒業した後、同年秋の第8回帝展に【静姿】で早くも初入選。翌年欧州留学し5年間学び、1933 年6月に帰国して 10月の第14回帝展に出品した【ブルターニュの男】は2回目の入選を果たす。彼がこのまま美校先輩と同じ道を辿れば、定番コースだった帝展で特選を3回受賞して無鑑査資格を得、やがて審査員となり、美校助教授、教授等に就いて画壇の重鎮となって行ったはずである。だがこの頃、洋画界内部の状況は不穏だった。閉鎖的で官尊民卑の体制に情実人事が絡み不満が鬱積していた。これを背景に帝展改組(所謂、松田文部大臣改組)が実行されるが(1935年)、この改革は拙速かつ公平性にも欠いたため混乱に拍車をかけることになった。帝展は開催されず翌年から新文展へと移行していく。美校出身で小堀同期の猪熊弦一郎、小磯良平、中西利雄はじめ中堅層の9人は帝展を離脱し1936年7月藤島武二を戴いて新制作協会を立ち上げるに至る。しかし小堀はこれに加わらなかった。藤島武二の教えに従い画壇との接触を一切絶ち、順調だった帝展キャリアも捨て、一人孤高の道を歩み始めたのである。

小堀の決断は経済的な心配が無かったことがあろうが、広く交際範囲を求める気質ではなかったからでもあるまいか。その分、敬慕する人物への思いは極めて深く一途でありその最たる人、師藤島から禅道、仏道の書物を示されたことが、戦後から最晩年に至るまで描き続けた精神性に富んだ神秘的な、宗教的とさえ言える作品を生んだに違いない。何人かの師に対する「無限の恩」と題した謝辞文の一節を紹介する。[…恩師藤島武二先生の御恩を忘れることは出来ない。藤島先生には藝道に徹する人間としての本質的なものを教えられたと思っている(昭和57年1月)]小堀四郎という人物は強靭な意志を持つ純粋無垢な存在だったと確信するものである。

小堀四郎の画業を概観してみよう。エコール・ド・パリの時代の画家であるがそれに属さず、フォーヴ以降の新潮流や、同世代の画家達が馴染んだモダニズムにもかかわらず、ルネサンス絵画を経てレンブラントの写実を追求し、自然に親しみ観察する志向が写生に向かわせコローに共感したと思われる。筆遣いに破調がなく造形に向かっているのは美校で鍛えられたデッサン力が裏付けとなっているのだろう。主張せず静寂な沈思黙考が人物画だけでなく風景画からも伝わって来る。戦後は自然観照が観念性、幻想性を帯びてくる。モチーフに天空や海原が目立つ。彼岸の世界を観るかのようだ。

【想ひ】1931(図録画像)【フェスの門(モロッコ)】1932(図録画像)

【雲と星】1955(図録画像) 【赫光】1969(図録画像)

さて、ここまで書いて来て本稿は最後に落ちがある。表題の【小堀四郎 取っ掛かりの無かった幻の画家】は、当初【取っ掛かりの無い画家】としていた。それが脱稿に及んで【取っ掛かりの無かった画家】に変わったのである。理由は、小堀の実作を入手したから、だ。冒頭に触れた神保町のギャラリー内田を訪れた。かの小堀作品の去就を尋ねたところ、未だそこにstayしていたのである。オーナーの内田久さんが大事にして手放さなかったのだ。取っ掛かりが出来た。取っ掛かりが[無い]のは過去の話になった。今や幻ではない。初見の頃と違い小堀四郎について学んで幾分かの知識も得た。当該作品は油彩で2号板に描かれている。「S.Coborit」の署名だけでなくフランス語で「フィレンツェ 1933・2・10」と記されている。年譜に[1933年1月パリを出発しイタリア各地を旅行、ナポリから帰国の途につき6月帰国]とある通りだ。緑一色で捉えられた樹木に形態を把握しようとする意識を感じる一方で、大気と地面にはゆったりとした無心の写生がある。品格を備えた出来だ。この作品【フィレンツェ】は、小堀が1933年藤島の奨めにより上野(と名古屋の)松坂屋で開催した滞欧作品展(油彩183点)以来となる49年振りの個展、1982年3月ウイルデンスタイン東京(画廊)で展示された油彩35点(滞欧作13点、帰国後作22点)の1点である。

【フィレンツェ】1933(2号) 【フィレンツェ】署名・年記

 

1982年展図録(【フィレンツェ】掲載頁)

匠秀夫執筆の小堀評伝に熊岡美彦(1889~1944、美校の先輩、同時期にパリ滞在)の所感が引用されていた(「小堀四郎氏滞欧作品感想」、「美術」昭和9年1月号)。[…古典を深く味わい、相当の渋さを出して居る。殊に小品には非常に優れたものが多かった。一々画題を覚えて居ないが、小品の人物や、南欧あたりのスケッチに、コローのよき影響を思はせる愛すべきものが沢山あった…] 手許に到来した2号は熊岡が目にしたコロー風のひとつではないだろうか。とても満足しているこの頃である。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】 目次(43)~(1)& バックナンバーの検索方法

43)2025年11月 川島理一郎 その5 秀作 ワット・ポー寺院の尖塔(タイ・バンコク)、その他

42)2025年10月 伊原宇三郎 その8 戦後の活動と人物画など

41)2025年9月 田辺至と伊原宇三郎 美校・官展アカデミズム

40)2025年8月 中村研一  中村研一・琢二生家記念美術館訪問

39)2025年7月 栗原忠二 美校卒業後、渡英した稀有な画家

38)2025年6月 川島理一郎・小出楢重・佐分真 挿絵3枚

37)2025年4月 伊原宇三郎 その7「Toho丸の甲板にて」の制作年を探る

36)2025年2月 佐分真 その4 素描・少女像と画集「SABOURI」、その他

35)2024年12月 二瓶徳松 その2 1933年 満洲で描いた肖像画

34)2024年11月 中村彜 清水多嘉示の生写真と下落合の二瓶徳松

33)2024年10月 川島理一郎 その4 秀作 北京聴鴻楼(西太后旧居)

32)2024年9月 伊原宇三郎 その6 滞欧風景画の秀作 南仏アルルふたたび

31)2024年8月 二瓶徳松 作品「(仮題)教会」を巡って

30)2024年3月 佐分真 その3 2枚のデッサンと、付いていた品々

29)2023年11月 青山熊治・田辺至・大久保作次郎・鈴木千久馬 昭和初期の本邦婦人像

28)2023年9月 川島理一郎 その3 昭和初期の本邦風景画・人物画

27)2023年8月 佐分真・板倉鼎 パリの交流

26)2023年6月 伊原宇三郎 その5 滞欧人物画、お気に入りモデルの坐像4点はどれだ?

25)2023年5月 清水多嘉示 その2 滞欧人物画、モデルはソニア?!

24)2023年4月 小寺健吉 1920年代 2度の渡欧・「巴里郊外」2点

23)2023年2月 川島理一郎 その2 素描あれこれ

22)2023年1月 佐分真 その2 挿画 パリのキャフェ

21) 2022年12月 伊原宇三郎 その4 仏エトルタ海岸 連作5点

20) 2022年11月 里見勝蔵 里見を巡る三人の画家たち

19) 2022年10月 里見勝蔵・荒井龍男 展覧会のキャプション

18) 2022年9月 田辺至・北島浅一・宮本恒平 1922、3年頃のイタリア風景

17) 2022年8月   佐分真 滞欧風景画の秀作 イタリア・アッシジ

16) 2022年7月   伊原宇三郎 その3 滞欧風景画の秀作 南仏アルル

15) 2022年6月   中野和高・田口省吾・鱸利彦 黄金世代〜俊秀年次と狭間の年次

14) 2022年5月   御厨純一・北島浅一 同郷、同じ歳、東京美術学校同級、没年も一緒の二人の画家 その2

13) 2022年4月   北島浅一・御厨純一 同郷、同じ歳、東京美術学校同級、没年も一緒の二人の画家 その1

12) 2022年3月   川島理一郎 painter & traveler、1920年代半ばの海外スケッチ

11) 2022年1月   藤田嗣治 離日前、最後の同窓会

10) 2021年11月 安井曾太郎 作者は誰だ?

9) 2021年10月  伊原宇三郎 その2 1912(明治45・大正1)年 ~18才時~ の作品

8) 2021年9月   伊原宇三郎 額裏情報から制作年を割り出す

7) 2021年9月   岸田劉生 劉生戯画「京の夢 大酒の夢」

6) 2021年8月   小出楢重 素描―習作―完成作

5) 2021年7月   田辺至 名刺と挿画原画

4) 2021年6月   清水登之 美術館所蔵品とかすっていた

3) 2021年6月   清水多嘉示 その1(続) 渡仏以降の生写真

2) 2021年5月   清水多嘉示 その1 渡仏前の生写真と中村彜

1) 2021年5月   島村洋二郎 一枚の絵葉書

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第8期運営体制のお知らせ

当社団法人は9月30日に第7期事業年度を終え、先日、定時社員総会を開催いたしました。今期も前期と同様の役員陣で運営にあたります。

代表理事・会長 水谷嘉弘 博物館学芸員資格者
理事 高橋明也 東京都美術館館長
理事 水川史生 共立女子大学教授
監事 園井健一 公認会計士・税理士

第7期事業報告(2024・10・1〜2025・9・30)

第7期は、前第6期における千葉市美術館開催の「板倉鼎・須美子」展の後援、代表者水谷の美術エッセイ集「板倉鼎をご存じですかーエコール・ド・パリの日本人画家たちー」の出版などが奏功し、当法人の板倉鼎、須美子顕彰活動の実績が認知されたこともあって広範囲な活動を行うことが出来た。シンガポール国立美術館で開催された展覧会「City Of Others: Asian Artists In Paris, 1920’S−1940’S」展 (以下、COO展)には板倉鼎の作品2点、板倉須美子の作品3点が展示された。

(1)板倉鼎の顕彰、社団法人の認知に資する広報活動(水谷の講演、執筆等)

・コールサック社出版記念会でのスピーチ 同社から出版したエッセイ集の自著解説(2024年12月)

・豊田工業大学大学院での講義 修士課程1年生を対象とした「リベラルアーツ」講座(2025年5月)

・COO展報告会実施 千葉県立美術館貝塚健館長、千葉市美術館山梨絵美子館長はじめ両館学芸員に対するレクチャー。COO展訪問エッセイとスライドショーをテキストに用いた(2025年7月)註:当該エッセイ【シンガポール国立美術館訪問録 ―アジアからパリに渡ったエトランジェ達の展覧会―】は本HP、メニュー[ GALLERYーBOOKS ]に掲載

・季刊文芸同人誌「まんじ」に「エッセイ集「板倉鼎をご存じですか―エコール・ド・パリの日本人画家たち」出版こぼれ話」など美術エッセイ4篇を寄稿

・季刊文芸専門誌「コールサック」9月号に「シンガポール国立美術館訪問録―アジアからパリに渡ったエトランジェ達の展覧会―」を寄稿

・神田神保町の月刊タウン誌「新・本の街」9月号、10月号に「美校・官展アカデミズムの系譜 板倉鼎と田辺至・伊原宇三郎」を寄稿

・東京藝大同窓随想集「a-can-thus」第2号(2025年2月発行)に「「ビジネス発・アート着」続行中」を寄稿

(2)美術界関係者との往来 ~ 美術家や美術館館長・学芸員、ギャラリー・画廊と往来して美術界人脈への展開を図った

・茨城県近代美術館(2024年11月)中村彜展への展示資料提供

・相武常雄氏(金工作家) 公益財団法人日本サッカー協会田嶋幸三名誉会長への三足烏オブジェ贈呈をアレンジ(2025年2月)

・東京国立近代美術館(2025年3月)板倉鼎「休む赤衣の女」が近美に寄託替えされ新収蔵品として展示された。小松弥生館長を表敬訪問

・シンガポール国立美術館(2025年5月)COO展訪問、Director&Curator堀川理沙氏の案内で観覧

・中村研一・琢二生家美術館(2025年6月)中村嘉彦館長を表敬訪問

・入江観氏、中林忠良氏、野田哲也氏、柳澤紀子氏、岸田夏子氏、山中現氏、等著名な美術家の個展、会合に出席して交歓

(3)社団法人ホームページの充実と活用

社団法人ホームページに各種情報、エッセイ「近代日本洋画こぼれ話」をUP、記録として残る広報活動に注力した。シンガポール国立美術館COO展情報など当事業年度にUPした回数は18件

今期(第8期)も第7期までの活動経験と実績をベースに、引き続き認知されつつある板倉鼎・須美子の顕彰活動を実行していきます。よろしくお願い申し上げます。

代表理事・会長 水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】川島理一郎 その5 秀作 ワット・ポー寺院の尖塔(タイ・バンコク)、その他

(冒頭画像は、川島理一郎画集 日動出版1973、年譜タイ作品掲載頁から)

川島理一郎について5篇目を書くネタが出来た。1941・昭和16年のタイ訪問時に描いた作品を入手したためである。川島の画業における第3次ピーク期間に属する。

川島の昭和戦前、戦中期の画業ピークは3回あると見立ててきた。第2次(1933~36年)と第3次(1936~43年)は時期的に連続しており、1936年晩春から初秋にかけて日光に5か月滞在して個展出品作を制作した頃が転換点となっている。第2次の革のような濃厚でつややかさを湛えた画面から展開して、第3次は彼がエッセイ集「緑の時代」1937に書いた日光での”水流への凝視”から生まれた流れるストロークが快い明るい色調となった。

【ワット・ポー寺院の尖塔】12号  【聴鴻楼(西太后旧居)】12号

こぼれ話川島篇の4篇目に中国、北京の頤和園に取材した【聴鴻楼(西太后旧居)】1938(12号)を取り上げたが、本篇はタイ、バンコクの仏教寺院を描いた【ワット・ポー寺院の尖塔】(12号)である。両作は同じ号数、色調、筆致、絵具で描かれており兄弟作のようだ。観た時の爽やかな印象も同じ。背景の青が目に鮮やかだ。

川島は、紀行文とそれに付属するスケッチの多い画家で雑誌等に発表するだけでなくエッセイ集として刊行している。1938・昭和13年陸軍省嘱託となって5月北京、翌39年1月広東、10月大同を訪れたが、これらは1940 年7月刊行の「北支と南支の貌」龍星閣にまとめられた。続いて41年と42年にタイ、43年にはフィリピンに行ったが、残念ながらこの時の紀行は出版されなかった。戦争が激化したためだろう。雑誌「みづゑ」440号(1941年6月)と「新美術」17号(1942年12月)に、インドシナのスケッチが8点ずつ載っている。綿密に描き込んだ秀作が多い。前者に【ワット・ポー寺院の尖塔】の下絵となったスケッチ(同題)が掲載されているので自身が添えた解説文とともに紹介する。

【ワット・ポー寺院の尖塔】デッサン(雑誌画像)

[泰国所見 ワット・ポー寺院の尖塔 泰国の建築は印度風からビルマ式に遷り、漸次シャム化されたのであるが、之等の塔はビルマ式と云ってよいものである。この多くの舎利塔は歴代五族を祀ったものである。(みづゑ440号)]

タイに取材した作品群は1941年9月、銀座資生堂ギャラリーで開催された「泰国風景作品展」に出品された。【金とモザイクの回廊】【バンコック・ワット・ポー寺院】【バンコック・印度寺の門】【盤谷風景】等々。現在ミュージアムピースとなっている秀作も多い。【ワット・ポー寺院の尖塔】と同様、雑誌に掲載されたスケッチを下絵とした油彩画も見出せる。

【盤谷風景】【泰国王宮内ワット・プラケオ寺院前】(共に図録画像)

なお、タイ訪問時に描かれた小品(3号)とデッサンがあるので併せて画像を載せる。

【ナコンパットムの王宮】1941(3号)【アユタヤの仏頭】デッサン

本篇まで5回にわたってpainter & travelerとして記憶すべき画業を遺した川島理一郎の前半生、昭和太平洋戦争期の戦前戦中の作品を概観してきた。川島はイズムにとらわれたりスタイルに固執しないことが見て取れる。その柔軟性は人と国に依って価値観が異なる事を熟知した国際経験に起因しているのではないか、筆致の変更による表現巾の確保、マンネリ回避といったバランス感覚が働いているのではないか、と考えるものである。自由な描き方には本邦で美術教育を受けた者にはみられないおおらかさがある。また、川島の三度のピーク時作品を通覧して気付くことは生来の資質であろうリズム感である。彼の素描や油彩画は身体性を感じさせるものが多い。運動神経もよかったのではないかとも想像する。余談だが、風景画には必ずと言っていいほど点景人物が登場しその描写が極めて上手いことにも留意したい。絵筆のonetouch、twotouchで姿形を捉えている。その巧みさは一歳下の北島浅一と双璧だ、と私は見立てていることも付け加えておきたい。

川島理一郎の色と言えば「緑」が定番である。著作も「緑の時代」「緑の感覚」がありエッセイの題にも「緑のリズム」といった按配だ。「緑」を基調とした作品も多い。しかし作品を実際に眺めると「緑」よりむしろ「青」の方が印象的なのである。栃木県美、足利市美で改めて1925年作の【ナポリよりポッツオリを望む】と【リュクサンブール公園】を観て、「青」の使い方に惹かれてしまった。空や海の「青」が画面を大きくし明るくしている。1920年代中頃の第1次ピークから、本篇で挙げた1940年前後の第3次ピークまで、風景画に使われた背景の空を塗る青は美しい。サッと刷かれた「青」がモチーフを引き立てている。川島に「青空を描く」と題したエッセイがあるのも合点が行く(「緑の感覚」淡路書房1947所収)。ニースやヴェニスの空の美しさを述べ、幾枚も描いたと回想し、藤島武二や梅原龍三郎の絵の空の美しさに触れている。昭和戦中期の執筆と思われるが、「緑」にしばしば言及した時期より下る頃だ。戸外風景以外でも赤と緑で構成する【北京卍字廊】では部分的な青が落ち着きと華やかさを演出している。1935年に執筆した「緑の感覚」に次の一節がある。 [マチスを緑の画家と呼ぶことは出来ないが、時に緑をあしらったものを見ることがある。赤の中に縞があったり、黄色の中に緑の点があったりするのであるが、さすがに巧みに緑を利用しているのに敬服させられる] 川島を青の画家と呼ぶことは出来ないが、川島の青は、師マチスの緑に相当しているようだ。

何故、川島は「緑」に拘ったのだろうか?それは「緑」は木々(植物)に代表される生命の色だからだ、と思う。自然美を描く、生き生きした命ある物の躍動感、生命感を描き出すのが川島理一郎の画家としての資質だったと考えている。その延長線上に自然美と人工美(建造物)の取り合わせ、人工美を描く作品が出て来たのだろう。川島理一郎にとって、緑のリズムは生命のリズムだった。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】伊原宇三郎 その8 戦後の活動と人物画など   

伊原宇三郎の戦後は洋画界発展のための活動が多い。国立近代美術館、国立西洋美術館設立に主要な役割を果たした他、美術家の地位向上や福利厚生面の充実を図るため日本美術家連盟をはじめ日本著作権組合、文藝美術国民健康保険組合等の設立に尽力した。国際造形芸術連盟日本委員会、日展などの各種団体、展覧会の主要役員、委員、審査員も数多く務めている。美術家連盟は発足にあたり安井曾太郎を会長に戴いたが実質的な運営を司る委員長に会派に属さず実務執行能力に優れた伊原が選任されたのは妥当な人事だった。そのため、本職の画業の方に割く時間は限られていたようで、日展(その後、新日展)、美術家連盟歳末助け合い展への出品を欠かさなかったのが目立つ程度だ。1956・昭和31年62歳の時ベネチア・ビエンナーレ出席のため27年ぶり二度目の渡欧をする。開会式、審査などに参加した後、パリで藤田嗣治らと再会。そのままフランスに10ヶ月留って制作した。この生活が刺激となり肩書・役職から離れ絵に専心する事を決意する。帰国前、パリの画材屋を訪ね10年分以上の絵具、キャンバス、筆などを買った(伊原の子息、乙彰氏稿に基づく年譜「1994伊原宇三郎展図録」に依る)。年譜1958年には「前年のフランス滞在で描きためた5~60枚の絵に手を入れる」ともありこの頃から1960年頃までの作品群が戦後制作の充実期を示すことになる。

伊原の戦後作は、制作年に関わらず屋内のアトリエ制作がじっくり描き込まれた重厚味ある仕上がりになっている。人物画、静物画、室内からの眺望写生画などだ。コンスタントに出した日展、新日展の展示作品はこの系統が多く、点数は少ないが大作力作揃いで観応えがある。戦前の滞欧期後半に獲得したスタイル~ネオクラシスムをベースとする人物画、室内画の延長線上にあると言ってよい。後年になるにつれストロークが軽くなる傾向にあるが、生涯を通じて安定した画力を持ち続けていたことがよくわかる。(以下、全て図録画像)

【室内風景】1948(50号) 【由利子とミミ】1949(30号) 【アトリエ】1959(50号)

【ポニーテール】1960(40号) 【卓によれる】1966(40号) 【滑り台のある風景】1968(40号)

手許にこの系統に属する作品が3点ある。1点目は【由利子とミミ】のエスキースだ。第5回日展出品作の元作は東京国立近代美術館所蔵である。1984伊原展図録に作品解説が引用されていた(青木勝三、出典近美ニュース1972)。[愛娘とペットの猫をモデルにしたこの作品…について作者は『由利子はこの時十歳であったがモデルっぷりが大変良かったのでとても気持ちよくかき上げることが出来た』…その時の沸騰した感興がそのまま雄勁な筆触となって…昭和27年のピッツバーク国際現代美術展に選ばれた折にも…国吉康雄やウオッシュバーンは…写真を見ただけで…決めた…伊原宇三郎の代表作の一つにあげられている佳作である]

 【由利子とミミ】(エスキース)1949(8号)

後の2点は【母子像】と題された手彩色のリトグラフ、【白衣を纏える】と題されたリトグラフだ。伊原展図録を見ると版画作品がいくつか掲載されている。1960年代、戦前の滞欧作(【白衣を纏える】【カナペの女】等の人物画)を元作として版を起こしたリトグラフやエッチングである。【母子像】の元作は見つからない。同じモチーフの油彩画があるので画像を載せる。なお、アーティゾン美術館の収蔵品リストにタイトル【母と子】(リトグラフ)があるが画像は確認できていない。

【母子像】1960頃(手彩色リトグラフ21/40)【丘に坐す】1931(図録画像)

【白衣を纏える】1960頃(リトグラフ3/10)、【白衣を纏える】1928 油彩(図録画像)

さて、風景画の方は戦後のフランス再訪時制作の他、本邦各地の写生画が多い。1948年頃から美術普及のためだろう、日曜画家の趣味の団体として組成されたチャーチル会に加わり写生旅行にも年数回行っている。1968年に退会するが一方で日本美術家連盟主催の写生旅行は1975年まで参加している。このため名勝、観光地に取材した写生風景画が多く残されている。すっきりした筆致で観やすい絵柄だ。

肖像画も相当数こなしており、年譜1965年は、「毎年平均6、7枚は描いている肖像画も、前年からの3点を含めて15人、17枚と生涯最多となる」とある。折口信夫、柳田国男、石橋正二郎ら約300点を描いた。[今日の私が風景画などと比較にならぬ位肖像画に全力を傾けるのは当時の印象(註:戦前の在仏時にルーブル、パリ市庁舎で等で観た)が今も強く残っているからである(1968伊原述)](1984伊原展図録)

画家伊原宇三郎は、1921・大正10年、東京美術学校、藤島武二教室で学び首席で卒業して以来、官展系アカデミズムを代表する一人として活躍した。1933年には美校助教授に就任、従軍画家として戦争記録画も描いた。戦後は日展を主たる作品発表の場とし制作活動を続けた。加えて、画力だけでなくビジネスの場で言う「仕事が出来る」タイプの人物で調整力、交渉力も持ち合わせていたと思われる。政官財各界の要人と面識があった。そのため美術界人として、画壇内部の体制や環境の整備にとどまらず美術界全体の発展と社会的地位向上に向けて各方面にわたる対外的な活動にも従事し貢献したことは既に述べたとおりだ。しかし、伊原の公私にわたる業績は現在ではあまり取り上げられることがない。1945年、敗戦後は世間全体の価値観が一変した。伊原の画業は、論考や分析の対象となった在野系・フォーヴ系とは相反し、更に抽象画ブームや続くアンフォルメル等の絵画運動からは乖離していたためだろう。美術界人としては実績ではなくキャリアや活動が体制側の人物とみなされたのかもしれない。1976・昭和51年1月、81年の生涯を終えたが、その後次第に忘れられた存在となってしまった。本邦近代洋画史、官展史、洋画界に大きな足跡を残した画家・人物として再評価し記憶に留めておくべきnameだと思う。

最後に。戦後、進歩的といわれた人々の叙述や発言は学術界や論壇においても旧体制に批判的な傾向が強く彼らの論調が各分野をリードした。近代日本美術史においては官展系画家たちの業績は「そこに居た」ことに因って低評価となり否定あるいは軽視された感がある。作品が紹介されることも少なかった。特に、大正期後半から昭和戦前期までを論じる際は、洋画界を牽引する立場にあった官展アカデミズムは看過されている。その見方が定説化したためか、例えば近代日本洋画全集といった書物に取り上げられた画家たちの名前を通覧すると二科会、独立美術協会他民間の団体を発表の場とした人々に集中しており、官展系で活躍した画家の名前はほとんど見かけない。伊原宇三郎もその一人である。一方を論じてもう一方が埋没したままの叙述は、相対的な検証が出来ず全体の流れをつかむに至らない。そのため一般に流布する近代日本美術史は、非官展系画家の個別論や所属した団体論になる傾向がある。当該史叙述の構成を見直す必要があるのではないだろうか。

更に言えば、昭和期を通じて、印象派については画家も批評家も大勢はその嚆矢となるマネを外してしまっている。マネに対する理解、評価が未熟で、美術評論、美術教育にそれが反映している。モネ以降の印象主義的描法のみを捉えて、新印象派の理論を学ばずに飛ばし、フォーヴの表現主義的筆致、表象だけを追いかけてしまった。この点も合わせて言及しておきたい。

本稿は、1984年徳島県郷土文化会館、1994年目黒区美術館、徳島県立近代美術館開催の伊原宇三郎展図録から、年譜、作品画像など多くの情報を教示いただいた。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】 田辺至と伊原宇三郎 美校・官展アカデミズム

(冒頭画像は「新・本の街」2025年10月号表紙)

「新・本の街」2025年10月号目次

神田駿河台にある画廊、シェイクスピア・ギャラリーの清水篤氏から近々開催する二人の画家の展覧会に因んだ文章を書いて欲しいとの依頼があった。氏が編集・発行人を務めているタウン誌「新・本の街」に掲載するそうだ。二人の画家とは田辺至と伊原宇三郎である。その名を聞いて、これは結構難しいなと直感した。というのも近代日本洋画を追いかけている私には馴染み深いネームなのだが、並列して述べる切り口がピンと来ないのだ。そんなわけで私はこぼれ話を書く時の定番である次のストーリーから本篇を始める。

私はビジネスマン上がりでフルリタイア後、かつて一度は志したアートの世界に戻ろうと勉強を再開して博物館学芸員の資格をとった。折角とったから何かに活かしたいと考えていた時知ったのがエコール・ド・パリの夭逝画家、板倉鼎(1901〜1929)である。鼎と、妻の画家須美子(1908〜1934)の回顧展が目黒区美術館で開催されるとの日本経済新聞の記事を読み、観に行った。こんなに質の高い絵を描く画家がいたのか!と驚愕し顕彰活動をしようと思い立つ。一般社団法人「板倉鼎・須美子の画業を伝える会」を設立した(2018年10月)。板倉鼎と同時代の画家の作品や動向を調べ始めて近代日本洋画の魅力に取り憑かれた。鼎の先輩同輩にあたる東京美術学校(現、東京藝術大学。以下、美校)卒業生の画集や展覧会図録を入手した。それだけでは飽き足らず作品の現物を買い求めた。眺めているとその日の天候や時間帯に依って見え方が違う。そんな事をエッセイに書いてみようか、こうして美術エッセイを書き始めるようになった・・・

板倉鼎から美校卒業生にアプローチして先ずヒットしたのが田辺至(1886〜1968)と伊原宇三郎(1894〜1976)だった。共に近代日本洋画史に大きな足跡を残した人物だが、資料やメディアでその名を見ることはあまりない。昨今、近代日本洋画自体が取り上げられなくなってしまったが、田辺至と同窓同期の藤田嗣治(1886〜1968)、同じく板倉鼎と同窓同期の岡鹿之助(1898〜1978)はしばしば展示される。田辺至は板倉鼎の美校における最初の師である。鼎はフランスに留学する際(1926〜1929)、文部省在外研究員として西欧各国を歴訪し(1922〜1924)、帰国後美校教授に昇任した田辺に現地事情を尋ねている。鼎と、伊原のパリ滞在期(1925〜1929)は重なっている。一緒に写っている写真もある。鼎がパリで病を得て急逝した時(1929年9月)、その葬儀や残された須美子と娘一(かず)の帰国の面倒をみたのが岡鹿之助であり、日本での鼎の葬儀には田辺至夫妻、大久保作次郎(1890〜1973)らが参列した。翌年4月、鼎遺作展の発起人に美校の担当教授岡田三郎助(1869〜1939)、田辺至、御厨純一(1887〜1948)、伊原宇三郎が名を連ね、伊原は鼎の資質を見事に捉えた惜別の展覧会評を書いた。

美校・官展(帝展)系画家達の画業の方向や作品には親和性がある。西欧の古典に惹かれラテンの正統的絵画の流れを学んでいる。当時の新潮流に対してはフォーヴよりもキューブに興味を持ち、伊原は新古典主義に近づいた。後にビカソの紹介者として知られるようになる。(同時期、パリには同世代の美校卒業生、里見勝蔵、中山魏、佐伯祐三ら、前田寛治が「パリ豚児」と呼びフォーヴに寄った別グループもいた)田辺の美校・帝展人脈における後輩に小寺健吉(1887〜1977)、大久保作次郎がいて、伊原の後輩に中村研一(1895〜1967)、佐分真(1898〜1936)、小堀四郎(1902〜1998)がいる。彼等は皆、美校アカデミズムの継承者であり、田辺と伊原はそのbig nameと言える。官展アカデミズムに繋がっていく。ただ、二人に共通して縁の深い者は鼎の他にあまり思い浮かばない。画業を継ぐ、会派等を継ぐ人物もいない。田辺至と伊原宇三郎を結びつけるのは相互の関係、特定の人物や流派といった限定的なキイワードではなく、「美校アカデミズム教育」、「本邦美術界、画壇運営」等の大局的な場面におけるキイパーソンと認識するのが妥当と思われる。

田辺至(美校1910年卒業)と伊原宇三郎(1921年卒業)は年齢差が8才、滞欧期もすれ違っているが、美校には1933年から1944年まで夫々油画科の教授、助教授として勤務している。しかし個人的な親しさを示す記事や挿話は寡聞である。各自が公的要素の強い教育人、画壇人として活動したからだろう。作品発表の場も官展系に限られている(田辺は第1回文展以降、帝展・新文展に通算33回、伊原は第2回帝展以降、新文展・日展に通算20回)。田辺は助教授時代、新入生の教養課程担当のような役割で多くの学生を教えた。美校教員として幅広い技量を身に付け、銅版画の指導普及者でもあった。鼎にもエッチング作品が残されている。伊原も美校を首席で卒業して以来、順調に帝展キャリアを重ねフランスから帰国後は帝国美術学校(現、武蔵野美術大学)、続いて美校の教職に就きアカデミズム体制の中心人物の一人となる。従軍画家として中国北部、南部、インドシナに計7回赴いた。

ここで、田辺、伊原の画風を紹介しておきたい。

田辺の学生時代、岩村透の西洋美術史の講義は印象派まででポスト印象派は習っていない。1922年、田辺はキャリア形成の一環として36歳で留学したパリでポスト印象派、フォーヴ、キューブに同時に接した(同期の藤田嗣治は1913年、27歳で渡仏している)。多くの斬新な表現を目の当たりにしたためか帰国後は明るい色遣いや、輪郭を崩すまでには至らないが短い筆触を残す奔放な描き方もした。絵具をしっかり塗り込んでいるのは美校先輩達が描いた印象主義絵画と一緒だ。新潮流絵画にはあまり反応せず座学で学んだ印象派に寄っている。他に比べれば正統的に見える作風に惹かれたのかもしれない。美校、官展エリートの王道を歩んでいる立場を意識していたのだろう。達者な描き手で油彩画、銅版画、挿絵など、モチーフも風景、人物、静物なんでもこなした。戦時に至るまでは裸体画、戦中戦後は静物画が多い。後年は色遣い、筆触共に安定感ある絵を描いた。

伊原が美校に入学したのは1916年、学生時代にバルビゾン派や外光派から入り、1925年フランスに留学してポスト印象派以降を実見し古典古代を見聞した後、ルーブル美術館でのアングル模写を経由してピカソやドランの新古典主義に収束する。パリ時代の堂々とした量感ある女性像が代表的だ。デッサン力に秀で、落ち着いた色彩、質感を出す筆遣い、正統的な写実で官展アカデミズムを体現している画家と言ってよい。面白いエピソードがある。藤島武二が森鴎外の次女杏奴に絵の家庭教師を推薦した時、候補に挙げた四人が寺内萬治郎、中村研一、伊原宇三郎、小堀四郎だったそうだ(小堀杏奴『追憶から追憶へ』)。この挿話から当時の美校・官展アカデミズムを代表する系譜、画風とは何だったのか、が伝わって来る。小堀四郎を選んだ杏奴はやがて彼と結婚した。伊原の画家としての全盛期が戦争記録画制作に費やされ平時であれば描かれたであろう作品群を観る事が出来ないのを残念に思う。戦後は肖像画の傑作を多く残した。

1935年の帝展松田改組による画壇混乱後も美校出身者による権威の再生産システムは維持されていたのだろう。1944年7月美校教員の大幅な入れ替えはそれを打破する人事であり画期的だった。油画科では田辺、伊原の他、美校出身の小林万吾、南薫造が退任した。美校出身ではない梅原龍三郎、安井曾太郎が後任となった。美術界にも我が国特有の官尊民卑が長く蔓延していたが、戦時中にそれと反対方向の刷新が行われたことは注目に値する。行政を含め美術界全体に強い変革意思があったのだろうが、それがすんなり実現したのは日々苦しくなる戦時状況下、美校人事を議論する環境や外から関与する余地がなかったからであろう。日本画部門における在野の雄、横山大観の画策があったとも言われるが、美校・官展体制のドンといえる存在、西洋画部門藤島武二の逝去(1943・昭和18年3月、享年77)も事を容易にしたと思われる。

戦後、価値観が一変した中にあって言論界は進歩派と呼ばれる人達が論調を主導したが美術評論分野においてもその傾向が強かった。それが、官側の美校・帝展アカデミズムの頂点にいた田辺や伊原が美術史記述から漏れた遠因だろう。田辺や伊原の活動の主軸が教育者、画壇運営サイドにあった事とは別に、そのような時代背景が彼等を忘れられた存在にしてしまったと考えている。

田辺は退任後、住まいのある鎌倉で穏やかな生活を送る。社会貢献活動もしていたようだ。子息穣は画家になった。伊原の戦後は美術界の振興、地位向上に尽くした。美術界全体の発展を目指して政財官界人と折衝し東京国立近代美術館の設立や美術家の職能団体「日本美術家連盟」創立を導いた。伊原の子息乙彰も画家である。

私が書き溜めた美術エッセイは、板倉鼎顕彰団体のHPや文芸同人誌「まんじ」に発表していたが出版人の知るところとなる。昨年4月に千葉市美術館で開催された板倉鼎・須美子展に合わせて『板倉鼎をご存じですか―エコール・ド・パリの日本人画家たち―』のタイトルでコールサック社から上梓された。神保町の東京堂書店や東京都美術館のミュージアムショップ、主にはAmazon経由で販売されていたが、5月に朝日新聞の書評で取り上げられると新宿の紀伊國屋書店他大手書店から注文が入り版元の在庫が払底し増刷された。同著には、田辺至、伊原宇三郎がたびたび登場する。彼等や近代日本洋画が再び注目されるようになり再評価が進む事を願い、シェイクスピア・ギャラリーの展覧会を楽しみにしている。

     「新・本の街」2025年9月号表紙

文責:水谷嘉弘

 

【近代日本洋画こぼれ話】中村研一  中村研一・琢二生家記念美術館訪問

板倉鼎(1901~1929)の顕彰活動をきっかけとして同時代の洋画家について調べ始めた。先ず画集や展覧会図録等資料類を集めた。段々飽きたらなくなり小品だが作品の現物も手に入れるようになった。眺めているとその日の天候や時間帯で見え方が違う。絵の表情が変わる。そんな事をエッセイに書いてみようか、自分の持ち物だからキツイ事を書いても、とやかく言われることはあるまい。私が美術エッセイを書き始めるに至った経緯である。要は今までネタ(もの)ありきで書いてきたのだ。しかし、中村研一(1895~1967)については数多く登場してもらったのだがネタ(もの)が手に入らず、主人公として文章に仕立て上げることが出来なかった。

私は中村研一の絵が好きである。1923年から都合5年間の滞欧作はパリで親しく往来したモーリス・アスラン(1882~1947)の影響が強いと評されるが、黒と灰色や暗褐色を基調とした原色を使わない深みのある落着いた絵が好きだ。帰国後、帝展に発表された明暗(光と影)のコントラストが鮮やかでよく構成された作品群は、描線の有無にかかわらずモチーフの輪郭が鮮やかでメリハリが潔い。戦後になって明るい色遣いが加わってくるが、同時に黒い輪郭線が目立つようになる。中村研一の画業は、生涯を通じて重厚感に満ちているのに惹かれるのである。しかし、中村研一のネタ(もの)が無い状況は長く続いた。

然るに今般、私の海外勤務時代の友人小野祐二氏の伝手で(もの)は無くても、ネタで研一をエッセイに書けることになったのである。小野氏は、福岡県宗像市出身で県立宗像高校OB。研一が生まれ又育った場所である。2025年6月、彼に連れられて由緒漂う唐津街道、原町通りに面した「中村研一・琢二生家記念美術館(以下、生家館)」を訪れた。研一、琢二は兄弟画家である。「美術館」とはいうが「生家」の方に重きがあって植え込みに囲まれた門を構える旧家だった。呼び鈴で門扉まで出て来られた主で美術館館長の中村嘉彦さんに付いて玄関で靴を脱いだ。たたき横の靴箱の上に[中村研一記念美術館]と記された横板が置かれていて「東京、小金井から到来したんだ」と納得した。招じられて応接間に入った途端、目に飛び込んで来たのが隣の居間に掛けられていた見事な人物画だった。初見だった。一目で滞欧作と分かった。

  

「小さき魚釣り」と題された人物画は茶褐色系でまとめられ、釣竿を持ってこちらをキッと見上げる少女の表情があどけなくも凛々しかった。2024 年12月に福岡県立美術館で開催された「中村研一と中村琢二」展で初公開されたという。知らなかった。この絵の隣には展覧会図録等でよく紹介されている見覚えのある「祖母トミの肖像」1931年作が掛けられていた。両作並ぶと壮観だ。

中村研一作品の前で中村嘉彦館長と 中村研一「小さき魚つり」1926図録画像

中村研一の滞欧作、戦前戦中作は、筆捌きがさっぱりとしていて、本邦画家にありがちな細やかさ、悪く言えばチマチマした描き方とは無縁だ。色遣いは明度も彩度も抑えているが陰鬱さが無いので風格が漂う。俯瞰気味にとらえられているアングルも相俟って、「上から目線」とも形容できる描き方と言ってもよかろう。近代日本洋画において独特な存在感のある画家なのだが研一の系譜を知るとそれも納得出来る。

中村館長に新発見の滞欧作フランス少女像の由来を尋ねた。近年、遠い縁戚の方が亡くなられた父君の遺品を整理していて新たに見つかったそうだ。早速生家館に寄託されたとのことである。他にも、藤田嗣治(1886~1968)のデッサンや藤田からの書簡など、貴重な品が見つかり全て生家館に到来したそうだ。そこで、中村研一の縁戚関係について伺った。館長ご自身が作成されたという、大ぶりで綿密に書き込まれた家系図の前で、中村家の由来を説明して下さった。中村家は江戸時代に山口萩藩を脱藩して宗像に定着したそうだ。本家筋(長男筋)は、啓二郎(研一の父)、研一と続く。しかし研一に子はおらず、従兄弟(啓二郎の妹、カツの長男)勝が中村家を継ぐことになる。勝の長男が生家館館長の嘉彦氏である。啓二郎には四男四女があり、カツにも六男三女があって系図はかなり錯綜していたが、中村嘉彦生家館館長は、中村研一、琢二の従兄弟の子だと理解した。啓二郎、カツ兄妹の母トミが、啓二郎が遠地に赴任した為、孫の研一、琢二を宗像の実家に引き取って育てた。肖像画に描かれたトミである。啓二郎は、東京帝大で採鉱冶金を学び住友本社で鉱山技師長を務めたエリートだった。息子4人の名に、研・硺・錬・摩瑳の金属加工に因む漢字を当てている。

嘉彦館長は研一から自分に代わって中村本家を守れ、と言われ、学校も就職も九州から離れるな、と厳命されたそうだ。福岡県立宗像高校(私の友人小野氏の同郷同窓の先輩なのだ)から九州大学に進んだ。就職は上場会社福岡支店からスタート。大企業勤務ゆえ地元から離れざるを得ない時期もあったが、50歳過ぎに福岡にポストを得て帰郷を果たし、今は引き継いだ田畑を耕している。中村家と研一、琢二の画業を守り伝えようとする強い思いをひしひしと感じた。

 

さて、優れた作品が数あるのもさることながら生家だけに資料類が豊富にあった。それも第1級の資料である。既述した藤田嗣治からの書簡3~4通を見せていただいた。かなり書き込んであり2人の関係が伝わって来た。共に名家の出で親戚に陸海軍高官もいることから美校の先輩後輩の仲以上の心理的な近しさもあったに違いない。今、竹橋の東京国立近代美術館で嗣治、研一の太平洋戦争時の作戦記録画が並んで展示されているのを思い出した。部屋の欄干部分には研一の戦場デッサンが何枚か掛けられていた。戦後、藤田嗣治が中村研一に「これからは絵を通して日本の復興の力になろう」と語った、と館長が教えて下さった。

  

戦中戦後の富子夫人をモデルとした作品は東京小金井の研一夫妻の居宅、アトリエ跡の「はけの森美術館」にあるのだろう、見当たらなかった。人物画は秀作「コタバルの娘」1942年作があった。戦前、戦後作を通して瓶花が沢山あった。一方で、駄作?と思う作品もあった。デッサン、形を取る名手との認識だったので意外だった。率直に言って暗めの色だけが並べられていてモチーフや構成が曖昧な絵があったのだが、嘉彦館長も同感と仰ってくれた。残された作品の中にはそんな絵も結構あるのだそうだ。

 

話は転ずるが、他の画家を調べている最中に中村研一に遭遇し、印象に残っている件が二つあるので紹介しておきたい。
一つは森鷗外の次女杏奴のエッセイ(小堀杏奴『追憶から追憶へ』所収)。杏奴が藤島武二(1867~1943)を訪ねて絵の家庭教師を推薦して貰った時、藤島が候補に挙げたのが寺内萬治郎(1890~1964)、中村研一、伊原宇三郎(1894~1976)、小堀四郎(1902~1998)の4人だったそうだ。小堀四郎を選んだ杏奴はやがて彼と結婚した。

もう一つは猫のぬり絵。戦後まもなく子供達のために一線で活躍する画家達が描いたぬり絵の教材である。研一の描く猫は堂々としている。研一は愛猫家で猫が登場する絵もあるが、この教材のように前足を広げて踏ん張る本物の猫はあまりいない。本物は両足をすぼめて前から見ると逆三角形である。立派な猫は何故か研一を彷彿とさせて思わず微笑んでしまった。(暮らしの手帖社「ぬりえ 3」昭和26年発行)
このように中村研一の絵は威風堂々としている。描き手は横綱相撲を取っているかのようだ。モチーフや観者に忖度なく衒いもない。モチーフを描くというよりモチーフの描写を通じて描き手の悠然たる存在を示しているとさえ感じる。安易な感性、情感を拒んでいる。

後日、嘉彦館長に出した礼状にご返事をいただいた。6月の下旬である。要旨を記してみる。「田植えが終わったが、40年以上続けている奈良漬のシーズンに入り、田植えと並行して材料の久留米白瓜の収穫もピークだった。1回で150㎏の瓜を収穫し、種とり、塩漬け、天日干し、粕漬けと一人でやっている。昨日でやっと一段落ついた。」とのこと。都会育ちの私には具体的な作業のイメージは全くわかないがかなりの重労働をこなされているのはわかる。旧家の維持管理と、絵画作品の保存継承と、田畑山林の手入れと、これらは皆、本家筋中村研一から託された責務で、誠意と熱意を以ってさばいている中村嘉彦館長に敬意を表したく思う。手紙には「来月は藤田嗣治作品の件で上京する」そうだ。体調に充分留意され、いつまでもお元気で頑張ってください。

実は、かねてより何とか入手したいと切望している中村研一作品がある。かつてその作品を扱った方に斡旋を頼んでいる。思いが叶い手元にやって来たあかつきには【こぼれ話 中村研一 その2】として認めたい。本篇がその序章になることを密かに願っている。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】 栗原忠二 美校卒業後、渡英した稀有な画家

近代日本洋画をテーマとする「こぼれ話」を書き始めた当初から気になっていたのだが、なかなか取り上げられなかった画家がいる。1886・明治19年生まれの栗原忠二である。(冒頭画像は栗原忠二展覧会@静岡県立美術館1991図録表紙)

明治以降の本邦西洋絵画受容の過程をいくつかに区分けるにあたり、世代論を適用した。展開期における一時期の始期に1885年生まれの萬鉄五郎を位置付けた。萬は、東京美術学校(以下、美校)の卒業制作【裸体美人】(1912・明治45年)が我が国におけるポスト印象派の先駆的作品として知られる人物だ。若くして渡米したものの志半ばで帰国したあと美校に入学したため入学時、卒業時年齢は他の同期生より高く、同期には4才年下(1889年生まれ)までいる。この年齢差、年齢巾が同時期に活動した多数の画家たちを束ねるリーダー的存在として機能した。萬鉄五郎と同じ1885年生まれには斎藤与里、柚木久太らがおり、86年生まれの青山熊治、藤田嗣治、田辺至、川島理一郎、87年生まれの小出楢重、清水登之、中村彜らへと続く。美校卒業同期には北島浅一(1887生)、御厨純一(1887生)、片多徳郎(1889生)、素巌斎藤知雄(1889生)らがいる。熊岡美彦(1889生)も入学時(1907年)は同期だった(卒業は1年遅れて1913年)。

栗原忠二は萬と同期入学、同期卒業である。1928~30年、帝展に3回連続して出品し、1929・昭和4年美校同期らと共に第一美術協会創設メンバーになるなど活躍した。しかし、これだけ「こぼれ話」の題材にした画家との接点がありながら、私が「こぼれ話」に書く機会を失した所以は、栗原の美校卒業以降の行動パターンにある。彼は1912年3月に卒業するが、同年10月渡航し向かった先はイギリスだったのである。「こぼれ話」登場者はほとんどがフランス留学組だ。

美校に西洋画科が設置され(1896・明治29年)、翌年から卒業生を出し始めると欧州留学する者が続出する。西洋絵画受容の展開期に入ったと見做せよう。

白滝幾之助(1873生、1898卒業、1904渡米、渡英)、和田英作(1874生、1897卒業、1900渡仏)、斎藤豊作(1880生、1905卒業、1906渡仏)、児島虎次郎(1881生、1904卒業、1908渡仏)、山下新太郎(1881生、1904卒業、1905渡仏)、南薫造(1883生、1907卒業、同年渡英)、太田喜二郎(1883生、1908卒業、同年ベルギー)他の面々だ。更なる展開が図られた萬鉄五郎に始まる世代、前出の青山熊治(1886生、1907中退、1914渡欧)、藤田嗣治(1886生、1910卒業、1911渡仏)達の兄貴分にあたる。そのほとんどが師、黒田清輝(1866生、1888渡仏)に倣い、油彩画の本場フランスに向かった。

また、浅井忠(1856生、1900渡仏)の関西美術院や小山正太郎(1857生、1900渡仏)の不同舎からも、鹿子木孟郎(1874生、1900渡米、仏へ)、満谷国四郎(1874生、1900渡米、仏へ)、続く弟世代の安井曾太郎(1888生、1907渡仏)、梅原龍三郎(1888生、1908渡仏)が留学した。多くがパリのアカデミー・ジュリアンでジャン・ポール・ローランス(1838~1921)に学んだ。

しかし、フランスではなくイギリス留学した者がいたのである。黒田清輝は美校出身者がイギリスに行くのを嫌ったようだが、その意に従わなかった珍しい人物が、栗原忠二なのだ。栗原の画業を時系列的に見てみよう。(全て図録画像)

【月島の月】1909 【山道の風景】1911水彩 【自画像】1912

栗原忠二は静岡県(現在の)三島市に生まれ、1905・明治38年19歳の時、法律家を目指して上京し中央大学に入学するが、翌々年美校に転じる。イギリス・ロマン派の画家ウィリアム・ターナー(1775~1851)に傾倒して美校の友人たちから「栗原ターナー」と呼ばれた(曾宮一念「思い出」)。3年次に【月島の月】が白馬会展に入選、朦朧とした大気の中で墨田川河口に沈む夕日と川面の小舟が画面全体を覆う赤茶色と茶色に漂う崇高ともいえるターナー調の油彩画だった。そこには既に、後に彼が到達するヴェネツィア水景図の構成と筆さばきを見て取ることが出来る。栗原の本来的な資質が、抒情を好む自然観照家、ロマン派系だったのだろう。東京朝日新聞で好意的に言及された。卒業年(1912)に渡英する。1914年にはフランク・ブラングィン(1867~1956)に師事し、画風が変化する。茫洋とした筆致に動感が加わり、モチーフ描写に構成や造形の意図が感じられるようになった。1919年作のイギリスの田舎町と思われる油彩画が手許にある。同系統同色調の作品2点が「静岡の美術Ⅳ 栗原忠二展」図録(1991静岡県立美術館)に掲載されているので併せて紹介する。同年王立英国美術協会準会員となった。

【(仮題)街並】1918 6号油彩・キャンバス 【納屋】【家並】 共に1919以前 油彩

第一次世界大戦が終わり、翌1920年5月栗原は初めてパリを訪問した。そこで印象派の色彩と軽快な筆遣いを実感したに違いない。帰国後描いたロンドンはじめイギリス各地の風景画の印象が一変する。短く、早く、筆触分割された油彩画は鮮やかだ。所蔵する作品と前出の図録掲載作品を載せる。

【(仮題)イギリスの田園】1920年代前半6号油彩・板 【人物のいる森の風景】【ロンドンの公園】 共に1920年代前半

話はそれるが、栗原の風景画に描かれる点景人物は感心しない。個性、体勢、状況が伝わってこない。一歳下の美校同窓生、北島浅一の卓抜さと比べるとかなり差がある。

さて、栗原忠二は渡英8年後の1920年11月、第一次世界大戦の為長らく果たせなかったターナーの主たる写生地で、ブラングィンも描いたヴェネツィアの地を踏んだ。往年來のターナー好みと先立つパリ訪問で触発されたフランス印象主義が相俟って、ヴェネツィアの光に満ちた揺蕩う大気と水景が明るくおおらかに描かれる。一見同じ印象だが、油彩、水彩に異なる筆遣い、色遣いがみられ、特に水彩画の仕上がりは美しい。ヴェネツィアへは1923年まで毎年訪れ、栗原絵画の代表作群が形成されるに至った。1922年にはイギリスから日本橋三越に水彩画を送って個展を開く。(全て図録画像)

【英国風景】【ロンドンの雨】【春のヴェニス】 全て水彩

12年間のイギリス滞在を終え1924年に帰国し白日会創立に参加して水彩画を出品、これも好評だった。1926年2月再渡欧し翌年11月帰国、1928~30年帝展に3回連続入選、白日会展や四十年社展ほかにも出品し個展(作品頒布会)も開く。1929年には美校同級生と第一美術協会を結成、海軍省から委嘱され海戦図を描くなど活発に動いた。が、1936年11月50歳の時、胃がんに侵されて急逝してしまうのである。本邦での本格的な画業展開を果たす前に亡くなってしまったのだ。帰国後描かれた3枚の油彩画を紹介する(うち2枚は没年作、全て図録画像)。

【雲のある半島】【日清戦争、豊島沖海戦】1936【千葉の海岸】1936

栗原忠二はしかし、エコール・ド・パリの全盛期であり多くの日本人画家が己の画風を模索し取っ掛かりを掴み始めた1920年代半ばには、既に自分の方向性を定めた画家だった点に注目したい。自分のスタイルを持っていた。そのキャリアを、近代日本洋画のメインストリームから外れたところ―傍流―で作り上げていた。傍流といっても、勿論甲乙の価値判断を伴うものではない。多数派に対する少数派といった意味合いである。

少数派の一つ目、イギリス指向だった。近代日本洋画の展開期に入る頃に、フランスではなくイギリスに渡り、ターナー、コンスタブル(1776~1837)、クローゼン(1852~1944)らイギリス・ロマン主義やラファエル前派、或いはイギリス自然主義などイギリス絵画に惹かれた一連の画家群がいた。原撫松(1866~1912、1904渡英)、牧野義雄(1869~1956、1893渡米、1897渡英)、白滝幾之助(1873~1960、1904~1911渡米、渡英)、石橋和訓(1876~1928、1903渡英)、高木背水(1877~1943、1904渡米、1910渡英)、武内鶴之助(1881~1948、1909渡英)、南薫造(1883~1950、1907渡英)、らである。ところが彼らの次の世代―萬鉄五郎を始期とする栗原の同窓生、同年齢者の世代―の多くは印象主義に親しみ、黒田清輝推奨のフランス、ラファエル・コラン由来の外光派に寄って行き、先輩筋を席巻したためイギリス派は衰退する。

だが、栗原は黒田の教え子でありながら、しかも遅れてきたイギリス指向者だったのだ。(美校出身の南薫造〜卒業は栗原の5年上〜は、留学したイギリスからフランスに立ち寄った際、印象派に刺激され帰国後それを自身のスタイルとした。栗原と好対照である)

もうひとつの少数派要素、栗原を語る際には水彩画を外すことが出来ない。明治美術会・太平洋画会系のメンバーを中心に本邦初期の洋画指向者は水彩画に魅せられたものが多かった。我が国の山紫水明にmeetし、筆に水を含ませて描く西洋の水彩画は墨筆に似て馴染みやすかったこともあろう。洋画展開の初期を担った1870年代生まれには美校を経ず画塾等で学んだ後、海外に赴いた画家達が多く居た。渡航時期は1900年前後、行先はアメリカだった。日本から持参し、或いは現地で手掛けた絵が水彩画である。開拓で西進したアメリカでは自然の風景が身近にあり日本人画家の描く抒情的な水彩風景画は好意的に受け入れられた。アメリカ各地で水彩画を販売し資金を得てヨーロッパに渡ったのである。

1897(明治30)年に渡米した三宅克己(1874~1954)が先駆けである。吉田博(1876~1950)は三宅と知り合って水彩画を始め1899年中川八郎(1877~1922)と共に渡米する(1901年、欧州経由で帰国)。穏やかな日本の自然を精緻に描いた風景画は好評でデトロイト、ボストンでの展示販売は順調だった。丸山晩霞(1867~1942、1900渡米)、河合新蔵(1867~1936、1900渡米)、大下藤次郎(1870~1911、1902渡米)、鹿子木孟郎(1874~1941、1900渡米)、満谷国四郎(1874~1936、1900渡米のち渡欧)、石川寅治(1875~1964,1902渡米)、らが続く。彼らは工部美術学校(フォンタネージ)、不同舎(小山正太郎)の系譜に属し、美校出身者(油彩画作品が主流)の多い白馬会への対抗心もあったのかもしれない。水彩画の隆盛は1898年の明治美術会10周年記念展の出品作の過半数が水彩画だったことからもわかる。1992年まで続いた美術雑誌「みづゑ」は1905・明治38年に水彩画専門雑誌として創刊されたのだ。

翻って栗原は美校出身で白馬会に出品していたが、水彩画家としての存在感が際立っていた。他の同年代画家(1880年代生まれ)に比して水彩画の作品がかなり多い。既述のアメリカ・水彩画組とも異なり、下の世代でありアメリカを経由すること無くイギリスに入った。(水彩画界の嚆矢で巨頭の三宅克己も白馬会に属していた。また美校出身の矢崎千代二(1872生)は1900年に卒業して1903年渡米している。その後欧州に渡った。矢崎はパステル画家として知られる)

水彩画家は何故フランスではなく、イギリスに向かったのか?遠因は1859年、来日して水彩画を日本人に教えたのがイギリス人のチャールズ・ワーグマン(1831〜1891)で高橋由一(1828~1894)、小林清親(1847~1915)、五姓田義松(1855~1915)、らが彼に学んだこと。1887年以降イースト、バーレイ、パーソンズ等の水彩画家が相次いで来日して各地で写生し展覧会を開く。イギリス流の細やかで詩情豊かな水彩画が当時の画学生を虜にした。これらの背景には、イギリスにおける水彩画の発展がある。イギリス水彩の父と云われるサンドビー(1730~1809)、コーゼンス、ウィリアム・ブレークに始まり、ターナーからコンスタブル、ロセッティと続く18~19世紀はイギリス水彩画の黄金時代だった。水彩はイギリスの水気の多い風土を描くに適していた。

ここで、ターナーと栗原忠二が描いた水彩画を並べてみる。(全て図録画像)

ターナー【海から見たドーヴァー城】1822【キドウェリー城】1835【青いリギ山、日の出】1842

栗原忠二【リッチモンド・ブリッジ】1910年代後半、【春のテームズ】1920年代

栗原忠二【ヴェニス】【帆船】【ヴェニスの橋】 3点とも1920年代

両者のテームズ川とヴェネツィアを描いた油彩画も並べてみる。

ターナー【議事堂の火災】1835【「ヴェネツィアの太陽」号】1843

栗原忠二【テームズ河畔】【サンタ・マリア。デルラ・サルーテ寺院、ヴェニス】1921以降【ヴェニス】【ヴェニスの港】油彩 1920年代前半

栗原の画業を通覧すると、美校卒制の自画像、墨田川水景画には、ターナー調もさることながら図録画像を見る限り色調、マチエールに明治美術会系統(脂派)が感じられる。同会派のイギリス指向、水彩画指向と通底する点がある。イギリスでは画壇の大立者とはいえ、構図やモチーフが特異なブラングィンに就いたせいかターナー好みはしばらく収まるが、ヴェネツィアを訪れてターナー調が復活する。1991年の栗原展監修者で展覧会図録のメイン執筆者静岡県立美術館の下山肇氏は、栗原のヴェネツィア訪問を[ターナーを再解釈し始めた第1次ヴェネツィア滞在(1920年)]と位置づけ、それ以降に描いた【林道】(油彩画)について[明るいスケッチ風・水彩風の作調・・・印象派に最も近接した作]としている。「ターナーの再解釈」という文言は栗原のヴェネツィア連作を論じる重要なポイントで、若き日の脂派的ターナー調が、印象派体験を経て光と色彩に満ちたターナー調に転じたことを指摘しているのだ。生来の自然観照者だった栗原は、イギリス、フランス、イタリアの自然の中に身を置き、現地でターナーの実作に接して現実と作品の距離感を実感したに違いない。自らの実作にそれを反映したのだと思う。一方で下山氏は、栗原がブラングィンに師事したことを[真に幸運な出会いで会ったろうか]と否定的に論じている。栗原の持ち味がブラングィンとはマッチしないと看破したのではないか。私淑したターナーが表現手法を変えながらも創作における一貫した理念のもとに描き続けた生涯と照らし合わせると寄り道したと捉えていたのかもしれない。

栗原がその才を認められ、キャリアが尊重されながらもターナーの模倣と貶されることがあるのは故無しとは言えまい。栗原が到達したスタイルはターナーをオマージュしてヴェネツィア水景画に収斂したものだったが、一方でターナーの作品変遷と見比べていくとターナーのある時点の表象の追随に留まっていたとも見えるのである。

栗原忠二は第2次渡英(1926年2月~1927年11月)からの帰国後は、画壇活動や普及活動に注力し、展覧会には旧作、ないしその焼き直しの出品が多かった。[日本に来たら、さあ描けぬ、まるで勝手が違ふ。熱々考へたら日本の美は外国と全く異なってゐる、別な美がある・・・そこでやはり水彩だと感じた(「みづゑ」1931・昭和6年1月)]状況でもあった。

彼は同年代の仲間には持ち得ない彼独自のキャリアからつかんだ表現やテイストに展開できなかったのだろうか。唯美指向の強い画家であり、イギリスのロマン派画家達がそうであったように象徴主義、或いは抽象主義に向かい、彼の情感を反映するスタイルを構築し得たかもしれないのだ。海戦図を描くかたわらそれを予感させる作品も残している。到達する前に世を去ったのは本人ならずとも残念である。

本稿は「静岡の美術Ⅳ 栗原忠二展」図録(1991静岡県立美術館)、下山肇氏執筆に多くを教わった。下山氏はこの後大学教員として転出され4年後に館長として静岡県美にもどるが、直後に栗原研究を完遂することなく逝去された(2005年)。大変惜しまれる。

また「もうひとつの明治美術展」図録(2003静岡県立美術、他)、「ヴェネツィア展―日本人が見た水の迷宮―」図録(2013一宮市三岸節子記念美術館)、を参照させていただいた。

文責:水谷嘉弘

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