【近代日本洋画こぼれ話】北島浅一・御厨純一 同郷、同じ歳、東京美術学校同級、没年も一緒の二人の画家 その1

再びこだわり話から始める。額の裏面から表面の作品や作者に関する情報を得る試みだ。田辺至、伊原宇三郎こぼれ話で、額裏に貼られた名刺やシールから制作年を引き出した。今回は、大正、昭和戦前期の近代日本洋画を牽引した官展アカデミズムを担った一人、北島浅一(きたじまあさいち、1887・明治20 年〜1948・昭和23年)である。

北島がボードに走り描きした柿の絵がある(4号)。余白が大きく単彩であれば水墨画の趣きがある。天性の素描家で、俗に言う「描けてしまう」画家である。画学生時代、滞欧時、帰国後のどの作品を観ても線で形態を捉え立体感を出す技量は抜群だ。淡白な着色で量感も醸し出す。洒落っ気や遊びっ気に富んでいるのか、大雑把過ぎたり端折ったりするきらいがあるのだが、その分、引く線の魅力が引き立つ。それを味わいたくてサッと描き流したような柿図を手に入れた。そうでなくても余白だらけの背景を、幅広の固めの筆で白く刷いてある。遠くから観るとスカスカだがこの白がいい。

     

この作品のボード裏に古びた紙片が貼られていた。[杉並区西荻窪 北島浅一]と判読出来、電話番号も読み取れる。そこから本作の制作年がわかるのでは、と調べてみた。年譜に依れば、北島が西荻窪に越してきたのは1926・大正15年。その少し後から「朝一(あさいち)」の雅号を使い始めたようだ。それに合わせてか、当時の洋画家によくみられる英字サインに変えて漢字印[朝]を多用する。1929・昭和4年頃からだという。本作は[朝一]サインだけだ。そこで制作年は、1926〜1929年の間かと推定した。[朝]の崩し方などから更に後年作の可能性もあるが、円熟期に入った彼が活発に働いている頃で、絵から活き活き感が伝わって来る。

 北島浅一      御厨純一

こだわり話はここまでにして、この後はもう一人、奇遇とも言えるほど彼とそっくりな経歴の持ち主、だが画風は対照的な画家、御厨純一(みくりやじゅんいち)にも触れながら書いていく。

北島浅一は1887・明治20 年生まれ。佐賀県小城中学生の時、当地を訪れた美校生、辻永(1884年生まれ)の絵を見て画家を志し上京して白馬会研究所で学び、1907年東京美術学校に入学した。卒業は萬鉄五郎(1885生)、栗原忠二(1886生)や片多徳郎(1889生)と一緒で萬が【裸体美人】を提出した1912・明治45年、北島の【石炭運】は御厨の【擬講】と共に買上げとなった。翌1913年第7回文展に【蜀江の夕】が初入選して以降、第9回から12回まで連続入選。卒業7年後の1919・大正8年パリに渡る。エコール・ド・パリが全盛を迎える1920年代以前に渡欧した世代で一つ歳上に青山熊治、川島理一郎、田辺至、藤田嗣治らがいる。熊岡美彦(1889生)は同期入学である。「パリ豚児」と呼ばれる世代より10歳近く年上になる。1921年【踊り場】がサロン・ドートンヌに入選、翌年帰国する。

【パリーの踊り子】1922  【裸婦】1926

帰国後の1924・大正13年第5回帝展から1934年第15回(最後の)帝展まで、継承した新文展でも入選を続ける。1948・昭和23年61歳で逝去するまで官展の常連であった。団体活動としては、1920・大正9年四十年社、1929・昭和4年第一美術協会の創設メンバーに名を連ねた。両会には多少の出入りはあるが基本形は青山、片多、熊岡、栗原、御厨、萬、佐藤哲三郎(1889生)、三国久(1885生)ら美校同級生である。

もう一人の御厨純一は、北島と同じ佐賀県出身。佐賀市生まれで北島の小城郡は近隣である。中学のとき同じ教師(梶原熊雄、京都府画学校出身1870生)に絵を習い、美校入学年も卒業年も卒業制作買上げまで一緒、生年だけでなく没年も同じだった。1913・大正2年に撮影された1枚の写真がある。佐賀県美術協会設立会合で場所は上野。黒田清輝と同じ歳の久米桂一郎(1866生)、岡田三郎助(1867生)は美校教授、北島、御厨は前年卒業したばかりであった。若い二人の姿は性格人柄を示しているようでその画風までもうかがわせる。

さて北島浅一に戻る。実は北島の画業の全容がよくわからない。帰国した1924年5月に滞欧記念個展が三越で開催され多くの作品が流通したと思われる。一方、後年の制作では、違う「朝一」が描いたのではないか、と思うような絵もよく見かける。掴みどころがない、という方が適切かもしれない。その年次、キャリア、実力から言って大正、昭和戦前期画壇における中心となるべき人物であるにもかかわらずそういった存在になっていないのも不思議だ。北島の個性もあろう。組織運営、人事には興味なく不得手だったのかもしれないが、しかし当時の帝展内部の事情も背景にあった。

大正後半の文展→帝展改組に伴い1922・大正11年、中村彜(1887生)、片多、牧野虎雄(1890生)が帝展審査委員に就き、改元前後に熊岡、青山、田辺が新設の帝国美術院賞を受賞して北島・御厨世代が画壇中枢となった。しかし直後の1925・大正14年以降、フランスから帰国した中村研一(1895生)前田寛治(1896生)、中野和高(1896生)らの作品が帝展の沈滞を打破し新旧の在野団体とも渡り合えるとの世評が高くなり、1929、30年には前田、鈴木千久馬(1894生)が審査委員となる。一方で北島の仲間は青山、片多が相次いで亡くなる(1932年、1934年)等、帝展内部における勢力図が一気に変わったのである。若返りである。北島浅一の帝展出品作への合評会批評からはそれを感じ取ることができる。帝展後輩組のコメントは直截的で遠慮がない。(そこからは北島世代と彼らとのデッサン手法の違い、彼らが陥った帝展大作主義の弊なども読み取れる。)

1917(第11回文展)萬鉄五郎:何処までも感興本位の人・・作品はいつでも面白いが不満な処はいつでもある・・(描かれた娘は)生き生きとしている。

萬は北島と同級生。この評が北島作品のイメージを規定することになる。以下、帝展となった後の後輩連中からの評である。

1924(第5回帝展):太い線でグイグイ・・手際はうまい・・墨画の味・・カリカチュアの趣をさえ持っている・・複雑な構図に筆を染めたらどうか・・

1925(第6回):垢ぬけした・・外国に行ってきた人らしいスッキリ・・そろそろ大物に・・

1927(第8回):色調がいい、要領はいい、帝展の会場ではコクが足りない、デッサンに不備が多い為に平面、シャレタ絵、技巧もシッカリ、軽い處、その軽い處を狙ったのだろう・・

1928(第9回):もっと傑れた技巧を持っている筈、あまい、一寸気を付ければいい好きな絵、技術色彩に異存はないが対象の把握力に浅さ、大ヅカミな集約的コンポジションを・・

1931(第12回):少しふざけ過ぎている

1932(第13回):つつましやかな處がいいと思う

1936(新文展):荒い筆でここまで人物を描けるとは容易ならざるものだ

 

【パリー郊外】1921(10号)【中庭】滞欧作

【路上】滞欧作  【三人の女】滞欧作

私見では、北島浅一が本領を発揮し傑作群を残したのは滞欧時代である。特に中期以降の軽妙で素早いタッチは、華やかで動きのある近代都市パリのタウンシーンに合致しているのだ。描く側と描かれる側の感性がドンピシャである。

一つ年下の安井曾太郎がフランスから戻った後、日本の風土をモチーフにすることの困難さから長いスランプに陥り、画壇では日本的油彩画の追求というテーマが流行ったりした。北島にも同様の葛藤、志向があったのだろうか。1934・昭和9年、第一美術協会を退会した後は官展(系)を発表の場に画題も自然の風景が主となり奔放な輪郭線も少なくなっていった。時に南画的仏教画的でもあった。しかし、1948・昭和23年61歳で逝去するまで、生涯を通して官展への出品は絶やさず、その常連であり続けた。    (この項続く)

本稿、続稿は【北島浅一・御厨純一展図録】1986年佐賀県立美術館刊(松本誠一氏執筆)から多くを教示いただいた。

文責:水谷嘉弘

【topics】佐分真の「巴里日記」に板倉鼎が登場していた

板倉鼎と同時期にパリに居た「洋画界を疾走した伝説の画家(一宮市三岸節子記念美術館展覧会での呼称)」佐分真(1898年生まれ、美校卒業は鼎の2年先輩)が、パリで鼎と行き来していたことを記した文献があるのを知った。鼎サイドの資料と共に時系列で紹介する。

1)本ホームページで既に何度か紹介したパリの大久保作次郎送別会は、1927年3月22日に開催されている。集合写真には二人が写っていることから鼎は佐分とそこで再会していたと思われる。佐分は同日の日記に同会の模様を書いている。

-夜、七時半から大久保作次郎氏の送別會を日本人會でする。會する者藤田(註:嗣治)氏以下四十餘名、盛會。森田(註:亀之助)氏夢中になってはしゃぐ。嬉しい晩だ。そして席上、近く歸朝する中山正實氏のアパルトマンを吾々で引きつぐ事に相談定まる。非常にいい家だ。郊外ムードンの地、何とも有難い事だ。來る土曜午前中見に行く筈。段々運勢開けるらしい。-

  (シルエット作成 松戸市教育委員会)

2)佐分真は、1927・昭和2年2月小寺健吉とともにパリに渡り、4月中山正實から引き継いだパリ近郊ムードンの一軒家に落ち着く。滞欧中の日記を4冊残しており、これらは遺稿集「素麗」(冒頭画像参照)に「巴里日記」として収録された。4月12日の項に鼎が登場する。

―快晴 稍々寒・・・(ムードン駅で)偶然板倉氏夫妻が寫生に来たのに會ふ。伴い歸る。・・・―

 佐分真遺稿集「素麗」(限定650部)春鳥会 1936年刊 表紙スケッチ(パリ郊外 couilly風景)

3)この件を須美子は松戸の鼎実家あてに書く。

―(先週ムードンに行った時)駅のそばでお友達の佐分利(ママ)さんと小寺健吉氏にお目にかかりました。お二人がすぐそばの家へ案内して下さいました。二人で四間ばかり借りて居らっしゃるのですけど、お風呂も附いて立派な台所もあり・・・私達もそこに移りたくなってしまひました。家の窓からでも画が描ける様になってゐます。(1927年4月19日付け書簡)―

須美子は余程ムードンが気に入ったのか再度手紙に書いている。

―郊外のムードンと云ふ所へ鼎さんのスケッチのお供で参りました。・・・まるで東京と松戸との比の様に巴里からムードンへ行きますと胸が軽くなる様な気が致しました。駅と鉄橋を中央に両方に岡があり赤ガワラの一軒家がチラチラ青葉の間からのぞいて居ります。・・・(1927年4月21日付け書簡)―

4)5月3日、日本人会館で行われた荻谷巌送別会には、佐分、鼎共に出席している。(「巴里週報」第86号)

5)「巴里週報」(当時の日本人社会のミニコミ誌、石黒敬七主宰)第97号(創刊二周年記念号)1927年8月1日発行、には藤田嗣治の祝辞はじめ多くの在仏者の名刺広告が掲載されている。佐分、鼎も出稿していた。

   

6)同年夏、佐分は鼎のアトリエを訪ねる。辛口のコメント込みではあるが、鼎を高く評価している。

―・・・夕食を富士でとり、後板倉氏を訪ねる。板倉氏には勿論若人の作にして近代的な一味あり、そしてよき神経の行き届きし感じで行く行くは相當の作を成す人と思はせた。唯一種の味にこだはってどっしりとした底力を発揮し得るや否やが疑問だ。もしそれをしも得たらんには一入の結果がみられるだらう。(巴里日記、1927年8月25日)―

   

板倉鼎「垣根の前の少女」1927                   板倉鼎「剣のある静物」1927

須美子の同日付け書簡に、前日24日夜小寺健吉が来宅し鼎の絵を誉めていたとあり、小寺と同居していた佐分がそれを聞いて早速訪れたのであろう。先立つ8月19日付けの須美子書簡は、鼎が「垣根の前の少女」を制作中とあり、それを描く様子が詳細に記されている。小寺も佐分もこの作品を目にしたと思われる。鼎側に佐分来訪の記述は無い。

7)板倉鼎も佐分真を意識していた事が分かる記述がある。

―・・・この頃(五六年)巴里に来た画家の数は数百人になりませうが一寸もよい仕事でみとめられていません。率から云ったら極少数の人、佐分氏とか前田(註:寛治)氏とか中野(註:和高)氏とかが出て行っておりますが何れも四年以上の人ばかりでして、佐分氏など足りなかったので、又来ておられます。・・・(1928年2月22日付け書簡)―

パリに少しでも長く居たいが為の父親に訴える文脈であり、リスペクトしているゆえ名を挙げたのだろう先輩画家たちの滞在年数は実際より長く書かれている。佐分は初めてパリに来てやっと1年経った頃合いである。小寺と混同していたのかもしれない。

鼎はそれから1年半後の1929年9月29日に急逝するのだが、佐分がそれに言及した文章は見当たらない。同月24日にパリを発ち約1か月、オランダ、ドイツを旅していた期間にあたる。余談になるが、この時観たレンブラントがその後の佐分のスタイルを決定づけることになる。

上記の6)は同時代画家の証言として貴重である。佐分真の板倉鼎を見る眼の確かさもわかる。1927年夏は「パリで1年かけて、持っていた型、日本で学んだ描き方を捨てた」と、鼎自身が書き、モダンで洗練されたスタイルを獲得しつつあった頃だ。静物画が多くやや様式化した生硬な表現も見受けられるのだが、佐分の慧眼から鼎の意図が達成されようとしており、観者にも伝わりかつまだ過程にあった等を知ることが出来るのである。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】川島理一郎 painter & traveler、1920年代半ばの海外スケッチ

川島理一郎は、1886・明治19年栃木県(現)足利市の生糸商家に生まれた。事業に失敗して渡米した父を追い1905年、19才の時海を渡る。ワシントンのコーコラン美術学校、ニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザインを卒業して1911年渡欧。日本人画学生が学ぶ定番だったパリのアカデミー・ジュリアン、アカデミー・コラロッシに入る。1913年、東京から来た同じ歳の藤田嗣治と親交し共同生活する。同年日本人として初めてサロン・ドートンヌに【巴里風景】他1点が入選した。第1次世界大戦勃発時も欧州に留まり、翌1915年アメリカへ。1919・大正8年、14年ぶりに帰国するが3か月後には再びパリに行く。1920年代から1931年までは欧州、1927年から1939年までは中国本土、朝鮮、台湾、1941~1943年にかけて東南アジアを歴訪して制作に励んだ。この間、本邦でも描き続けた。

戦後は文部省の依頼でパリにフランス画壇の現況視察に赴いた他、日展の審査員、役員を務める。日本芸術院会員でもあった。1971年85歳で長寿を全うした。

パリを訪れること生涯通算で10度、滞在期間も長く我が国近代洋画史における代表的な国際派の画家である。painter & travelerと称したい。

手許にpainter & traveler川島理一郎の鉛筆画、パステル画の風景デッサン(スケッチ)が4点ある。川島の画業ピークの一つである1920年代半ばの作である。

① 1924年作【上海】鉛筆画 24㎝✕33㎝

(参考)1930年代~40年代前半【瀬戸内海・卜部造船所】15㎝✕20㎝

② 1924~25年作【ヴェニス】 鉛筆画 25㎝✕32㎝

③ 1927年作【ニース】パステル画 19㎝✕22㎝

④ 1924~25年作【(仮題)イタリアの寺院】パステル画32㎝✕47㎝

 

①【上海】

川島理一郎が上海を訪れたのは複数回ある。著書「美術の都パリ」1952美術出版社、には、戦争前まではヨーロッパへは海路が一般的であり(彼は2回辿っている)日本の船はほぼ寄港した、とある(ロシア鉄道を使う陸路もあり彼は3回経験している)。本作は関東大震災後、大林組社長の勧めで中国大陸のみ、上海、蘇州、南京を1か月間巡った1924・大正13年の制作と比定したが、彼にとって1930年代まで何度も目にした光景でありその頃の作かもしれない。

参考【瀬戸内海・卜部造船所(卜部港)】瀬戸内海を航行する船上から(現)尾道市因島にあった卜部造船所(卜部港)をスケッチしたと思われる。1930年代から40年代前半にかけての作か。

(1924年作)(1930年代~40年代前半)

②【ヴェニス】

1924年中国大陸から戻り38歳となった川島は、同年秋、東京大森にアトリエを新築し新婚の妻エイと渡欧する。25年6月に帰国するがこの間の滞欧作は傑作揃いである。パリ、ローマ、ヴェニス、ナポリの風景画が多い。[・・・一段と自分の信ずるところを決定的にやって見た・・・パリとイタリイ風景とを漸くにして自分の作としての発表が出来たかに思へた・・・これらの作品は一般の人達にも認められたやうだった(「川島理一郎画集」序文1933アトリエ社、のち「緑の時代」に改題)]心身共に充実していた時期であり、帰国後の7月には国画創作協会に新設された西洋画部門(後の国画会)に梅原龍三郎と共に同人に招請された。年譜には、この滞欧中にデッサン含め約100点を制作する、とある。

(1924~25年作)

③【ニース】

1927年2月、マチスをニースのアトリエに訪ねた折りの作と思われる。川島がマチスと知り合ったのは1913年だが、このニース訪問の時から親しくなったようだ。[マチスは人と話しながらでも、或は煙草を喫ひながらでも、決して鉛筆を手から離さない・・・私の持っていたスケッチブックを見つけられ・・・一々親切に批評して呉れて・・・(「旅人の眼」1936龍星閣)]マチスからデッサンの重要性、常にデッサンし続ける事を学んだという。同年(昭和2年)4~5月に東京で開催された第2回国画会展にパリから【ニースのお祭り】他パステル画3点を出品しており、本作も同時期に描かれたと思われる。1951・昭和26年、パリにマチスを再訪して帰国後その模写を展覧会に出品している。

(1927年作)

川島理一郎がスケッチ、デッサンを重要視し、師マチスの教えによく従って手を動かしていたことは、デッサン集を出版しているだけでなく(「自選デツサン集」1947建設社)、数多い著書のほとんどすべてにデッサンが掲載されていることからもうかがえる。川島の作品はリズム感を感じさせるものが多い。余計ながら、運動神経もよかったのではないかと想像する。基本的には正統的な写実に属するが、フォーヴ的筆致を獲得してリズミカルな線、快いデフォルメが見られる。

④【(仮題)イタリアの寺院】

川島理一郎はデッサン展(展示)の多い画家だが、同様にパステル展(展示)も多いことが気になっていた。ざっと年譜を見ても自身が制作に確信を持った1925年7月の(滞欧)新作画展では全87点中パステル画が13点ある。翌々27年の国画制作協会展にはパリからの出品4点全てがパステル画だった。戦後も1951年フランス視察からの帰国展展示は現地での模写66点がパステルと鉛筆、54年開催の51年パリスケッチ出品はパステル20点、といった按配である。川島にとってパステルは重要な画材といえるのだ。

彼が「美術手帖」1948・昭和23年11月号に寄稿した文章を(要約して)引用する。

[自分のパステル画は色で描いたデッサンである…デッサンにつける色彩は水彩絵具、時に油絵具を用いるが…かなり以前からこのやり方に不満…デッサンと色彩は離れたものではない…(パステルは)デッサンを描きつつ色も出せる…印象を即座にまとめる美点…自然を凝視して表現に強い情熱を盛り込む…自分の骨肉を分けた作品そのものである…(パステル画について)]戦後の文であり戦前のパステル制作と合致しない点もあるかと思うが、明快な色彩を自由に手早く駆使する描き方は終生を通して川島作品の本領たる所であり、彼がこれを好むのも故あることなのだ。

 (1924~25年作)

所蔵するパステル画の題材は、パラーディオ様式と思われる建物だが同定出来ず制作年代も判定が難しい。色調、描法他から記載の如く推定した。

川島は生涯2度にわたってその作品群を大量に失っている。1923年の関東大震災と1930年末のインド洋での欧州からの貨物船沈没である。そのため、初期の滞米作品、滞欧作品(個展のため資生堂に約200点保管していた)と、1930年5~11月の滞欧作品を見ることができない。特に後者は次の画業ピークを迎える1933年から1936年にかけての日光、承徳(旧満洲・熱河)、東京での重厚味ある作品群に繋がるだけに残念である。

「緑の時代」には1934・昭和9年の熱河訪問を書いた「承徳の景観」の章があり【熱河大佛殿】と題されたスケッチが掲載されている。同じ構図で額裏に【大佛寺全景】と記された油彩画(出来はスケッチの方が良さそうだ)があるので下記に並べて挙げる。

(1934年作)挿画画像

    川島理一郎【大佛寺全景】1934(SM)

 

文責:水谷嘉弘

【news】「あーと・わの会」ホームページのコラム欄に執筆を始めました

美術愛好家団体「あーと・わの会」(会員約70名、私設美術館19館)が公開しているホームページのコラム欄に執筆することになりました。タイトルは「近代日本洋画こぼれ話」。本ホームページに随時upしている【column】の再録、加筆が中心ですが、わの会ホームページは閲覧(クリック)数が多く、特に「作家略歴」(約5000名を紹介)と「コラム」は人気が高いようです。折りに触れ板倉鼎、須美子に言及し顕彰活動の一助にしたいと考えています。

https://www.wa-nokai.org/

文責:水谷嘉弘

【topics】板倉鼎の新情報到来

千葉県館山市を中心に南房総地域の美術振興活動をしている「安房美術会」の溝江晃氏から、板倉鼎に関する新たな情報を頂戴したので紹介する。同会は昨2021年、発足100周年を迎え記念事業の一環として記念誌発行準備を進めており実行委員長を務める同氏と情報交換した際、板倉鼎が1924・大正13年7月、館山にあったレストラン「鏡軒」で行われた第1回安房美術会展に出品していた事実を教示いただいた。

「安房美術会」は、美術館所蔵品図録やミュージアムショップ販売用絵葉書を制作する老舗「京都便利堂」創業者で社会風刺漫画雑誌「東京パック」を発行した中村弥二郎(有楽)が初代会長となり、南房総地域の観光振興、関東大震災復興を目的として1921 年に発足した文化団体。地元の画家、歌人、俳人、文人らが参加した。当時、鋸南町保田(現、安房郡)に住み始めたばかりの、物理学者にして歌人の石原純、愛人関係にあったアララギ派歌人の原阿佐緒が設立時メンバー(約20人)の中にいた。

ここから、板倉鼎と繋がってくる。鼎は東京美術学校在学中の1922年頃写生に出かけた鋸南町保田で石原、原と出会い、美校を卒業した直後の1924年6月から7月初めまで約1ヶ月石原、原の住居「靉日荘」に滞在していた事が分かっている。

しかし、当地での活動については鼎自身の書簡や年譜にもほとんど記述がない。今般、溝江氏からの連絡で、鼎が石原と知り合った1922年に「安房美術会」に入会、1924年7月の第1回展に作品を出品していることが判明したのである。同月にかけて1ヶ月間も滞在していた背景もこれで合点がいく。残念ながら出品作の作品名、出品数は不明だが、鼎が当地で描いた絵は何点か残っているので展覧会図録(2015年、松戸市教育委員会刊)から画像を紹介する。冒頭に掲載した作品名は【石原先生保田の家】1924年作、下記は【(仮題)島影】1924年作、【房総保田より大島遠謀】1925年作。第1回展出品作だった可能性もある。第1回展出品者は16人、会場となったレストラン「鏡軒」は震災で倒壊したためバラックの葭簀張りだったそうだ。翌1925年、石原純が同会第2代会長に就く。

   

鼎は、1925年11月、与謝野寛(鉄幹)、晶子の媒酌で昇須美子と挙式する。須美子は文化学院で晶子に学び、原阿佐緒も晶子の弟子。原が与謝野晶子経由で須美子を知り、保田で交流が始まった鼎と引き合わせた、とも考えられる。1926年2月、新婚の鼎、須美子夫妻はハワイ経由パリに向かう。しかし、鼎は1929・昭和4年パリで客死、須美子も帰国後の1934年に実家のある鎌倉で病気のため亡くなった。保田への再訪はかなわなかったが、鼎にとってその地での生活は、美校卒業後留学までの短い2年間の中でも自由で希望に満ちた一時だったに違いない。

(文責:水谷嘉弘)

【近代日本洋画こぼれ話】藤田嗣治 離日前、最後の同窓会

藤田嗣治の署名もある扇面色紙がある。東京美術学校西洋画科出身者7名の[交を温む]と題した寄書きである。扇面上部に[昭和24年2月5日夜]とあり資料性も有るかもしれないと気付いた。藤田は翌3月10日に羽田からアメリカヘ旅立っているからである。そのままフランスに移りやがて帰化してその地で亡くなった。日本における最後の同窓会だったのではなかろうか。出席者の顔ぶれは藤田と美校同期(明治43年3月卒業)の長谷川昇、田中良、近藤浩一路、明治44年卒業の富田温一郎、大先輩和田英作(明治30年卒業)、北蓮蔵(明治31年卒業)である。

     

藤田嗣治を巡る当時の状況を鑑みると、彼と気持ちの繋がっていた、彼が信頼を置いていた面々が密やかに送別の場を設けたのではないかと思う。公けになった記録には残っていないかもしれない。戦後の藤田嗣治に対する世間の目は厳しいものだった。嗣治の又甥、藤田嗣隆氏の「レオナルド藤田嗣治覚書」には、平成18年の回顧展を訪れた老人が語ったというエピソードが紹介されている。「江古田の藤田家の近所に住んでいた少年時代、野球遊びのボールが庭に飛び込んだので取らせて貰いに行った話を親にしたら、あんな戦犯の家なんかに行くんじゃない、とえらく叱られました」。

藤田の評伝や展覧会図録には[藤田は出国前の数ヶ月、世間から身を隠した。詮索好きな記者たちや彼を誹謗する者によって、脱出計画が頓挫させられるのを恐れたのである][ジャーナリストとの接触を嫌った藤田は夫人と二人、九段の外国人向けのホテルに身を隠した]といった記述があった。当夜、惜別の辞で藤田はもう日本へは帰ってこない、との覚悟を述べたのだろうか? 翌月、見送りの岡田謙三夫妻らを前に羽田で語ったという「絵描きは絵だけ描いてください。仲間げんかをしないで下さい。日本画壇は早く世界的水準になって下さい」は、よく知られた言葉である。

      

1949・昭和24年3月、ニューヨークに到着した藤田は戦後の代表作【At the Café :(日本語表記)カフェ】を制作し11月マシアス・コモール画廊の個展で発表する。この名作には複数のversionがあることが知られているが興味深いエピソードを藤田嗣隆氏から伺った。

ニューヨークで描いて発表した1st versionの背景にあるカフェの看板は[LA PETITE MADELEINE]と書かれている。これは藤田4番目の夫人で日本でも一緒に住んだマドレーヌを追憶していると思われる。嗣隆氏によればマドレーヌは藤田にとって何人もいた好みのモデルの中でも最良の女性だったようだ。彼女が昭和11年6月、東京戸塚の藤田のアトリエで急逝した後に結婚した5番目の妻が君代氏である。君代氏は画中の[LA PETITE MADELEINE]に嫉妬したらしい。藤田はニューヨークでの発表から14年経った1963年までに2nd versionを完成させる。この作品のカフェの看板は[LA PETITE CLAIRE]となっている。君代氏の洗礼名Marie Claire Angeに因んでいるのだ。(この話はその後刊行された前出の同氏の著書にも書かれている。また本作の別versionは当該2点の他にも油彩2点、デッサン3点が残されている)

それを聞いて早速、本邦で公開された【カフェ】or【カフェにて】について調べてみると面白いことが分かった。2006年3月東京国立近代美術館で開催された「生誕120年藤田嗣治展―パリを魅了した異邦人―」には後者の1963年頃完成の[LA PETITE CLAIRE]version(個人蔵)【Café:(日本語表記)カフェにて】が出品されている。同展の図録には「ことに多大なるご厚意を賜りました藤田君代夫人には本展主催者一同心から感謝を申し上げます」の表記があった。一方、12年後の2018年7月東京都美術館「没後50年藤田嗣治展」では1949年の[LA PETITE MADELEINE]version(パリ、ポンピドゥーセンター蔵)【At the Café: (日本語表記)カフェ】が展示されている。10年余の時間を挟んで両作を観るに際して前もってモデルの表情の微妙な違いや指、ペンの描き方の変化を確認していたが、背景の看板まで気が回らなかった。また、原作表記と日本語表記にいりくりがあるように思うのだがこの点の事情は不明だ。
(2点の画像を展覧会図録から紹介する)

   
【At the Café :(日本語表記)カフェ】【Café:(日本語表記)カフェにて】

後年の作に比し、当初の【カフェ】は藤田の創作意図やその後の寄贈、手製の額縁に至るまで研究者から様々な見解が示されており藤田作品群でも重要な位置付けにある。ニューヨークに居ながらパリの、しかも1次大戦前を彷彿させる店内や風景、右手後方には後年作には居ない松葉杖の点景人物が描かれている。1950年2月パリに渡った藤田は翌51年、本作、サロンドートンヌ入選作【私の部屋】(1921年作)等計4点をフランス国立近代美術館に寄贈した。

蛇足ながら前々からこの作品に惹かれていた私は2006年展覧会時、ミュージアムショップで【カフェにて】のロイヤルコペンハーゲン製陶板画が限定販売されていたのに気付いてすぐに申し込んだ。陶板の質感が藤田の[乳白色の肌]にマッチしていると感じたのである。人気があって追加で製造するとの事だったがしばらく待たされて届いたときは嬉しかったのを覚えている。

  【カフェにて】ロイヤルコペンハーゲン製陶板画

寄書き扇面色紙は綺麗に表装され専用のタトウに収められていた。席上複数枚揮毫され各氏が持ち帰ったうちの一点かと思われる。前出の藤田嗣隆氏は嗣治の兄継雄の孫にあたる。嗣治の面影を感じさせる方で「フジタとイタクラ」展(2019年聖徳大学博物館)に来場いただき、板倉鼎の姪の方とお引き合わせした。お二人の大叔父(伯父)は90年前パリで会っていたのである。

     

最後に。1949年3月、藤田嗣治は日本から追われる思いで母国を離れ、1968年1月、81歳で亡くなるまで二度とその土を踏まなかった。しかし、帰化し洗礼を受けても日本を思い続けていたとの多くの証言がある。ある美術評論家は、[パリにいて日本を描いた藤田嗣治、パリに行ってもパリを寄せ付けなかった小出楢重、パリにいてパリに徹した佐伯祐三]と表現している。

今日、エコール・ド・パリ、更に近代西洋絵画史を語る際、日本人画家として名が出るのはレオナール・フジタである。東京美術学校で学んだ手法を捨て日本国籍を返上した彼の作品がパリ、サントノレ通りにある駐フランス日本国大使公邸に飾られていた。遭遇した時、私は、天国の藤田は喜んでいるのか、冷やかに見ているのか、測りがたく感じたものであった。

  駐フランス日本国大使公邸(藤田嗣治と東山魁夷)

(文責:水谷嘉弘)

【column】 目次(10)~ (1)

10)2021年11月 安井曾太郎こぼれ話 作者は誰だ?

9) 2021年10月  伊原宇三郎こぼれ話 その2 1912(明治45・大正1)年 ~18才時~ の作品

8 )2021年9月   伊原宇三郎こぼれ話 額裏情報から制作年を割り出す

7) 2021年9月   岸田劉生こぼれ話 劉生戯画「京の夢 大酒の夢」

6) 2021年8月   小出楢重こぼれ話 素描―習作―完成作

5 )2021年7月   田辺至こぼれ話 名刺と挿画原画

4 )2021年6月   清水登之こぼれ話 美術館所蔵品とかすっていた

3 )2021年6月   清水多嘉示こぼれ話 その2 渡仏以降の生写真

2) 2021年5月   清水多嘉示こぼれ話 その1 渡仏前の生写真

1) 2021年5月   島村洋二郎こぼれ話 一枚の絵葉書

【topics】日本美術家連盟が「板倉鼎」を取り上げます

一般社団法人「日本美術家連盟」常任理事の入江観先生から、同連盟の部会「明治以降美術の業績調査委員会(笠井誠一委員長)」で板倉鼎を取り上げてくださる旨の連絡を頂戴しました(本ホームページ、2020年7月2日付け【topics】ご参照)。

その後、野田哲也先生、中林忠良先生(日本美術家連盟理事長)にお目にかかった際、この件をご報告し改めて板倉鼎についてご説明しました。

板倉鼎顕彰活動にとって、現代日本洋画、版画を代表する先生方にお力添えいただけることは心強い限りです。

関連行事には当法人からも参画する予定です。

(文責 水谷嘉弘)

 

【近代日本洋画こぼれ話】安井曾太郎 作者は誰だ?

或る画廊に入った途端、12号の油彩画が目に飛び込んで来た。林間水辺の群像図である。入荷間もないらしく店主の側の壁にキャンバスのまま立て掛けてあった。誰の作品か問うと「未完成、何かの習作のようで署名はない。キャンバス裏面に日動画廊のシールが貼られていて安井と書いてあるが・・・」との返事。確かに、塗り残しはあるし細部に手が入っていない。ただ自分が知る限りでは安井曾太郎の作とはとても思えなかった。しかし、群像5人の構図がよく、人物の描線に味があって一目で気に入ってしまい即頂くことにした。以下、作者について推理する。

本作を見てまず思い立つのが、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(1824年〜1898年)である。黒田清輝(1866年〜1924年)がフランス留学中の1893・明治26年3月にアトリエを訪ねて以来、近代日本洋画へ大きな影響を与えた。藤島武二、青木繁はその構想画に装飾性を学び、児島虎次郎はその作品三点を大原美術館に収蔵する。里見勝蔵はシャヴァンヌの素描を愛蔵していた。少し後の世代、板倉鼎は1927年3月の松戸の実家宛の手紙に「パンテオンと云ふお寺へシャヴァンヌという人の壁画を見にまゐりました」と記している。シャヴァンヌは壁画を得意としたが、本作も画面上部が半円で区切られており、底辺部真ん中の果物籠は壁画の題名パネルを嵌め込む部分になるのかもしれない。

次に連想したのが斉藤与里(1885・明治18年〜1959・昭和34年)だ。与里は現在の埼玉県加須市生まれ。20才の時(1905・明治38年)画家を目指して京都の聖護院洋画研究所・関西美術院に入り、浅井忠、鹿子木孟郎に学ぶ。同門に3歳年下の安井曾太郎、梅原龍三郎がいた。1906年鹿子木についてパリへ渡りジャン・ポール・ローランスのアカデミー・ジュリアンに入学する。本作に通じる一連の作品を並べてみた。

斉藤与里作品 (左から)

【木蔭】1912(明治45・大正1)年作・第1回フュウザン会展出品 【第2回フュウザン会展欄間装飾画】1913年作

【朝】1915年作・第9回文展初入選 【収穫】1916年作・第10回文展特選

本作の作者は与里作品を観たに違いない。1910年代後半から20年代半ばにかけて日本国内での制作だと思う。フランス留学経験者で既に当地でシャヴァンヌを観ていたとも思う。画面はフラットで装飾性を帯び、構想画を意識しているからだ。当時全盛だった主観主義的なポスト印象派やフォーヴを指向する若手ではあるまい。彼らはまだフランスに旅立っていない。本作は習作とはいえ完成度が高く筆致がこなれている。すっきりとしたモデリング、線描が巧みで姿態に動きもある。

こういった見立てを安井曾太郎(1888・明治21年〜1955・昭和30年)の経歴と照らし合わせてみた。1904年、16才で聖護院洋画研究所入所。1907年、渡仏する。斉藤与里がマルセイユまで出迎える。安井もアカデミー・ジュリアンに入学。与里は翌年帰国するが、安井は同校で勉強を続け、日本人で初めて校内コンクールで優勝する。それまでの日本人最優秀は与里の第12位だった。1914・大正3年、第一次世界大戦が勃発し帰国する。翌年、第2回二科展に滞欧作44点を特別出品し注目されたが、この後10年以上のスランプに陥る。二科展への出品は続けるが、制作上の試行を繰り返し話題になることも少なかったようだ。西欧と本邦との風土の違いから表現に苦悩したといわれている。この間、1919・大正8年9月に斉藤与里、梅原龍三郎と共に兜屋画廊主催洋画展の審査員を務めている。1929・昭和4 年に発表した【坐像】と翌年の【婦人像】が安井様式の誕生を告げ以降大家への道を歩む。京都国立近代美術館館長を務めた富山秀男氏は「生誕90年記念安井曾太郎展」図録(1978年ブリヂストン美術館)にこう書いている。

(帰国後は)作画上の模索と低迷を経験しなければならなかった。(中略)僅かな期間に作風が幾転変したのもその間の模索と苦闘の激しさを物語っている。一時はドランやボナールなどの作風に惹かれたような時期もあった。すなわち形体や色彩の関係を単純化してみたり、また逆に紫色などを混ぜながら、暖かく柔らかい色調で全体を緻密にまとめ上げるような試みも行っているのである。

 

安井曾太郎作品(図録画像)

左上【水浴】1914年作 左下【夫人の像】1918年作 右上【黒き髪の女】1924年作  右下【樹蔭】1919年作

本作が描かれたと思われる時期は帰国後の安井が模索していた頃に重なる。1919年作の【樹蔭】は林間の裸婦群像図でテーマは類似するが印象がまるで違う。きっちり描き込んであり重厚感溢れる。人体表現も肉づきがよい。様々に試作し、後年のしなやかで流麗な描線を獲得する過程で描いた、と理解しないと本作には繋がらない。

 

キャンバス裏面に貼られた日動画廊のシールは昭和戦前期のものらしい。日動画廊に当該部分の画像を送って訊ねてみた。親切に対応していただいた。その返事はこうだった。「戦前のシールと思われます。ただ、当社ではシールをキャンパス地に直接貼ることはしません。木枠か額裏に貼ります。副社長に確認しましたが、シールの字体は先代では無いとのことでした。」日動画廊の創業は1928・昭和3年、本作制作(と思われる)時期とは時間的な乖離がある。シールは表面が素である上部端に貼られてはいるが・・・

現役の画家にこの絵を見せて感想を聞いてみた。「とても上手だ、左端の人物が持つ平籠に入れられた赤い果物の画き方が絶妙。」と言う。

状況証拠的には、画学校、パリ、交友、等などシャヴァンヌ―斉藤与里―安井曾太郎を結ぶ線は太い。本作の作者はその周辺にいた人物と考えられないだろうか。日動画廊シールの「安井」も、故なしには記されないと思うのである。佳作であることは確信するが、作者については推理を重ねるばかりで埒が明かない。本稿を読まれた方の知見、ご意見を教示いただきたく、よろしくお願い申し上げる次第です。

(文責:水谷嘉弘)

 

 

 

 

第4期運営体制のお知らせ

当社団法人は9月30日に第3期事業年度を終え、先日社員総会を開催いたしました。今期も前期と同様の役員陣で運営にあたります。

今期は、前期に続き美術関係者との面談、ギャラリー訪問、刊行物への寄稿等を行うとともに、コロナ禍の状況を見定めながら積極的な対外活動を進めて行きます。板倉鼎を巡る画家たちの作品展、セミナー開催等の実施や後援を予定しています。

よろしくお願い申し上げます。

代表理事・会長 水谷嘉弘

先頭に戻る