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【近代日本洋画こぼれ話】川島理一郎 painter & traveler、1920年代半ばの海外スケッチ

川島理一郎は、1886・明治19年栃木県(現)足利市の生糸商家に生まれた。事業に失敗して渡米した父を追い1905年、19才の時海を渡る。ワシントンのコーコラン美術学校、ニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザインを卒業して1911年渡欧。日本人画学生が学ぶ定番だったパリのアカデミー・ジュリアン、アカデミー・コラロッシに入る。1913年、東京から来た同じ歳の藤田嗣治と親交し共同生活する。同年日本人として初めてサロン・ドートンヌに【巴里風景】他1点が入選した。第1次世界大戦勃発時も欧州に留まり、翌1915年アメリカへ。1919・大正8年、14年ぶりに帰国するが3か月後には再びパリに行く。1920年代から1931年までは欧州、1927年から1939年までは中国本土、朝鮮、台湾、1941~1943年にかけて東南アジアを歴訪して制作に励んだ。この間、本邦でも描き続けた。

戦後は文部省の依頼でパリにフランス画壇の現況視察に赴いた他、日展の審査員、役員を務める。日本芸術院会員でもあった。1971年85歳で長寿を全うした。

パリを訪れること生涯通算で10度、滞在期間も長く我が国近代洋画史における代表的な国際派の画家である。painter & travelerと称したい。

手許にpainter & traveler川島理一郎の鉛筆画、パステル画の風景デッサン(スケッチ)が4点ある。川島の画業ピークの一つである1920年代半ばの作である。

① 1924年作【上海】鉛筆画 24㎝✕33㎝

(参考)1930年代~40年代前半【瀬戸内海・卜部造船所】15㎝✕20㎝

② 1924~25年作【ヴェニス】 鉛筆画 25㎝✕32㎝

③ 1927年作【ニース】パステル画 19㎝✕22㎝

④ 1924~25年作【(仮題)イタリアの寺院】パステル画32㎝✕47㎝

 

①【上海】

川島理一郎が上海を訪れたのは複数回ある。著書「美術の都パリ」1952美術出版社、には、戦争前まではヨーロッパへは海路が一般的であり(彼は2回辿っている)日本の船はほぼ寄港した、とある(ロシア鉄道を使う陸路もあり彼は3回経験している)。本作は関東大震災後、大林組社長の勧めで中国大陸のみ、上海、蘇州、南京を1か月間巡った1924・大正13年の制作と比定したが、彼にとって1930年代まで何度も目にした光景でありその頃の作かもしれない。

参考【瀬戸内海・卜部造船所(卜部港)】瀬戸内海を航行する船上から(現)尾道市因島にあった卜部造船所(卜部港)をスケッチしたと思われる。1930年代から40年代前半にかけての作か。

(1924年作)(1930年代~40年代前半)

②【ヴェニス】

1924年中国大陸から戻り38歳となった川島は、同年秋、東京大森にアトリエを新築し新婚の妻エイと渡欧する。25年6月に帰国するがこの間の滞欧作は傑作揃いである。パリ、ローマ、ヴェニス、ナポリの風景画が多い。[・・・一段と自分の信ずるところを決定的にやって見た・・・パリとイタリイ風景とを漸くにして自分の作としての発表が出来たかに思へた・・・これらの作品は一般の人達にも認められたやうだった(「川島理一郎画集」序文1933アトリエ社、のち「緑の時代」に改題)]心身共に充実していた時期であり、帰国後の7月には国画創作協会に新設された西洋画部門(後の国画会)に梅原龍三郎と共に同人に招請された。年譜には、この滞欧中にデッサン含め約100点を制作する、とある。

(1924~25年作)

③【ニース】

1927年2月、マチスをニースのアトリエに訪ねた折りの作と思われる。川島がマチスと知り合ったのは1913年だが、このニース訪問の時から親しくなったようだ。[マチスは人と話しながらでも、或は煙草を喫ひながらでも、決して鉛筆を手から離さない・・・私の持っていたスケッチブックを見つけられ・・・一々親切に批評して呉れて・・・(「旅人の眼」1936龍星閣)]マチスからデッサンの重要性、常にデッサンし続ける事を学んだという。同年(昭和2年)4~5月に東京で開催された第2回国画会展にパリから【ニースのお祭り】他パステル画3点を出品しており、本作も同時期に描かれたと思われる。1951・昭和26年、パリにマチスを再訪して帰国後その模写を展覧会に出品している。

(1927年作)

川島理一郎がスケッチ、デッサンを重要視し、師マチスの教えによく従って手を動かしていたことは、デッサン集を出版しているだけでなく(「自選デツサン集」1947建設社)、数多い著書のほとんどすべてにデッサンが掲載されていることからもうかがえる。川島の作品はリズム感を感じさせるものが多い。余計ながら、運動神経もよかったのではないかと想像する。基本的には正統的な写実に属するが、フォーヴ的筆致を獲得してリズミカルな線、快いデフォルメが見られる。

④【(仮題)イタリアの寺院】

川島理一郎はデッサン展(展示)の多い画家だが、同様にパステル展(展示)も多いことが気になっていた。ざっと年譜を見ても自身が制作に確信を持った1925年7月の(滞欧)新作画展では全87点中パステル画が13点ある。翌々27年の国画制作協会展にはパリからの出品4点全てがパステル画だった。戦後も1951年フランス視察からの帰国展展示は現地での模写66点がパステルと鉛筆、54年開催の51年パリスケッチ出品はパステル20点、といった按配である。川島にとってパステルは重要な画材といえるのだ。

彼が「美術手帖」1948・昭和23年11月号に寄稿した文章を(要約して)引用する。

[自分のパステル画は色で描いたデッサンである…デッサンにつける色彩は水彩絵具、時に油絵具を用いるが…かなり以前からこのやり方に不満…デッサンと色彩は離れたものではない…(パステルは)デッサンを描きつつ色も出せる…印象を即座にまとめる美点…自然を凝視して表現に強い情熱を盛り込む…自分の骨肉を分けた作品そのものである…(パステル画について)]戦後の文であり戦前のパステル制作と合致しない点もあるかと思うが、明快な色彩を自由に手早く駆使する描き方は終生を通して川島作品の本領たる所であり、彼がこれを好むのも故あることなのだ。

 (1924~25年作)

所蔵するパステル画の題材は、パラーディオ様式と思われる建物だが同定出来ず制作年代も判定が難しい。色調、描法他から記載の如く推定した。

川島は生涯2度にわたってその作品群を大量に失っている。1923年の関東大震災と1930年末のインド洋での欧州からの貨物船沈没である。そのため、初期の滞米作品、滞欧作品(個展のため資生堂に約200点保管していた)と、1930年5~11月の滞欧作品を見ることができない。特に後者は次の画業ピークを迎える1933年から1936年にかけての日光、承徳(旧満洲・熱河)、東京での重厚味ある作品群に繋がるだけに残念である。

「緑の時代」には1934・昭和9年の熱河訪問を書いた「承徳の景観」の章があり【熱河大佛殿】と題されたスケッチが掲載されている。同じ構図で額裏に【大佛寺全景】と記された油彩画(出来はスケッチの方が良さそうだ)があるので下記に並べて挙げる。

(1934年作)挿画画像

    川島理一郎【大佛寺全景】1934(SM)

 

文責:水谷嘉弘

【news】「あーと・わの会」ホームページのコラム欄に執筆を始めました

美術愛好家団体「あーと・わの会」(会員約70名、私設美術館19館)が公開しているホームページのコラム欄に執筆することになりました。タイトルは「近代日本洋画こぼれ話」。本ホームページに随時upしている【column】の再録、加筆が中心ですが、わの会ホームページは閲覧(クリック)数が多く、特に「作家略歴」(約5000名を紹介)と「コラム」は人気が高いようです。折りに触れ板倉鼎、須美子に言及し顕彰活動の一助にしたいと考えています。

https://www.wa-nokai.org/

文責:水谷嘉弘

【topics】板倉鼎の新情報到来

千葉県館山市を中心に南房総地域の美術振興活動をしている「安房美術会」の溝江晃氏から、板倉鼎に関する新たな情報を頂戴したので紹介する。同会は昨2021年、発足100周年を迎え記念事業の一環として記念誌発行準備を進めており実行委員長を務める同氏と情報交換した際、板倉鼎が1924・大正13年7月、館山にあったレストラン「鏡軒」で行われた第1回安房美術会展に出品していた事実を教示いただいた。

「安房美術会」は、美術館所蔵品図録やミュージアムショップ販売用絵葉書を制作する老舗「京都便利堂」創業者で社会風刺漫画雑誌「東京パック」を発行した中村弥二郎(有楽)が初代会長となり、南房総地域の観光振興、関東大震災復興を目的として1921 年に発足した文化団体。地元の画家、歌人、俳人、文人らが参加した。当時、鋸南町保田(現、安房郡)に住み始めたばかりの、物理学者にして歌人の石原純、愛人関係にあったアララギ派歌人の原阿佐緒が設立時メンバー(約20人)の中にいた。

ここから、板倉鼎と繋がってくる。鼎は東京美術学校在学中の1922年頃写生に出かけた鋸南町保田で石原、原と出会い、美校を卒業した直後の1924年6月から7月初めまで約1ヶ月石原、原の住居「靉日荘」に滞在していた事が分かっている。

しかし、当地での活動については鼎自身の書簡や年譜にもほとんど記述がない。今般、溝江氏からの連絡で、鼎が石原と知り合った1922年に「安房美術会」に入会、1924年7月の第1回展に作品を出品していることが判明したのである。同月にかけて1ヶ月間も滞在していた背景もこれで合点がいく。残念ながら出品作の作品名、出品数は不明だが、鼎が当地で描いた絵は何点か残っているので展覧会図録(2015年、松戸市教育委員会刊)から画像を紹介する。冒頭に掲載した作品名は【石原先生保田の家】1924年作、下記は【(仮題)島影】1924年作、【房総保田より大島遠謀】1925年作。第1回展出品作だった可能性もある。第1回展出品者は16人、会場となったレストラン「鏡軒」は震災で倒壊したためバラックの葭簀張りだったそうだ。翌1925年、石原純が同会第2代会長に就く。

   

鼎は、1925年11月、与謝野寛(鉄幹)、晶子の媒酌で昇須美子と挙式する。須美子は文化学院で晶子に学び、原阿佐緒も晶子の弟子。原が与謝野晶子経由で須美子を知り、保田で交流が始まった鼎と引き合わせた、とも考えられる。1926年2月、新婚の鼎、須美子夫妻はハワイ経由パリに向かう。しかし、鼎は1929・昭和4年パリで客死、須美子も帰国後の1934年に実家のある鎌倉で病気のため亡くなった。保田への再訪はかなわなかったが、鼎にとってその地での生活は、美校卒業後留学までの短い2年間の中でも自由で希望に満ちた一時だったに違いない。

(文責:水谷嘉弘)

【近代日本洋画こぼれ話】藤田嗣治 離日前、最後の同窓会

藤田嗣治の署名もある扇面色紙がある。東京美術学校西洋画科出身者7名の[交を温む]と題した寄書きである。扇面上部に[昭和24年2月5日夜]とあり資料性も有るかもしれないと気付いた。藤田は翌3月10日に羽田からアメリカヘ旅立っているからである。そのままフランスに移りやがて帰化してその地で亡くなった。日本における最後の同窓会だったのではなかろうか。出席者の顔ぶれは藤田と美校同期(明治43年3月卒業)の長谷川昇、田中良、近藤浩一路、明治44年卒業の富田温一郎、大先輩和田英作(明治30年卒業)、北蓮蔵(明治31年卒業)である。

     

藤田嗣治を巡る当時の状況を鑑みると、彼と気持ちの繋がっていた、彼が信頼を置いていた面々が密やかに送別の場を設けたのではないかと思う。公けになった記録には残っていないかもしれない。戦後の藤田嗣治に対する世間の目は厳しいものだった。嗣治の又甥、藤田嗣隆氏の「レオナルド藤田嗣治覚書」には、平成18年の回顧展を訪れた老人が語ったというエピソードが紹介されている。「江古田の藤田家の近所に住んでいた少年時代、野球遊びのボールが庭に飛び込んだので取らせて貰いに行った話を親にしたら、あんな戦犯の家なんかに行くんじゃない、とえらく叱られました」。

藤田の評伝や展覧会図録には[藤田は出国前の数ヶ月、世間から身を隠した。詮索好きな記者たちや彼を誹謗する者によって、脱出計画が頓挫させられるのを恐れたのである][ジャーナリストとの接触を嫌った藤田は夫人と二人、九段の外国人向けのホテルに身を隠した]といった記述があった。当夜、惜別の辞で藤田はもう日本へは帰ってこない、との覚悟を述べたのだろうか? 翌月、見送りの岡田謙三夫妻らを前に羽田で語ったという「絵描きは絵だけ描いてください。仲間げんかをしないで下さい。日本画壇は早く世界的水準になって下さい」は、よく知られた言葉である。

      

1949・昭和24年3月、ニューヨークに到着した藤田は戦後の代表作【At the Café :(日本語表記)カフェ】を制作し11月マシアス・コモール画廊の個展で発表する。この名作には複数のversionがあることが知られているが興味深いエピソードを藤田嗣隆氏から伺った。

ニューヨークで描いて発表した1st versionの背景にあるカフェの看板は[LA PETITE MADELEINE]と書かれている。これは藤田4番目の夫人で日本でも一緒に住んだマドレーヌを追憶していると思われる。嗣隆氏によればマドレーヌは藤田にとって何人もいた好みのモデルの中でも最良の女性だったようだ。彼女が昭和11年6月、東京戸塚の藤田のアトリエで急逝した後に結婚した5番目の妻が君代氏である。君代氏は画中の[LA PETITE MADELEINE]に嫉妬したらしい。藤田はニューヨークでの発表から14年経った1963年までに2nd versionを完成させる。この作品のカフェの看板は[LA PETITE CLAIRE]となっている。君代氏の洗礼名Marie Claire Angeに因んでいるのだ。(この話はその後刊行された前出の同氏の著書にも書かれている。また本作の別versionは当該2点の他にも油彩2点、デッサン3点が残されている)

それを聞いて早速、本邦で公開された【カフェ】or【カフェにて】について調べてみると面白いことが分かった。2006年3月東京国立近代美術館で開催された「生誕120年藤田嗣治展―パリを魅了した異邦人―」には後者の1963年頃完成の[LA PETITE CLAIRE]version(個人蔵)【Café:(日本語表記)カフェにて】が出品されている。同展の図録には「ことに多大なるご厚意を賜りました藤田君代夫人には本展主催者一同心から感謝を申し上げます」の表記があった。一方、12年後の2018年7月東京都美術館「没後50年藤田嗣治展」では1949年の[LA PETITE MADELEINE]version(パリ、ポンピドゥーセンター蔵)【At the Café: (日本語表記)カフェ】が展示されている。10年余の時間を挟んで両作を観るに際して前もってモデルの表情の微妙な違いや指、ペンの描き方の変化を確認していたが、背景の看板まで気が回らなかった。また、原作表記と日本語表記にいりくりがあるように思うのだがこの点の事情は不明だ。
(2点の画像を展覧会図録から紹介する)

   
【At the Café :(日本語表記)カフェ】【Café:(日本語表記)カフェにて】

後年の作に比し、当初の【カフェ】は藤田の創作意図やその後の寄贈、手製の額縁に至るまで研究者から様々な見解が示されており藤田作品群でも重要な位置付けにある。ニューヨークに居ながらパリの、しかも1次大戦前を彷彿させる店内や風景、右手後方には後年作には居ない松葉杖の点景人物が描かれている。1950年2月パリに渡った藤田は翌51年、本作、サロンドートンヌ入選作【私の部屋】(1921年作)等計4点をフランス国立近代美術館に寄贈した。

蛇足ながら前々からこの作品に惹かれていた私は2006年展覧会時、ミュージアムショップで【カフェにて】のロイヤルコペンハーゲン製陶板画が限定販売されていたのに気付いてすぐに申し込んだ。陶板の質感が藤田の[乳白色の肌]にマッチしていると感じたのである。人気があって追加で製造するとの事だったがしばらく待たされて届いたときは嬉しかったのを覚えている。

  【カフェにて】ロイヤルコペンハーゲン製陶板画

寄書き扇面色紙は綺麗に表装され専用のタトウに収められていた。席上複数枚揮毫され各氏が持ち帰ったうちの一点かと思われる。前出の藤田嗣隆氏は嗣治の兄継雄の孫にあたる。嗣治の面影を感じさせる方で「フジタとイタクラ」展(2019年聖徳大学博物館)に来場いただき、板倉鼎の姪の方とお引き合わせした。お二人の大叔父(伯父)は90年前パリで会っていたのである。

     

最後に。1949年3月、藤田嗣治は日本から追われる思いで母国を離れ、1968年1月、81歳で亡くなるまで二度とその土を踏まなかった。しかし、帰化し洗礼を受けても日本を思い続けていたとの多くの証言がある。ある美術評論家は、[パリにいて日本を描いた藤田嗣治、パリに行ってもパリを寄せ付けなかった小出楢重、パリにいてパリに徹した佐伯祐三]と表現している。

今日、エコール・ド・パリ、更に近代西洋絵画史を語る際、日本人画家として名が出るのはレオナール・フジタである。東京美術学校で学んだ手法を捨て日本国籍を返上した彼の作品がパリ、サントノレ通りにある駐フランス日本国大使公邸に飾られていた。遭遇した時、私は、天国の藤田は喜んでいるのか、冷やかに見ているのか、測りがたく感じたものであった。

  駐フランス日本国大使公邸(藤田嗣治と東山魁夷)

(文責:水谷嘉弘)

【column】 目次(10)~ (1)

10)2021年11月 安井曾太郎こぼれ話 作者は誰だ?

9) 2021年10月  伊原宇三郎こぼれ話 その2 1912(明治45・大正1)年 ~18才時~ の作品

8 )2021年9月   伊原宇三郎こぼれ話 額裏情報から制作年を割り出す

7) 2021年9月   岸田劉生こぼれ話 劉生戯画「京の夢 大酒の夢」

6) 2021年8月   小出楢重こぼれ話 素描―習作―完成作

5 )2021年7月   田辺至こぼれ話 名刺と挿画原画

4 )2021年6月   清水登之こぼれ話 美術館所蔵品とかすっていた

3 )2021年6月   清水多嘉示こぼれ話 その2 渡仏以降の生写真

2) 2021年5月   清水多嘉示こぼれ話 その1 渡仏前の生写真

1) 2021年5月   島村洋二郎こぼれ話 一枚の絵葉書

【topics】日本美術家連盟が「板倉鼎」を取り上げます

一般社団法人「日本美術家連盟」常任理事の入江観先生から、同連盟の部会「明治以降美術の業績調査委員会(笠井誠一委員長)」で板倉鼎を取り上げてくださる旨の連絡を頂戴しました(本ホームページ、2020年7月2日付け【topics】ご参照)。

その後、野田哲也先生、中林忠良先生(日本美術家連盟理事長)にお目にかかった際、この件をご報告し改めて板倉鼎についてご説明しました。

板倉鼎顕彰活動にとって、現代日本洋画、版画を代表する先生方にお力添えいただけることは心強い限りです。

関連行事には当法人からも参画する予定です。

(文責 水谷嘉弘)

 

【近代日本洋画こぼれ話】安井曾太郎 作者は誰だ?

或る画廊に入った途端、12号の油彩画が目に飛び込んで来た。林間水辺の群像図である。入荷間もないらしく店主の側の壁にキャンバスのまま立て掛けてあった。誰の作品か問うと「未完成、何かの習作のようで署名はない。キャンバス裏面に日動画廊のシールが貼られていて安井と書いてあるが・・・」との返事。確かに、塗り残しはあるし細部に手が入っていない。ただ自分が知る限りでは安井曾太郎の作とはとても思えなかった。しかし、群像5人の構図がよく、人物の描線に味があって一目で気に入ってしまい即頂くことにした。以下、作者について推理する。

本作を見てまず思い立つのが、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(1824年〜1898年)である。黒田清輝(1866年〜1924年)がフランス留学中の1893・明治26年3月にアトリエを訪ねて以来、近代日本洋画へ大きな影響を与えた。藤島武二、青木繁はその構想画に装飾性を学び、児島虎次郎はその作品三点を大原美術館に収蔵する。里見勝蔵はシャヴァンヌの素描を愛蔵していた。少し後の世代、板倉鼎は1927年3月の松戸の実家宛の手紙に「パンテオンと云ふお寺へシャヴァンヌという人の壁画を見にまゐりました」と記している。シャヴァンヌは壁画を得意としたが、本作も画面上部が半円で区切られており、底辺部真ん中の果物籠は壁画の題名パネルを嵌め込む部分になるのかもしれない。

次に連想したのが斉藤与里(1885・明治18年〜1959・昭和34年)だ。与里は現在の埼玉県加須市生まれ。20才の時(1905・明治38年)画家を目指して京都の聖護院洋画研究所・関西美術院に入り、浅井忠、鹿子木孟郎に学ぶ。同門に3歳年下の安井曾太郎、梅原龍三郎がいた。1906年鹿子木についてパリへ渡りジャン・ポール・ローランスのアカデミー・ジュリアンに入学する。本作に通じる一連の作品を並べてみた。

斉藤与里作品 (左から)

【木蔭】1912(明治45・大正1)年作・第1回フュウザン会展出品 【第2回フュウザン会展欄間装飾画】1913年作

【朝】1915年作・第9回文展初入選 【収穫】1916年作・第10回文展特選

本作の作者は与里作品を観たに違いない。1910年代後半から20年代半ばにかけて日本国内での制作だと思う。フランス留学経験者で既に当地でシャヴァンヌを観ていたとも思う。画面はフラットで装飾性を帯び、構想画を意識しているからだ。当時全盛だった主観主義的なポスト印象派やフォーヴを指向する若手ではあるまい。彼らはまだフランスに旅立っていない。本作は習作とはいえ完成度が高く筆致がこなれている。すっきりとしたモデリング、線描が巧みで姿態に動きもある。

こういった見立てを安井曾太郎(1888・明治21年〜1955・昭和30年)の経歴と照らし合わせてみた。1904年、16才で聖護院洋画研究所入所。1907年、渡仏する。斉藤与里がマルセイユまで出迎える。安井もアカデミー・ジュリアンに入学。与里は翌年帰国するが、安井は同校で勉強を続け、日本人で初めて校内コンクールで優勝する。それまでの日本人最優秀は与里の第12位だった。1914・大正3年、第一次世界大戦が勃発し帰国する。翌年、第2回二科展に滞欧作44点を特別出品し注目されたが、この後10年以上のスランプに陥る。二科展への出品は続けるが、制作上の試行を繰り返し話題になることも少なかったようだ。西欧と本邦との風土の違いから表現に苦悩したといわれている。この間、1919・大正8年9月に斉藤与里、梅原龍三郎と共に兜屋画廊主催洋画展の審査員を務めている。1929・昭和4 年に発表した【坐像】と翌年の【婦人像】が安井様式の誕生を告げ以降大家への道を歩む。京都国立近代美術館館長を務めた富山秀男氏は「生誕90年記念安井曾太郎展」図録(1978年ブリヂストン美術館)にこう書いている。

(帰国後は)作画上の模索と低迷を経験しなければならなかった。(中略)僅かな期間に作風が幾転変したのもその間の模索と苦闘の激しさを物語っている。一時はドランやボナールなどの作風に惹かれたような時期もあった。すなわち形体や色彩の関係を単純化してみたり、また逆に紫色などを混ぜながら、暖かく柔らかい色調で全体を緻密にまとめ上げるような試みも行っているのである。

 

安井曾太郎作品(図録画像)

左上【水浴】1914年作 左下【夫人の像】1918年作 右上【黒き髪の女】1924年作  右下【樹蔭】1919年作

本作が描かれたと思われる時期は帰国後の安井が模索していた頃に重なる。1919年作の【樹蔭】は林間の裸婦群像図でテーマは類似するが印象がまるで違う。きっちり描き込んであり重厚感溢れる。人体表現も肉づきがよい。様々に試作し、後年のしなやかで流麗な描線を獲得する過程で描いた、と理解しないと本作には繋がらない。

 

キャンバス裏面に貼られた日動画廊のシールは昭和戦前期のものらしい。日動画廊に当該部分の画像を送って訊ねてみた。親切に対応していただいた。その返事はこうだった。「戦前のシールと思われます。ただ、当社ではシールをキャンパス地に直接貼ることはしません。木枠か額裏に貼ります。副社長に確認しましたが、シールの字体は先代では無いとのことでした。」日動画廊の創業は1928・昭和3年、本作制作(と思われる)時期とは時間的な乖離がある。シールは表面が素である上部端に貼られてはいるが・・・

現役の画家にこの絵を見せて感想を聞いてみた。「とても上手だ、左端の人物が持つ平籠に入れられた赤い果物の画き方が絶妙。」と言う。

状況証拠的には、画学校、パリ、交友、等などシャヴァンヌ―斉藤与里―安井曾太郎を結ぶ線は太い。本作の作者はその周辺にいた人物と考えられないだろうか。日動画廊シールの「安井」も、故なしには記されないと思うのである。佳作であることは確信するが、作者については推理を重ねるばかりで埒が明かない。本稿を読まれた方の知見、ご意見を教示いただきたく、よろしくお願い申し上げる次第です。

(文責:水谷嘉弘)

 

 

 

 

第4期運営体制のお知らせ

当社団法人は9月30日に第3期事業年度を終え、先日社員総会を開催いたしました。今期も前期と同様の役員陣で運営にあたります。

今期は、前期に続き美術関係者との面談、ギャラリー訪問、刊行物への寄稿等を行うとともに、コロナ禍の状況を見定めながら積極的な対外活動を進めて行きます。板倉鼎を巡る画家たちの作品展、セミナー開催等の実施や後援を予定しています。

よろしくお願い申し上げます。

代表理事・会長 水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】伊原宇三郎 その2 1912(明治45・大正1)年 ―18才時― の作品

前回取り上げた伊原宇三郎は官展アカデミズムにおけるbignameの一人である(1894・明治27年〜1976・昭和51年)。画家としての全盛期は戦争記録画制作に費され、平時であれば描かれたであろう作品群を観る事が出来ないのはつくづく残念に思う。

伊原は東京美術学校(以下、美校)西洋画科の藤島武二教室に学び首席で卒業した(1921・大正10年)。才にも恵まれていたのだろう。若い頃から絵は上手かったようだ。郷里徳島での小学生時代に既に日本画の模写をし、大阪に転校した1911・明治44年には関西中等学校美術展覧会で一等賞を取っている。17才の時である。先年、1912年の年記が入った風景画が市場に出た。改元のあった同年は近代日本洋画史を画期する年でもあり、後に大家となる伊原18才と当時の中央画壇との作品の距離感を知りたくて購入した。

【稲干し】1912(4号)の署名部分

1912年は、明治画壇を牽引した白馬会の後継ともいえる光風会創立の年だが、美校卒業制作で萬鐵五郎が【裸体美人】を提出し10月には銀座読売新聞社社屋で斎藤与里、岸田劉生らの第一回ヒュウザン会展(のちフュウザン会)が開かれている。白馬会・外光派に物足りなさを感じた若手画家たちの新たな動きが顕在化した年でもあった。二年後には文展の審査姿勢に反旗した中堅画家たちが二科会を設立している。しかし、大阪にいた中学生伊原宇三郎の絵はそういった動向とは無縁だった。当然といえよう。【稲干し】と題する伊原作は、農婦二人が刈り終わった田地に腰をかがめて手を差し伸ばしている。ミレーの【落穂拾い】を彷彿させるものだ。中景の男性の大きさと全体の遠近感の不釣り合い、地面の表現などに稚拙な点もある。しかし明るめの中間色で色調を統一し、その濃淡で画面分割して安定感ある構図を作る巧みさ、穏やかで拡がりのある田園風情は18才の作として秀逸だ。若きバルビゾン派といえよう。伊原がミレー作を識っていたのかは分からない。バルビゾン派の紹介は既に始まっており1903・明治36 年には【ミレー画譜】【ミレ名画全集第壹輯】等が出版されていた。後年彼は、中等学校展覧会一等賞が人生で最も嬉しかった出来事でそれで画家になる決意を固めたと書いている。賞品にもらった油絵道具一式で【稲干し】を描いたに違いない。

伊原のキャリアを振り返ってみる。黒田清輝が東京美術学校西洋画科開設と同時に教授に就任しコランの外光派を伝えたのは1896・明治29年。黒田やそれに続くフランス留学→美校教官組はミレー、コローに強い共感を示しており、印象派の強い表現ではなくその傍系に位置する穏健なコランの外光派に寄っていく。1916・大正5年に美校に入学した伊原もその流れに属しているといえよう。彼の徳島中学時代の美術教師は丹羽林平、安藤義茂である。丹羽は美校西洋画科第2回卒業生(1898・明治31年)、安藤は美校図画師範科第4回卒業生(1911・明治44年)でありその指導はバルビゾン派→外光派の流れを汲むものだったと思われる。伊原本人は大阪での美術教師の名前を挙げていないが、美校図画師範科第5回卒業生(1912年)塩月桃甫と写生に出掛けていたようだ(塩月桃甫は、太宰治の友人で小説家の塩月赳の父)。京都にはフォンタネージ(バルビゾン派)の高弟、浅井忠が始めた聖護院洋画研究所・関西美術院もあリ、近くにはそこで学んだ画家達も多くいたであろう。

2021年春、南薫造(1883・明治16年〜1950・昭和25年)の回顧展があった。出世作とされる1912 年作【六月の日】が出展されていた。奇しくも伊原の【稲干し】と同じ年、同じ題材である。収穫作業後の農夫を描いているが印象派そのものと言って良い。2才年上の美校先輩、児島虎次郎が同時期留学中のベルギーで描いた油彩画にも似た筆触が見出せる。三宅克己らの水彩から学び始めまずイギリスに留学した南はフランスに渡って印象派に馴染み、帰国してからは印象派、そして晩年にかけてフォーヴ的なスタイルに変わって行く。一方、11才年下の伊原は学生時代にバルビゾン派・外光派から入り、フランスに留学してポスト印象派以降を知り古典古代を見聞したあと、ルーブル美術館でのアングル模写を経由してピカソやドランの新古典主義に収束する。二人の歩みの違いにも近代日本洋画史の、世代毎に性急に西欧絵画をcatchupして行く流れが見えて来るのである。

伊原の生誕100年記念回顧展図録(1994年)に掲載されている最も若い時期の作品は美校入学前後の1915-16・大正4-5年―21-22才と、1916年―22才、のもの。前者は短めの筆触を残す明るい印象派的な屋外椅子テーブルの写生画、後者は波打つ粗い筆触線と強めの色彩対比が目立つフォーヴ風の人物画である。しかし表現主義的な描写は体質に合わなかったのか、1920年以降は落ち着いた色彩、質感を出す筆遣い、正統的な写実で官展アカデミズムに直結していく作品を多く描いている。今回取り上げた宇三郎18才の作 ―面で捉える上手さを既に示している― の延長線上で描き続けていると見なすことが出来るのだ。

本稿は、1984年徳島県郷土文化会館、1994年目黒区美術館、徳島県立近代美術館で開催された伊原宇三郎展図録を参考にさせていただいた。

(文責:水谷嘉弘)

【近代日本洋画こぼれ話】伊原宇三郎 額裏情報から制作年を割り出す

今回は(も?)こだわり話である。focusするのは額の裏面、そこから表面の作品や作者に関する情報を得る試みだ。田辺至こぼれ話の際、額裏に貼られた名刺から制作年を引き出した。今回の対象者は、伊原宇三郎(1894・明治27年〜1976・昭和51年)である。

 

額縁裏の木枠に、【布のエチュード】と記された作品がある。粗い青みがかった白地の布が木机の天板上に大雑把に広げられたままの状態を描いている。エチュードとある通り、本作の一部分に描き込むための習作だろう。伊原の本領ともいえる描線を引かず筆による面取りだけで形と質感を捉えている。1925・大正14年3月、フランスに渡った伊原は風景写生や美術館巡りの後、イタリアに出向いて古典古代、ルネサンスに親しみ、ルーブル美術館で模写しピカソの新古典主義に回帰していく。1927年【毛皮の女】でサロン・ドートンヌに初入選し、翌年も【横臥裸婦】【赤いソーファの裸婦(白布を纏える)】を出品した。帰国する1929年を挟む前後2~3年、襞の入った白布を身に纏った存在感ある―古典的な香りがする― 裸婦像や群像を多く制作した。

 【横臥裸婦】1928(図録画像)

本作もその期間に描かれた習作と見立てたのだが、ウラを取りたく裏面をあたってみた。額裏木枠の右下に青色の切手のようなシールが貼ってあった。図案化された鳩を囲んで四隅の漢字が[**週間]とある。上の*の部分は破れていてわからないが、下の*はつくりの部分から「情」だと判断し、いくつか当て嵌まりそうな単語を入れて検索してみた。「愛情週間」、「友情週間」・・・。「同情週間」がヒットした。朝日新聞が主催した助け合い募金運動の呼称で1924・大正13年に始まり、1941・昭和 16年まで続いた。1930年代が最盛期と思われ東京朝日新聞社会事業団では1937・昭和12年に事業報告書まで出している。この同情週間運動と本作との直接の関係はわからないが、作品の制作年代は伊原帰国後の1930年代初頭と見てほぼ間違いあるまい。彼は、30年代半ばには洋画界の運営、後半は従軍画家としての活動に追われ本作を習作とするような作品は登場しないのである。

 

  

もう一点、額裏に【熱河の喇嘛廟】と書かれた紙片が貼られていた作品もある。画題から、制作年は伊原の年譜に依って中国北部〜北支(奉天、熱河)に赴いた1938・昭和13年だと分かる。本作は豪奢なラマ寺を接写したためか、満蒙地域を描いた他作家の風景画によくある重厚な印象とは異なり明るさが目立つ作品になっている。興味が湧いたのは紙片に押された[伊原]と[宇三郎]の二つの印影である。昭和のはじめ、戦争の気配が漂う頃から洋画家の作品にも四角の漢字印が押されることが多くなった。この作品もその例に当てはまる。この印が押印された他の作品例を探ってみることにした。伊原は北支行の翌1939・昭和14年1月には菊池寛と共に中国中部〜中支(上海、南京)を訪れる。菊池寛執筆の【西住戦車長伝】(東京日日、大阪毎日新聞夕刊連載、同年3月〜8月)の取材のためだ。その時の素描(と思われる)画像に同じ[伊原]印が押されていた。更に、そこに署名されたイニシャル[宇]は、連載記事の単行本(東京日日新聞社刊、伊原装幀)表紙画にも記されていた。本作の額裏情報は前作と違いすんなり繋げていくことが出来た。

  

(左)【裸婦】1928~29年頃作 (右上)【圧倒】1939年作

本稿は、1994年目黒区美術館、徳島県立近代美術館開催の伊原宇三郎展図録を参考にさせていただいた。

(文責:水谷嘉弘)

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