column

【近代日本洋画こぼれ話】佐分真 滞欧風景画の秀作 イタリア・アッシジ

美校卒業、花の大正10年組の最若手田中繁吉と同じ歳に佐分真(1898・明治31年~1936・昭和11年)がいる。入学は同期だったが病気して卒業は1年あとの1922年、渡仏も1年遅れの1927・昭和2年2月だった。ムードンに1年半ほど住んだ後、パリ市内に移る。借りたモンパルナス近くのアトリエは田中繁吉が同期の中野和高(1896生)から引き継いだ所だった(ヴォジラール街)。隣に中村研一(1895生)がいた。中野は田辺至(1886生)のアトリエを引き継いだという。佐分と同年生まれに佐伯祐三、岡鹿之助、伊藤廉、福沢一郎、神原泰がいる。美校同期生は一木隩二郎、小泉清、三田康、鈴木誠らだ。大正期新興美術運動や昭和モダニズムを担う世代に差し掛かってきているのが分る。

佐分は、板倉鼎(1901生)が意識していた美校の2年先輩である。板倉夫妻の書簡集には、パリ近郊のムードンを訪れた際、そこにアトリエを構えて住み始めたばかりの佐分と小寺健吉(1887生)に駅近くで出くわし家に招かれたとの記述がある(1927年4月)。佐分の1回目の渡仏は11年先輩の小寺に同行したのである。同年夏には小寺、佐分が続けて鼎宅を訪れ鼎の絵を観て感想を述べている。11月、小寺、一木、一級上の片岡銀蔵と共に4人でイタリア旅行に出発する。この時の小寺の作品【南欧のある日】1928は第9回帝展で特選となり彼の代表作の一つとなった。

私が所蔵する佐分真の【アッシジ】(8号、冒頭画像)もこの旅行で制作されたものである。手前から段々状に層が積みあがっていくような描き方で一番奥が山の頂きからなる地平線。城塞や聖堂が丘陵の上に立っているため同じ風景を重層的に示すことで静謐さに加えて荘重な趣きを醸し出している。佐分が歴史あるキリスト教巡礼地の情景に感銘を受けたことが伝わってくる。

アッシジには2日間滞在したようだが、佐分は日記に「風景八号を一枚描くべく余りに沈鬱なる風景なり 静思すべきもの 淋しき人生そのものの感あり」と書き残している。この時の印象の強さは、佐分が2度目に渡仏した時、長谷川昇(1886生)と南仏ラ・ゴードという村を訪れた際(1932年10月)、小堀四郎(1902生)宛ての手紙に「ここの風景は実に素敵だ。全く伊太利だよ。一寸アッシジを思わせる。・・実に何とも云へぬ。僕たちの悦びを思ってくれ給へ・・」との記述があることからもうかがえる。渡仏前期のアッシジ(1927年)と、渡仏後期のラ・ゴード(1932年)の感激は同質のものだったのだろう。写生風景画は共に秀作である。

しかし描き方は違う。渡仏最初期の1927年作風景画【風景(ムードンからの眺望)】の粗さを感じさせるフォーヴ的な筆致から【アッシジ】を経て【ゴード風景(A)】に至る展開を見ていただきたい。

 

【風景(ムードンからの眺望)】(図録画像)【ゴード風景(A)】(図録画像)

この変化後の画風が人物画に現れた1930年代前半の滞欧作品が佐分の画業のピークである。渡仏した年の秋のイタリア行を経て、1929年9月オランダ行で観たレンブラントがその後の佐分の画業を決定したと言っても過言ではない。明暗でえがき分けた重厚で写実的な絵を描いた、と書けば定番の説明となるが、子息の佐分純一氏(のちに慶應義塾大学名誉教授)は「1930年以降の画面にはオランダ最高の巨匠の光と影が差しはじめているような気がする・・・風景の画面にも写実をこえた精神性が感じられる」としている。友人たちは画集で「ねっちりぬっちり仕事することを学んでいた(伊藤廉)」「四つに組んで正面からひた押しに押して行く(益田義信)」と解説する。益田が「ムダのないタッチで・・引き締める」と評したのは卓見である。佐分の人物画には滞ることをしない筆遣いが各所に見いだされる。それが重い色調にありがちな鈍重さを回避している。

 

【貧しきキャフェーの一隅】1930(図録画像) 【午後】1932(図録画像)

佐分はフランスに到着して日本人画家の多くが惹かれたようにまずフォーヴの影響を受ける。その後西欧各地を訪れ近世絵画を観てそれを学び、とり取り込んでいく。先輩の美校・官展系画家と同様の路を歩む。近世絵画の実見を経て、風景画から人物画、群像図へとモチーフが変遷していくのは、まさに伊原宇三郎(1894生)と同じではないか。人体の量感表現が似た作品も多い。ドランをリスペクトしその紹介本を執筆した伊原自身が、佐分の絵に「ドランの影響を示して居る」(画集解説)と評している。

しかし佐分真は、その後自宅アトリエで自死してしまう(1936・昭和11年4月23日、享年38歳)。遺書が残されていたが原因は謎である。子息純一氏は、「佐分真は、元来ユーモアに富み、茶目っ気のある人だった。最後の数年も表面的には陽気な表情をひけらかしていたそうであるが、それは道化のポーズであり、その実「寂寥や反省に苦しんだであろう(宮田重雄)」し、最後には自虐的な境地まで追い込まれた」と記している。

直ちに友人たち(前出の小寺、伊原、田口、伊藤、宮田、小堀、益田ら)がアトリエを整理して遺作展を催し(1936年9月)、油彩画作品47点、デッサン11点を選んで画集を刊行した(同年10月)。本稿で紹介した絵はほとんどが彼らが採択した画集の掲載作品だ。小寺健吉によればフランスから持ち帰った多くの作品が無署名のままキャンバスに巻かれてアトリエに放ってあったという。展示するために補強修復し、スタンプサインを作って押印したようだ。冒頭の【アッシジ】もそれに該当する作品である。

 

【画室】1933(図録画像)  【室内】1934(図録画像)

佐分真も本コラムで続けて取り上げている官展アカデミストの一人だった。美校卒業翌々年、第5回帝展(1924・大正13年)初入選【静物】。以降、第6、12、13、14、15回と渡欧中を除いて連続入選、うち第12回【貧しきキャフェーの一隅】、14回【画室】、15回【室内】は特選である。

典型的な官展キャリアを歩んでいたのだ。第15回(1934・昭和9年)は松田改組まえの最後の帝展であり、1935年には官展内部で改組対応を巡って諍いもあったようだ。佐分はそれに嫌気がさしたともいわれる。

生涯を通じて画風は変われども密度が高く力の籠った絵を描き続けた佐分だったが、帰国後の帝展出品作は寧ろ平明となり、絶筆となった1936年3月の伊豆写生旅行での作品は軽やかな絵に仕上がっていた。

 

【伊豆風景】1936(図録画像)  【伊豆の浜辺】1936(図録画像)

本稿は、「画集 佐分真」1936年春鳥会、「画家佐分真の軌跡展図録」1997年一宮市博物館、「佐分真展図録」2011年一宮市三岸節子記念美術館、から作品画像を含め多くを教示いただいた。

【ナポリの漁夫】1931(図録画像)

文責:水谷嘉弘

 

 

【topics】日本美術家連盟主催の「板倉鼎」座談会

去る7月下旬、銀座の美術家会館ビルで行なわれた日本美術家連盟主催、エコール・ド・パリの画家「板倉鼎」についての座談会に出席した。

「一般社団法人日本美術家連盟」は美術家の職能団体だが、各種の部会を持ちその一つに「明治以降美術の業績調査委員会」がある。この委員会に板倉鼎(1901・明治34年~1929・昭和4年)が採択された。座談会の出席者は連盟側から業績調査委員長(連盟理事)笠井誠一先生、連盟常任理事で副委員長の入江観先生。お二人共洋画界の重鎮だ。板倉サイドからは鼎の研究者、松戸市教育委員会学芸員田中典子氏と水谷である。

冒頭、笠井先生が板倉鼎を取り上げることについて「近年、近代日本洋画家の存在が忘れられる一方で連盟としてもこの流れを変えて行きたい。特にレアリスム(写実)絵画に焦点をあてたい」と述べられ、「会派に因われずレアリスム画家の正当な評価、見直しをしようと考えている。現代における写実主義の可能性を探っている前田寛治大賞も同様だ。1920年代は西欧と日本のアカデミズムをリンクした大事な時期、その時代にパリで前田、佐分真などと同じ空気を吸っている板倉鼎は大切な存在だ」と続けられた。司会は入江先生である。「松戸市が板倉鼎を顕彰する理由、鼎を取り巻く家庭環境、作品・資料類がどれだけ残っているか」との質問に、田中氏が「鼎は千葉一中から東京美術学校に進学、実家は松戸の医者(個人医院)で現在も縁故者が住んでいる。鼎の妹が兄の作品(約1600点)、兄夫妻の書簡、写真等資料類一切を散逸させることなく大事に保管してきた。松戸市教育委員会の悉皆調査を終えて松戸市に寄贈され、展覧会図録、書簡集(所収371通)刊行の運びとなった」と回答した。

以降、田中氏は板倉鼎のキャリアを辿って鼎、須美子夫妻の松戸の実家とのやり取りや生活、行動について示し、水谷は時代背景である1920年代の日仏社会経済状況、鼎の画風変遷や周辺の日本人画家の話をする等、画家板倉鼎を紹介する流れで進んだ。笠井先生の藝大恩師、伊藤廉(1898生まれ)、入江先生の春陽会における師、岡鹿之助(1898生)ともに鼎の同窓同年代で、特に岡鹿之助は鼎の最も親しい同級生だったこと、また両先生は1950年代から60年代にかけてフランス政府給費留学生としてパリで学んでいた経験をお持ちでそれらも絡めて語られた。

入江先生の「清水登之など米国経由でパリに渡った画家もいたが鼎がハワイ経由にしたわけは?」との問いに、田中氏が「鼎は自宅近くの教会に通った関係でその牧師の移住先ホノルルに立ち寄る事になった(1926)、資金稼ぎに行ったのではない。本人は歓迎に疲れ早くパリに行きたがった」と応じ、水谷が「入江先生お住まいの茅ヶ崎はホノルルと友好都市関係にあり鼎の絵の新発見に期待している。ハワイの日差しと空気が鼎を日本の大気から開放しパリでの画風に繋がる契機となったかもしれない」と付け加える。これを受けて笠井先生は「自分の留学行は南シナ海、インド洋をへて紅海を遡ったが、風土が順々と変わるのを目の当たりにしてカルチャーの違いを体験した、鼎とは経路が違うが同じ効果だとわかる」と返された。

鼎のパリ生活については板倉サイドから3つのポイントを挙げた。両先生が適宜感想を述べられる。

「フランスとの接触による西洋表現の受容と鼎の変化」 鼎がパリ入り半年後(1927)にアンドレ・ロートを多く引用する黒田重太郎「構図の研究」を読み、通学先を日本人留学生の定番だったアカデミー・コラロッシからアカデミー・ランソンのロジェ・ビシエールに変えた事に注目している。キューヴ系に寄って来た。ビシエールの指導内容は鼎が日仏両語でメモを残しているが、田中繁吉がビシエールから言われた言葉を紹介した。[絵は全体の構成が大事だ。背景とモチーフとの関係、床とモチーフの関係、そういう相互の色と形の関係が全体として調和していることが肝要である。その関係に破綻のないように制作せよ。]

「当時のフランス事情、日本人画家たちの交友、経済(家計)状況」 1920年代(大戦間時代)は米国ではジャズエイジ、狂乱の時代とも呼ばれ、パリもオリンピック(1924)、アール・デコ万博(1925)と華やかだった。美術界はエコール・ド・パリ全盛期、300乃至500人の日本人画家も藤田嗣治を中心に、前田がパリ豚児と呼んだ仲間たち他の交友も盛んだった。背景に日本円の過大評価がある。大戦前、金本位制での1us$=2円が大戦後もほぼ維持されていたのに対し、フランスフラン(F)は大幅に値下がりし大戦前の1円=2.6Fがおおよそ10F(1919)、15F(1926)、11F(1928)で推移した。1932年の大暴落まで円高を享受した。日本人画家の生活費は月2000F~3000F(円高ピーク時で130円~200円相当)、鼎は実家から毎月約200円仕送りがあった。留学資金の調達手段として画会を催した画家も多く「1口10号1枚100円」が相場で30口から100口程度集まったようだ。昭和初期の小学校教員の初任給は約70円である。両先生とも、板倉鼎たちの経済事情をご自身の経験と比べられて「戦後しばらく日本は外貨入手が困難で若い画学生が自費でフランス留学するなど考えられなかった。フランス政府の給費がなければ自分たちの留学も実現出来なかった」と異口同音に語られた。

「岡鹿之助と鼎の相互の影響、藤田嗣治の存在、藤田との関係」 しかし鼎の生活は地味で勉学の精進が目立つ。付き合いも少なく岡鹿之助はじめ美校同級生中心だった。入江先生に鼎美校在学中の第4回帝展入選作品(1922)やパリでの鼎作品の画像をお見せしたところ、鼎の絵の印象を「フォーヴの匂いがしない。岡の絵と同様詩情があるが、画質に違いがある。岡の点描に対し鼎の描き方は塗りだ」と指摘される。岡の【魚】1927のモチーフ、構図は、1928頃以降の鼎作品にもよく見られるが、田中氏は「鼎には須美子の影響や色の選択など別の要因があった」とした。水谷は、鼎は藤田とは距離を置いていたようだが岡を通して藤田から[物真似せず自分のスタイルを持つ]事を学んだのではないか、と続けた。笠井先生は、岡と鼎に共通する真面目に勉学に打ち込むストイックさ、藤田との気質の違いに言及され、ご自身の持つ1950年代のパリの印象を、第二次大戦の戦場跡の疲弊した感じ、戦勝国の面影はなく空気は陰鬱だった、美術界もフォートリエのような画家が出ていたと語られた。第一次大戦後のパリも華やかな一方で同じ様相があったのだろう。

入江先生は文学に造詣が深い。鼎夫妻の文学者との交流についても言及された。田中氏が「鼎は房総、保田に写生に出向いた際歌人の石原純、原阿佐緒と知り合い第一回安房美術会展(1924)に出品する。須美子の文化学院での教師が与謝野晶子。夫の寛(鉄幹)と鼎、須美子結婚(1925)の媒酌人となった。須美子の父はロシア文学者昇曙夢で湯浅芳子(翻訳家)、中条(宮本)百合子とも接点があった。百合子は次女と鼎を相次いで亡くした須美子を親身になって支えた。」と述べた。なお、鼎の急逝後(1929)、現地では鼎の代表作となった【休む赤衣の女】のサロン・デ・チュイルリー出品を推した斎藤豊作が、岡らを指揮して対応している。

〆にあたって「鼎の事は、以前松戸在住の画家が本委員会で言及して初めて知った。以来関心を持って図版などを見て来た。私は個人的に岡鹿之助先生や斎藤豊作未亡人にお世話になったことがあり、御存命中に鼎について伺う機会があったのにと残念な気がする」と入江先生が感慨深げに述べられた。

最後に、Q松戸市美術館の設立見込み?、A開館は未定、鼎・須美子作品の展示機会は設定していく。Q今後の展覧会予定?、A今年度松戸市博、来年度千葉市美。等のQ&Aでお開きとなった。コロナ禍の現況を勘案して非公開となったが多岐に渡った約2時間の座談の内容は資料としてFileされ連盟機関紙「連盟ニュース」10月号に掲載される予定である。

前列左から笠井誠一先生、入江観先生。

後列左から、田中典子氏、水谷、鳥山玲氏(業績調査委員会委員、日本画家)

笠井先生から「板倉鼎は夭折したこともあって充分認知されておらず、顕彰活動が遅れている。世に知らしめるのが連盟としても大きな役割りだ」(水谷註:20才代に逝去して美術史上に名が残っている者は少ない。青木繁28才、村山槐多22才、関根正二20才。板倉鼎は28才)と心強いコメントを頂戴したことも合わせて報告する。

文責:水谷嘉弘

【news】日本美術家連盟で「板倉鼎」座談会が開催されました

昨日、銀座の美術家会館で一般社団法人「日本美術家連盟」の部会「明治以降美術の業績調査委員会」主催の「板倉鼎」座談会が開かれました。出席者は、連盟側から笠井誠一先生(明治以降美術の業績調査委員会委員長)、入江観先生(同委員会副委員長・連盟常任理事)、板倉サイドから松戸市教育委員会学芸員田中典子氏、水谷の計4人です。

冒頭、笠井先生が「近年、近代日本洋画家の存在が忘れられる一方で連盟としてもこの流れを変えて行きたい。特にレアリズム(写実)画家の業績に焦点をあてたい」と述べられ、入江先生の司会で始まりました。田中氏は板倉鼎のキャリアを辿って適宜鼎、須美子の松戸の実家とのやり取りや画風変遷について説明し、水谷は時代背景である1920年代の日仏社会経済状況、鼎周辺の日本人画家の話をしました。笠井先生の藝大恩師、伊藤廉(1898生まれ)、入江先生の春陽会における師、岡鹿之助(1898生)ともに鼎の同窓同年代で、特に岡鹿之助は鼎の最も親しい同級生だったこと、また両先生とも1950年代から1960年代にかけてフランス政府給費留学生としてパリで学んでいてその時の経験とも照らし合わせて語っていただきました。

鼎の絵に対する印象、藤田嗣治との関係、岡鹿之助と鼎の相互の影響、文学者との交流などなど約2時間、多岐に渡った座談の内容はfileされ連盟機関紙に掲載される予定です。(後日、本ホームページにも詳細をUPします)

 前列左、笠井誠一先生 右、入江観先生

 笠井先生    入江先生(日動画廊個展会場にて)

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】伊原宇三郎 その3 滞欧風景画の秀作 南仏アルル

伊原宇三郎について3回目を書く。今回はこぼれ話的な周縁の作品ではなく伊原滞欧期の秀作【南仏アルルの旧い街】1926年作(8号)だ。京都の星野画廊、星野圭三氏から到来した。1994年青梅市美「昭和洋画の先達たち」、2008年三重県美「佐伯祐三交流の画家たち展」、2017年目黒区美「よみがえる画家 板倉鼎・須美子展」等に出品されている。

板倉鼎顕彰活動の一環として鼎と繋がりのある画家の資料を蒐集している。伊原は東京美術学校で鼎の3年先輩にあたる。鼎が1926・大正15年7月に渡仏し29年9月に28才で急逝するまでの3年3ヶ月は、伊原の滞欧期間(1925年5月〜1929年6月)とほぼ重なる。パリでの接触も多く「板倉鼎・須美子書簡集」には5度登場する。交流がわかる写真も何枚か残っている。(大久保作次郎送別会1927:集合写真シルエットは松戸市教育委員会作成、渡辺浩三アトリエ1926、)

     

また、伊原は鼎没後の翌1930年4月、東京銀座で開催された遺作展に岡田三郎助、田辺至、御厨純一等と共に発起人に名を連ねている。この展覧会の批評を「美術新論」6月号に寄せており優れた追悼文となっている。

(quote)

これは近時稀に見る充実した、そして胸のすく様な展覧会であった。氏の画風は実に洗練されたものである。・・・板倉君は既に日本で十分な基礎的教養があって、渡仏後研究の第一着眼点を十五世紀のイタリールネッサンスに置いたらしい。これはなかなか出来ないことである。最初に此の洗礼があって、次いで色彩構図の科学的研究があり、両々相俟って氏一流の近代感覚は些かの危険を伴ふことなしに冴えて行った。・・・

(unquote)

やや長めに引用したのは、後半部分に注目したからである。鼎の画風形成の過程は伊原本人にも当て嵌まると言えるのだ。イタリアルネサンスの古典絵画研究が、両名に共通する構成的で端整な具象作品に通じている。

[・・・私の居た頃のパリは、エコール・ド・パリの全盛時代で、ピカソの地位が漸く世界的に認められた時代だけに、クラシックを最上の研究対象にする行き方と、活発な現代活動だけから養分を吸収しようとする行き方の中間の過渡時代・・日本にはクラシックの基盤がなく・・バックボーンの卑弱さは免れ難い。・・画家個人が先ず身を以ってクラシックを通過し幾分でも身につけ、然る後現代に至らねばならないという遠大な構想を立てた・・・](伊原宇三郎「ピカソに惹かれる」1955から抜粋)

   

左)伊原宇三郎「ピカソ模写:楽器、ポルトの便、ギター、トランプ」右)伊原宇三郎「ピカソ模写:コンポートと窓ガラス」1925(共に図録画像)

伊原は渡仏してすぐピカソの新古典主義作品に惹かれる。模写を繰り返すが新古典主義作品でなくキュビズム作品の方が多い。描く対象の構造把握が目的意識にあったのだろう。その後、イタリア旅行に出向きルネサンス絵画に触れ西欧絵画の伝統を学ぶ。パリに戻ってルーブル美術館でアングルの「オダリスク」模写を始める。その頃からモチーフが人体、群像に移行していく。ピカソと邂逅した時の伊原の直感的な共感は、ルネサンス絵画を触媒として具体的なタブローに結実して行ったと言えよう。古典を基盤として自らの造形を作っていく伊原の資質は、ピカソが対象物を分解して画面を構成していくアプローチと通底しているように思える。絵画構成とモチーフ構造の追求、がキイワードである。

【南仏アルルの旧い街】1926・伊原32才、を観てみよう。現実の風景を描写したというより人工的な舞台装置のようだ。時が止まったような、生身の生活空間ではない。三島由紀夫の戯曲、例えば「サド候爵夫人」の舞台背景は室内だが、そのイメージを戸外で再現するとこうなるのではないか、とふと思った。滞欧期前半の伊原作品は風景画が多い。粗い筆触を残すものから穏やかで印象主義的なものまで表現は多岐にわたる。しかし本作の如き静謐で古典的な作品は少ない。数多く残っている彼のピカソ作品模写に、新古典主義に属する絵が少ない点と符合するところがある。伊原の滞欧期後半は人物画、群像図にシフトしていく。構成的な空間と量感豊かで彫像のような存在感ある人体が特徴的だ。1927,28年のサロン・ドートンヌ入選作は【毛皮の女】【横臥裸婦】【赤いソーファの裸婦(白衣を纏える)】である。帰国後もこの傾向がしばらく続く。今日では、伊原宇三郎はピカソの紹介者、古典主義絵画の延長線上にいる人物画家として知られている。風景と人体、描法と構成。それぞれの組み合わせのプロセスにおいて【南仏アルルの旧い街】は過渡的な位置付けが出来る。

新古典主義的な作品だが、ピカソになぞらえれば、新古典主義期に至る前のプロト及び分析的キュビズム期に相当する絵と言えよう。

   

【フォンテンブロー宮】1925(図録画像)【白衣を纏える】1928(図録画像)

伊原にとってパブロ・ピカソ(1881~1973)は学び咀嚼する対象だったと思う。彼が親近感を持ちリスペクトしたのはアンドレ・ドラン(1880~1954)ではなかったか。帰国して10年後の1939・昭和14年にアトリエ社から刊行した「ドラン」はドランを解説しながら自らを語っているようだ。「(フォービスムの)喧騒に飽き疲れた人々は・・落ちついたもとの家を親しんで帰って来た。ネオクラシスムの人々がそれであり・・もっと前に逸早く街の騒ぎから足を洗って・・帰ったのがドランである」として、ドランが戦地から帰還した1920年以後を高く評価し「ドランは現在活躍してゐる大畫家中で極端に言へば唯一人の絵畫の正統を護るクラシストである」と書く。「視覚的でいて視覚万能でなく、必要あり気なものを故意に付加せず・・・感覚の狂奔に身を任すことをせず、ドランの斯ういう信条は其後発展するばかりでこの二十年間何等の方向転換を示していない」のは、新潮流の登場によって変化したり、新たなスタイルを打ち出したりせず、思索し自制的な伊原自身の絵画の事を評しているようだ。

   

【小さな黒い犬のいる風景】1925・26頃(図録画像)【横臥裸婦】1928(図録画像)

1929・昭和4年に帰国してからは、美校を首席で卒業して以来、そのキャリアゆえ官展系アカデミズムを代表する一人として活動した。

1933年には美校助教授に就任する。従軍画家となって戦争記録画家として中国北部、南部、インドシナ等に7回派遣された。

戦後(1945年、伊原51才)は、制作者、教育者のみならず美術(界)振興を推進する立場から活躍した。その生涯を通じた作品群を観ると、画家として油の乗りきる40才台は戦時と重なり、戦後は対外活動に割かれて充分な創作が出来なかった。【南仏アルルの旧い街】を含む1920年代後半の滞欧作品群が1960年前後数年の作とともに画業のピークを形成している。1956年に27年ぶり、二度目の渡欧、フランスに10ヶ月滞在して現地制作を行う。帰国後は60年代半ばから日本全国に写生旅行に出かけて多くの風景画を残した。これらの風景画群は巧みなデッサンに裏付けられた円熟した仕上がりになっている。ただ戦前から戦後にかけての構築度の高い描き込んだ表現とは趣きが異なる印象の作品も多い。

国立近代美術館建設や美術行政への提言等美術界の発展と地位向上に寄与した伊原宇三郎は1976・昭和51年1月、81年の生涯を終えた。本邦近代洋画史、官展史、洋画界の最高峰に位置付けられる人物の一人である。

本稿は、作品画像ほか多くを1994年目黒区美術館、徳島県立近代美術館開催の伊原宇三郎展図録から教示いただいた。

文責:水谷嘉弘

【news】板倉鼎作品の展示情報

板倉鼎の作品2点が千葉県立美術館で展示中ですのでお知らせします。

場所:千葉県立美術館 (冒頭、外観写真は2018・平成30年開催の「原勝郎と板倉鼎」展当時)

千葉市中央区中央港1-10-1  JR京葉線「千葉みなと」徒歩10分

日時:令和4年7月18日(月・祝)まで

展覧会名:令和4年度コレクション展 第2期

展示作品:

 板倉鼎「巴里風景」1929・昭和4年作 キャンバス,油彩

 板倉鼎「金魚」1928・昭和3年作 キャンバス,油彩

本展期間は半ばを過ぎていますが、今後開催されるコレクション展第4期(令和5年1月25日~3月21日)でも板倉作品が展示される予定です。

以上

 

【news】「里見勝蔵を巡る三人の画家たち」展の予告

当社団法人が produceした展覧会の概要が固まった。

展覧会名:「里見勝蔵を巡る三人の画家たち」

開催期間:令和4年10月12日(水)~10月30日(日)

会場:池之端画廊 〒110−0008  東京都台東区池之端4−23−17 ジュビレ池之端

協賛:一般社団法人 板倉鼎・須美子の画業を伝える会

里見勝蔵(1895・明治28年~1981)を巡る三人の画家とは熊谷登久平、荒井龍男、島村洋二郎である。意外な組み合わせと感ずる方が多いと思う。近代日本洋画史を紐解いても繋がりはよくわからない。

きっかけは島村洋二郎(1916・大正5年~1953)である。私がエコール・ド・パリの夭折画家、板倉鼎の顕彰活動を始めた4年前、志半ばで世を去った洋画家島村の顕彰をしている洋二郎の姪、島村直子さんを紹介された。私は鼎と同時期にパリで活動した東京美術学校卒業生を調べていて、里見勝蔵は前田寛治がパリ豚児と呼んだうちの一人だったが、偶々洋二郎が師里見に宛てた近況を報告する絵葉書(昭和18年横須賀発)を入手したのである。洋二郎は旧制浦和高校を中退した後、数年間東京杉並の里見のアトリエに通うが文献や里見の著述等には記されておらず戦中期には疎遠になっていた、洋二郎の方から距離を置くようになったのだろう、とされていた。しかし葉書の親密な綴り振りから二人の関係を見直す必要があると思い早速直子さんに伝えたところ新事実に吃驚され洋二郎年譜にも追記されることになった。

それと前後して熊谷登久平(1901・明治34年~1968)を池之端画廊の展覧会で観て、登久平次男の夫人熊谷明子さんと面識を得る。画廊主鈴木英之氏を私が顧問を務めている美術愛好家団体あーと・わの会にお誘いし、その縁で同会の初代理事長野原宏氏が所蔵している絵画を池之端画廊で展示することになった。そこに洋二郎に続いて、知ったばかりの熊谷登久平と、野原氏が多くの作品を所蔵されている荒井龍男(1904・明治37年~1955)の里見勝蔵宛絵葉書各1通も入手する機会に恵まれたのである。

登久平の葉書は昭和11年10月宇都宮発。熊谷明子さんに訊ねると、保有されている資料類から文面に記されている人名が同年7月に福島二本松で開かれた「独立美術協会派四人展」に出品した画家と割り出してくれた。四人の一人は吉井忠で、賛助出品者に里見、福沢一郎、林武、田中佐一郎、井上長三郎、応援出品者に登久平がいる。発信地も宇都宮であり同展に因む行き来のようだと判明した。荒井の葉書は当時居住していたソウル発で(昭和9年9月)、「パリに行くので便宜をお授け賜えれば・・シャガールを紹介して欲しい・・後進の為に道をお開き願います・・」という依頼の文面が興味深い。荒井は翌10月渡仏している。実際にシャガールに会ったのか不明だが画家山田新一は荒井の滞欧作展(昭和11年)を観てシャガールの影響を指摘している。洋二郎の絵葉書はシャガールで偶然の呼応だった。今回の四人を繋いだのは、昭和戦前・戦中期に投函された里見勝蔵宛の3枚の絵葉書なのである。これが今回の展覧会に至った経緯だ。親分肌里見勝蔵の求心力のお蔭とも言える。

里見勝蔵と三人との関係は、熊谷登久平は里見が創立メンバーだった独立美術協会会員として、荒井龍男は在野美術団体の後輩として、島村洋二郎は師弟関係として、である。全て別ラインで各人に面識があったのかは定かではない。登久平と洋二郎は白日会で接点があるが、10年間出品在籍した登久平に比べ洋二郎は入選1回である。しかし、放浪の画家、長谷川利行と親しくその追悼歌集に寄稿した登久平、パリでボードレールの碑を描き友人たちと詩集「牧羊神」を出版した荒井、手作りの「五線譜の詩集」を遺した洋二郎には同種の感性が通底している。彼らの作品は形態家ではなくカラリストのそれだ。それぞれの代表作やその他1次資料を多く所蔵する方々三人のご協力を得、里見作品を加えて「昭和のフォーヴィストたち、色の競演」と銘打つことが出来た。

四人の作品が、里見勝蔵の母校東京美術学校(現東京藝術大学)近くの、美校卒業が2年後輩にあたる鈴木千久馬の孫、英之氏が経営する画廊で一堂に会する。画廊は3年半前、英之氏の母方の祖父、日本画家望月春江のアトリエ跡地に新築した建物だ。そのことにも想いを寄せながら絵を味わっていただければと思っている。

主な展示品:

里見勝蔵宛絵葉書3通

里見勝蔵:「ルイユの家」昭和35年作、「(仮題)フランスの田園風景」昭和30年代後半~40年代前半作

熊谷得登久平:「ねこ じゅうたん かがみ 裸女」昭和34年作、「熊谷登久平画集(絵と文)」昭和16年刊

荒井龍男:「ボードレールの碑」昭和9年作、詩集「牧羊神」昭和7年刊

島村洋二郎:「桃と葡萄」昭和13~14年作(里見「秋三果」のオマージュ作品)、手書きノート「五線譜の詩集」

 

 熊谷登久平 絵葉書投函日1936・昭和11年10月11日宇都宮発

    熊谷登久平関係資料

 荒井龍男 絵葉書投函日1934・昭和9年9月15日ソウル発

荒井龍男関係資料

 島村洋二郎 絵葉書投函日1943・昭和18年5月17日横須賀発

 島村洋二郎手書きノート「五線譜の詩集」

 

 里見勝蔵「ルイユの家」(昭和35年作)
 里見勝蔵「(仮題)フランスの田園風景」(昭和30年代後半~40年代前半)

 熊谷登久平「ねこ じゅうたん かがみ 裸女}(昭和34年作)

 荒井龍男「ボードレールの碑」(昭和9年作)

 島村洋二郎「桃と葡萄」(昭和13~14年頃作)

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】中野和高・田口省吾・鱸利彦 黄金世代〜俊秀年次と狭間の年次~

板倉鼎(1901年生まれ)がその書簡(1928・昭和3年2月22日)で[出て行った(世間に認められた、の意)]画家として、3人 〜前田寛治(1896年生)、中野和高(1896生)、佐分真(1898生)〜 の名前を挙げている。1920年代半ば(昭和改元頃)、停滞が目立った帝展の活性化に貢献したり、前田が「パリ豚児」と呼んだ当地でフォーヴに魅せられた世代である。

パリから帰国後、この世代の美校出身者は官展系と在野系に別れて活動したが前田の存在が両者を繋いでいた。1930年協会第5回展(1930年東京府美術館)がその典型例と言える。帝展活性化の側は伊原宇三郎(1894生)、鈴木千久馬(1894生)、中村研一(1895生)、片岡銀蔵(1896生)、鈴木誠(1897生)、田中繫吉(1898生),佐分真(1898生)ら。前田が「パリーの豚児」に挙げたメンバーは、中山巍(1893生)、里見勝蔵(1895生)、宮坂勝(1895生)、佐伯祐三(1898生)ら在野系が多い。鈴木亜夫(1894生)田口省吾(1897生)も在野系だ。皆30歳台前半の若き活力ある一団だった。黄金世代と呼びたい。学術的な論文では土方定一が「昭和期美術の批判的回顧」に[(無方針な)写生から離れて][反省的で科学的な造形意識によって構成]されている例として[帝展ならば前田寛治とか中野和高とか、二科展ならば中山巍とか佐伯祐三とか]と書いている。

そんな彼らの滞欧作品が欲しいと思っていた。伊原作品と相前後して到来したのは中野和高だった。今回はこの1枚の小品から話を進めて行きたい。

1)中野和高の滞欧作品【ベニス風景】(1925年作)が市場に出ていた。カンバスボード裏には本人筆の画題、署名とともに「大禮記念京都大博覽會出品 中野和高殿(東京・無鑑査)」と印刷され、氏名が記入された紙片が貼られている。1928・昭和3年9月に京都、岡崎公園他で開催された昭和天皇即位大礼を祝する大掛かりな博覧会である。中野は前年8月に帰国しており滞欧作を出品したようだ。中野の画風変遷を知るため展覧会図録「中野和高とその時代」宮城県美、愛媛県美1987を調べた。カラー図版【ベニス美術学校前ヨリ】がある。【ベニス風景】と制作年、支持体、筆触や色遣いが合致する。中野はこの年2月、1930年協会第3回展にも滞欧作19点を特別出品している。

   中野和高【ベニス風景】1925(4号)

2)中野和高は美校の1921・大正10年卒業生だが、この期は俊秀年次である。前田寛治もそうだ。他に首席で卒業した伊原宇三郎、片岡銀蔵、鈴木千久馬、鈴木亜夫(以上、1894生)、田口省吾(1897生)、田中繁吉(1898生)らがいた。佐分真(1898生)も同期入学、病気で卒業が1年遅れた。

  田口省吾 仮題【イタリア風景】1929~32(3号)

3)黄金世代、俊秀年次の一人田口省吾は、父田口掬汀が作家で美術評論家、美術雑誌「中央美術」の創刊者でもある。1929年から1932年にかけて新婚旅行を兼ねて渡欧している。イタリア風景と思われる滞欧作品を所蔵しているので画像を載せる。この作品はオーソドックスな美校卒業生らしい描き方であるが、少数派の在野系で帰国後二科会に滞欧作品10数点を特別出品して会員となった。田口は美術誌上の帝展合評会に登場して父親譲りの論客振りを発揮して活躍した。子は内向の世代の小説家高井有一だ。祖父を軸とする明治文化人達の交友を描いた評伝小説「夢の碑」に父省吾を河西珊吾として登場させている。

4)伊原宇三郎や鈴木千久馬と同年の1894年生まれに鱸利彦(すずきとしひこ)がいる。千葉出身で宮崎育ち、鹿児島出身の藤島武二を師と仰いで美校に進んだ。美校卒業年に文展初入選、以降帝展に6回出品、この間1930~31パリ留学する等キャリアに遜色なく典型的なアカデミズムエリートの途を歩んでいる。滞欧作品がある。一見地味だが日の光がさすと画面中央、塀の上から覗く木々の上部や塀部分の色彩、赤黄緑が鮮やかに映え、空や塀の暗色との対比が効果的だ。署名の利彦の下に描かれた、滞欧作にしか確認出来ない名字ゆかりの魚のマークが面白い。

  鱸利彦 仮題【サクレクール遠望】1930~31(3号)

しかし黄金世代に属し華やかなキャリアとは裏腹に、鱸は既述したような昭和期初頭の画壇のメルクマールに名前は登場しない。彼は戦後共立女子大教授に就任「一陽会」を立ち上げるが、美校卒業後は高島屋に奉職して商業デザイナーの途を歩んだ事、留学はパリ豚児たちより数年あとずれした事などに起因するのかもしれない。実績からみて画力に不足があったとは思えない。気が付くのは生年こそ伊原たちと同じ黄金世代だが、美校卒業年は俊秀年次より3年早い1918・大正7年という点だ。そしてこの卒業年次には鱸の他に近代洋画史に名を残す者がいないのだ。集団としてのパワーに欠けていたと思わざるを得ないのである。俊秀年次に対する狭間の年次だ。それが鱸の就職や留学遅れの遠因になっていたのかもしれない。現在と違い情報量や勉学機会が限られていた当時は、実年齢に関わり無く学んだ年齢とその時の人脈がその後の活動を決したとも言えよう。この時代を世代論で論じる際の留意すべき事象である。

5)美校同期卒業生という繋がりは単なる交友関係にとどまらず、才能ある者たちが互いに切磋琢磨したがゆえに各人が成長しハイレベルの集団となって初めて「美校同期」として機能した。同一世代にあっても、花の大正10年組、一つ前の俊秀年次(大正5年組)と、狭間の(不穏当な言い方をすれば埋没した)年次(大正6~7年組)を比較するとそれがよくわかるのである。

一方、「美校同期」は卒業後のパリ留学、帝展入選・特選、無鑑査さらに審査員へとSTEPUPしていく画壇エリート群を生み出すvehicleでもあった。それは官展アカデミズムを継承するだけでなく権威の再生産をもたらすシステムとして機能したのだが、ここでは「多士済々集団」であった事実を示すに止める。

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】御厨純一・北島浅一 同郷、同じ歳、東京美術学校同級、没年も一緒の二人の画家 その2

御厨純一(みくりやじゅんいち、1887・明治20年〜1948・昭和23年)は前回取り上げた北島浅一と同じ佐賀県出身、中学生のとき同じ教師(梶原熊雄、京都府画学校出身1870年生まれ)に絵を習い、1907・明治40年、東京美術学校西洋画科にも一緒に入学する。生没年も同じだった。1912年美校卒業、1920年【ダリア】が第2回帝展初入選。北島に遅れること7年、1926・昭和2年から1928年まで渡欧、26、27年にはサロン・ドートンヌに入選した。1927年3月のパリ集合写真(大久保作次郎送別会)にも写っている。

      写真の人名比定は「青春のモンパルナス」2006井上由理氏に依る

御厨がパリで描いた作品が3点ある。うち2点は親族の方旧蔵と聞いている。持ち帰ったあと長く飾っていたそうだ。並立するモンマルトルの給水塔とサクレ・クール寺院を描いた絵の方には署名がない。出来映えが良く手許に置いておきたかったのかもしれない。滞欧期の風景画には点景人物がよくいるがこれにも赤茶の歩く女性らしい姿を発見した。この臙脂色やクリーム色でドロっと塗り込んだような筆触はもう1点のセーヌ川とエッフェル塔を描いた作品(こちらはお土産絵)や、渡欧以前、戦後の作品にも見出せる。じっくり重ね描く画風である。もう1点は帰国直前の作【巴里ポンヌフ】1928年6月5日(M10号)、冒頭の画像を参照されたい。

     

【巴里エッフェル塔】1927年頃(5号)   【巴里モンマルトル給水塔】1927∼8年(10号)

「板倉鼎・須美子書簡集」には須美子が[私達にはいいおぢさんのような人・・・いろいろお世話になった人でして一坊(註:長女一、かず)の大すきな方です(28年7月)]と書く等、全部で16回も登場する。御厨のパリでの様子だけでなく人物像も伝わってくる。いくつか紹介する。[私達の日常を活動写真に撮って松戸(註:鼎の実家)へ持ってってあげると云って居られます]。この時パリで撮影された2分強のフィルムは約90年後、目黒と松戸で開催された板倉夫妻の展覧会で上映された。鼎が同年12月に出した手紙、[御厨さんは大変食べる事がすきでしてことにいかもの類・・・返って洋食とかよりなまづとかふなとか・・・量も多くがよい・・・日本食でお酒でしたら大喜び・・・まだ独身(註:当時41歳)本当によい人です]

1928・昭和3年帰国後、第9回帝展に【冬のサンミッシェル橋】、第10回に【ガンの一隅】が入選した。1929年2月、北島、青山熊治、片多徳郎、栗原忠二、佐藤哲三郎、三国久ら美校同級生(1912・明治45年卒業組)と共に第一美術協会の創設メンバーに名を連ねる。第2、3回展覧会にはパリで客死した板倉鼎の遺作出品をアレンジ、須美子は鼎の両親宛ての手紙にこう書いている。[第一美術展御厨様よりご招待いただきました。・・・先輩の皆様の故人へのご親切を心からうれしく存じました。(1931年6月12日)]。1933年5月には第一美術展招待状や書簡が届き5月25日の日記には[稀に見る御親切な方だから誰もが甘へて色々お頼みするのだろう。遺作展といふときっと世話役になられる由。お人がよいから、矢張り日本に居ると雑用に追はれて製作に専心出来ないと歎いていらっしゃる。何れ巴里ヘまたお出かけなさる積りだとの事。] 御厨の人柄がよくわかる。

    

【風景】1924(展覧会場で撮影)  【川上風景】1946佐賀県美(図録画像)

さて、御厨と北島は画家としてのスタートキャリアも同じだったが、画風も帰国後の歩みも異なっていた。こなれた線で形をとり軽妙で洒落た絵を描く自由人気質だった北島に対し、御厨は丁寧に面を取り、塗って仕上げる画風だ。律義で人間関係を大事にする気質だったのだろう。近代日本洋画草創期の黒田、藤島ら親世代に直続する教え子世代(1880~1890年生まれ、東京美術学校明治年間の卒業)としてエリートキャリア(美校、欧州留学)を自覚し、官展アカデミズムに属して啓蒙する立場でもあるとの認識も持っていたと思われる。それが1937・昭和12年以降、第一美術協会理事を務めながら海軍省に委嘱されて海洋美術会の設立、海軍に従軍し海戦記録画を描くに至らせたと推測する。

御厨も北島と同様、大正、昭和戦前期の官展アカデミズムを担った一人である。ただ北島に比べて官展入選実績(3回)が少ない上、戦争画家としての作品も多く印象が強い。戦後早くに亡くなったためイメージの刷新や新たな制作展開を果たす機会がなかったこともあったのだろう、その画業が充分顕彰されているとは言い難い。

さらに近代日本洋画史を通覧するとそういった個々人の背景にとどまらない大きな流れの中で彼らの仲間全体が埋没してしまっていることに気付く。第一美術協会が発足したのは1929・昭和4年である。構成メンバーの画風は、この時期顕著になっていたフォーヴ以降の新潮流から外れていた。大正期後半には二科会の安井曾太郎(1888生)はじめ帰朝者滞欧作の展覧会出品が盛んになっていたが、1919年官展の文展→帝展組替えを経て昭和ヒトケタ台―1926年~1934年―に入ると洋画界が一気に流動化する。1925・大正14年、国画会に西洋画部門が出来、彼らと同世代の非官展系国際派の主軸、川島理一郎(1886生)、梅原龍三郎(1888生)が同人に招かれる。1926年には1930年協会が発足してパリから戻ったばかりの10歳近く年下の新進世代が活動開始し、1930年に独立美術協会となる。雰囲気も刷新され、官展が絶対的な権威を有していた時代が去り官展以外の複数の居場所を持てるようになっていたのだ。既述したように、官展内部においても在野団体の活況に対抗すべくより若い世代に主導権が移っている。1936・昭和11年に新制作協会を結成することになる更に5~10歳年下の後輩世代も成長過程にあった。パリでは1920年代後半、所属に関わりなく日本人画家集団が藤田嗣治(1886生)を中心に全盛期を迎えている。洋画界の主だった彼ら1880年代生まれの官展系人脈に対抗する勢力が台頭してきたのである。第一美術協会の前身ともいえる四十年社が結成された1920・大正9年に、彼らと同根と言える1924年創設の槐樹社と共に主義主張や個性を前面に打ち出した創作活動をしていれば状況は変わっていたかもしれない。しかしそうしなかったのではなく、できなかったのではないか。そこにアカデミズムに縛られ多様な価値観を持ちえなかった彼らの世代の限界があったのだろう。

第一美術協会は帝展審査員でもあった主導的人物の二人、青山熊治が急逝し(1886~1932)、片多徳郎が退会した(その後まもなく自死、(1889~1934)影響も大きい。帝展組の後輩筋にあたり審査員も務めた、熊岡美彦(1889生)、牧野虎雄(1890生)、大久保作次郎(1890生)達も流れには抗えなかった。彼ら世代の官展系人脈は秀作を多く発表したにもかかわらず、絵画傾向が旧弊とみなされたためか、権威主義への反発のためか、時流に埋没し近代日本洋画史上のbig nameとならなかった。

しかし、時代の潮流にかかわらず優れた画家、良質の作品は語り継いでいかねばならないと考える。近代日本洋画史の大正、昭和戦前期には既に名を挙げた他にも五味清吉、田辺至、長谷川昇、小寺健吉、高間惣七、寺内萬治郎、草光信成ら同世代の優れた画家たちがいた。官展アカデミズムのもと一時期を担っていた事実と忘れられてしまった作品群を、彼らを看過し、欧州絵画新潮流の追随に重きを置いた戦後の美術史叙述とは異なる眼で再評価すべきであろう。

    

御厨純一【擬講】 <1912美校卒業制作・図録画像> 北島浅一【石炭運】

文責:水谷嘉弘

【近代日本洋画こぼれ話】北島浅一・御厨純一 同郷、同じ歳、東京美術学校同級、没年も一緒の二人の画家 その1

再びこだわり話から始める。額の裏面から表面の作品や作者に関する情報を得る試みだ。田辺至、伊原宇三郎こぼれ話で、額裏に貼られた名刺やシールから制作年を引き出した。今回は、大正、昭和戦前期の近代日本洋画を牽引した官展アカデミズムを担った一人、北島浅一(きたじまあさいち、1887・明治20 年〜1948・昭和23年)である。

北島がボードに走り描きした柿の絵がある(4号)。余白が大きく単彩であれば水墨画の趣きがある。天性の素描家で、俗に言う「描けてしまう」画家である。画学生時代、滞欧時、帰国後のどの作品を観ても線で形態を捉え立体感を出す技量は抜群だ。淡白な着色で量感も醸し出す。洒落っ気や遊びっ気に富んでいるのか、大雑把過ぎたり端折ったりするきらいがあるのだが、その分、引く線の魅力が引き立つ。それを味わいたくてサッと描き流したような柿図を手に入れた。そうでなくても余白だらけの背景を、幅広の固めの筆で白く刷いてある。遠くから観るとスカスカだがこの白がいい。

     

この作品のボード裏に古びた紙片が貼られていた。[杉並区西荻窪 北島浅一]と判読出来、電話番号も読み取れる。そこから本作の制作年がわかるのでは、と調べてみた。年譜に依れば、北島が西荻窪に越してきたのは1926・大正15年。その少し後から「朝一(あさいち)」の雅号を使い始めたようだ。それに合わせてか、当時の洋画家によくみられる英字サインに変えて漢字印[朝]を多用する。1929・昭和4年頃からだという。本作は[朝一]サインだけだ。そこで制作年は、1926〜1929年の間かと推定した。[朝]の崩し方などから更に後年作の可能性もあるが、円熟期に入った彼が活発に働いている頃で、絵から活き活き感が伝わって来る。

 北島浅一      御厨純一

こだわり話はここまでにして、この後はもう一人、奇遇とも言えるほど彼とそっくりな経歴の持ち主、だが画風は対照的な画家、御厨純一(みくりやじゅんいち)にも触れながら書いていく。

北島浅一は1887・明治20 年生まれ。佐賀県小城中学生の時、当地を訪れた美校生、辻永(1884年生まれ)の絵を見て画家を志し上京して白馬会研究所で学び、1907年東京美術学校に入学した。卒業は萬鉄五郎(1885生)、栗原忠二(1886生)や片多徳郎(1889生)と一緒で萬が【裸体美人】を提出した1912・明治45年、北島の【石炭運】は御厨の【擬講】と共に買上げとなった。翌1913年第7回文展に【蜀江の夕】が初入選して以降、第9回から12回まで連続入選。卒業7年後の1919・大正8年パリに渡る。エコール・ド・パリが全盛を迎える1920年代以前に渡欧した世代で一つ歳上に青山熊治、川島理一郎、田辺至、藤田嗣治らがいる。熊岡美彦(1889生)は同期入学である。「パリ豚児」と呼ばれる世代より10歳近く年上になる。1921年【踊り場】がサロン・ドートンヌに入選、翌年帰国する。

【パリーの踊り子】1922  【裸婦】1926

帰国後の1924・大正13年第5回帝展から1934年第15回(最後の)帝展まで、継承した新文展でも入選を続ける。1948・昭和23年61歳で逝去するまで官展の常連であった。団体活動としては、1920・大正9年四十年社、1929・昭和4年第一美術協会の創設メンバーに名を連ねた。両会には多少の出入りはあるが基本形は青山、片多、熊岡、栗原、御厨、萬、佐藤哲三郎(1889生)、三国久(1885生)ら美校同級生である。

もう一人の御厨純一は、北島と同じ佐賀県出身。佐賀市生まれで北島の小城郡は近隣である。中学のとき同じ教師(梶原熊雄、京都府画学校出身1870生)に絵を習い、美校入学年も卒業年も卒業制作買上げまで一緒、生年だけでなく没年も同じだった。1913・大正2年に撮影された1枚の写真がある。佐賀県美術協会設立会合で場所は上野。黒田清輝と同じ歳の久米桂一郎(1866生)、岡田三郎助(1867生)は美校教授、北島、御厨は前年卒業したばかりであった。若い二人の姿は性格人柄を示しているようでその画風までもうかがわせる。

さて北島浅一に戻る。実は北島の画業の全容がよくわからない。帰国した1924年5月に滞欧記念個展が三越で開催され多くの作品が流通したと思われる。一方、後年の制作では、違う「朝一」が描いたのではないか、と思うような絵もよく見かける。掴みどころがない、という方が適切かもしれない。その年次、キャリア、実力から言って大正、昭和戦前期画壇における中心となるべき人物であるにもかかわらずそういった存在になっていないのも不思議だ。北島の個性もあろう。組織運営、人事には興味なく不得手だったのかもしれないが、しかし当時の帝展内部の事情も背景にあった。

大正後半の文展→帝展改組に伴い1922・大正11年、中村彜(1887生)、片多、牧野虎雄(1890生)が帝展審査委員に就き、改元前後に熊岡、青山、田辺が新設の帝国美術院賞を受賞して北島・御厨世代が画壇中枢となった。しかし直後の1925・大正14年以降、フランスから帰国した中村研一(1895生)前田寛治(1896生)、中野和高(1896生)らの作品が帝展の沈滞を打破し新旧の在野団体とも渡り合えるとの世評が高くなり、1929、30年には前田、鈴木千久馬(1894生)が審査委員となる。一方で北島の仲間は青山、片多が相次いで亡くなる(1932年、1934年)等、帝展内部における勢力図が一気に変わったのである。若返りである。北島浅一の帝展出品作への合評会批評からはそれを感じ取ることができる。帝展後輩組のコメントは直截的で遠慮がない。(そこからは北島世代と彼らとのデッサン手法の違い、彼らが陥った帝展大作主義の弊なども読み取れる。)

1917(第11回文展)萬鉄五郎:何処までも感興本位の人・・作品はいつでも面白いが不満な処はいつでもある・・(描かれた娘は)生き生きとしている。

萬は北島と同級生。この評が北島作品のイメージを規定することになる。以下、帝展となった後の後輩連中からの評である。

1924(第5回帝展):太い線でグイグイ・・手際はうまい・・墨画の味・・カリカチュアの趣をさえ持っている・・複雑な構図に筆を染めたらどうか・・

1925(第6回):垢ぬけした・・外国に行ってきた人らしいスッキリ・・そろそろ大物に・・

1927(第8回):色調がいい、要領はいい、帝展の会場ではコクが足りない、デッサンに不備が多い為に平面、シャレタ絵、技巧もシッカリ、軽い處、その軽い處を狙ったのだろう・・

1928(第9回):もっと傑れた技巧を持っている筈、あまい、一寸気を付ければいい好きな絵、技術色彩に異存はないが対象の把握力に浅さ、大ヅカミな集約的コンポジションを・・

1931(第12回):少しふざけ過ぎている

1932(第13回):つつましやかな處がいいと思う

1936(新文展):荒い筆でここまで人物を描けるとは容易ならざるものだ

 

【パリー郊外】1921(10号)【中庭】滞欧作

【路上】滞欧作  【三人の女】滞欧作

私見では、北島浅一が本領を発揮し傑作群を残したのは滞欧時代である。特に中期以降の軽妙で素早いタッチは、華やかで動きのある近代都市パリのタウンシーンに合致しているのだ。描く側と描かれる側の感性がドンピシャである。

一つ年下の安井曾太郎がフランスから戻った後、日本の風土をモチーフにすることの困難さから長いスランプに陥り、画壇では日本的油彩画の追求というテーマが流行ったりした。北島にも同様の葛藤、志向があったのだろうか。1934・昭和9年、第一美術協会を退会した後は官展(系)を発表の場に画題も自然の風景が主となり奔放な輪郭線も少なくなっていった。時に南画的仏教画的でもあった。しかし、1948・昭和23年61歳で逝去するまで、生涯を通して官展への出品は絶やさず、その常連であり続けた。    (この項続く)

本稿、続稿は【北島浅一・御厨純一展図録】1986年佐賀県立美術館刊(松本誠一氏執筆)から多くを教示いただいた。

文責:水谷嘉弘

【topics】佐分真の「巴里日記」に板倉鼎が登場していた

板倉鼎と同時期にパリに居た「洋画界を疾走した伝説の画家(一宮市三岸節子記念美術館展覧会での呼称)」佐分真(1898年生まれ、美校卒業は鼎の2年先輩)が、パリで鼎と行き来していたことを記した文献があるのを知った。鼎サイドの資料と共に時系列で紹介する。

1)本ホームページで既に何度か紹介したパリの大久保作次郎送別会は、1927年3月22日に開催されている。集合写真には二人が写っていることから鼎は佐分とそこで再会していたと思われる。佐分は同日の日記に同会の模様を書いている。

-夜、七時半から大久保作次郎氏の送別會を日本人會でする。會する者藤田(註:嗣治)氏以下四十餘名、盛會。森田(註:亀之助)氏夢中になってはしゃぐ。嬉しい晩だ。そして席上、近く歸朝する中山正實氏のアパルトマンを吾々で引きつぐ事に相談定まる。非常にいい家だ。郊外ムードンの地、何とも有難い事だ。來る土曜午前中見に行く筈。段々運勢開けるらしい。-

  (シルエット作成 松戸市教育委員会)

2)佐分真は、1927・昭和2年2月小寺健吉とともにパリに渡り、4月中山正實から引き継いだパリ近郊ムードンの一軒家に落ち着く。滞欧中の日記を4冊残しており、これらは遺稿集「素麗」(冒頭画像参照)に「巴里日記」として収録された。4月12日の項に鼎が登場する。

―快晴 稍々寒・・・(ムードン駅で)偶然板倉氏夫妻が寫生に来たのに會ふ。伴い歸る。・・・―

 佐分真遺稿集「素麗」(限定650部)春鳥会 1936年刊 表紙スケッチ(パリ郊外 couilly風景)

3)この件を須美子は松戸の鼎実家あてに書く。

―(先週ムードンに行った時)駅のそばでお友達の佐分利(ママ)さんと小寺健吉氏にお目にかかりました。お二人がすぐそばの家へ案内して下さいました。二人で四間ばかり借りて居らっしゃるのですけど、お風呂も附いて立派な台所もあり・・・私達もそこに移りたくなってしまひました。家の窓からでも画が描ける様になってゐます。(1927年4月19日付け書簡)―

須美子は余程ムードンが気に入ったのか再度手紙に書いている。

―郊外のムードンと云ふ所へ鼎さんのスケッチのお供で参りました。・・・まるで東京と松戸との比の様に巴里からムードンへ行きますと胸が軽くなる様な気が致しました。駅と鉄橋を中央に両方に岡があり赤ガワラの一軒家がチラチラ青葉の間からのぞいて居ります。・・・(1927年4月21日付け書簡)―

4)5月3日、日本人会館で行われた荻谷巌送別会には、佐分、鼎共に出席している。(「巴里週報」第86号)

5)「巴里週報」(当時の日本人社会のミニコミ誌、石黒敬七主宰)第97号(創刊二周年記念号)1927年8月1日発行、には藤田嗣治の祝辞はじめ多くの在仏者の名刺広告が掲載されている。佐分、鼎も出稿していた。

   

6)同年夏、佐分は鼎のアトリエを訪ねる。辛口のコメント込みではあるが、鼎を高く評価している。

―・・・夕食を富士でとり、後板倉氏を訪ねる。板倉氏には勿論若人の作にして近代的な一味あり、そしてよき神経の行き届きし感じで行く行くは相當の作を成す人と思はせた。唯一種の味にこだはってどっしりとした底力を発揮し得るや否やが疑問だ。もしそれをしも得たらんには一入の結果がみられるだらう。(巴里日記、1927年8月25日)―

   

板倉鼎「垣根の前の少女」1927                   板倉鼎「剣のある静物」1927

須美子の同日付け書簡に、前日24日夜小寺健吉が来宅し鼎の絵を誉めていたとあり、小寺と同居していた佐分がそれを聞いて早速訪れたのであろう。先立つ8月19日付けの須美子書簡は、鼎が「垣根の前の少女」を制作中とあり、それを描く様子が詳細に記されている。小寺も佐分もこの作品を目にしたと思われる。鼎側に佐分来訪の記述は無い。

7)板倉鼎も佐分真を意識していた事が分かる記述がある。

―・・・この頃(五六年)巴里に来た画家の数は数百人になりませうが一寸もよい仕事でみとめられていません。率から云ったら極少数の人、佐分氏とか前田(註:寛治)氏とか中野(註:和高)氏とかが出て行っておりますが何れも四年以上の人ばかりでして、佐分氏など足りなかったので、又来ておられます。・・・(1928年2月22日付け書簡)―

パリに少しでも長く居たいが為の父親に訴える文脈であり、リスペクトしているゆえ名を挙げたのだろう先輩画家たちの滞在年数は実際より長く書かれている。佐分は初めてパリに来てやっと1年経った頃合いである。小寺と混同していたのかもしれない。

鼎はそれから1年半後の1929年9月29日に急逝するのだが、佐分がそれに言及した文章は見当たらない。同月24日にパリを発ち約1か月、オランダ、ドイツを旅していた期間にあたる。余談になるが、この時観たレンブラントがその後の佐分のスタイルを決定づけることになる。

上記の6)は同時代画家の証言として貴重である。佐分真の板倉鼎を見る眼の確かさもわかる。1927年夏は「パリで1年かけて、持っていた型、日本で学んだ描き方を捨てた」と、鼎自身が書き、モダンで洗練されたスタイルを獲得しつつあった頃だ。静物画が多くやや様式化した生硬な表現も見受けられるのだが、佐分の慧眼から鼎の意図が達成されようとしており、観者にも伝わりかつまだ過程にあった等を知ることが出来るのである。

文責:水谷嘉弘

先頭に戻る